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父は民族資本家の栄徳生であり、[[上海市|上海]]を中心に多くの企業を経営していた。[[1937年]]に[[上海聖ヨハネ大学]]を卒業した栄毅仁は、その後、父の事業を受け継ぎ、繊維工場を経営する。[[中華人民共和国]]建国後も上海に残留し、資産を政府に上納して協力する。[[1950年]]、[[中国民主建国会]](民建)に参加し、中国人民銀行常務理事、全国政治協商会議委員を経て、[[1957年]]、上海市副市長に就任。
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[[1978年]]に[[全国政治協商会議]]副主席となり、[[1983年]]、[[全国人民代表大会]]常務副委員長に選出。[[1985年]][[7月1日]]、中国共産党に入党<ref>栄毅仁が死去した際に[[新華社]]が発表した公式履歴による。「栄毅仁同志生平」新華社、2005年11月3日付配信記事。</ref>。[[1993年]]、国家副主席に選出される。[[1998年]]に退任。

2020年6月17日 (水) 21:21時点における版

栄毅仁
生年月日 1916年5月1日
出生地 中華民国の旗 中華民国江蘇省無錫県
没年月日 (2005-10-26) 2005年10月26日(89歳没)
死没地 北京市
出身校 上海セント・ジョーンズ大学
前職 中国国際信託投資公司(CITIC)
董事長総経理
所属政党 中国民主建国会中国共産党
配偶者 楊鑒清

在任期間 1993年3月27日 - 1998年3月15日
国家主席 江沢民
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栄毅仁
職業: 政治家・実業家
各種表記
繁体字 榮毅仁
簡体字 荣毅仁
拼音 Róng Yìrén
和名表記: えい きじん
発音転記: ロン・イーレン
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栄 毅仁(えい きじん、ロン・イーレン、1916年5月1日 - 2005年10月26日)は中華人民共和国政治家実業家中国国際信託投資公司CITIC)の創設者で、「赤い資本家」と呼ばれた。1993年から1998年まで中華人民共和国副主席を務めた。

経歴

父は民族資本家の栄徳生であり、上海を中心に多くの企業を経営していた。1937年上海聖ヨハネ大学を卒業した栄毅仁は、その後、父の事業を受け継ぎ、繊維工場を経営する。中華人民共和国建国後も上海に残留し、資産を政府に上納して協力する。1950年中国民主建国会(民建)に参加し、中国人民銀行常務理事、全国政治協商会議委員を経て、1957年、上海市副市長に就任。

文化大革命では走資派として批判され、1967年に失脚したが、1972年に復活を遂げる。1979年鄧小平によって、改革開放が開始されると、国策会社「中国国際信託投資公司(CITIC)」を設立し、初代董事長総経理に就任する。日本、アジア、欧米諸国を歴訪し、外資導入を働きかけた。鄧小平指導下の中国共産党との密接な関係から「赤い資本家」の異名を取る。

1978年全国政治協商会議副主席となり、1983年全国人民代表大会常務副委員長に選出。1985年7月1日、中国共産党に入党[1]1993年、国家副主席に選出される。1998年に退任。

2005年1月に死去した趙紫陽・元共産党総書記の葬儀に花輪を贈った数少ない指導者の一人。天安門事件前に趙紫陽に対して、書簡を送り、学生との対話促進や、民主化と法制の強化、清潔な政治の確立などを訴えていた。2005年の春節では、共産党指導部に対し、意見書を送り、蔓延する汚職に対して危機感を訴えていた。

2005年10月26日、北京で死去。

日本との関係では、全人代副委員長時代の1985年と国家副主席時代の1994年に二度訪日し、それぞれ、当時の中曽根康弘首相、村山富市首相と会談している。

脚注

  1. ^ 栄毅仁が死去した際に新華社が発表した公式履歴による。「栄毅仁同志生平」新華社、2005年11月3日付配信記事。

外部リンク

中華人民共和国の旗中華人民共和国
先代
王震
国家副主席
1993年 - 1998年
次代
胡錦濤