「八大元老」の版間の差分
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*[[陳雲]] [[中国共産党中央規律検査委員会|党中央規律検査委員会]]第一書記([[1978年]] - 1987年)、党中央顧問委員会主任(1987年 - [[1992年]]) |
*[[陳雲]] [[中国共産党中央規律検査委員会|党中央規律検査委員会]]第一書記([[1978年]] - 1987年)、党中央顧問委員会主任(1987年 - [[1992年]]) |
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*[[彭真]] [[全国人民代表大会]]常務委員長([[1983年]] - [[1988年]]) |
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2020年6月17日 (水) 21:21時点における版
八大元老(はちだいげんろう)は、1980年代から1990年代にかけて強い権力をふるった中国共産党の長老集団。八老(拼音:bā lǎo)とも呼ばれる。
非公式集団でありながら、党の最高指導部である中央政治局常務委員会(1987年11月時点での常務委員は、趙紫陽・李鵬・喬石・胡啓立・姚依林の5人)を凌ぐ権威を持っており、重要な決定は八大元老に委ねられることもあった。第二次天安門事件の武力行使、趙紫陽の総書記解任(解任理由の一つとして、訪中したソビエト連邦共産党書記長のミハイル・ゴルバチョフとの記者会見の際、鄧小平に最終決定権があると明かしたことが挙げられた)とその後任に江沢民を据える決定が彼らの意思によってなされた。当時、中国は「八老治国」と揶揄された。
八大元老に共通することは、いずれも文化大革命での不遇時代を乗り越えた点にある。八大元老の子以降の世代の者の中には、太子党と呼ばれる集団の一員になっている者もいる。八大元老が健在だった時期に国務院総理・全国人民代表大会常務委員長などを歴任した李鵬は周恩来・鄧穎超夫妻の養子である。また2012年に中国共産党総書記に就任した習近平は八大元老の一人である習仲勲の子である。同じく2012年に失脚した薄熙来もまた、薄一波の子であり、太子党の有力者であった。
メンバー
メンバーは以下の通り。
- 鄧小平 党中央軍事委員会主席(1981年 - 1989年)、党中央顧問委員会主任(1982年 - 1987年)
- 陳雲 党中央規律検査委員会第一書記(1978年 - 1987年)、党中央顧問委員会主任(1987年 - 1992年)
- 彭真 全国人民代表大会常務委員長(1983年 - 1988年)
- 楊尚昆 中華人民共和国主席(1988年 - 1993年)
- 薄一波 党中央顧問委員会副主任
- 李先念 中華人民共和国主席(1983年 - 1988年)、中国人民政治協商会議主席(1988年 - 1992年)
- 王震 中華人民共和国副主席(1988年 - 1993年)、党中央顧問委員会副主任
- 鄧穎超 中国人民政治協商会議主席(1983年 - 1988年)、周恩来の寡婦[1]。
後に李先念・王震・鄧穎超と入れ替わる形で、以下の3人が入った。