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「エジプト文明」の版間の差分

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#REDIRECT[[古代エジプト]]
[[ファイル:Egypt.Giza.Sphinx.02 (cropped).jpg|350px|サムネイル|ギーザのピラミッドとスフィンクス、エジプトの砂漠。]]
'''エジプト文明'''(エジプトぶんめい、[[英語]]:Egyptian civilization)とは、[[古代エジプト]]に起こった[[文明]]。世界4大文明の一つであり、古代エジプトと言う名称がよく知られる。古代エジプトの起こった土地は砂漠地帯であった、毎年氾濫を起こすナイル川が肥沃な土壌を下流に運ばれることで豊かな土地と穀物が育まれ、文化が栄えた。ピラミッドや数多くの神殿などが各地に建設され、一時はヌビアやリビアなども支配した。また、「ファラオ」と呼ばれる神権王の権力が伸長し、強大な国家を作り上げる。また、[[ピラミッド]]や神々に捧げられた数多くの[[神殿]]([[ルクソール神殿]]、[[フィラエ神殿]]、[[カルナック神殿]]など)、[[王家の谷]]、[[ヒエログリフ]]などを通じて世界的によく知られている高度な[[文明]]を発達させた。後に、[[古代ローマ]]により征服され、そののち、その風土は薄れていった。


[[Category:文明|えしふとふんめい]]
類似語に「'''[[古代エジプト]]'''」があるが、この用語は古代時代のエジプト人の文化、気候などのすべてを含めて「古代エジプト」と成るため、エジプト文明と言う語よりも広範囲の時代を指すことが多い<ref>https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12224168137</ref>。

== 概要 ==
[[ファイル:Karnacs2.jpg|150px|サムネイル|カルナック神殿]]
{{Main|古代エジプト}}

前5000年ごろから[[ナイル川]]下流域に発達した古代[[文明]]であり、ナイル川の定期的な洪水により[[王]]権と[[農耕]]、[[文化]]が発達した。豊かな農耕文化が栄え、前3000年ごろに成立した統一国家([[古代エジプト]]王国)のもとで、[[ピラミッド]]や[[神殿]]が建設され、[[ヒエログリフ]]と呼ばれる[[象形文字]]が使われ、測量術・[[暦]]法などの[[科学]]技術が発達した。エジプトは豊かな[[ナイル川]]の[[三角州|デルタ]]に支えられ[[古代エジプト文明]]を発展させてきた。また、豊かな農耕文明とともに貿易も行われ、商業が発展し、エジプト人は紀元前3000年ごろには早くも古代エジプト王国と後世、呼ばれる[[中央集権国家]]を形成した。その王は「'''[[ファラオ]]'''」と呼ばれ、親権を背景とした王制を敷き、エジプトを導いた{{#tag:ref|ファラオは太陽神ラーの息子とされた|group="注釈"|name="a"}}。

文化的にも大いに発展し、大規模な[[ピラミッド]]や神々に捧げられた数多くの[[神殿]]([[ルクソール神殿]]、[[フィラエ神殿]]、[[カルナック神殿]]など)、王家の墓所であった[[王家の谷]]、神聖文字[[ヒエログリフ]]などを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。それに伴い、教育も発展した<ref>古代オリエント集. 筑摩書房.</ref>。

== 宗教 ==
{{Main|古代エジプトの宗教}}
=== 神々 ===
[[ファイル:Eye of Horus bw.svg|150px|サムネイル|ホルスの目。エジプトの宗教の象徴であり、神聖な月・太陽は天空神ホルスの目だと考えていた。 ]]
[[古代エジプト]]で信仰されていた[[宗教]]は、多彩な神々が信仰された多神教であった。それらの古代エジプトの神には、様々な種類の自然の力を象徴する様々な神々があり、古代エジプト人は、すべての自然の動きと原理に神々の力が作用すると見ていたのであった。例としては、天空の神[[ホルス]]、冥界の神[[オシリス]]、その妻[[イシス]]、太陽神[[ラー]]、ミイラの守り神[[アヌビス]]、家と音楽の守り神[[バステト]]などがあげられよう。また、後に[[神官|アメン神官団]]と呼ばれる神官団が勢力を伸ばし、[[ナイル川]]沿岸の[[テーベ]]<ref name="年表地図" />に本拠地を置いた。その強力さは後に「'''[[アメン大司祭国家]]'''」と呼ばれる国家を建国するほどであった。

古代エジプトの宗教は、永遠に全世界を支配していると信じられていた多くの神に対する祈りや供物などの儀式は、神々の怒りに触れないために行うものであった。エジプトの統治者であるファラオを中心とする正式な宗教的慣習は、ファラオの王権は神から授けられた力であると信じられた為であり、ファラオは、宗教儀式や寺院の建設に莫大な資金を投入し、今日に残る数多くの壮麗な建築物を作り上げた。

しかし、[[エジプト第18王朝]]のファラオ・[[アメンホテプ4世]]は強くなりすぎたアメン神官団に嫌気がさし、宗教改革を断行した。その影響により日輪を模った[[アテン]]神という神が崇拝・信仰されるようになり、古代エジプト元来の[[アメン|アモン・ラー]]の信仰は停滞し、後に「[[アマルナ美術]]」と呼ばれる事と成る美術が花開いた。また、宗教的・社会的改革(アテン信仰)が行われ、それに伴って文学・美術上の写実主義・自然主義的傾向が顕著となった。後にアメンホテプ4世の息子・[[ツタンカーメン]]によってアモン・ラーの侵攻が復活され、アテン神の信仰は止められ、アマルナ時代も終焉を告げた。

=== 来世への信仰 ===
[[ファイル:The judgement of the dead in the presence of Osiris.jpg|440px|サムネイル|中央|『'''[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]'''』。右端の檀上にはオシリス神が鎮座する。]]
来世へ行った人を助ける呪文を集めた『[[死者の書 (古代エジプト)|死者の書]]』はエジプト語では『日下出現の書』と呼ばれていた。これらの書物は「冥府でもう一度死なない」ようにし、またその人のことを「常に記憶しておく」ための呪文を含み、来世での破滅(本当の死)という状況を回避し、永遠に来世で存在し続けることを助け、導く物であった。

古代エジプトの人々は、死後に行われる『オシリスの審判』を信じた。死後、死者はオシリス神の裁きを受け、自身の心臓と「真実の羽根」が天秤にかけられる。その時、真実の羽根と自分の心臓が釣り合い、又は軽いならば死後の世界([[アアル|アーアール]]、Aaru)に至り、安楽に暮らすことが可能である、とされていた。しかし、生前に悪事を犯して自身の心臓が重く、真実の羽根と釣り合わない場合、心臓は霊獣・アメミットに貪り喰らわれる。そのことを「第二の死」と言い、その裁きを受けた者の霊は死後の世界に至る事が出来ないと考えられていた。その為、古代エジプト人にとって死後の裁きは非常に重要なものであり、神への供物をささげることを忘れなかった。

来世で復活を果たすため、身体に保存を行うことが必要とされ、このため遺体は[[ミイラ]]とされた<ref>[[#吉村2005|吉村2005]]、92頁</ref>。しかしながら完全なアクは星辰<!-- esp.北極星 -->として現れるとも考えられていた<ref>''Ancient Egyptian Religion: An Interpretation'' by Henri Frankfort, p. 100. 2000 edition, first copyright 1948. [http://books.google.com/books?id=vYhfazYeAnUC&pg=PA100&lpg=PA100&dq=akhu+stars&source=web&ots=yC2MYRJ8v7&sig=VKFjr2ZmCRVphPM6ahYGwgzfN9Q Google Books preview] retrieved January 19, 2008.</ref>。

=== その他 ===
[[File:Hidden treasures 19.jpg|thumb|130px|スカラベの形をした葬礼のお守り]]
* ヌベトという町が中心となって[[セト]]と言う神が崇拝されたが、[[ホルス]]信仰が盛んになると、悪神とされたセトの信仰は衰退していった。
* [[エジプト]]では球体を転がすスカラベの習性を球体を[[太陽]]に見立てて太陽を運ぶ神聖な虫と考え、太陽の運行を司る[[太陽神]]・[[ケプリ|ケプーリー]](Khepri<ref name=namae>『エジプト神話』90頁</ref>{{#tag:ref|ケプーリー神の顔はスカラベである|group="注釈"|name=""}})と同一視した<ref>{{cite book | author = 安富和男 | title = へんな虫はすごい虫 | publisher = 講談社ブルーバックス | year = 1995 | page = 158 | isbn = 4-06-257073-4 }}</ref>。太陽は再生や復活、輪廻転生する事の象徴でもあるため、スカラベは聖なる虫として崇拝された<ref name=namae/>。また、スカラベをかたどった石や印章なども作られている。
* 死後の死と葬儀の重要性に対するエジプトの信仰は、死後の魂の生存を確保するために行われた様々なこと(「死者の書」、[[ミイラ]]づくりなど)によって伺える。死者の遺体と精神を守るために[[ミイラ]]が造られたのだ。
* 度重なる異民族の支配と[[ファラオ]]の地位が衰退するにつれ、古代エジプトの宗教的伝統は民衆の中でより顕著になった。

== 文化 ==
[[ファイル:The Singer of Amun Nany's Funerary Papyrus MET LC EG 213987.jpg|200px|サムネイル|パピルス紙に書かれたヒエログリフ。]]
エジプト文明では、大いに文化が栄えた。ピラミッドや数多くの神殿などが各地に建設され、神々に捧げられた数多くの[[神殿]]([[ルクソール神殿]]、[[フィラエ神殿]]、[[カルナック神殿]]など)、[[王家の谷]]、[[ヒエログリフ]]などを通じて世界的によく知られている文化が形作られた。

また、パピルスと呼ばれる葦から作られる「パピルス紙」が重宝された。パピルス紙が使用され、そこには[[象形文字]]であった神聖文字「ヒエログリフ」や、神官文字・「ヒエロティック」、民用文字・「デモティック」などを用いた文章が書かれた。これらの中でヒエログリフは1822年、考古学者・[[シャンポリオン]]によって解読された。パピルスには、「死者の書」と呼ばれる、冥界への手引書などが書かれ、墓におさめられた。パピルスには次第に内容を示す挿絵も描かれるようになった。

また、パピルスは古代エジプトの輸出品として各地に広まり、[[古代ギリシャ]]や[[古代ローマ]]でも使用されるようになった。ピルスに筆記するためにはエジプトでは葦のペンを使い、ギリシアやローマでは葦のほか青銅製のペンも使った。


== 歴史 ==
{{Main|古代エジプト}}
=== 誕生 ===
[[ファイル:IMG-20181016-WA0007.jpg|190px|サムネイル|左|ナイル川]]
現在のエジプト地域では50万年前には人類の痕跡が残されている<ref>[[#古谷野 1998|古谷野 1998]], p.2</ref>。

前5000年ごろから[[ナイル川]]流地域に[[古代文明]]で、[[世界四大文明]]の一つにも数えられるエジプト文明は誕生した。

『エジプトはナイルの賜』とギリシア人に言わせたように、ナイル川利用して豊かな農耕文化を栄えさせ、発達した[[文明]]であるこの文明は、一般的に[[ヒエログリフ]]と呼ばれる独特の[[象形文字]]の使用、後にユリウス暦のもととなった[[暦法]]などの[[科学]]技術が行なわれ、「ナイルを母体とした、多神教を柱とした文化」大いに発達し、栄えたのであった。また、[[ファラオ]]と呼ばれる王権が誕生し、強力な王による安定した国内の統治が行われる事と成る。

ナイル川は一定の頻度で洪水を起こし、豊かな土壌を古代エジプトに与え、農業が栄える土台を作り上げた<ref>https://moshi-dai.com/orient-egypt-3180/</ref>。銅器時代古代エジプト(紀元前4400-3000年)時代には、[[ナカダ文化]](Naqada culture)はが現在のケナ県ナカダ(Naqada)に発生し、ナカダの民は広範囲にわたって交易を行い、彩色土器などに代表される文化を作った。

=== 先王朝 ===
エジプトに複数あった「王国」が統合し、全エジプトが初めて一つの政体の下に統合されたのが、この先王朝時代である。また、この時代は後世のエジプト王朝の土台となる沢山の文化が誕生し、発展した。

王権概念、王号、王冠、王笏等等の王権の象徴(すなわち[[レガリア]])、今までとは規模が違うような大王墓、新しい美術様式、全エジプトの中心としての首都メンフィスの登場等がこの時代にはあった。

=== 統一王朝の誕生 ===
農耕文明はメソポタミア文明より遅かったが、エジプト文明での統一国家の形成はそれより早い時期であった。ナイル川の定期的な洪水により栄養分が堆積し、土地が豊かとなり、豊かな農耕文化が栄え、それに伴って経済や[[ファラオ]]と呼ばれた王の[[ファラオ|王権]]も強化される事と成り、[[紀元前3000年]]頃に成立した統一国家が誕生する。その最初の王朝は[[メネス]]王(Menes)、又は[[ナルメル]]王(Narmer)によって創始され、そのエジプト最初の統一王朝はエジプト第1王朝と呼ばれる<ref>[http://www.narmer.org ''The Narmer Catalog'']</ref>{{#tag:ref|ナルメルとメネスは同一人物であるとも言われる。|group="注釈"|name="w"}}。

=== 古王国時代 ===
{{Main|エジプト古王国}}
[[ファイル:All Gizah Pyramids.jpg|thumb|270px|[[ギーザ|ギザ]]の[[三大ピラミッド]]。古代エジプトの象徴。]]
エジプト文明の王国は古王国・中王国・新王国に大分出来、推移する。そのうち最初の古王国時代はピラミッドなどの特徴のある文化・文明が繁栄した{{#tag:ref|しかし、首都や国家機構も含め、古王国は初期王朝時代の継続である面も多かった。|group="注釈"|name="Y"}}。

古王国時代には、古代エジプトを代表する建造物であり、古王国時代の王墓であるとされている[[ピラミッド]]の大規模な建設が[[王朝]]のもとで始まり、また{{仮リンク|太陽神殿 (エジプト)|en|Egyptian sun temple|label=太陽神殿}}と呼ばれる神殿など各種の神殿の建設が始まったりもした。また、それらを可能とする充分な行政機構、大規模な国家制度が整備され、後の古代エジプト王国の基礎となる。

文化的には、古王国の時代に青銅器の使用、文字(ヒエログリフ)、ピラミッドなどの特徴のある文化・文明が繁栄した。
=== アマルナ時代 ===
[[ファイル:القناع الذهبى لتوت عنخ امون.jpg|200px|サムネイル|左|ツタンカーメンの黄金のマスク。写実的な技法は高く評価され、エジプト美術の最高傑作とうたわれる。]]
この「[[アマルナ時代]]」と呼ばれる時代では、[[第18王朝]]のファラオ・[[アメンホテプ4世]]の改革の影響により[[アテン]]神が崇拝されるようになり、古代エジプト元来の[[アメン|アモン・ラー]]の信仰は停滞し、後に「[[アマルナ美術]]」と呼ばれる事と成る美術が花開いた。また、宗教的・社会的改革(アテン信仰)が行われ、それに伴って文学・美術上の写実主義・自然主義的傾向が顕著となった。後にアメンホテプ4世の息子・[[ツタンカーメン]]によってアモン・ラーの信仰が復活され、アテン神の信仰は止められ、アマルナ時代も終焉を告げた。

==== ツタンカーメン王 ====
[[アマルナ時代]]を作り上げた[[アメンホテプ4世]]の死後、即位したのは息子であるかの有名な[[ツタンカーメン]](トゥトゥ・アンク・アムン、Tutankhamen、またはトゥト・アンク・アテン、Tutankhaten{{#tag:ref|「アテンの生ける似姿」の意<ref name="大英博物館古代エジプト百科事典356">[[#大英博物館古代エジプト百科事典|大英博物館 古代エジプト百科事典 (1997)、356頁]]</ref>|group="注釈"|name="l"}}と名乗っていた。この時代、アモン・ラーの信仰が復活され、アテン神の信仰は止められ、[[アマルナ時代]]も終焉を遂げる。

即位すると伝統的な神である[[アメン|アムン=ラー]](アメン=ラー、Ammon-ra)神の信仰を復活させ、'''トゥトアンクアムン'''(「アムン神の生ける似姿」の意)と改名した。また、[[首都]]を[[アマルナ]]から従来の[[テーベ]]に戻すなど、改革を行った<ref name="大英博物館古代エジプト百科事典356"/>。

美術的にも大いに役割を果たす事と成る。治世中、ツタンカーメン王とアメン神官団との間に和解が成立し、都も旧秩序を望む神官団の影響によりアマルナからふたたびテーベへ戻される。また、アメンホテプ4世時代には衰退していた全てのアモン・ラーの神殿は王の下で復元されるなどし、美術史的な意味でのアマルナ時代も終焉を遂げたのであった。そして、アモン・ラーの信仰の復活の象徴として、自身の名を「トゥトゥ・アンク・アメン」と改名したのだった。

ツタンカーメンはアクエンアテンの政策を大幅に覆したが、即位した時点でまだ年端のゆかない少年であったとされている<ref name="wiki">https://ja-two.iwiki.icu/wiki/ツタンカーメン#人物</ref>ツタンカーメンだが、またその死も若くして訪れる。[[1324年]]、18歳という若さで病に倒れた。死後は、[[アイ (第18王朝のファラオ)|アイ]]王が跡を継いだ<ref name="wiki"/>。

=== 最盛期 ===

[[紀元前1302年]]頃、[[エジプト新王国]][[エジプト第19王朝|第19王朝]]の[[ファラオ]]である[[ラムセス2世]]が即位した。彼は、[[アメンホテプ4世]]の7代後、[[ツタンカーメン]]王の5代後のファラオであり、父は名は「[[セト神]]の君」を意味する[[セティ1世]]と名乗っていた。

セトの名を冠したセティ1世の即位はセト神信仰の復活を象徴する出来事でもあり、同時に芸術にも関心が深かったと言われている。伝統的な宗教・芸術の復興に力を注いぎ、アビドスのオシリス神殿、カルナックのアメン神殿多柱室、セティ1世葬祭殿、セティ1世王墓など数多くの建設事業を行い、それとともに世に広く知られるエジプト美術はセティ1世の時代に完成されたと言われるほどに芸術を庇護した。その他にも、北方のパレスチナへと遠征しヒッタイトを押し戻すことに成功したり、南方の[[ヌビア]]にも遠征し成功を収め、リビア人の侵略を撃退してもいるなど、軍事上の功績は目覚ましい。

そんな父を持ったラムセス2世であったが、彼もまた父に劣らぬほどの業績をおさめた。ラムセス2世はその長い治世において、エジプトはリビア・ヌビア・パレスチナに勢力を伸張したりと王国拡大のための軍事行動もよく知られるが、それと共に大規模な建設事業も行うなどした。また、テーベ、た。テーベには葬祭殿「ラメセウス」を建てさせ、その他にも[[ルクソール神殿]]、[[カルナック神殿]]、[[フィラエ神殿]]などの[[神殿]]を整備・拡張するなどした。そして、ヌビアにも多くの記念建造物を建てさせており、その代表格が[[アブシンベル神殿]]である。現在アブシンベル神殿は[[UNESCO]][[世界遺産]]に登録されている。「ラムセウム」等多数の建造物の建造を行い、後世に名を轟かした。

その他に、ラムセス2世は紀元前1290年に首都をテーベから、ナイル川のデルタ地帯の東に作った[[ペル・ラムセス]]に遷都した。その時期、エジプト文明は最盛期を迎える事と成る。

=== 衰退期 ===

==== 異民族の征服 ====
しかし、ラムセス2世の死後はエジプト王国は衰退し、この期間に一時的にアジア系、アフリカ系の異民族の度重なる支配を受け、強権的な王朝は消えつつあった<ref name="古代エジプトの歴史">『古代エジプトの歴史 新王国時代からプトレマイオス朝時代まで』山花京子 慶應義塾大学出版会 2010年9月25日初版第1刷</ref>。具体的には、[[ヒクソス]]、[[アッシリア]]、[[ペルシア帝国]]、[[アジア]]の[[オリエント]]世界だけでなく、[[ナイル川]]上流の[[アフリカ]]世界の[[黒人]][[王国]]である金を産出した[[ヌビア王国]](現在の[[スーダン]]、系統的には[[エチオピア]])、リュビア(現在の[[リビア]])などの異[[民族]]の支配を受けていたことが分かっている。

しかし、そのたびにアジア系、アフリカ系の従来のエジプトとは異なった文化がエジプトに流入することとなり、優れた文化の発生を促した。また新王国は[[ミタンニ|ミタンニ朝シリア王国]]と争って[[シリア]]や[[ユーフラテス川]]流域の、所謂『[[肥沃な三日月地帯]]』にも進出するなど<ref name="年表地図">『世界史年表・地図』吉川弘文文庫 2016年(平成28年),第22版第1刷行 地図p3</ref>。、他のオリエント世界と密接な関係にあったが、エジプトの文化は維持された<ref name="古代エジプトの歴史" />。

== その後のエジプト ==
[[ファイル:Denderah3 Cleopatra Cesarion.jpg|150px|サムネイル|プトレマイオス王国末代のファラオ・[[カエサリオン]]と[[クレオパトラ7世]]のエジプト様式で描かれた壁画。]]
=== ペルシアの征服王朝 ===
しかし、そんな高度な文明も第20王朝以降衰退し、[[リビア人]]、[[ヌビア王国|ヌビア人]]などの異民族の支配の後にはエジプトは衰退しきっていた。また、3000年にわたる諸王朝の盛衰の末、[[紀元前525年]]に[[アケメネス朝]]ペルシアに支配された。征服した[[ペルシア帝国]]の圧政を受けた。

その王朝は「[[エジプト第31王朝]]」と呼ばれる。

=== プトレマイオス王国 ===
[[紀元前4世紀|前4世紀]]の[[アレクサンドロス3世]]の[[アケメネス朝|アーケメネス朝]][[ペルシア]][[帝国]][[征服]]に伴う支配、アレクサンドロスの[[ディアドコイ]]の一人・[[プトレマイオス1世]]が立てた[[プトレマイオス朝エジプト|プトレマイオス朝エジプト王国]]の[[ギリシア]]系権力が成立した。これら王朝はエジプトの優れた要素を吸収して、いわゆる[[ヘレニズム文明]]を形成した。首都となったアレクサンドリアは[[ヘレニズム時代]]の地中海貿易と文化の中心地として栄えたのであった。

[[ヘレニズム]]時代の学問において中心的な役割を果たしたアレクサンドリアの図書館は、[[ムセイオン]]と呼ばれる。文芸を司る9人の女神[[ミューズ]]に捧げられた大きな研究機関の一部であった<ref name=":0">Murray, S. A., (2009). The library: An illustrated history. New York: Skyhorse Publishing, p.17</ref>。しかし、[[プトレマイオス朝]]が前1世紀末に[[古代ローマ]]に滅ぼされ、エジプト文明は終わりを告げる。

== ギャラリー ==
<gallery>
File:1867 Edward Poynter - Israel in Egypt.jpg|後世の絵画
ファイル:All Gizah Pyramids.jpg|ギザの三大ピラミッド
File:Rosetta Stone.JPG|ロゼッタストーン
File:Philae Temple R03.jpg|フィラエ神殿
File:Pylons and obelisk Luxor temple.JPG|ルクソール神殿
File:Abu Simbel Temple May 30 2007.jpg|アブシンベル神殿
ファイル:Picto infobox ancient Egypt.png|ピラミッドとスフィンクス
</gallery>


== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 参考文献 ===
{{Reflist}}
== 関連項目 ==
[[ファイル:Mask of Tutankhamun.svg|180px|フレームなし|右]]
* [[古代エジプト]]
* [[文明]]
* [[エジプトの歴史]]
* [[古代エジプトの宗教]]
* [[ファラオ]]
* [[ファラオの一覧]]
* [[ヌビア王国]]
* [[世界四大文明]]
* [[ナイル川]]
* [[ピラミッド]]


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{{EG-stub}}
{{Culture-stub}}
{{DEFAULTSORT:えしふとふんめい}}
[[Category:文明]]
[[Category:古代エジプト]]
[[Category:エジプトの歴史]]

2020年6月17日 (水) 15:52時点における最新版