「名護市女子中学生拉致殺害事件」の版間の差分
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{{暴力的}} |
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'''沖縄女子中学生強姦殺人事件'''(おきなわじょしちゅうがくせいごうかんさつじんじけん)は、[[1996年]][[6月21日]]に[[沖縄県]][[名護市]]で発生した、[[拉致]]・[[監禁]]・[[強姦]]・[[窃盗]]・[[殺人]]事件である{{R|大全}}。 |
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{{性的}} |
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{{Infobox 事件・事故 |
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|名称=沖縄女子中学生強姦殺人事件 |
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|正式名称= |
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|画像= |
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|脚注= |
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|場所={{JPN}}・[[沖縄県]]([[沖縄本島]]) |
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* [[名護市]][[伊差川]]・農道(被害者Aを拉致した現場)<ref group="注" name="拉致現場"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/> |
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* [[国頭郡]][[国頭村]]楚洲・林道上(殺害現場)<ref group="注" name="遺棄現場"/><ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/> |
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|緯度度=|緯度分=|緯度秒= |
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|経度度=|経度分=|経度秒= |
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|標的=帰宅途中の女子中学生A(事件当時15歳・[[名護市立羽地中学校]]3年生・名護市我部祖河在住)<ref name="中日新聞1997-01-03"/> |
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|日付=[[1996年]](平成8年)[[6月21日]] |
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|時間=19時ごろ(被害者Aが拉致された時間)<ref name="読売新聞1997-01-03"/> |
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* 21時30分ごろ(殺害時刻)<ref name="琉球新報1998-03-17"/> |
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|開始時刻= |
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|終了時刻= |
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|時間帯=[[UTC+9]]([[日本標準時]]) |
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|概要=男2人組(元同僚)が名護市内で帰宅途中の女子中学生をワゴン車で拉致して[[強姦|乱暴]]し、絞殺して遺体を山中(国頭村)に遺棄した<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。 |
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|懸賞金= |
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|原因= |
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|攻撃手段=紐で首を絞める<ref name="読売新聞1997-01-03"/> |
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|攻撃側人数=2人<ref name="読売新聞1997-01-03"/> |
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|武器=海辺で拾った紐<ref name="読売新聞1997-01-03"/> |
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|兵器= |
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|死亡=1人 |
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|負傷= |
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|行方不明= |
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|被害者= |
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|損害=約200円(加害者2人が被害者から奪った現金)<ref name="琉球新報1997-04-24"/> |
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|犯人=元建設作業員の男2人(本文中X・Y)<ref name="読売新聞1997-01-03"/> |
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|容疑=[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄罪]]・[[略取・誘拐罪|わいせつ目的誘拐罪]]・[[強制性交等罪|婦女暴行罪]]・[[窃盗罪]]<ref name="琉球新報1997-04-24"/> |
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|動機=拉致の発覚を恐れたため(殺害の動機)<ref name="中日新聞1997-01-04"/> |
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|関与= |
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|防御= |
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|対処=加害者2人を[[逮捕 (日本法)|逮捕]]<ref name="中日新聞1997-01-04"/><ref name="中日新聞1997-01-13"/>・[[起訴]]<ref name="Y起訴"/> |
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|謝罪=あり<ref name="東京新聞1997-04-24"/> |
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|補償= |
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|賠償= |
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|刑事訴訟=[[懲役#無期懲役|無期懲役]](第一審<ref name="琉球新報1998-03-17"/>・控訴審[[判決 (日本法)|判決]]<ref name="琉球新報1999-09-30"/> / [[確定判決|確定]]) |
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|少年審判= |
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|海難審判= |
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|民事訴訟= |
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|影響= |
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|遺族会= |
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|被害者の会= |
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|管轄=[[沖縄県警察]]([[名護警察署]]など)<ref name="琉球新報1996-08-20"/>・[[那覇地方検察庁]]<ref name="Y起訴"/> |
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}} |
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'''沖縄女子中学生強姦殺人事件'''{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}(おきなわじょしちゅうがくせいごうかんさつじんじけん)は、[[1996年]](平成8年)[[6月21日]]に[[沖縄県]]([[沖縄本島]])で発生した[[殺人罪 (日本)|殺人]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄]]・[[略取・誘拐罪|わいせつ目的誘拐]]・[[強制性交等罪|婦女暴行]]・[[窃盗罪|窃盗]]事件<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。[[名護市]]内で帰宅途中の中学3年生女子生徒が男2人組により拉致され、[[国頭郡]][[国頭村]]で[[強姦|暴行を受け]]殺害された事件で、地元や沖縄県のみならず社会一般に不安・恐怖を与えた<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。 |
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== 事件 |
== 事件発生 == |
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加害者の男X(逮捕当時38歳・[[鹿児島県]][[種子島]]出身の元建設作業員)<ref name="読売新聞1997-01-03"/>は借金を重ねたことで妻子と別れて沖縄に渡り、人材派遣会社から斡旋されて建設作業員として働いていた{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。その後、Xは男Y(逮捕当時37歳・[[北海道]][[網走市]]出身でXの元同僚)<ref name="読売新聞1997-01-03"/>とともに1996年4月ごろまで那覇市内の会社に作業員として勤務していたが<ref name="中日新聞1997-01-03"/>、親しくなった2人は退職して姿をくらまそうとし<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、1996年6月14日に[[那覇市]]内のホテル駐車場で犯行に使用した白色のワゴン車(職場の車){{Refnest|group="注"|犯罪事件研究倶楽部 (2011) では「職場の社長の車」になっている{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。}}を盗んだ<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。その後、2人は宇佐浜海岸([[国頭郡]][[国頭村]]・[[辺戸岬]]付近)で車中泊をしていたが、XがYに「女性を拉致・乱暴しよう」と持ち掛けた<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。その後、2人は「被害者から金品を奪い、最終的には殺害して死体を遺棄すること」などを相談した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。 |
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1996年6月21日午後7時過ぎ、犯人A(当時38歳、鹿児島県種子島出身{{R|読売}})と犯人B(当時37歳、北海道網走市出身{{R|読売}})は、沖縄県名護市の田園地帯で下校途中であった女子中学生C(当時15歳)に道を尋ねる体で話しかけ、襲い掛かって車に押し込み、逃走を始める。目撃者の通報により警察は緊急配備と検問を行ったが犯人らの車は検問には引っかからず、警察はCの写真、名前を公表し、公開捜査に切り替えた{{R|大全}}。沖縄県知事の要請によってヘリコプターやダイバーを動員しての山や海の捜索、住民2万人が参加した全島一斉捜索が行われたが、A、B、Cのいずれの行方も判らず、手掛かりも見つからなかった{{R|大全}}。 |
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X・Y両加害者は<ref name="読売新聞1997-01-03"/>1996年6月21日19時5分ごろ{{Refnest|group="注"|事件直後の『読売新聞』では「19時ごろ」<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。}}<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、[[沖縄県]][[名護市]][[伊差川]]の農道上{{Refnest|group="注"|name="拉致現場"|拉致現場は被害者Aの自宅から約500 mの場所だった<ref name="琉球新報1996-08-20">{{Cite news|title=失跡2カ月 ―女子中学生ら致事件―|newspaper=琉球新報|date=1996-08-20|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960820ja.htm|author=|accessdate=2000-06-01|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000601062907/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960820ja.htm|archivedate=2000年6月1日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。}}で下校中の被害者・女子中学生A<ref name="琉球新報1998-03-17"/>(事件当時15歳・[[名護市立羽地中学校]]3年生・名護市我部祖河在住)を拉致した<ref name="中日新聞1997-01-03">『[[中日新聞]]』1997年1月3日朝刊第一社会面31頁「沖縄 女子中学生、遺体で発見 不明半年 窃盗容疑者が供述」([[中日新聞社]])</ref>。2人はワゴン車でAとその友人{{Refnest|group="注"|被害者Aとその友人は当時、自転車で帰宅しようとしていた<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。}}の後をつけ<ref name="中日新聞1997-01-03"/>、Aが1人になったところ<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、道を聞くふりをして呼び止め、ワゴン車に引きずり込んだ<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。Aが拉致されたところを約50 [[メートル|m]]離れた団地から目撃していた住民がおり、この住民はワゴン車に大声で呼び掛けたが、車はそのまま[[沖縄県道71号名護宜野座線|県道71号]]方面へ走り去った<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。またワゴン車は被害者Aを拉致した直後に軽自動車と衝突しかけ、そのドライバーが最後の目撃者となった<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。 |
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1996年[[12月28日]]、[[鹿児島県]][[種子島]]の交番にAが単独で自首。Cの強姦殺害を自供する。Aの自供に基づき、[[国頭村]]山中を捜索したところ、Cの遺留品と白骨化した遺体が[[1997年]][[1月1日]]に発見され、歯型などから遺体がCであることを沖縄県警は断定した{{R|読売}}。1997年[[1月12日]]にはBも逮捕される{{R|大全}}。 |
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2人は20時ごろに国頭村の私道上で被害者Aを[[強姦|暴行]]した後、「殺害して犯行を隠そう」と考え、奥2号林道へ移動した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。そしてさらにAを暴行し、財布から200円を奪った上で殺害を最終的に確認し<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、(拉致から約2時間後の)<ref name="中日新聞1997-01-03"/>同日21時30分ごろに被害者Aを国頭村楚洲の林道{{Refnest|group="注"|殺害現場は拉致現場から約50 [[キロメートル|km]]離れた地点<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。事件当時は「国頭村奥」と報道されたが<ref name="読売新聞1997-01-03"/><ref name="琉球新報1997-01-06"/>、判決では一・二審とも「国頭村楚洲の林道上」と認定されている<ref name="琉球新報1998-03-17"/><ref name="琉球新報1999-09-30"/>。}}上で絞殺した{{Refnest|group="注"|2人は海辺で拾った紐を使い<ref name="読売新聞1997-01-03">『読売新聞』1997年1月3日(朝刊・夕刊のどちらか不明。おそらく朝刊?)「拉致少女、遺体で発見 沖縄 『仲間と殺して捨てた』 自供の元作業員を逮捕へ」(読売新聞社)</ref>、2人で被害者Aの首を絞めて殺害した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。}}<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。 |
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=== 犯行の動機 === |
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鹿児島県出身のAはギャンブルに溺れ、多額の借金を抱えて妻子に逃げられる。その後、沖縄県に移り、派遣会社の斡旋によって建設作業員として働いていた。Bはそこでの同僚であり、2人して派遣会社の社長のワゴン車を盗んで逃走生活に入る。金が無くなった2人は「女性を襲って殺害し、金を奪う」ことを計画。Cを拉致すると国頭村山中で何度も強姦し、判別できなくなるほど顔面を石で砕き、ロープで絞殺し、遺体を山中に棄てた。なお、Cから奪った所持金は200円であった{{R|大全|読売|惠}}。 |
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被害者Aを殺害後、2人は被害者Aの死体を山中(辺戸岬の南東約5 km・林道脇の崖){{Refnest|group="注"|name="遺棄現場"|死体遺棄現場(国頭村楚洲の林道脇斜面)は県道から細い林道を約4 km登った地点に位置する<ref name="琉球新報1999-09-30"/>。同地には事件後、被害者Aの遺族・ボランティアにより観音像が建立された<ref name="琉球新報1999-09-30"/>。}}に遺棄した{{Refnest|group="注"|冒頭陳述では「2被告人は遺体をガードレール越しに投げ捨てた」とされている<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。}}<ref name="中日新聞1997-01-03"/>ほか、車からナンバープレートを取り外した上で<ref name="琉球新報1997-04-24"/>車を辺戸岬付近の農道へ放棄し、ヒッチハイク・徒歩で[[沖縄市]]内まで移動した<ref name="琉球新報1997-01-24">{{Cite news|title=ヒッチハイクするなど逃走経路明らかに 女子中学生ら致殺害事件|newspaper=[[琉球新報]]|date=1997-05-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970124je.htm|author=|accessdate=1999-02-24|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990224143252/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970124je.htm|archivedate=1999年2月24日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。事件後、加害者2人は野宿生活をしていたが、犯行に使用した車が発見されたことをニュースで知った{{Refnest|group="注"|name="7月5日"|事件直後の『[[琉球新報]]』によれば、加害者Yがワゴン車の発見を新聞で知ったのは1996年7月5日とされている<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}ことなどからそれぞれ別行動を取ることにした{{Refnest|group="注"|2人は6月26日、(後に加害者Yが逮捕された)浦添市[[勢理客]]の公園で野宿したのを最後に別行動していた<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。 |
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その後、国頭村[[辺戸岬]]付近でワゴン車を捨てて逃亡生活を続け、各地を転々としていたが、故郷である種子島に戻った際に、ワゴン車の盗難で全国指名手配になっていることを知ったAは自首した{{R|大全|読売}}。 |
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== 捜査 == |
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被害佐Aが拉致されるところを目撃した近隣住民が19時9分に110番通報し、これを受けた[[沖縄県警察]]は同12分に[[名護警察署]]および近隣の警察署に緊急配備の指令を出した<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。県警は拉致事件として名護署に捜査本部を設置したが、同月27日にはこれを特別捜査本部へ拡大・強化し、捜査員650人(県警職員の4分の1)を投入した<ref name="琉球新報1996-12-21">{{Cite news|title=女子中学生ら致事件から半年|newspaper=琉球新報|date=1996-12-21|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|author=|accessdate=2001-4-21|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010421161029/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961221ja.htm|archivedate=2001年4月21日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。 |
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裁判においては、A、Bともに自分の罪の軽減を狙って事件の主導は相手であると罪の擦り付け合いを行った{{R|大全}}。また、A、Bは「拉致ではなくCが自分からつい来た」との供述も行っている{{R|惠}}。 |
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また県警は名護市から南へ抜ける要所で検問を行ったが<ref name="琉球新報1996-08-20"/>、X・Yは検問を抜けて逃走し続けた{{Refnest|group="注"|惠隆之介 (2013) は「県警は(本島北部で発生した)本事件は犯人が被害者を連れ、車で本島中部に南下するだろう」と推測して名護市内に非常線を張ったが、実際には被害者は拉致現場よりさらに北方の山中で殺害されていた」と述べている{{Sfn|惠隆之介|2013}}。一方、事件当時の『琉球新報』は「特捜本部長・久高常良(当時・県警刑事部長)ら捜査幹部は『犯人が事件後、中南部(人目が多く、夕方の渋滞に巻き込まれやすい市街地方面)に逃走した可能性は低い』と話している」と報道した<ref name="琉球新報1996-08-20"/>。}}{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}。被害者Aの父親・近隣住民らはAを徹夜で捜索したほか、県警は事件発生から1週間後に被害者Aの写真・氏名を公開して公開捜査に踏み切った{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}。 |
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検察の求刑は[[死刑]]であったが、[[1998年]][[3月17日]]、地裁はA、B共に[[無期懲役]]の判決を下した。なお、死刑判決を避けた理由は「被害者が1人であり、犯人に贖罪の道を歩ませるのが妥当」との判断からである。検察は控訴したが、高裁での判決も変わらず、刑が確定した{{R|大全}}。 |
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[[沖縄県知事]](当時は[[大田昌秀]])による捜査への協力呼びかけもあり{{Refnest|group="注"|『琉球新報』は事件当時、「知事による捜索協力への呼び掛けは異例」と報じている<ref name="琉球新報1996-07-12">{{Cite news|title=全県で一斉捜索 女子中学生ら致事件|newspaper=琉球新報|date=1996-07-12|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960712je.htm|author=|accessdate=2000-05-30|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000530191705/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960712je.htm|archivedate=2000年5月30日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。}}、ヘリコプター・ダイバーによる山・海の捜索や{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}住民20,000人による県内一斉捜索も行われたが<ref name="琉球新報1996-07-12"/>、事件の手掛かりはつかめなかった{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=68}}。一方で県警は犯行に使用された車両(白いワゴン車)や前科・非行歴のある人物について調べ続け<ref name="琉球新報1996-12-21"/><ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件、有力手掛かりなし 発生から5カ月|newspaper=琉球新報|date=1996-11-22|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|author=|accessdate=2000-06-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000610051733/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/961122je.htm|archivedate=2000年6月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、7月5日に<ref group="注" name="7月5日"/><ref name="中日新聞1997-01-03"/>辺戸岬付近でナンバープレートが取り外されたワゴン車を発見<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。さらに車内の遺留品・指紋などからX・Yの2人が浮上し、[[那覇警察署]]は同年7月18日に2人を窃盗(ワゴン車を盗んだ容疑)で全国に指名手配した<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。県警はこの車について、発見当初は「車内の遺留品・車両鑑定などの結果からすれば本事件との関連性は薄い」との見解を示していたが<ref>{{Cite news|title=女子中学生ら致事件 辺戸岬で発見の車両は事件と無関係|newspaper=琉球新報|date=1996-07-06|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|author=|accessdate=1999-10-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19991010125807/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960706ja.htm|archivedate=1999年10月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、その後も本事件との関連を調べ続けていた<ref name="琉球新報1996-12-21"/>。 |
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沖縄の婦人団体や[[琉球新報]]、[[沖縄タイムス]]といった沖縄の報道メディアは[[在日米軍]]軍人が事件を起こした場合には、在日米軍軍人を責める声明を上げるが、本件に関しては何の声明もなく、死刑ではなく無期懲役の判決が出た数日後、[[沖縄タイムス]]では死刑廃止運動家である[[中山千夏]]の講演会の模様を大きく取り上げたことで、本事件の判決を肯定するかの印象を読者に与えている{{R|惠}}。 |
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加害者XはYと別れてからも野宿を続けながら<ref name="琉球新報1997-01-24"/>[[九州]]・[[中国地方]]を転々とした{{Refnest|group="注"|1996年8月下旬に那覇からフェリーで鹿児島へ渡り、[[広島県]]・[[岡山県]]・[[香川県]]を転々とした<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}が、やがて逃走に疲れたことに加え<ref name="琉球新報1997-04-24"/>、同年末に種子島へ帰郷したところ「刑事が調べに来た」と言われ、「もう逃げられない」と出頭を決意<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。同年12月28日に島内の中種子交番([[鹿児島県警察]]・[[種子島警察署]])へ出頭して<ref name="読売新聞1997-01-03"/>窃盗容疑で逮捕され<ref name="中日新聞1997-01-03"/>、沖縄県警へ身柄を移送された<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。Xは沖縄県警の取り調べに対し、1996年12月31日に「被害者Aを強姦後に絞殺し、山中に遺棄した」と供述したため、1997年(平成9年)1月1日に県警が捜査員100人を動員してXの自供した現場の山中を捜索したところ、被害者Aの遺体や遺留品(制服・タオル・教科書などが入ったリュックサック)が発見された{{Refnest|group="注"|遺体は事件当時に着ていたバレーボール部のユニフォーム姿で、遺留品は遺体発見現場から約800 [[メートル|m]]離れた林道付近で発見された<ref name="中日新聞1997-01-03"/>。}}<ref name="読売新聞1997-01-03"/>。このため、沖縄県警は1月3日にX・Y両被疑者について殺人・死体遺棄容疑で逮捕状を取り<ref name="読売新聞1997-01-03"/>、同日中に被疑者Xを同容疑で再逮捕した{{Refnest|group="注"|Xは同月5日に那覇地検へ[[送致#送検|送検]]された<ref name="琉球新報1997-01-06">{{Cite news|title=X容疑者を送検 女子中学生ら致殺害事件|newspaper=琉球新報|date=1997-01-06|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970106ja.htm|author=|accessdate=2000-09-25|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000925065655/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970106ja.htm|archivedate=2000年9月25日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。}}ほか、残る加害者Yを殺人容疑などに切り替えて指名手配した<ref name="中日新聞1997-01-04">『中日新聞』1997年1月4日朝刊第二社会面30頁「元建設作業員、殺人で再逮捕 沖縄の女子中学生殺害」(中日新聞社)</ref>。取り調べに対し、被疑者Xは「Yと2人で女性を連れ去ることを計画し、偶然見かけた被害者Aの後をつけた」「(拉致したことが)発覚することを恐れて殺した」と供述し{{Refnest|group="注"|このほか、被疑者Xは「被害者Aが逃げようとしたので、逃げないように紐を首に巻いていたら死亡した」と供述した<ref>{{Cite news|title=県警、共犯の逮捕急ぐ 女子中学生ら致殺害事件|newspaper=琉球新報|date=1997-01-04|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970104je.htm|author=|accessdate=2000-09-25|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000925065701/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970104je.htm|archivedate=2000年9月25日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。}}、容疑を全面的に認めた<ref name="中日新聞1997-01-04"/>。 |
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== 慰霊 == |
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名護市では1996年から年末年始に銭ケ森の斜面に光文字を点灯させている。1997年末は被害者であるCを悼むとして「花」の光文字が点灯された{{R|新報}}。 |
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加害者YはXと別れてから県内を逃亡し続けていたが{{Refnest|group="注"|Yは那覇市内の港湾会社で数日間偽名を用いて働いていたほか、Xの逮捕・遺体発見をラジオで聞いて知った<ref name="琉球新報1997-01-24"/>。}}、1997年1月11日夜に[[浦添市民球場]]([[浦添市]])のベンチで寝ているところを発見・職務質問され、犯行に使用された車両と指紋が一致したことから翌12日に[[名護警察署]]にて殺人・死体遺棄などの容疑で逮捕された<ref name="中日新聞1997-01-13">『中日新聞』1997年1月13日朝刊第一社会面27頁「中3女子殺害 手配の元作業員逮捕 沖縄県警 犯行状況など追及」(中日新聞社)</ref>。その後、[[那覇地方検察庁]]は1997年2月2日に[[殺人罪 (日本)|殺人罪]]・[[死体損壊・遺棄罪|死体遺棄罪]]など5つの罪で被疑者Yを[[那覇地方裁判所]]へ[[起訴]]した(被告人Xはそれ以前に起訴完了)<ref name="Y起訴">{{Cite news|title=Y容疑者を起訴 女子中学生ら致殺害事件|newspaper=琉球新報|date=1997-02-03|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970203ja.htm|author=|accessdate=2001-02-18|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20010218004613/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970203ja.htm|archivedate=2001年2月18日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。 |
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== 捜査における問題点 == |
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沖縄県に[[在日米軍基地]]も多く、敷地内への立ち入りは警察の捜査と言えども在日米軍の許可が必要となってくる。また、在日米軍軍人による強姦事件や暴力事件が過去に多発していたこともあって、今回の事件も同様に在日米軍軍人による犯行との疑念が最初からあり、捜査の目をA、Bから遠ざける結果になったのではないかと指摘されている{{R|大全}}。 |
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== 刑事裁判 == |
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また、本事件の通報があったと同時刻に沖縄本島南部で全裸の女子中学生が助けを求めて民家に駆け込んできたという事件も発生しており、県警本部の混乱を招いた。当時の沖縄県警には県警ヘリが1機しかなく、通報時にはオーバーホール中で出動できない状態であった。自衛隊の救難ヘリをこちらの事件の捜索のために飛ばそうと準備したものの、当時の沖縄県知事[[大田昌秀]]は自衛隊救難ヘリの出動を許可しなかった{{R|惠}}。 |
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[[那覇地方裁判所]](長嶺信栄裁判長)で1997年4月24日に初[[公判]]が開かれ、X・Y両[[被告人]]とも起訴事実を認めた<ref name="琉球新報1997-04-24">{{Cite news|title=両被告、起訴事実認める 女子中学生拉致殺害事件初公判|newspaper=琉球新報|date=1997-05-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970424je.htm|author=|accessdate=1999-09-09|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990909154528/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970424je.htm|archivedate=1999年9月9日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="東京新聞1997-04-24">『[[東京新聞]]』1997年4月24日夕刊第二社会面10頁「名護の女子中生殺害2被告 起訴事実認める」([[中日新聞東京本社]])</ref>。[[検察官]]は冒頭陳述で「2被告人は女性を拉致・暴行し、所持金を奪って殺害することを計画した上で2日間にわたって北部地域で女性を探した」と主張した一方、被告人Xの[[弁護人]]は「Xの出頭は[[自首]]に当たる」と主張した{{Refnest|group="注"|那覇地裁 (1998) は「Xは本事件についてポリグラフ検査を受けた際には『犯人であることが明らかにならないようにしよう』という姿勢で臨み、その後自白した。よって自発的な申告とは言えない」として自首の成立を認めなかった<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。}}ほか、被告人Yの弁護人も「各行為は被告人Xの主導でなされた」と主張した<ref name="琉球新報1997-04-24"/>。同日、被告人Yは「Xとともに被害者Aを暴行して殺害した。Aや両親には大変申し訳ない。Aの冥福を祈り、素直に刑に服したい」と述べたが<ref name="東京新聞1997-04-24"/>、その後は両被告人とも互いに「主犯は自分ではない」と主張した{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。 |
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1998年(平成10年)2月10日に那覇地裁(林秀文裁判長)で[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、検察官は2被告人に[[日本における死刑|死刑]]を求刑した<ref>{{Cite news|title=X、Y両被告に死刑求刑 名護市の女子中学生拉致事件|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|author=|accessdate=1999-02-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990210082057/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|archivedate=1999年2月10日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無念さ」思えば極刑 女子中学生拉致殺害事件論告求刑|newspaper=琉球新報|date=1998-02-11|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|author=|accessdate=1998-12-01|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19981201070232/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211c.htm|archivedate=1998年12月1日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。公判は同月24日に結審し、弁護人が「事前に殺人の計画はなかった」「死刑制度は憲法違反」「被告人2人は深く反省している」などと情状酌量を求めた<ref>{{Cite news|title=女子中学生拉致殺害事件が結審 判決は来月17日|newspaper=琉球新報|date=1998-02-24|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202104638/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980225d.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。 |
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県警機動捜査隊は捜査勢力を沖縄本島南北に2分させることになるが、本件の犯人は本島中部に南下するものと予測して名護市に非常線を張った。しかし、犯人A、Bは拉致現場から北方の国頭村山中にてCを強姦、殺害していたため、非常線には引っかかることはなかった{{R|惠}}。 |
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1998年3月17日に[[判決 (日本法)|判決]]公判が開かれ、那覇地裁(林秀文裁判長)は死刑求刑を受けた2被告人を[[懲役#無期懲役|無期懲役]]に処す判決を言い渡した<ref name="琉球新報1998-03-17">{{Cite news|title=X、Y両被告に無期懲役 名護市の女子中学生拉致殺害|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202201542/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317ea.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref>{{Cite news|title=「無期」に唇かむ遺族ら 女子中学生拉致殺害判決|newspaper=琉球新報|date=1998-03-17|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|author=|accessdate=1999-02-02|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990202205609/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9803/980317eb.htm|archivedate=1999年2月2日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="中日新聞1998-03-17">『中日新聞』1998年3月17日夕刊第一社会面11頁「沖縄の女子中学生殺害 2被告無期判決 那覇地裁 『終生めい福祈れ』」(中日新聞社)</ref>。那覇地裁は[[判決理由]]にて「被害者の死亡を確認するまで執拗に首を絞め続け、何の躊躇いもなく遺体を谷底に投げ捨てるなど極めて冷酷・残忍な犯行で刑事責任は極めて重大。動機は身勝手で酌量の余地はない」と指摘し<ref name="中日新聞1998-03-17"/>、「検察の死刑求刑にも相当の理由がある」と認めた<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。しかしその一方で「両被告人とも[[前科]]はない」<ref name="琉球新報1998-03-17"/>「殺害の計画性は高くなく、両被告人とも反省して被害者遺族に深く謝罪している」と指摘し、[[量刑]]面について「死刑の適用は慎重である必要があり、近年は死刑適用に慎重な量刑の実情がある。それを考え合わせると2人とも死刑で処断するには躊躇を感じる。終生にわたり被害者の冥福を祈らせ、贖罪の道を歩ませるべきである」と結論付けた<ref name="中日新聞1998-03-17"/>。また両被告人の役割分担については「被告人Xが多少主導した面もないわけではないが、主従関係・刑事責任にはX・Yとも差を付け難い」と[[事実認定|認定]]した<ref name="琉球新報1998-03-17"/>。 |
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惠隆之介は「完全な初動捜査ミス」であると指摘し、同時に自衛隊ヘリの発進許可を出さなかった大田沖縄県知事の責を問うているが、[[琉球新報]]、[[沖縄タイムス]]といった沖縄の報道メディアはこれらの事実を報道することはなかった。また、月刊誌『[[諸君!]]』([[文藝春秋]])1996年10月号において、この初動捜査ミスと沖縄県知事の責任問題について言及した記事を惠が掲載したことろ、沖縄県内の書店からは数時間で『諸君!』が撤去された{{R|惠}}。 |
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検察側は判決を不服として[[福岡高等裁判所那覇支部]]へ[[控訴]]し、控訴審でも改めて死刑を求めたが<ref>{{Cite news|title=検察、再び死刑求刑/女子中学生殺害事件が結審|newspaper=琉球新報|date=1999-07-13|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9907/990713eb.html|author=|accessdate=2000-03-09|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000309012238/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9907/990713eb.html|archivedate=2000年3月9日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>、福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は1999年(平成11年)9月30日に2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref name="琉球新報1999-09-30">{{Cite news|title=2被告に再び無期懲役/女子中学生拉致殺害事件控訴審|newspaper=琉球新報|date=1999-09-30|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1998/9802/980211b.htm|author=|accessdate=2000-09-19|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20000919185006/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news01/1999/9909/990930ea.html|archivedate=2000年9月19日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref><ref name="東京新聞1999-09-30">『東京新聞』1999年9月30日夕刊第一社会面11頁「沖縄の中3女子殺害 二審も『無期』 福岡高裁那覇支部」(中日新聞東京本社)</ref>。福岡高裁那覇支部は判決理由で「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、[[永山則夫連続射殺事件#永山基準|最高裁判例が示す死刑適用基準]]に沿って検討すると殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があr、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた<ref name="琉球新報1999-09-30"/>。検察は[[上告]]を断念したため、2人とも無期懲役が[[確定判決|確定]]した{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。 |
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== 出典 == |
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{{Reflist|refs= |
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== 影響・評価 == |
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<ref name="大全">{{cite book|和書|title=日本凶悪犯罪大全 SPECIAL|author=犯罪事件研究倶楽部|publisher=[[イーストプレス]]|year=2011|isbn=978-4781606637|chapter=No.027 強姦殺人 沖縄女子中学生強姦殺人事件}}</ref> |
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事件発生から1か月となる1996年7月15日、名護市商工会青年部は被害者Aの捜索を優先するため、同月26日から予定されていた「第20回名護夏祭り」の中止を決定した<ref>{{Cite news|title=名護市 女子中学生ら致事件で夏祭り中止|newspaper=琉球新報|date=1996-07-16|url=http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960716ja.htm|author=|accessdate=1999-02-24|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/19990224083138/http://www.ryukyushimpo.co.jp/news/960716ja.htm|archivedate=1999年2月24日|deadlinkdate=2020-06-10}}</ref>。 |
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<ref name="惠">{{cite book|和書|title=沖縄が中国になる日|author=[[惠隆之介]]|publisher=[[扶桑社]]|year=2013|isbn=978-4594067885|chapter=2.報道されない少女暴行殺人・遺体遺棄事件}}</ref> |
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<ref name="新報">{{cite web|url=https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236592.html?utm_source=dlvr.it&%3Butm_medium=facebook|website=[[琉球新報]]|title=名護の光文字“20歳”で区切り 1月11日最後の点灯|date=2014-12-29|accessdate=2020-06-12}}</ref> |
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沖縄県には[[在日米軍]]基地{{Refnest|group="注"|米軍基地の敷地内は[[日米地位協定]]により米国の排他的管理権が認められており、[[日本の警察]]は[[アメリカ合衆国]]側の同意がなければ立ち入ることができない<ref>{{Cite news|title=<社説>米軍属再逮捕 基地内の捜査権を認めよ|newspaper=琉球新報|date=2016-06-10|url=https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|accessdate=2020-06-07|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607160129/https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-295301.html|archivedate=2020年6月7日}}</ref>。この点も初動捜査の妨げになった{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。}}の大半(約75%)が集中している一方、過去に米軍兵士による強姦・暴力事件が多発していた{{Refnest|group="注"|本事件の前年(1995年)には[[沖縄米兵少女暴行事件]]が発生していた。}}ため「今回も同様の事件ではないか」との疑念が挙がり、結果的に事件解決まで時間を要した原因になった{{Sfn|犯罪事件研究倶楽部|2011|p=69}}。 |
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<ref name="読売">{{cite newspaper|newspaper=[[読売新聞]]|date=1997-01-03|title=拉致少女、遺体で発見}}</ref> |
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}} |
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また事件当初は沖縄県警のヘリコプターが[[オーバーホール]]中だったため、その代わりに[[自衛隊]]が救難ヘリコプターを捜索のために本事件が発生した[[沖縄本島]]北部へ発進しようとしていたが、当時の沖縄県知事・[[大田昌秀]]は発進を許可しなかった{{Sfn|惠隆之介|2013}}。[[惠隆之介]]は月刊誌『[[諸君!]]』([[文藝春秋]]・1996年10月号)にて沖縄県警・県知事の対応を「完全な初動捜査ミスで、自衛隊機発信を許可しなかった県知事の責任は重い」と批判したほか、自著 (2013) で本事件について「沖縄の主要2紙(『[[琉球新報]]』『[[沖縄タイムス]]』)や婦人団体は米軍兵士が事件を起こすと大きく報道して厳罰を要求するが、この(無期懲役)判決については単純に客観報道で一切抗議しなかった。同種の事件でも犯人が米兵か否かで事件の扱いに差が出ている」と指摘している{{Sfn|惠隆之介|2013}}。 |
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なお名護市では1996年から年末年始に[[名護市立東江中学校]]出身の新成人らが銭ケ森の斜面に「光文字」を点灯する行事を行っているが、1997年(2回目)は本事件の被害者を追悼する「花」の文字が点灯された<ref>{{Cite news|title=名護の光文字“20歳”で区切り 1月11日最後の点灯|newspaper=琉球新報|date=2014-12-29|url=https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236592.html|author=嘉陽拓也|accessdate=2020-06-07|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200607160832/https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-236592.html|archivedate=2020年6月7日}}</ref>。また、被害者Aの父親は「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風)に所属し、同会により2016年・2019年にそれぞれ那覇市内で開催された「九州・沖縄犯罪被害者大会in沖縄」{{Refnest|group="注"|2016年は第6回<ref name="琉球新報2016-05-23"/>、2019年は第8回<ref name="沖縄タイムス2019-10-06"/>。}}の大会実行委員長を務めた<ref name="琉球新報2016-05-23">{{Cite news|title=九州・沖縄犯罪被害者大会 7月16日に沖縄で初開催 参加を呼び掛け|newspaper=琉球新報|date=2016-05-23|url=https://ryukyushimpo.jp/news/entry-284444.html|author=|accessdate=2020-06-10|publisher=琉球新報社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200610090705/https://ryukyushimpo.jp/news/entry-284444.html|archivedate=2020年6月10日}}</ref><ref name="沖縄タイムス2019-10-06">{{Cite news|title=「いつ誰が犯罪被害に」 強盗致死や交通事故の遺族、思い語る 26日那覇で被害者大会 被害当事者の相談会も|newspaper=[[沖縄タイムス]]|date=2019-10-06|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/479634|author=|accessdate=2020-06-10|publisher=沖縄タイムス社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200610091221/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/479634|archivedate=2020年6月10日}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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'''(当事者の実名は本文中で使用されている仮名に置き換えている)''' |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書|title=日本凶悪犯罪大全 SPECIAL|series=|publisher=[[イースト・プレス]](発行人:芝崎浩司)|date=2011-09-01|author=犯罪事件研究倶楽部|editor=圓尾公佑|edition=初版第1刷発行|isbn=978-4781606637|pages=68-69|chapter=沖縄女子中学生強姦殺人事件|ref={{SfnRef|犯罪事件研究倶楽部|2011}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=沖縄が中国になる日|publisher=[[扶桑社]]|date=2013-03-19|author=[[惠隆之介]]|edition=電子版|isbn=978-4594067885|pages=|ref={{SfnRef|惠隆之介|2013}}}} |
|||
<!--* {{Cite book|和書|title=日本凶悪犯罪大全217|series=[[文庫ぎんが堂]]|publisher=[[イースト・プレス]]|date=2019-08-10|author=犯罪事件研究倶楽部|edition=電子版|isbn=978-4781671871|pages=|ref={{SfnRef|犯罪事件研究倶楽部|2019}}}} |
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{{ |
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[[Category:1996年6月]] |
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2020年6月12日 (金) 09:05時点における版
この項目には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。 |
この項目には性的な表現や記述が含まれます。 |
沖縄女子中学生強姦殺人事件 | |
---|---|
場所 | |
標的 | 帰宅途中の女子中学生A(事件当時15歳・名護市立羽地中学校3年生・名護市我部祖河在住)[3] |
日付 | |
概要 | 男2人組(元同僚)が名護市内で帰宅途中の女子中学生をワゴン車で拉致して乱暴し、絞殺して遺体を山中(国頭村)に遺棄した[4]。 |
攻撃側人数 | 2人[4] |
武器 | 海辺で拾った紐[4] |
死亡者 | 1人 |
損害 | 約200円(加害者2人が被害者から奪った現金)[5] |
犯人 | 元建設作業員の男2人(本文中X・Y)[4] |
容疑 | 殺人罪・死体遺棄罪・わいせつ目的誘拐罪・婦女暴行罪・窃盗罪[5] |
動機 | 拉致の発覚を恐れたため(殺害の動機)[6] |
対処 | 加害者2人を逮捕[6][7]・起訴[8] |
謝罪 | あり[9] |
刑事訴訟 | 無期懲役(第一審[1]・控訴審判決[2] / 確定) |
管轄 | 沖縄県警察(名護警察署など)[10]・那覇地方検察庁[8] |
沖縄女子中学生強姦殺人事件[11](おきなわじょしちゅうがくせいごうかんさつじんじけん)は、1996年(平成8年)6月21日に沖縄県(沖縄本島)で発生した殺人・死体遺棄・わいせつ目的誘拐・婦女暴行・窃盗事件[5]。名護市内で帰宅途中の中学3年生女子生徒が男2人組により拉致され、国頭郡国頭村で暴行を受け殺害された事件で、地元や沖縄県のみならず社会一般に不安・恐怖を与えた[1]。
事件発生
加害者の男X(逮捕当時38歳・鹿児島県種子島出身の元建設作業員)[4]は借金を重ねたことで妻子と別れて沖縄に渡り、人材派遣会社から斡旋されて建設作業員として働いていた[12]。その後、Xは男Y(逮捕当時37歳・北海道網走市出身でXの元同僚)[4]とともに1996年4月ごろまで那覇市内の会社に作業員として勤務していたが[3]、親しくなった2人は退職して姿をくらまそうとし[5]、1996年6月14日に那覇市内のホテル駐車場で犯行に使用した白色のワゴン車(職場の車)[注 3]を盗んだ[4]。その後、2人は宇佐浜海岸(国頭郡国頭村・辺戸岬付近)で車中泊をしていたが、XがYに「女性を拉致・乱暴しよう」と持ち掛けた[5]。その後、2人は「被害者から金品を奪い、最終的には殺害して死体を遺棄すること」などを相談した[5]。
X・Y両加害者は[4]1996年6月21日19時5分ごろ[注 4][10]、沖縄県名護市伊差川の農道上[注 1]で下校中の被害者・女子中学生A[1](事件当時15歳・名護市立羽地中学校3年生・名護市我部祖河在住)を拉致した[3]。2人はワゴン車でAとその友人[注 5]の後をつけ[3]、Aが1人になったところ[5]、道を聞くふりをして呼び止め、ワゴン車に引きずり込んだ[1]。Aが拉致されたところを約50 m離れた団地から目撃していた住民がおり、この住民はワゴン車に大声で呼び掛けたが、車はそのまま県道71号方面へ走り去った[10]。またワゴン車は被害者Aを拉致した直後に軽自動車と衝突しかけ、そのドライバーが最後の目撃者となった[10]。
2人は20時ごろに国頭村の私道上で被害者Aを暴行した後、「殺害して犯行を隠そう」と考え、奥2号林道へ移動した[5]。そしてさらにAを暴行し、財布から200円を奪った上で殺害を最終的に確認し[5]、(拉致から約2時間後の)[3]同日21時30分ごろに被害者Aを国頭村楚洲の林道[注 6]上で絞殺した[注 7][1]。
被害者Aを殺害後、2人は被害者Aの死体を山中(辺戸岬の南東約5 km・林道脇の崖)[注 2]に遺棄した[注 8][3]ほか、車からナンバープレートを取り外した上で[5]車を辺戸岬付近の農道へ放棄し、ヒッチハイク・徒歩で沖縄市内まで移動した[14]。事件後、加害者2人は野宿生活をしていたが、犯行に使用した車が発見されたことをニュースで知った[注 9]ことなどからそれぞれ別行動を取ることにした[注 10][5]。
捜査
被害佐Aが拉致されるところを目撃した近隣住民が19時9分に110番通報し、これを受けた沖縄県警察は同12分に名護警察署および近隣の警察署に緊急配備の指令を出した[10]。県警は拉致事件として名護署に捜査本部を設置したが、同月27日にはこれを特別捜査本部へ拡大・強化し、捜査員650人(県警職員の4分の1)を投入した[15]。
また県警は名護市から南へ抜ける要所で検問を行ったが[10]、X・Yは検問を抜けて逃走し続けた[注 11][11]。被害者Aの父親・近隣住民らはAを徹夜で捜索したほか、県警は事件発生から1週間後に被害者Aの写真・氏名を公開して公開捜査に踏み切った[11]。
沖縄県知事(当時は大田昌秀)による捜査への協力呼びかけもあり[注 12]、ヘリコプター・ダイバーによる山・海の捜索や[11]住民20,000人による県内一斉捜索も行われたが[17]、事件の手掛かりはつかめなかった[11]。一方で県警は犯行に使用された車両(白いワゴン車)や前科・非行歴のある人物について調べ続け[15][18]、7月5日に[注 9][3]辺戸岬付近でナンバープレートが取り外されたワゴン車を発見[4]。さらに車内の遺留品・指紋などからX・Yの2人が浮上し、那覇警察署は同年7月18日に2人を窃盗(ワゴン車を盗んだ容疑)で全国に指名手配した[4]。県警はこの車について、発見当初は「車内の遺留品・車両鑑定などの結果からすれば本事件との関連性は薄い」との見解を示していたが[19]、その後も本事件との関連を調べ続けていた[15]。
加害者XはYと別れてからも野宿を続けながら[14]九州・中国地方を転々とした[注 13]が、やがて逃走に疲れたことに加え[5]、同年末に種子島へ帰郷したところ「刑事が調べに来た」と言われ、「もう逃げられない」と出頭を決意[4]。同年12月28日に島内の中種子交番(鹿児島県警察・種子島警察署)へ出頭して[4]窃盗容疑で逮捕され[3]、沖縄県警へ身柄を移送された[4]。Xは沖縄県警の取り調べに対し、1996年12月31日に「被害者Aを強姦後に絞殺し、山中に遺棄した」と供述したため、1997年(平成9年)1月1日に県警が捜査員100人を動員してXの自供した現場の山中を捜索したところ、被害者Aの遺体や遺留品(制服・タオル・教科書などが入ったリュックサック)が発見された[注 14][4]。このため、沖縄県警は1月3日にX・Y両被疑者について殺人・死体遺棄容疑で逮捕状を取り[4]、同日中に被疑者Xを同容疑で再逮捕した[注 15]ほか、残る加害者Yを殺人容疑などに切り替えて指名手配した[6]。取り調べに対し、被疑者Xは「Yと2人で女性を連れ去ることを計画し、偶然見かけた被害者Aの後をつけた」「(拉致したことが)発覚することを恐れて殺した」と供述し[注 16]、容疑を全面的に認めた[6]。
加害者YはXと別れてから県内を逃亡し続けていたが[注 17]、1997年1月11日夜に浦添市民球場(浦添市)のベンチで寝ているところを発見・職務質問され、犯行に使用された車両と指紋が一致したことから翌12日に名護警察署にて殺人・死体遺棄などの容疑で逮捕された[7]。その後、那覇地方検察庁は1997年2月2日に殺人罪・死体遺棄罪など5つの罪で被疑者Yを那覇地方裁判所へ起訴した(被告人Xはそれ以前に起訴完了)[8]。
刑事裁判
那覇地方裁判所(長嶺信栄裁判長)で1997年4月24日に初公判が開かれ、X・Y両被告人とも起訴事実を認めた[5][9]。検察官は冒頭陳述で「2被告人は女性を拉致・暴行し、所持金を奪って殺害することを計画した上で2日間にわたって北部地域で女性を探した」と主張した一方、被告人Xの弁護人は「Xの出頭は自首に当たる」と主張した[注 18]ほか、被告人Yの弁護人も「各行為は被告人Xの主導でなされた」と主張した[5]。同日、被告人Yは「Xとともに被害者Aを暴行して殺害した。Aや両親には大変申し訳ない。Aの冥福を祈り、素直に刑に服したい」と述べたが[9]、その後は両被告人とも互いに「主犯は自分ではない」と主張した[12]。
1998年(平成10年)2月10日に那覇地裁(林秀文裁判長)で論告求刑公判が開かれ、検察官は2被告人に死刑を求刑した[21][22]。公判は同月24日に結審し、弁護人が「事前に殺人の計画はなかった」「死刑制度は憲法違反」「被告人2人は深く反省している」などと情状酌量を求めた[23]。
1998年3月17日に判決公判が開かれ、那覇地裁(林秀文裁判長)は死刑求刑を受けた2被告人を無期懲役に処す判決を言い渡した[1][24][25]。那覇地裁は判決理由にて「被害者の死亡を確認するまで執拗に首を絞め続け、何の躊躇いもなく遺体を谷底に投げ捨てるなど極めて冷酷・残忍な犯行で刑事責任は極めて重大。動機は身勝手で酌量の余地はない」と指摘し[25]、「検察の死刑求刑にも相当の理由がある」と認めた[1]。しかしその一方で「両被告人とも前科はない」[1]「殺害の計画性は高くなく、両被告人とも反省して被害者遺族に深く謝罪している」と指摘し、量刑面について「死刑の適用は慎重である必要があり、近年は死刑適用に慎重な量刑の実情がある。それを考え合わせると2人とも死刑で処断するには躊躇を感じる。終生にわたり被害者の冥福を祈らせ、贖罪の道を歩ませるべきである」と結論付けた[25]。また両被告人の役割分担については「被告人Xが多少主導した面もないわけではないが、主従関係・刑事責任にはX・Yとも差を付け難い」と認定した[1]。
検察側は判決を不服として福岡高等裁判所那覇支部へ控訴し、控訴審でも改めて死刑を求めたが[26]、福岡高裁那覇支部(飯田敏彦裁判長)は1999年(平成11年)9月30日に2被告人を無期懲役とした第一審判決を支持し、検察官の控訴を棄却する判決を言い渡した[2][27]。福岡高裁那覇支部は判決理由で「犯行は残忍・卑劣で酌量の余地はなく、被害者遺族の処罰感情も激しい。社会一般に与えた影響も無視できず、遺族が極刑を切実に希求する心情も十分に理解できるが、最高裁判例が示す死刑適用基準に沿って検討すると殺害された被害者は1人で、暴行にも場当たり的・杜撰な面があr、計画性が高いとは言い切れない。両被告人とも前科・前歴はなく、更生可能性は皆無ではないことを考慮すれば極刑がやむを得ない(無期懲役は軽すぎる)とは言えない」と述べた[2]。検察は上告を断念したため、2人とも無期懲役が確定した[12]。
影響・評価
事件発生から1か月となる1996年7月15日、名護市商工会青年部は被害者Aの捜索を優先するため、同月26日から予定されていた「第20回名護夏祭り」の中止を決定した[28]。
沖縄県には在日米軍基地[注 19]の大半(約75%)が集中している一方、過去に米軍兵士による強姦・暴力事件が多発していた[注 20]ため「今回も同様の事件ではないか」との疑念が挙がり、結果的に事件解決まで時間を要した原因になった[12]。
また事件当初は沖縄県警のヘリコプターがオーバーホール中だったため、その代わりに自衛隊が救難ヘリコプターを捜索のために本事件が発生した沖縄本島北部へ発進しようとしていたが、当時の沖縄県知事・大田昌秀は発進を許可しなかった[16]。惠隆之介は月刊誌『諸君!』(文藝春秋・1996年10月号)にて沖縄県警・県知事の対応を「完全な初動捜査ミスで、自衛隊機発信を許可しなかった県知事の責任は重い」と批判したほか、自著 (2013) で本事件について「沖縄の主要2紙(『琉球新報』『沖縄タイムス』)や婦人団体は米軍兵士が事件を起こすと大きく報道して厳罰を要求するが、この(無期懲役)判決については単純に客観報道で一切抗議しなかった。同種の事件でも犯人が米兵か否かで事件の扱いに差が出ている」と指摘している[16]。
なお名護市では1996年から年末年始に名護市立東江中学校出身の新成人らが銭ケ森の斜面に「光文字」を点灯する行事を行っているが、1997年(2回目)は本事件の被害者を追悼する「花」の文字が点灯された[30]。また、被害者Aの父親は「九州・沖縄犯罪被害者連絡会」(みどりの風)に所属し、同会により2016年・2019年にそれぞれ那覇市内で開催された「九州・沖縄犯罪被害者大会in沖縄」[注 21]の大会実行委員長を務めた[31][32]。
脚注
注釈
- ^ a b 拉致現場は被害者Aの自宅から約500 mの場所だった[10]。
- ^ a b 死体遺棄現場(国頭村楚洲の林道脇斜面)は県道から細い林道を約4 km登った地点に位置する[2]。同地には事件後、被害者Aの遺族・ボランティアにより観音像が建立された[2]。
- ^ 犯罪事件研究倶楽部 (2011) では「職場の社長の車」になっている[12]。
- ^ 事件直後の『読売新聞』では「19時ごろ」[4]。
- ^ 被害者Aとその友人は当時、自転車で帰宅しようとしていた[5]。
- ^ 殺害現場は拉致現場から約50 km離れた地点[4]。事件当時は「国頭村奥」と報道されたが[4][13]、判決では一・二審とも「国頭村楚洲の林道上」と認定されている[1][2]。
- ^ 2人は海辺で拾った紐を使い[4]、2人で被害者Aの首を絞めて殺害した[5]。
- ^ 冒頭陳述では「2被告人は遺体をガードレール越しに投げ捨てた」とされている[5]。
- ^ a b 事件直後の『琉球新報』によれば、加害者Yがワゴン車の発見を新聞で知ったのは1996年7月5日とされている[14]。
- ^ 2人は6月26日、(後に加害者Yが逮捕された)浦添市勢理客の公園で野宿したのを最後に別行動していた[14]。
- ^ 惠隆之介 (2013) は「県警は(本島北部で発生した)本事件は犯人が被害者を連れ、車で本島中部に南下するだろう」と推測して名護市内に非常線を張ったが、実際には被害者は拉致現場よりさらに北方の山中で殺害されていた」と述べている[16]。一方、事件当時の『琉球新報』は「特捜本部長・久高常良(当時・県警刑事部長)ら捜査幹部は『犯人が事件後、中南部(人目が多く、夕方の渋滞に巻き込まれやすい市街地方面)に逃走した可能性は低い』と話している」と報道した[10]。
- ^ 『琉球新報』は事件当時、「知事による捜索協力への呼び掛けは異例」と報じている[17]。
- ^ 1996年8月下旬に那覇からフェリーで鹿児島へ渡り、広島県・岡山県・香川県を転々とした[14]。
- ^ 遺体は事件当時に着ていたバレーボール部のユニフォーム姿で、遺留品は遺体発見現場から約800 m離れた林道付近で発見された[3]。
- ^ Xは同月5日に那覇地検へ送検された[13]。
- ^ このほか、被疑者Xは「被害者Aが逃げようとしたので、逃げないように紐を首に巻いていたら死亡した」と供述した[20]。
- ^ Yは那覇市内の港湾会社で数日間偽名を用いて働いていたほか、Xの逮捕・遺体発見をラジオで聞いて知った[14]。
- ^ 那覇地裁 (1998) は「Xは本事件についてポリグラフ検査を受けた際には『犯人であることが明らかにならないようにしよう』という姿勢で臨み、その後自白した。よって自発的な申告とは言えない」として自首の成立を認めなかった[1]。
- ^ 米軍基地の敷地内は日米地位協定により米国の排他的管理権が認められており、日本の警察はアメリカ合衆国側の同意がなければ立ち入ることができない[29]。この点も初動捜査の妨げになった[12]。
- ^ 本事件の前年(1995年)には沖縄米兵少女暴行事件が発生していた。
- ^ 2016年は第6回[31]、2019年は第8回[32]。
出典
(当事者の実名は本文中で使用されている仮名に置き換えている)
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参考文献
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- 惠隆之介『沖縄が中国になる日』(電子版)扶桑社、2013年3月19日。ISBN 978-4594067885。