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「淀殿」の版間の差分

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'''淀'''(15??年 - [[1615年]])は[[豊臣秀吉]]の側室。[[浅井長政]]とお市([[織田信長]]の妹)との間の長女として生まれる。幼名は茶々。
'''淀殿'''(1569年? - [[1615年]])は[[豊臣秀吉]]の側室。[[浅井長政]]とお市([[織田信長]]の妹)との間の長女として生まれ、妹に[[京極高次]]夫人(初)と[[徳川秀忠]]夫人([[於江与]])がいる。幼名は茶々。一般には'''淀君'''という呼び方が知られている


長政が信長に滅ぼされると、お市[[柴田勝家]]と再婚共に北の庄(現在の[[福井市]])に移る[[賤ヶ岳の戦い]]勝家が破れると母親は勝家とともに自害した。
[[1573年]]に父長政が信長に滅ぼされると、[[織田氏|織田家]]の保護下に入る。[[1583年]]、母お市[[柴田勝家]]と再婚すると、茶々は母とともに共に[[福井城|北の庄]](現在の[[福井市]])に移るが、[[1583年|翌年]]の[[賤ヶ岳の戦い]]勝家が破れると、お市は勝家とともに自害したが、茶々ら娘たちは逃がされて秀吉の保護を受けた。


のち、秀吉の側室となり1589年に鶴を生む。これを喜んだ秀吉淀城を彼女に与えたことから淀殿と呼ばれるようになる(「淀君」は江戸時代、豊臣を快く思わない徳川がつけと思われる蔑称である
のち、秀吉の側室となり、[[1589年]]に鶴を生み、これを喜んだ秀吉によって[[山城国]][[淀城]]を与えられ、淀殿あるいは淀の方と呼ばれるようになった。なお、「淀君」は[[江戸時代]]に広まっ呼び方である
しかし、鶴丸は[[1591年]]に死亡する。


[[1593年]]に[[豊臣秀頼]]を生み、秀吉の死後権を握った。
鶴丸は[[1591年]]に死亡するが、[[1593年]]に[[豊臣秀頼]]を生み、秀吉の死後、秀頼の後見人として[[豊臣氏|豊臣]]家政の実権を握った。[[関ヶ原の戦い]]に際しては表だって関与はしていないが、豊臣氏の直轄領は大幅に削減される


[[1615年]]大坂の落城の際に秀頼と共に自害。
のちに秀頼とともに[[徳川氏]]への臣従を拒否し、[[大坂の役]]で[[徳川家康]]に敗北。[[大坂城]]落城に際して秀頼と共に自害した

2003年10月28日 (火) 18:56時点における版

淀殿(1569年? - 1615年)は豊臣秀吉の側室。浅井長政とお市(織田信長の妹)との間の長女として生まれ、妹に京極高次夫人(初)と徳川秀忠夫人(於江与)がいる。幼名は茶々。一般には淀君という呼び方が知られている。

1573年に父長政が信長に滅ぼされると、織田家の保護下に入る。1583年、母お市が柴田勝家と再婚すると、茶々は母とともに共に北の庄(現在の福井市)に移るが、翌年賤ヶ岳の戦いに勝家が破れると、お市は勝家とともに自害したが、茶々ら娘たちは逃がされて秀吉の保護を受けた。

のち、秀吉の側室となり、1589年に鶴松を生み、これを喜んだ秀吉によって山城国淀城を与えられ、淀殿あるいは淀の方と呼ばれるようになった。なお、「淀君」は江戸時代に広まった呼び方である。

鶴丸は1591年に死亡するが、1593年豊臣秀頼を生み、秀吉の死後、秀頼の後見人として豊臣家政の実権を握った。関ヶ原の戦いに際しては表だって関与はしていないが、豊臣氏の直轄領は大幅に削減される。

のちに秀頼とともに徳川氏への臣従を拒否し、大坂の役徳川家康に敗北。大坂城落城に際して秀頼と共に自害した。