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『ジョイタ』 一部沈没し、左舷側に傾いている|-
経歴 (アメリカ合衆国)
名称: 『ジョイタ』(Joyita)
名称の由来: ジュウェル・カーメン(Jewel Carmen)[1]
所有者:
  • ローランド・ウェスト(Roland West)(1931年–1936年)[1]
  • ミルトン・E・ビーコン(Milton E. Beacon)(1936年–1941年)[2]
建造所: ウィルミントン・ボート・ワークス(Wilmington Boat Works)[1]
最後: 1941年10月アメリカ合衆国海軍により取得
経歴 (アメリカ合衆国)
名称: YP-108
船籍: アメリカ合衆国の旗 ハワイ州真珠湾
取得: 1941年10月[2]
就航: 1941年[2]
運航終了: 1948年[2]
最後: ルイス・ブラザーズ(Louis Brothers)に売却[2]
経歴
名称: 『ジョイタ』(Joyita)
所有者:
  • ルイス・ブラザーズ(Louis Brothers)(1948年–1950年)[3]
  • ウィリアム・タヴァレス(William Tavares)(1950年–1952年)[3]
  • ドクター・キャサリン・ルーマラ(Dr Katharine Luomala) (1952年–1955年)[3]
  • デヴィッド・シンプソン(David Simpson)(1956年–1960年代)[4]
  • ロビン・モーム(Robin Maugham)(1960年代–1966年)[4]
  • 大佐J・キャスリング=コットル(Major J. Casling-Cottle)(1966年–1970年代)[4]
最後: 1970年代にレブカ(Levuka)でBroke up
仕様諸元
種別 豪華ヨット、ヨット・チャーター、商船
トン数 70 GT (approximate)[5]
長さ: 69 ft (21 m)[1]
幅: 17 ft (5.2 m)[5]
喫水: 7 ft 6 in (2.29 m)[5]

ジョイタ(英:Joyita)は、1955年10月に南太平洋上で乗員乗客あわせて25人が不思議にも失踪した商船である。漂流しているのが発見されたとき誰も乗船していなかった。

船は非常に劣悪な状態にあり、腐食した複数のパイプと無線装置1つが機能していたが、配線不良のために約2マイル (3.2 km)しか範囲がなかった。しかしながら、船の極端な浮力のために、沈没はほとんど不可能になっていた。調査員らは、なぜ乗員が船に留まっていなかったのかその理由について困惑し、助力を待った。

特徴と船歴

建造

この69-フート (21.0 m)の木造船は1931年にロサンゼルスのウィルミントン・ボート・ワークス(Wilmington Boat Works)によって映画監督ローランド・ウェスト(Roland West)のために豪華ヨットとして建造されたが、彼は、妻の女優ジュエルカルメニール(Jewel Carmenille)のために名付けた――スペイン語で「小さな宝石」("little jewel")を意味する『joyita』と[1]。1936年に、この船は売却され、ミルトン・E・ビーコン(Milton E. Beacon)に登録された[2]。この期間中、この船はメキシコまで、そしてサンフランシスコの1939年 - 1940年のゴールデン・ゲート国際博覧会(Golden Gate International Expositionまで、南に何度も旅行した。この期間ちゅう、チェスター・ミルズ(Chester Mills)が船のスキッパーであった。

船体は、オークのフレームに、2-インチ (51 mm)厚のシーダーから成っていた。長さは69フィート0インチ (21.0 m)で、7フィート6インチ (2.3 m)のビーム、および7フィート6インチ (2.3 m)のドラフト(draft)であった。純トン数は47トンで、総トン数は約70トンであった。彼女には2,500 U.S. gallons (9,500 L)の水と3,000 U.S. gallons (11,400 L)のディーゼル燃料とのタンクがあった[5]

第二次世界大戦における合衆国の軍務

船の操舵室 1942年

1941年10月に、[[真珠湾攻撃]の直前に、『ジョイタ』はアメリカ合衆国海軍に買われ、ハワイの真珠湾に運ばれ、そこでヤード・パトロール・ボートYP-108(Yard patrol boat YP-108)として艤装された。海軍は第二次世界大戦終結までハワイ島をパトロールするのに使用した。

1943年に座礁し、大きな損傷を受けたが、しかし海軍は船舶を必要としていたために修理された。この時点で、新しい配管は銅や真鍮ではなく亜鉛引きの鉄で作られた。1946年に、船は海軍の要件には過剰で、ほとんどの装備が撤去された[2]

プライベートな購入

1948年に、『ジョイタ』はルイス・ブラザーズの会社(firm of Louis Brothers)に売られた。この時点で、コルクのライニングが冷蔵装備とともに船体に追加された[2]。船には225馬力 (168 kW)のグレー・マリン・モーター会社(Gray Marine Motor Company)のディーゼル・エンジン2基と、発電機用の追加のディーゼルエンジン2基があった[3]。1950年にウィリアム・タヴァレス(William Tavares)が所有者になった。しかしながら、彼はこの船をほとんど使用せず、1952年にハワイ大学教授ドクタ・キャサリン・ルオマラ(Dr Katharine Luomala)に売った[3]。彼女は船を友人キャプテン・トーマス・H・「ダスティ」・ミラー(Captain Thomas H. "Dusty" Miller)という、サモアに住んでいるイギリス生まれの船員にチャーターした。ミラーは、この船を貿易兼漁業チャーター・ボート(a trading and fishing charter boat)として使用した。

失踪

計画航路と『ジョイタ』発見海域

1955年10月3日午前5時ころ、『ジョイタ』は、サモアのアピア港を、約270マイル (430 km)離れたトケラウ諸島に向かって出発した。ボートは前日の真昼に出発する予定であったが、しかしポート・エンジン・クラッチが故障したために、出発が遅れた。『ジョイタ』は最終的にはエンジン1つでサモアを発った。彼女は乗員16人と乗客9人を運んでいたが、そのなかには、政府職員1人、医師1人(アルフレッド・「アンディ」・デニス・パーソンズ(Alfred "Andy" Denis Parsons)、切断手術を行うために行く途上の第2次世界大戦の外科医)、コプラ・バイヤー1人、子供2人を含んでいた。貨物は、医療用品、木材、からの45ガロン(200リットル)のドラム缶80本、さまざまな食料品で構成されていた[6]

航海は41ないし48時間かかると予想されていた。船はコプラの貨物とともに戻る予定であった。『ジョイタ』は、10月5日にトケラウ諸島に到着する予定であった。10月6日に、ファカオフォ(Fakaofo)港からのメッセージが、船が遅れていることを報告した。乗組員から遭難信号の受信を報告した船または陸上のオペレーターは、なかった。捜索および救助のミッションが開始され、10月6日から12日まで、ニュージーランド空軍(Royal New Zealand Air Force)のショート・サンダー(Short Sunder)は、ほぼ100,000平方マイル (260,000 km2)の、可能性のある海域をカバーしたが、しかし『ジョイタ』またはその乗客または乗組員の兆しは見つからなかった。

5週間後の11月10日、スバ(Suva)からフナフティ(Funafuti)に向かう途中の商船『Tuvalu』の船長ジェラルド・ダグラス(Gerald Douglas)は、ジョイタが予定航路の600マイル (970 km)超西の、バヌア・レブ(Vanua Levu)北方を漂流しているのを目撃した[7]。船は一部水没し、重く傾き(ポート・デッキ・レールは海面すれすれになっていた)、乗客や乗組員の痕跡はなかった。4トンの貨物も失われていた。回復隊は、ラジオが2182kHzという国際海洋無線電話遭難チャンネル(international marine radiotelephone distress channel)に同調して発見されたことに気づいた。

難破船 左舷側から見る
  • 左舷側でのフジツボの通常の喫水線(usual waterline)よりも高い成長は、『ジョイタ』がかなりの期間、重く傾いていたことを示した。
  • 上部構造にいくらかの損傷があった。フライング・ブリッジは破壊されていたし、デッキハウスには小さな損傷と複数の窓の割れがあった。キャンバスの天幕は、ブリッジの後方のデッキハウスに装備されていた。
  • 『ジョイタ』はディンギー(dinghy)と3つのカーリー・救命筏(Carley liferafts)[3]を運んでいたが、すべて失われていた。船には船内の全員に十分な救命胴衣を持っていなかった[7]
  • 右舷エンジンはマットレスで覆われていることがわかった一方で、左舷エンジンのクラッチはまだ部分的に分解されており、船が1台のエンジンでのみ動作していることがわかった。
  • 補助ポンプがエンジン室に装備され、複数のメインエンジンの間に吊るされた木の板に取り付けられていました。しかしながら連結されていなかった。
  • 船内の無線は国際的な遭難チャンネルに合わせられていたが、機器の検査時に、セットとアンテナの間のケーブルに破損が見つかった。ケーブルは塗られていて、破損をぼやかしていた。これにより、無線の範囲が約2マイル (3.2 km)に制限されるだろう。
  • 船内の電気時計(船舶の発電機に配線されている)が10時25分に停止し、キャビンの照明とナビゲーションライトのスイッチがオンで、これは起ったことが何であれ夜に起ったことを意味した。船の航海日誌、六分儀、機械的クロノメーターおよびその他の航海機器、ならびにミラーがボートに保持した銃器のみならず、[7]失われていた。
  • 聴診器、メス、および4挺身の、血に染まった包帯を含む、医師かばんが甲板で見つかった。

『ジョイタ』の複数のタンクにはまだ燃料があった。使用量からは、船が放棄される前に、トケラウの243マイル (391 km)、もしかしたら50マイル (80 km)以内、おこなったと計算された。漏れは、航海の2日目の夜、9時間の暗闇を前に、もしかしたら午後9時以降に始まっていたかもしれない[7]

『ジョイタ』は彼女のビルジと下甲板が浸水した状態で見つかったけれども、船体は健全だった。彼女がスバの港に係留されたとき、調査員らは船に入ってくる水の音が聞こえた。エンジンの冷却システムの原水回路にあるパイプ1つがガルバニック腐食により故障していて、ビルジに水が入ることが判明した。乗組員が漏れについて最初に知っていたであろうのは、水がエンジンルームの床板より上に上がったときで、そのときまでに漏れを突きとめることはほとんど不可能であったろう。また、ビルジポンプにはストレーナーが取り付けられておらず、破片で詰まっていて、これは水をポンプで排出することが非常に困難であったろうという意味だった。

海事調査

その後の調査で、船舶の修理状態が悪いことがわかったが、しかし乗員乗客の運命は「調査で提出された証拠では説明できない」("inexplicable on the evidence submitted at the inquiry.")と判断された。特に困惑した点は、『ジョイタ』が運んだ3つの救命筏が失われていることであったが、しかし乗員乗客が自発的に船を放棄するならば意味をなさないだろう。冷凍貨物を運ぶために装備された『ジョイタ』は、船倉の裏をつけている640立方フィート (18 m3)のコルク・ライニングがあり、事実上、不沈化されていた。さらに、からの燃料ドラムの貨物によってさらなる浮力が提供されていた。

調査は、船舶が浸水しつつある理由のみを立証し得た。破損した冷却管のために船が浸水し始めていたであろうことがわかった。ビルジ・ポンプはブロックされたため、使用できなかった。『ジョイタ』には、ビルジに水密隔壁または区画を欠いていた。水は複数の低いデッキにじょじょに浸水していたであろう。ボートが水面下に沈み始めたとき、残り1つのエンジンは航行するに足る速度を維持し得なかったであろう。『ジョイタ』はそのときビーム-オンで重いうねりに落ち、それが見つかった重いリストを獲得した。『ジョイタ』は通常の船を沈める程度まで浸水したいっぽうで、コルクで覆われた船体と燃料ドラムの積荷のために浮いたままだった。

調査はまた、キャプテン・ミラーに事件に対する多くの責任を負わせた。彼らは、海洋に出航したことについて彼は無謀だと考えた―たった1つのエンジン、多数の軽微な障害があって、機能している無線または適切に装備された救命ボートを備えないままに。彼はまた、海事法にも違反していたが、それは『ジョイタ』のライセンスを払って運賃を支払っている乗客らを失効させていたためである

調査は、船上で見つかった使用済みの医療機器については言及しなかった[8]

仮説

『ジョイタ』は「南太平洋の『メアリー・セレスト』」("Mary Celeste of the South Pacific")と呼ばれることもときどきあり、いくつかの本やドキュメンタリーの主題であって、合理的で慣習的から超自然的で超常現象的にいたる範囲の説明を提供している。『ジョイタ』の乗員乗客の失踪に関する、無数の仮説が提出された。多くは事件の時に出回ったし、またいくつかの他のものはそれ以来、提出された。『ジョイタ』の船体は健全であり、そのデザインが彼女をほとんど沈まないようにしたという事実を考えると、調査員らの主な関心は、もし事件が単に機関室の浸水で引き起こされた場合に乗客と乗組員が船に留まっていない理由を決定することであった。

船長負傷説

キャプテン・ミラーは、浮かんでいる船舶の能力を十分に知っていたはずであり、一部はミラーが何らかの理由で死亡したか無力になったと推測するようになった(船内の誰かが負傷した――それで血で汚れた包帯ができた)。『ジョイタ』が浸水を起こし、救命いかだをとったとき、彼が船上の他の人々を安心させることなく、彼らはパニックに陥ったかもしれない。しかしながら、これ自体では、船が放棄され、貨物が取り外された場合を除き、失われている貨物と装備を説明できないだろう。

ミラーの友人キャプテン・S・B・ブラウン(Captain S. B. Brown)は、ミラーの構造に関する知識を考えれば、ミラーがけっして『ジョイタ』を生きたままにしてはならないと確信していた。彼は、ミラーとアメリカ人の一等航海士チャック・シンプソン(Chuck Simpson)との間の緊張関係を知っていた。ブラウンは、ミラーとシンプソンの互いに対する嫌悪感が吹き飛ばされ、両方の男性が船外に転落したか、格闘で重傷を負ったと感じた。これにより、経験豊富な船員がいなくなり、船が浸水し始めたときに船上に残っている人々がパニックに陥る理由が説明がつくであろう。

日本国の関与その他説

ファイル:Joyita crew killed by japs.jpg
「ジョイタ乗員乗客をジャップどもが殺害」 日本国を非難している新聞の見出し

フィジーの『Times and Herald』はそのとき、「非の打ちどころのない情報源」("impeccable source")から、『ジョイタ』が、旅行中に日本の漁船団のなかを通過し、「何か日本人が彼らに見てもらいたくないものを観察した」という趣旨の、引用をした 英語版[要出典]

ロンドンの『The Daily Telegraph』は、いち離島基地で軍事行動をとっている、第二次世界大戦からの一部のまだ活動中の日本軍が、失踪の責任を負う、と仮定した。英語版[要出典] 太平洋の一部にはまだ強い反日感情があったし、フィジーでは日本が地元水域で漁船団を操業することを許可されているという特定の恨みがあった。

こういう諸説は、『ジョイタ』をクリアしている男らが「Made in Japan」と刻印された複数のナイフを見つけたとき、突然、信用を得た。しかしながら、それらナイフの試験は否定的であることが判明し、それらナイフは古くて壊れていたことが判明した――ひょっとしたら1940年代後半に『ジョイタ』が漁業に利用されたときから残っていた可能性がかなりある。

また、「船の占有者らは、ソビエトの潜水艦に誘拐され、当時、世界は強まる冷戦の真っただ中にあった」("the vessel's occupants were kidnapped by a Soviet submarine, with the world at the time in the midst of the growing Cold War")という説があった[7]

またある人々[誰?]は、現代の海の海賊が船を攻撃し、乗員乗客25人を殺し(遺体を海に投げ)、失われている4トンの貨物を盗んだと仮定している。英語版[要出典]

保険詐欺説

ミラーが『ジョイタ』での一連の不成功な漁ののち、多額の借金をかかえていたことも明らかになった。 英語版[要出典] しかしながら、シーコック(seacock)が開いていないのが判り、船は急走しようとしてもほとんど不可能であったと仮定すると、たとえ『ジョイタ』を取り巻く出来事を保険詐欺と見ても困難であったろう。また、ミラーは、サモアとトケラウとの間の定期運行のためにチャーターされている『ジョイタ』に依存していた――これらの政府のチャーターは、彼の借金をすぐに完済したであろう。

暴動説

その後の『ジョイタ』の所有者、イギリスの作家ロビン・モーム(Robin Maugham)は、船の過去の調査に何年も費やし、1962年に『The Joyita Mystery』に自分の発見を発表した。モームは、破損した冷却パイプとポンプの故障からの浸水で事件が始まったことに賛成した。右舷のエンジンを覆っていると判ったマットレスは、漏れをふさぐように、または水位が上昇したときにエンジンのフライホイールによってけたてられたスプレーから電気配電盤を保護するように使用された。同時に、『ジョイタ』はますます激しいうねりとスコールの天候に遭遇した。

キャプテン・ミラーは、『ジョイタ』が不沈で、借金を完済するために目的地に着くのに必死だと知っており、押し続けた。しかしながら、チャック・シンプソンは、そしてことによると他の乗組員も、彼に引き返すことを要求した。これが事実上、暴動につながり、ミラーと乗員は組み打ちし、その間にミラーは重傷を負った。そのときはもう、船は、約40マイル毎時 (64 km/h)の風の荒天のなかにはいりつつあり、エンジン1基と浸水したビルジで労働を始めつつあった。エンジン室の浸水により、最終的には右舷エンジンが故障したであろうし、船の電力もすべて止まった。チャック・シンプソンはいまや管理下にあり、負傷したミラーのみならず、航海用機器、航海日誌、そして補給品、船を放棄する決定を下した。

チャック・シンプソンが、浸水しているしかし浮いている船を放棄し、太平洋の小さな開いたそれらいかだに連れて行くことを選択するであろうことはまだありそうにないようにおもわれる。モームは、彼らが近くの島または礁を目撃し、そこに到達しようとすることを提案したが、しかし強風と海では、それらいかだが海に運ばれ、『ジョイタ』が漂流してからになった。軽く造られた上部構造への損傷は、船が荒海を漂流している間に波の損傷によって引き起こされた。

1955年以降の『ジョイタ』

1956年7月に、『ジョイタ』はオーナーから2,425ポンドでフィジーの島民デヴィッド・シンプソン(David Simpson)に競売された。彼は修理し、オーバーホールし、船はその年に再び海に出た。しかしながら、合衆国からイギリスへの登録の無許可の移転をめぐる法的紛争に取り囲まれた。1957年1月に、コロ海(Koro Sea)で乗客13人を乗せて座礁した。修理され、1958年10月にレブカ(Levuka)とスバ(Suva)の間で定期的な貿易を開始した。

船は1959年11月、レブカ(Levuka)近くのバツバル(Vatuvalu)で再びサンゴ礁で座礁した[4]。船は満潮に助けられてサンゴ礁から浮かび離れたが、しかし港に向かう間、裂け目から水を取り入れ始めた。ポンプは始動したが、しかしポンプのバルブが間違った方向に取り付けられていたことが明らかになった。つまり、水は船外に出ずに船体に注入されたということである。いまや、船は、「不運な船」('unlucky ship')としての評判と船体の損傷により、船は所有者らに見捨てられ、浜に打ち上げられた。

有用な装備を剥奪され、事実上、船体(hulk)であって、そのとき船はロビン・モーム(Robin Maugham)に買収され、モームは書物『The Joyita Mystery』(1962年)を書いた。彼は1966年に船体を少佐J.キャスリング=コットル(Major J. Casling-Cottle) に売ったが、少佐はレブカで旅行広告会社を経営していた。少佐はそれを博物館兼ティールームに変える計画であったが、しかし計画は日の目を見なかった。船体は破片ごとに消えていき、崩壊の過程は1970年代後半までに完了したようにみえる[4]

1975年3月14日に、西サモア郵便当局は、『ジョイタ』の謎を扱う切手5枚のセットを発売した[9]

2009年に、ある歩道が、ニュージーランドオークランドの以前のトーベイ(Torbay)の家の近くにあるドクタ・アルフレッド・デニス・パーソンズ(Dr Alfred Dennis Parsons)にちなんで命名された[10][11]

2012年に、サモアのアピアに、そしてトケラウのファカオフォ(Fakaofo)村に、この出来事を記念して記念碑が2つ建てられた[6][12][13]

乗員と乗客

2012年の時点でなお、乗船していた者は全員「行方不明」("missing")と宣言されていた[6]

乗員(16名) [4][14]
名前 地位 年齢
MILLER Thomas Henry (Dusty) 船長 41 イギリス
SIMPSON Charles R. (Chuck) 航海士 28 合衆国
TEEWEKA Tekokaa (Tekolo) 甲板長 25 キリバツ
TANINI Aberaam Tanini 技師 24 キリバツ
McCARTHY Henry jr. 技師 27 サモア
PEDRO Penaia Kolio 海員 22 トケラウ
FARAIMO Ihaia Kitiona 海員 24 トケラウ
LEPAIO Tagifano Latafoti 海員 27 トケラウ(アタフ)
HIMONA Haipele Fihaga 海員 28 トケラウ(アタフ)
APETE Ioakimi Iapeha 海員 23 トケラウ(ファカオフォ)
MOHE Himeti Falaniko 海員 31 トケラウ(ファカオフォ)
ELEKANA Tuhaga Hila Greaser 26 トケラウ(ファカオフォ)
KOLO Leota Telepu Greaser 24 トケラウ(アタフ)
PELETI Mohe Maota 料理人 24 トケラウ(ファカオフォ)
WALLWORK James William 船荷監督人 44 西サモア
WILLIAMS George Kendall[15] 船荷監督人 66 ニュージーランド
薬剤師 Bert Hodgkinson ニュージーランド
Passengers [4][14]
名前 職業 年齢
FAIVA Liua Noama Rosaiti 3 トケラウ・ラパナ(Tokelau Lapana)の養女
HODGKINSON Herbert T. (Bert) 調剤師 49 ニュージーランド アピア病院(Apia hospital)から
LAPANA Takama 調剤師 51 ファカオフォの病院から
LAPANA Tokelau 40 (ファカオフォ)テカイ(Tekai) Takamaの妻
PARSONS Alfred Dennis (Andy) 外科医 41 アイルランド アピアの病院から[Note 1]
PEARLESS Roger Derrick (Pete) 地区幹部船員(District Officer) 30 ニュージーランド
PEREIRA Joseph Hipili 無線技士 22 トケラウ(ファカオフォ)
TALAMA Founuku Uluola 11 トケラウ・ラパナ(Tokelau Lapana)の養息子
TEOFILO Tomoniko 30 トケラウ(ファカオフォ)

Note:

  1. ^ Alfred Denis Parsons - Date of Death 03/10/1955, Granted on 19/06/1961 - State Records NSW”. nsw.gov.au. 30 October 2014時点のオリジナルよりアーカイブ。13 March 2015閲覧。 Archive.org

脚注

注釈

  1. ^ a b c d e David Wright: "Joyita: Solving the mystery" pages 1&3.
  2. ^ a b c d e f g h David Wright: "Joyita: Solving the mystery" p. 4.
  3. ^ a b c d e f David Wright: "Joyita: Solving the mystery" p. 5.
  4. ^ a b c d e f g David G. Wright (2013). Joyita: Solving the Mystery. Auckland University Press. pp. vii–x; xii–xvi; 1–9; 14–17; 32; 91–92; 121; 123–124. ISBN 978-1-86940-725-4. https://books.google.com/books?id=RUReAwAAQBAJ 
  5. ^ a b c d e David Wright: "Joyita: Solving the mystery" p. 2.
  6. ^ a b c Joyita tragedy remembered ‹ Savali News”. savalinews.com (11 March 2012). 13 March 2015閲覧。
  7. ^ a b c d e Author says he's solved MV Joyita mystery, 47 years later”. nzherald (March 29, 2002). 15 March 2018閲覧。
  8. ^ New Zealand. Commission to Inquire into the Casualty to the Motor Vessel Joyita; Marsack, C. C (1956), Report, Govt. Printer, http://trove.nla.gov.au/work/34411816 3 September 2013閲覧。 
  9. ^ shipstamps.co.uk • View topic – Joyita”. shipstamps.co.uk. 13 March 2015閲覧。
  10. ^ Doctor lost at sea given permanent memorial”. The New Zealand Herald. 13 March 2015閲覧。
  11. ^ Parsons Walkway Torbay, Auckland 0630 NZ – Google Maps”. google.fi. 13 March 2015閲覧。
  12. ^ Apia service. Taken in Apia, Samoa Facebook photos
  13. ^ Tokelau service — in Fakaofo Village, Tokelau. Facebook photos
  14. ^ a b Remembering the MV Joyita's Photos – Remembering the MV Joyita – Facebook”. facebook.com. 13 March 2015閲覧。
  15. ^ George Albert Kendall Williams (b. 17 Jul 1890, d. Oct 1955)

文献目録

  • John Harris (1981) Without Trace: the Last Voyages of Eight Ships. London: Methuen ISBN 0-7493-0043-4(英語)
  • Robin Maugham (1962) The Joyita Mystery. London: Max Parrish & Co ISBN 0-906754-59-3(英語)
  • Stephen Noakes (1965) "The Marie Céleste [sic] of the South Pacific (Joyita)", in: Wide World Magazine, January 1965
  • John Pinkney, World's Greatest Mysteries. Five Mile Press ISBN 978-1-74211-664-8(英語)
  • David G. Wright (2002) Joyita: Solving the Mystery. Auckland: Auckland University Press ISBN 1-86940-270-7(英語)

外部リンク