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「パンダ (フランス語)」の版間の差分

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 ちなみに英・米語のパンダでみると、1799年から使われ始め1920年代以降急カーブで上昇していることが分かる。これもやはりフランス語の動物名パンダが発表された影響はほとんどなく、ロンドン動物園にジャイアントパンダが来園する(1938年)ことなどの影響である。
 ちなみに英・米語のパンダでみると、1799年から使われ始め1920年代以降急カーブで上昇していることが分かる。これもやはりフランス語の動物名パンダが発表された影響はほとんどなく、ロンドン動物園にジャイアントパンダが来園する(1938年)ことなどの影響である。


'''*2''':昭和天皇は昭和7年から名誉会員であり、上皇 明仁も昭和55年に50名限定の外国会員に昭和61年には名誉会員になる、そんな世界で最も古い学会であり、命名法の起点でもある[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]の名を冠したロンドン・リンネ協会発行のジャーナルであることから編集者は命名権がないと判断した<ref>{{Cite book|title=国際生物学賞|date=|year=|publisher=独立行政法人日本学術振興会}}</ref>。当時は動物命名法に国際的に統一された基準がなかったため、近年でもレッサーパンダの発見は1821年とされるようにハードウィックの命名が公表されていた場合フランス語の動物名パンダと学名Ailurus fulgensはイギリス人のハードウィックの付けた一般名や学名と置き換わっていた可能性は否定できない<ref>{{Cite journal|author=佐藤 淳, Wolsan Mieczyslaw|year=2012|title=レッサーパンダ(Ailurus fulgens)の進化的由来|journal=哺乳類科学|volume=52|page=23-40}}</ref>。ちなみに、足の裏に毛が生えていることからMallo(羊毛)とponus(足)を合わせたMalloponusと名づけられたようだ<ref name=":6" />。
'''*2''':世界で最も古い学会であり、命名法の起点でもある[[カール・フォン・リンネ|リンネ]]の名を冠したロンドン・リンネ協会発行のジャーナルであることから編集者は命名権がないと判断した<ref>{{Cite book|title=国際生物学賞|date=|year=|publisher=独立行政法人日本学術振興会}}</ref>。当時は動物命名法に国際的に統一された基準がなかったため、近年でもレッサーパンダの発見は1821年とされるようにハードウィックの命名が公表されていた場合フランス語の動物名パンダと学名Ailurus fulgensはイギリス人のハードウィックの付けた一般名や学名と置き換わっていた可能性は否定できない<ref>{{Cite journal|author=佐藤 淳, Wolsan Mieczyslaw|year=2012|title=レッサーパンダ(Ailurus fulgens)の進化的由来|journal=哺乳類科学|volume=52|page=23-40}}</ref>。ちなみに、足の裏に毛が生えていることからMallo(羊毛)とponus(足)を合わせたMalloponusと名づけられたようだ<ref name=":6" />。


'''*3''':ハードウィックは鳴き声から現地ではNega-lea Chitwa や Wahと呼ばれる動物であると1821年の手紙に書いているが、パンダの命名者フレデリック・キュヴィエや標本を受け取ったジョルジュ・キュヴィエはおろか、ピエール・ディアール、アルフレッド・デュヴォセル、ウォーリッチを含め「パンダ」の呼び名についての記録はない<ref name=":6" />。一方、1825年にフレデリック・キュヴィエがパンダの命名をした情報は直ちにインドにも伝わり、アジア協会東洋博物館のウォーリッチなどの西洋人収集家から現地の口利きや猟師などを通じてフランス語の動物名「パンダ」の名は知れ渡った<ref name=":3" />。以前捕まえた竹林に住む動物は、フランス語でパンダと言う珍しい動物だということで、nigálya(ヒマラヤ竹:nigalo)のpanda「Nigálya pónya」として1820年代末にはネパールでの呼び名が一つ増えた。
'''*3''':ハードウィックは鳴き声から現地ではNega-lea Chitwa や Wahと呼ばれる動物であると1821年の手紙に書いているが、パンダの命名者フレデリック・キュヴィエや標本を受け取ったジョルジュ・キュヴィエはおろか、ピエール・ディアール、アルフレッド・デュヴォセル、ウォーリッチを含め「パンダ」の呼び名についての記録はない<ref name=":6" />。一方、1825年にフレデリック・キュヴィエがパンダの命名をした情報は直ちにインドにも伝わり、アジア協会東洋博物館のウォーリッチなどの西洋人収集家から現地の口利きや猟師などを通じてフランス語の動物名「パンダ」の名は知れ渡った<ref name=":3" />。以前捕まえた竹林に住む動物は、フランス語でパンダと言う珍しい動物だということで、nigálya(ヒマラヤ竹:nigalo)のpanda「Nigálya pónya」として1820年代末にはネパールでの呼び名が一つ増えた。

2020年1月18日 (土) 12:39時点における版

Panda(パンダ)は、現在日本でレッサーパンダと呼ばれる動物のフランス語の名称である。1825年6月に初めて使用された[1]

本項では、フランス語でパンダと名付けられた沿革について述べる。

沿革

「パンダ」はフレデリック・キュヴィエが、デュヴォセルから送られてきた東インド諸島原産の動物名として1825年6月の論文で使用した[1]

シンタイプ標本(顎と四肢端)

この動物は、東インド諸島原産だがこれらの国のどの地域に属するのか分からない。デュヴォセルによって送られてきた亡くなる前の最後の発見の一つであるとし、毛皮と腐敗の進んだ四肢部並びにあごの部分をもとに新属新種として名付けられ、四肢端骨と顎骨は後年の本で図示されている[2]

フレデリック・キュヴィエの報告したのと同じ動物の名を、ジョルジュ・キュヴィエはLe Panda éclatant (Ailurus refulgens)とし、私たちが知る最も美しい動物の一つであると紹介した[3]

ハードウィックは「ネパールと雪山の間のヒマラヤに住む哺乳類」と題する1821年2月5日付の手紙と共に,水彩画1枚とクロテン(Zibellina of Linneus)と判断する動物の標本をリンネ協会に送った[4]。この手紙は1821年11月6日に同協会で読まれた。

リンネ協会のハードウィック寄贈資料を基に描かれたウィリアム・ジャーディンの絵も、初期の版ではクロテンのようにみえる[5]

ハードウィックは1825年になり、フランス語のパンダという動物は自身がクロテンと思っていた上記の動物ではないかと思いなおし、Malloponusをタイトルに世話になったナサニエル・ウォーリッチへ献名したMalloponus wallichiiの学名をつけて「ヒマラヤから見つかった新しい哺乳類について」と題する論文を投稿した。しかし、命名権はないと編集者に判断されその動物の特徴のみを紹介する記事が刊行された[6]*2

1826年2月28日のリンネ協会の動物クラブにおいてホースフィールドは、ハードウィックが同協会に寄贈した上記ネパール産の標本を用いて、1825年にフレデリック・キュヴィエの報告したフランス語名パンダ、学名Ailurus fulgens(論文は1825年10月に英文要約済み)を一般向けに説明した[7][8]

ハードウィック寄贈資料由来 (ナチュラリスト・ライブラリー1842より)


名の由来

フレデリック・キュヴィエは命名に関する記述をまったくしていない[1]

ハードウィックは1821年2月5日付の手紙で、ネパールではNega-lea Chitwa と Wahの名で知られていると書いている[6].

英国のネパール駐在公使だった民族学者のホジソンは、1847年に「ヒマラヤ近隣にすむネコ足の植物食動物」と題する論文でネパールやチベット,シッキム州ではWáh,Oá,U’któnka,Saknam,Thóngwáh,Thó-kyé,Yé,Nigálya pónyaの名で知られている新しい動物Nepalese Ailurus(学名Ailurus Ochraceus)を報告した[9]

フランス語の動物名パンダは、フレデリック・キュヴィエの論文を紹介する英字誌で使われたものの、20世紀になるまでパンダという動物名はフランス語でありつづけ、英語の論文にはほとんど使用されなかった[7][10][11]。これは当時の博物学が英仏で競い合っていたことのほか、デュヴォセルとまったく接点のないホジソンがイギリス人のハードウイックとフランス人のフレデリック・キュヴィエの間で、微妙な調整があったように疑わせたことも影響している[9]

パンダの語源

フランス人でクリプトズォーロジー(未確認動物学)の始祖といわれるユーヴェルマンスは、『未知の動物を求めて』(初版1955年)でフランス語の動物名パンダは竹を食べるもの(Nyala ponga竹熊)のなまったものと書き、英訳本がベストセラーとなったことからパンダ「竹を食べるもの」由来説は一般的なものとなった[12]

しかし実際は逆で、フランス語の動物名パンダ(panda)の呼び名が駐在員などを通じてインド北部ネパールの狩人へも伝わり、鳴き声からWahなどと呼んでいたものを正式な呼び名(フランス語の動物名パンダ)と呼ぼうとしたのがなまって Nigálya pónyaと呼ばれるようになった*3

フレデリック・キュヴィエの兄ジョルジュ・キュヴィエは、パンダという動物はインド北部の山由来としており、カシミールからネパールにかけて存在した古代都市パンダからの動物を示唆している[3]*4。同時に、デュヴォセルの最後の発見の一つであり、帰国途中で死亡した継子(結婚した未亡人の連れ子)に代わってパリに来た動物でもあった。つまり、インドでの過酷な探検を行なったジョルジュ・キュヴィエの愛弟子ピエール・ディアールP.)と()最愛の継子アルフレッド・デュヴォセルA.)の命をかけた活動により、ヒマラヤにかつてあった古代パンダ(PANDA)王国からフランスへ贈られてきた動物が「パンダ(PANDA)」である。

学名に関しては、下記のように不明な点も多い。

フレデリック・キュヴィエは、記載論文でネコでないのにネコを表すAilurusの学名を付けたことでクレームを受けることになるが、それを気にしたのか後年一般名をアイルレス(Les AILURES)とした。一方、ジョフロワ・サンティレールはパラスの動物分類法をジョルジュ・キュヴィエが称賛したこともあってか、マヌルネコFELIS Manul)で行ったような現地の呼び名を種小名として使用する学名のつけ方を踏襲し、パンダを現地の呼び名と勘違いしたように学名をAILURE Pandaとした[13][14]。現在はどちらの名も使われていない。

記載論文

口蓋形態からタイプ標本産地はヒマラヤと判断可能

『哺乳類の自然史』の第50分冊としてアヌビスヒヒなどとともに発行された「パンダ(PANDA.)」では、最初にこの動物は東インド諸島原産だがこれらの国のどの地域に属するのか分からない、デュヴォセルによって送られてきた亡くなる前の最後の発見の一つであると書かれている。似たような種類しか発見されない哺乳類の中で稀な新しいタイプの動物であり、まだ全体像はわからないがここに毛皮と四肢部並びにあごの部分があるとし、歯の説明がアライグマなどと比較しながら特徴が書かれ、パンダ類に特徴的な大きな大臼歯にも注目している。その後腐敗の進んだ四肢で半分出し入れできる爪と毛の生えた足底部について述べるが、生きた動物を入手しておらず、動物の特徴を知らせてくれなかったと書かれている。最後に毛皮の模様と色に注目してその特徴を説明し、ジャコウネコとクマの間に位置する動物だろうと書いたのち、「このPandaの属名をAilurus (猫に外見が似ているため),種名をFulgens(色の鮮やかさから)とすることを提唱する」と締めくくられている。

記載論文には、Le Panda éclatant、Ailurus refulgens、私たちが知る最も美しい動物の一つであるなどとは一言も書かれていない。後年、ジョルジュ・キュヴィエの書いたものとフレデリック・キュヴィエの書いたものとを混同した間違いである[3]

<フレデリック・キュヴィエGeorges Frédéric Cuvier(通称Frédéric Cuvier)とジョルジュ・キュヴィエ(バロン・キュヴィエ)Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert CuvierまたはJean Léopold Nicolas Frédéric Baron Cuvier(通称Georges Cuvier)は、どちらにもGeorgesFrédéricCuvierの名が含まれ,前者をG.F.Cuvier、後者をG.Cuvierと略すこともあり間違えやすい>

タイプ標本

フランス語の動物名パンダの基となった、フレデリック・キュヴィエが調べた標本はいわゆるシンタイプ標本である。

一つはウォーリッチによって1825年にカルカッタからデレパート氏に送られ、国立自然史博物館に寄贈されたもの。もう一つは、1825年3月にベンガルからデュヴォセルに送られ、フランクフルトの博物館と交換されたものである。

記載論文に説明が書かれている「毛皮と四肢部並びにあごの部分」以外に付帯資料は存在していない。

パンダ・クマ

ジャイアントパンダAiluropoda melanoleucaは、現在フランス語名を「パンダ・クマ(Ours panda)」とされる[15]

「中国の旅」と題するアルマン・ダヴィドの日記を紹介する記事の中で、アルフォンス・ミルヌ=エドワールが受け取った1869年3月21日付のアルマン・ダヴィドからの手紙を紹介した[16]。「私の標本はすぐにはパリに到着することができないので、あなたに科学的に新しい熊に関する以下の要約説明をすぐに公開するようお願いする。」と書かれた手紙に続きアルマン・ダヴィドが書いた「白黒のクマUrsus melanoleucus」と題する資料が紹介がされている。そこには前日に受け取ったという若齢個体を含め以前入手していたものを含めた毛皮の特徴(白黒模様)が記載され、署名日以降の4月4日には生きたメスを手に入れたことも書かれていた[17]。これがフランス語名「パンダ・クマ(別名Panda géant)」ジャイアントパンダAiluropoda melanoleucaの記載論文となった。

実際の標本(タイプ標本3点)は1870年になって博物館に到着する。同年イギリスではフラワーが詳細に(レッサー)パンダを調べた結果を報告するが、アルフォンス・ミルヌ=エドワールは、アルマン・ダヴィドが一緒には送ってきた(レッサー)パンダと比較することで、白黒のクマUrsus melanoleucusはクマというよりも(レッサー)パンダに特徴が似ていると判断した[18]。(レッサー)パンダに似た足ということで,Ailurusに足を意味するラテン語をつけ加えるためAILUREに尾語-podaか-pusをつけた属名としてAiluropodaまたはAiluropusとした[19][20][21][22]。この判断により、「パンダ」の名は単なるフランス語の種名から格上げされてパンダ科(Ailuridae)となり、そこにはジャイアントパンダとレッサーパンダが所属することになった*5

この時初めて「パンダの親指」と呼ばれることになる橈側種子骨の存在が確認された[18]。「パンダの親指」は、スティーヴン・ジェイ・グールドがセンセーショナルに発表したように機能することなく、ジャイアントパンダでは単なる突起で第一中手骨に固定されている[23]。一方、フランス語で最初にパンダと呼ばれることになったレッサーパンダでは、歩行、樹上生活、摂餌などで橈側種子骨が機能しており、屈曲した手首を伸展することで長母指外転筋の働きにより橈側種子骨が外転し、短母指屈筋と母指対立筋が支える形となり掌面への突起となる。そのことで、歩行時に接地面積を広げ、樹から降りるときはストッパーの役割をしまっすぐ降りることが可能となり、摂餌ではものをつかむ形となる[24]

最初にパンダと呼ばれることになったレッサーパンダの橈側種子骨は、短母指伸筋腱並びに長母指外転筋腱といった2つ腱内に形成される骨化点(膜性骨のため不適切かもしれないが)から成り、骨化の程度は個体により異なる[24]

その後、そのほかの生化学的な特徴などが調べられて、最初のパンダ(レッサーパンダ)はアライグマ科になり後から見つかったパンダ(ジャイアントパンダ)がパンダ科唯一のメンバーとされるなどの紆余曲折があり、現在はクマ科ジャイアントパンダ亜科(AILUROPODINAE)のジャイアントパンダ(フランス語名Panda géant)とパンダ科(AILURIDAE)のレッサーパンダ(フランス語名Panda roux)とに分類されている。


フランスに4校ある獣医学校のうち最古の1762年創設のリヨン高等獣医学校(Ecole Nationale vétérinaire de Lyon)では、国家博士号のテーマにパンダを調べた論文が1997年に受理されている[25]

脚注

*1:「パンダPANDA」という言葉(単語)の使用の歴史的な俯瞰(出典: Google Ngram

 Google Books Ngram Viewerによると、フランス語のパンダは1635年~1640年に大きなピークがあり、その後影を潜めるが1700年前後にかけて文献に再登場する。特に1737年~1742年には二度目のピークがありその後低値で推移し、フレデリック・キュヴィエが動物名として使用した以降も大きな変化はない。1970年代以降になると、中国が世界各地にジャイアントパンダを親善大使として贈り、繁殖研究やレンタルもされることで、パンダという動物名が広く使われるようになり上昇傾向にある。

 ちなみに英・米語のパンダでみると、1799年から使われ始め1920年代以降急カーブで上昇していることが分かる。これもやはりフランス語の動物名パンダが発表された影響はほとんどなく、ロンドン動物園にジャイアントパンダが来園する(1938年)ことなどの影響である。

*2:世界で最も古い学会であり、命名法の起点でもあるリンネの名を冠したロンドン・リンネ協会発行のジャーナルであることから編集者は命名権がないと判断した[26]。当時は動物命名法に国際的に統一された基準がなかったため、近年でもレッサーパンダの発見は1821年とされるようにハードウィックの命名が公表されていた場合フランス語の動物名パンダと学名Ailurus fulgensはイギリス人のハードウィックの付けた一般名や学名と置き換わっていた可能性は否定できない[27]。ちなみに、足の裏に毛が生えていることからMallo(羊毛)とponus(足)を合わせたMalloponusと名づけられたようだ[4]

*3:ハードウィックは鳴き声から現地ではNega-lea Chitwa や Wahと呼ばれる動物であると1821年の手紙に書いているが、パンダの命名者フレデリック・キュヴィエや標本を受け取ったジョルジュ・キュヴィエはおろか、ピエール・ディアール、アルフレッド・デュヴォセル、ウォーリッチを含め「パンダ」の呼び名についての記録はない[4]。一方、1825年にフレデリック・キュヴィエがパンダの命名をした情報は直ちにインドにも伝わり、アジア協会東洋博物館のウォーリッチなどの西洋人収集家から現地の口利きや猟師などを通じてフランス語の動物名「パンダ」の名は知れ渡った[7]。以前捕まえた竹林に住む動物は、フランス語でパンダと言う珍しい動物だということで、nigálya(ヒマラヤ竹:nigalo)のpanda「Nigálya pónya」として1820年代末にはネパールでの呼び名が一つ増えた。

ホジソンは1818年にインドに赴任しているものの健康を害し、実際に活躍できたのは1833年にネパール駐在公使に就任してからである。ホジソンが初めてNigálya pónyaの名でも知られていると書いたのは1847年であり、その情報源はアルフレッド・デュヴォセルが当時雇っていた現地の口利きなどを家に招いて聞いた内容などを採録したことに由来しているにすぎない[9]。後年のユーヴェルマンスなどが勘違いし、学者は語源不明としているものの都市伝説として現在に伝わっている[28]

*4:1346年伝来と書かれた京都長福寺にある涅槃図(紀元前5世紀前後の北インドの人物で仏教の開祖である釈迦が入滅する様子を絵画的に描いたもの)には、(レッサー)パンダが描かれているとされる[29]

*5:この時アルフォンス・ミルヌ=エドワールは、現在認められているクマの一種であるとしたアルマン・ダヴィドの判断を否定した[15]。そのことで、長く続くクマ?アライグマ?パンダ?といったパンダ論争が勃発する[30]。アルフォンス・ミルヌ=エドワールが骨と歯の特徴だけでアルマン・ダヴィドの判断を否定しなかったなら、フランス語の動物名「パンダ」の表す動物(レッサーパンダ)はパンダのまま、ジャイアントパンダはアルマン・ダヴィドが名付けたOurs blanc (Ursus melanoleucus)として、フランス語の動物「パンダ」とは違った名で呼ばれることになっていた[31][32]

引用文献

  1. ^ a b c Cuvier, F. (1825). “Panda.”. Histoire naturelle des mammifères 5. 
  2. ^ Ostéographie. J. B. BAILLIÈHE ET FILS. (1839-1864) 
  3. ^ a b c Cuvier, G (1829). “Les Panda”. Le Règne Animal T1. 
  4. ^ a b c Hardwicke, T. (1826). “Manuscript. Description of a quadruped”. The Linnean Society of London. 
  5. ^ Naturalist's Library mammalia. W. H. Lizars. (1842) 
  6. ^ a b Hardwicke, T. (1826). “Description of a new Genus of the Class Mammalia”. Transactions of the Linnean Soceiety of London 5: 161-165. 
  7. ^ a b c The zoological Journal 2: 548-554. (1826). 
  8. ^ “Donations to the Museum”. The transactions of the Linnean Society of London 13. (1822). 
  9. ^ a b c Hodgson, B. H. (1847). “On the Cat-toed Subplantigrades of the sub-Himalayas”. J Asiat Soc Bengal 16: 1113-1129. 
  10. ^ Catalogue of Carnivorous. British Museum. (1869) 
  11. ^ The Fauna of British India. Taylor and Francis. (1888) 
  12. ^ On the track of Unknown Animals. Routledge. (2014) 
  13. ^ Cuvier, F. (1816-1829). Mammifères. Dictionnaire des Sciences Naturelles Planches. 
  14. ^ Saint-Hilaire E. G. (1829). Dictionnaire des Sciences Naturelles Tome 59. 
  15. ^ a b Handbook of the mammals of the world. Lynx Edicions. (2009) 
  16. ^ “extrait d'une lettre du meme, datee de la principaute thibetaine (independante) de mou-pin, le 21 mars 1869”. Bulletin des Nouvelles Archives du Muséum. (1869). 
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  20. ^ Milne-Edwards, A. (1870). “Note sur quelques Mammiferes du Tibet oriental”. Annales des sciences naturelles, Zoologie ser.5; t13. 
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  26. ^ 国際生物学賞. 独立行政法人日本学術振興会 
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