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'''ディエヴトゥリーバ |
'''ディエヴトゥリーバ''' ([[ラトビア語]]: Dievturība) は、13世紀に[[キリスト教化]]される以前の[[ラトビア人]]の[[民間信仰]]を復活させ継続していると主張している[[民族宗教]]もしくは[[ネオペイガニズム]]運動。信者はディエヴトゥリ([[ラトビア語]]: Dievturi [[単数形|単]]:ディエヴトゥリス Dievturis)と自称する。これは「ディエヴスを守る者たち」、「ディエヴスと調和して暮らす人々」を意味する。この運動は、主にラトビアの[[民間伝承]]や[[民謡]] ([[ダイナ (ラトビア)|ダイナス]])、[[ラトビア神話]]を基礎としている。 |
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ディエヴトゥリーバ |
ディエヴトゥリーバは1925年に[[エルネスツ・ブラスティンシュ]]とカールリス・マロヴスキス=ブレグジスによって創始または中興された。1940年に[[ソビエト連邦]]による弾圧を受けたが、亡命者のコミュニティで生き残り、1990年にラトビアで再び合法化された。2018年の時点で、およそ600人から800人が公式にディエヴトゥリーバのメンバーとして活動している。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== エルネスツ・ブラスティンシュの時代 === |
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ディエヴトゥリーバは、1925年に[[多神教再建運動]]の一つとして創始された。その教義はラトビアの[[民話]]、[[ダイナス]]のような民謡、[[ラトビア神話|神話]]を中核としていた。 |
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ディエヴトゥリーバ運動の起源は、19世紀の[[第一次ラトビア民族覚醒運動]]でラトビアの伝承を収拾し、[[第一次世界大戦]]でラトビア独立を目指して戦った[[青年ラトビア]] ({{lang-lv|jaunlatvieši}}) 運動に遡ることができる{{sfn|Ozoliņš|2014|p=96}}。1925年、[[エルネスツ・ブラスティンシュ]]とカールリス・マロヴスキス=ブレグジスが「ラトビア宗教の復興」を宣言し、ディエヴトゥリーバ運動を始めた。彼らは1926年にラトビア・ディエヴトゥリ集会 (''Latvju Dievtur̦u Draudze'') を設立した。しかし2人の運動の構想には相違点があった。マロヴスキス=ブレグジスが家族や小さなコミュニティの身近な関係の中での活動を志していたのに対し、ブラスティンシュはこれを政治運動化して多くの人々を引き込もうと考え、組織を作り、公共の場で明確な声明を出すこともいとわなかった。マロヴスキス=ブレグジスは自身の結成した団体を登録する一方、ブラスティンシュも1927年の時点で既に独自の団体を結成し登録していた。二人は1929年に決別し、以降ディエヴトゥリーバは主にブラスティンシュの名の下で展開されるようになった{{sfn|Hanovs|Tēraudkalns|2016}}。 |
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[[ファイル:Memorial_for_Dievturi_(Latvian_pagan)_victims_of_Soviet_rule_1942-1952,_Forest_Cemetery,_Riga,_Latvia.jpg|サムネイル|[[リガ]]の[[森の墓地 (リガ)|森の墓地]] (Meža kapi)にある、1942年から1952年にかけてソ連により殺害されたラトビア・ペイガン信者の墓]] |
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運動初期の指導者は、芸術家でアマチュアの歴史家・民俗学者・考古学者の[[エルネスツ・ブラステンチュ]]だった。彼は古代ラトビアの数々の神殿や城塞を調査し、『ラトビアのダイナスについての神学的観念の索引』を著した。このディエヴトゥリの[[カテキズム]]は、ディエヴトゥリーバの中軸となった。 |
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[[File:Ernests Brastiņš 1892-1942 (2006.), Kronvalda parks, Rīga, Latvia - panoramio (1).jpg|thumb|right|[[リガ]]の[[クロンヴァルド公園]]にある[[エルネスツ・ブラスティンシュ]]の肖像]] |
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1920年代から1930年代にかけて、ディエヴトゥリーバ運動は数々の文化人を惹きつけた<ref>Stasulane and Ozoliņš 2017: 238</ref>。しかし1940年にラトビアをソ連が占領すると、ディエヴトゥリーバは当局による弾圧を受け、数多くの犠牲者を出した。ブラステンチュも同年7月に逮捕され、1942年1月に処刑されている。 |
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マロヴスキス=ブレグジスの団体は1930年代前半に消滅したが、ブラスティンシュのラトビア・ディエヴトゥリ集会は1935年に世俗団体として再登録するよう強制されてからも活動を続けた{{sfn|Muktupalevs|2005|p=763}}。こうしてブラスティンシュは初期ディエヴトゥリーバ第一の中心人物となった。彼は芸術家、アマチュアの歴史家、民俗学者、考古学者といった顔も持っていた。彼は数々の古代ラトビアの建築物に関する文献を執筆し、『ラトビアのダイナスの神話的観念の索引』を著した。また1932年の著書『ディエヴトゥリ・[[カテキズム]]』は、ディエヴトゥリーバにおいて中心的なインスピレーションをもたらす文書となった。他の[[戦間期]]の理念的指導者としては、[[アルヴェードス・ブラスティンシュ]]や[[アルフレードス・ゴバ]]が挙げられる{{sfn|Purs|Plakans|2017|pp=90–91}}。 |
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1920年代から1930年代にかけて、ディエヴトゥリーバ運動は数々の文化人から注目を集めた。例えば、画家の[[イェーカブス・ビーネ]]、作家の[[ヴォルデマールス・ダンベルグス]]、[[ヴィクトルス・エグリーティス]]、文学史家でアルフレードス・ゴバの批判者となった[[ユリス・コサ]]、作曲家の[[ヤーニス・ノルヴィリス]]や[[アルトゥールス・サラクス]]などがいる{{sfn|Stasulane|Ozoliņš|2017|p=238}}。一般大衆に浸透する試みは失敗に終わったものの、ディエヴトゥリーバは芸術家や知識人を通して相当量の民間伝承を収集することができた{{sfn|Purs|Plakans|2017|pp=90–91}}。1933年から1940年にかけて、ラトビア・ディエヴトゥリ集会は『ラビエティス』(''Labietis''、善良な、高貴な者の意)と題した雑誌を刊行した{{sfn|Muktupalevs|2005|p=764}}。ノルヴィリス、サラクス、それに作曲家兼指揮者の[[ヴァルデマールス・オゾリンシュ]]、ラトビアの伝統的な[[コクレ]](弦楽器)や[[トリーデクスニス]](鳴子のような打楽器)、合唱を取り入れた小音楽シーンを作成した。また彼らは伝承音楽を祝賀曲にアレンジしたり、ディエヴトゥリーバの理念に触発されたオリジナルの曲を作曲したりした{{sfn|Muktupāvels|2000|pp=393–394}}。 |
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信仰は亡命者を中心として存続した。1990年代以降、ラトビアに逆輸入されて信者を増やし、2011年時点で公式なメンバーは663人となった<ref name="Tieslietu Ministrija">{{cite web|url=http://www.tm.gov.lv/lv/labumi/TM.docx |title=Tieslietu ministrijā iesniegtie reliģisko organizāciju pārskati par darbību 2011. gadā |language=Latvian |accessdate=2012-07-25 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121126013327/http://www.tm.gov.lv/lv/labumi/TM.docx |archivedate=2012-11-26 |df= }}</ref>。2017年、聖所として[[ルアクステネ神社|ロクステネス・ディエブトゥル・スヴェートニーツァ]]が建設された<ref>[https://skaties.lv/zinas/latvija/sabiedriba/uz-salas-daugava-atklata-dievturu-svetnica/ Uz salas Daugavā atklāta dievturu svētnīca]. 11 May 2017. ''Skaties''.</ref>。 |
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=== 弾圧と亡命者の活動 === |
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[[File:Memorial for Dievturi (Latvian pagan) victims of Soviet rule 1942-1952, Forest Cemetery, Riga, Latvia.jpg|thumb|リガの「森の墓地」にある、1942年から1952年にかけて共産主義者により殺害されたディエヴトゥリを記念する慰霊碑]] |
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ディエヴトゥリーバは本質的に[[汎神論]]宗教である。[[バルト神話]]に出てくるような[[神々]]はすべてディエヴス(宇宙そのもの、超越存在)の一側面、もしくは崇拝に値しない霊の一種に過ぎない。ディエヴトゥリ神学では、3つ組の神々や概念がいくつか挙げられている。ただし、古来のラトビアの宗教がこうした[[三位一体]]に似た概念を持っていたという証拠は一切ない。 |
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1940年に[[ソビエト連邦]]が[[ソビエト連邦によるラトビア占領|ラトビアを占領]]すると、ディエヴトゥリーバは弾圧され、散り散りになった。ブラスティンシュは1941年にソ連の[[ラーゲリ|強制労働収容所]]に送られて1942年に処刑され、他の指導者たちもシベリアへ流刑にされたり、西方へ亡命したりした{{sfn|Purs|Plakans|2017|pp=90–91}}。 |
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ラトビアがソ連に支配されている間、ディエヴトゥリーバは国外の亡命者のコミュニティで細々と存続していた{{sfn|Purs|Plakans|2017|pp=90–91}}。初期にはドイツやスウェーデンで活動がみられたが、1947年にエルネスツ・ブラスティンシュの兄弟アルヴェードス・ブラスティンシュがアメリカで立ち上げた組織が最大勢力となった。アルヴェードスは自ら大指導者 (''Dižvadonis'') と名乗り、1985年に死去するまでこの地位にあった{{sfn|Muktupalevs|2005|p=764}}。各地の亡命者により枝分かれしていたディエヴトゥリーバ運動は、1971年に[[イリノイ州]]に拠点を置くラトヴィアン・チャーチ・ディエヴトゥリのもとに統一された。先立つ1955年にはネブラスカ州[[リンカーン (ネブラスカ州)|リンカーン]]でラビエティス誌が再刊され、1977年初頭には[[ウィスコンシン州]]に宗教集合施設「ディエヴセータ」(Dievsēta、「ディエヴスの屋敷」の意)が建設された。こうした亡命者たちの運動は必ずしも明確に宗教色を出していたわけではなく、より広範にラトビア文化を亡命者の共同体の中で維持し振興する活動となっていた{{sfn|Ozoliņš|2014|p=97}}。アルヴェードス・ブラスティンシュの後はヤーニス・パリエプス(1985年–1990年)、マルジェルス・グリーンス(1990年–1995年)、ユリス・クリャヴィンシュ(1995年–2000年)と指導者の座が受け継がれ、2000年以降はパリエプスが再任している(2005年現在){{sfn|Muktupalevs|2005|p=764}}。 |
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* [[運命]]の神々、主要な三つ組 |
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** [[ディエヴァス|ディエヴス]] – 他の神々を自らの一側面として発出する主神 |
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** [[ライマ (バルト神話)|ライマ]] |
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** [[マーラ (バルト神話)|マーラ]] |
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* [[水]]の女神たち |
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** [[ユーラス・マーテ]] |
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** [[ウーデンス・マーテ]] |
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** [[ウペス・マーテ]] |
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[[ラトビア・ソビエト社会主義共和国]]では、ディエヴトゥリーバの参加者や関心を寄せる者たちが、婚礼や葬儀の際に運動のシンボルや特徴的な身振りを行うという形で活動を続けていた{{sfn|Muktupalevs|2005|p=764}}。1983年にソビエト当局がおこなったディエヴトゥリーバ弾圧の報告書によれば、活動家[[インツ・ツァーリーティス]]や詩人グナルス・フレイマニスのように、ディエヴトゥリーバの宗教に興味を持って他と違う環境に身を置くラトビア人が存在していた。ソビエト当局は、ディエヴトゥリーバの参加者を[[ナチズム]]活動家とみなして摘発した{{sfn|Lettlander|1983}}。 |
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== 霊魂と祖先崇拝 == |
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=== 復活 === |
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* 人間の組成 |
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[[File:ルアクステネ神社(Lokstenes svētnīca).jpg|thumb|ラトビアの[[ルアクステネ神社|ロクステネス・ディエブトゥル・スヴェートニーツァ]]の空撮写真]] |
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** ''ヴェリス'' – [[アストラル体]] |
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1986年、ふたたびラトビアの歴史や伝承に注目が集まるようになると、ラトビア内のディエヴトゥリーバも復興に向けた活動を始めた。その中心となったのは、陶芸家のエドゥアルドス・デトラヴス(1919年–1992年)だった{{sfn|Stasulane|Ozoliņš|2017|p=243}}。ディエヴトゥリーバは、1990年4月18日に''Latvijas Dievturu Sadraudze''{{訳語疑問点|date=2020年7月}} (Congregation of Latvian Dievturi、略称LDS) の名で宗教団体として再公認された{{sfn|Ozoliņš|2019}}。1992年にデトラヴスが死去すると、亡命ディエヴトゥリ教会から戻ってきたマルジェルス・グリーンスが1995年までLDSを率い、そこから1998年までは[[ヤーニス・ブリクマニス]]が、その後はロマーンス・プッサルスが指導者となっている{{sfn|Muktupalevs|2005|p=765}}。 |
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** ''ミエサ'' – 肉体 |
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** ''ドゥヴェーセレ'' – 魂 |
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1990年代を通して、ディエヴトゥリーバ運動はその活動を改新し、ヨーロッパにおける知的な[[ネオペイガン]]の潮流の一つとなった{{sfn|Purs|Plakans|2017|pp=90–91}}。2000年代初頭には、ラトビアで16団体が活動していた。そのほとんどはLDSの傘下にあるが、独立して活動しているものもあった。ディエヴトゥリーバ運動内での対立点としては、どこまで戦間期の要素を追認するべきか、またキリスト教とディエヴトゥリーバはどのような関係を持てばよいのか(両立できると考える信者もいる)といった問題がある{{sfn|Stasulane|Ozoliņš|2017|pp=244–245}}。 |
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''dvēsele'' ([[魂]])と''velis'' ([[アストラル体]])は明確に区別されている。前者はDievs (神)から来るもので、''miesa''(肉体)の死後にまた戻ってくる永久のものである。一方で後者は肉体とともにあり、その死とともに次第に消えていく、[[亡霊]]のようなものである。秋が終わり冬が始まる時期が、亡くなった先祖を追憶する時であるとされている。秋季の夜には、人々はこの世を去った親族に、自然に成仏することを願い、また夏の収穫を感謝するために、食物を与える。 |
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2017年5月6日、LDSは[[ルアクステネ神社|ロクステネス・ディエブトゥル・スヴェートニーツァ]]を開いた{{sfn|Skaties|2017}}。これは起業家のダグニス・チャークルスの出資により、[[プリャヴィニャス]]に近い[[ダウガヴァ川]]の島に建設されたものである{{sfn|Dieziņa|2017}}。 |
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2018年現在、LDS は中央の委員会と8つの地域団体で構成されており、参加しているディエヴトゥリの総数は600人から800人ほどである。LDSの会長はアンドレイス・ブロクスで、芸術家の[[ヴァルディス・ツェルムス]]が名誉会長と評議会長を務めている。ツェルムスは''Latvju raksts un zīmes''(「ラトビアのパターンとシンボル」、2008年)や''Baltu dievestības pamati''(「バルト宗教の基礎」、2016年)を著し、[[バルト・ネオペイガニズム]]に影響を与えた人物である{{sfn|Ozoliņš|2019}}。 |
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ディエヴトゥリーバは主にラトビアの民間伝承、伝統的な民謡 ([[ダイナ (ラトビア)|ダイナス]])、[[ラトビア神話]]を基礎としている。主神は[[ディエヴァス]](ディエヴス)で、精神と物質、父と母、善と悪といった背反する二重性を統一している。他の神々は、それぞれディエヴァスの一側面であったり、神格化されない霊の形態であったりする。例えば女神[[マーラ (女神)|マーラ]]は、ディエヴァスの母としての一面を象徴している。同じく女神の[[ライマ]]もディエヴァスの側面の一つで、因果関係、炎、運命と結びついている{{sfn|Muktupalevs|2005|p=763}}。 |
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現代のディエヴトゥリーバには、必要に応じて歴史的なラトビアの宗教と相違する部分も出てきている。例えば、ラトビアの古い異教に[[三相女神|神々の三位一体]]の概念があったという証拠はないが、ディエヴトゥリーバではディエヴァスとマーラ、ライマを三位一体の神格とみなしている。他にも、ディエヴトゥリーバ神学内ではいくつかの三位一体の神々の組が考えられている。 |
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人間は、ディエヴァスの意思により生まれつき善であると信じられている{{sfn|Muktupalevs|2005|p=764}}。また人間は、肉体(ミエサあるいはアウグムス)、[[アストラル体]]、魂(ディエーセレ)の三つが重なった存在であると考えられている。人間が死ぬと、肉体は消滅し、アストラル体は「影の世界」(ヴェリュ・ヴァルスツ)に入って徐々に消滅し、魂は不滅でディエヴァスと一体化するとされる{{sfn|Muktupalevs|2005|pp=763–764}}。 |
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秋が終わり冬に入る頃が、[[祖先崇拝|亡くなった祖先を追憶する]]時であると考えられている。秋の暗くなったころに、ディエヴトゥリーバの人々は夏の作物の収穫を感謝するために、亡くなった親族に食物を備える儀式を行っている。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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== 出典 == |
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* {{cite news |last=Dieziņa |first=Sandra |date=17 January 2017 |url=http://www.la.lv/maize-ar-dveseli/ |title=“Liepsalās” atklās dievturu svētnīcu |work=[[Latvijas Avīze]] |language=Latvian |accessdate=27 October 2019 |ref=harv }} |
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* {{cite book |last1=Hanovs |first1=Deniss |last2=Tēraudkalns |first2=Valdis |year=2016 |chapterurl=https://books.google.com/books?id=5DYrDgAAQBAJ&pg=PT109 |chapter=The Return of the Gods? Authoritarian Culture and Neo-Paganism in Interwar Latvia, 1934–1940 |editor-last=Smith |editor-first=David J. |title=Latvia—A Work in Progress?: 100 Years of State- and Nation-Building |series=Soviet and Post-Soviet Politics and Society |location=New York |publisher=Columbia University Press |isbn=9783838267180 |ref=harv }} |
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* {{cite news |last=Lettlander |first=Erik |date=3 October 1983 |url=https://www.csmonitor.com/1983/1003/100344.html |title=Crackdown on Latvian religion hides Soviet fear of nationalism |work=[[The Christian Science Monitor]] |accessdate=27 October 2019 |ref=harv }} |
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* {{cite journal |last=Muktupāvels |first=Valdis |authorlink=Valdis Muktupāvels |title=On Some Relations Between ''Kokles'' Styles and Contexts in the Twentieth Century |url=https://www.academia.edu/558474/On_some_relations_between_kokles_styles_and_contexts_in_the_twentieth_century |journal=[[Journal of Baltic Studies]] |volume=31 |issue=4 |publisher=[[Routledge]] |location=London |date=Winter 2000 |issn=1751-7877 |ref=harv}} |
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* {{cite book |last=Muktupalevs |first=Valdis |year=2005 |chapter-url=https://www.academia.edu/27491380/Baltic_Religion_New_Religious_Movements |chapter=Baltic Religion: New Religious Movements |editor-last=Jones |editor-first=Lindsay |title=Encyclopedia of Religion, vol 2: Attributes of God – Butler, Joseph |location=Detroit |publisher=Thomson Gale |isbn=0-02-865997-X |ref=harv }} |
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* {{cite book |last=Ozoliņš |first=Gatis |year=2014 |chapterurl=https://books.google.com/books?id=2L3oBAAAQBAJ&pg=PA94 |chapter=The Dievturi movement in Latvia as invention of tradition |editor1-last=Aitamurto |editor1-first=Kaarina |editor2-last=Simpson |editor2-first=Scott |title=Modern Pagan and Native Faith Movements in Central and Eastern Europe |publisher=Acumen Publishing |pp=94–111 |isbn=978-1-8446-5663-9 |ref=harv }} |
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* {{cite web |last=Ozoliņš |first=Gatis |date=18 April 2019 |url=https://enciklopedija.lv/skirklis/22202 |title=dievturība Latvijā |work=Nacionālā Enciklopēdija |language=Latvian |accessdate=27 October 2019 |ref=harv }} |
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* {{cite book |last1=Purs |first1=Aldis |last2=Plakans |first2=Andrejs |year=2017 |title=Historical Dictionary of Latvia |isbn=9781538102206 |ref=harv }} |
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* {{cite news |url=https://skaties.lv/zinas/latvija/sabiedriba/uz-salas-daugava-atklata-dievturu-svetnica/ |title=Uz salas Daugavā atklāta dievturu svētnīca |date=11 May 2017 |work=Skaties |language=Latvian |accessdate=27 October 2019 |ref=CITEREFSkaties2017 }} |
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* {{cite journal |last1=Stasulane |first1=Anita |last2=Ozoliņš |first2=Gatis |year=2017 |url=https://www.degruyter.com/view/j/opth.2017.3.issue-1/opth-2017-0019/opth-2017-0019.xml |title=Transformations of Neopaganism in Latvia: From Survival to Revival |journal=[[Open Theology]] |volume=2 |issue=3 |pp=235–244 |doi=10.1515/opth-2017-0019 |issn=2300-6579 |ref=harv |doi-access=free }} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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{{Refbegin|indent=yes}} |
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* Gatis Ozoliņš. ''The Latvian Dievturi Movement as Invention of Tradition''. In ''Native Faith and Neo-Pagan Movements in Central and Eastern Europe''. Kaarina Aitamurto, Scott Simpson. Acumen Publishing, 2013. {{ISBN2|1844656624}} |
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* {{cite book |last=Brastiņš |first=Ernests |authorlink=Ernests Brastiņš |year=1932 |title=Dievtur̦u cerokslis |trans-title=Dievturi Catechism |language=Latvian |location=Riga |publisher=Latvijas dievtur̦u sadraudzes izdevums }} |
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* Anita Stasulane and Gatis Ozoliņš. "Transformations of Neopaganism in Latvia: From Survival to Revival". Open Theology, 3(1), pp. 235-248. Available on-line: https://doi.org/10.1515/opth-2017-0019 |
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* {{cite book |last=Celms |first=Valdis |authorlink=Valdis Celms |year=2016 |title=Baltu dievestības pamati |trans-title=Fundamentals of the Baltic Religion |language=Latvian |location=Riga |publisher=Lauku Avīze |isbn=9789934152412 }} |
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* {{cite web |last=Stasulane |first=Anita |date=25 April 2020 |url=https://wrldrels.org/2020/04/22/dievturi/ |title=Dievturi |work=World Religions and Spirituality Project |publisher=[[Virginia Commonwealth University]] |accessdate=3 July 2020 }} |
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* {{cite journal |last=Tupešu |first=Jānis |year=1987 |url=http://www.lituanus.org/1987/87_3_06.htm |title=The Ancient Latvian Religion—Dievturība |journal=[[Lituanus]] |volume=33 |issue=3 |issn=0024-5089 }} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[バルト・ネオペイガニズム]] |
* [[バルト・ネオペイガニズム]] |
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* [[ヒーザンリー (ネオペイガニズム)]] |
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* [[ラトビア神話]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat|Dievturība}} |
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* [http://www.lituanus.org/1987/87_3_06.htm The Ancient Latvian Religion — DIEVTURĪBA] - Exhaustive study-paper on the Dievturi movement. |
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* |
*[http://dievturi.blogspot.com/ Official website of Latvijas Dievtuŗu sadraudze] {{in lang|lv}} |
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{{ネオペイガニズム}} |
{{ネオペイガニズム}} |
2020年8月16日 (日) 18:22時点における最新版
ディエヴトゥリーバ (ラトビア語: Dievturība) は、13世紀にキリスト教化される以前のラトビア人の民間信仰を復活させ継続していると主張している民族宗教もしくはネオペイガニズム運動。信者はディエヴトゥリ(ラトビア語: Dievturi 単:ディエヴトゥリス Dievturis)と自称する。これは「ディエヴスを守る者たち」、「ディエヴスと調和して暮らす人々」を意味する。この運動は、主にラトビアの民間伝承や民謡 (ダイナス)、ラトビア神話を基礎としている。
ディエヴトゥリーバは1925年にエルネスツ・ブラスティンシュとカールリス・マロヴスキス=ブレグジスによって創始または中興された。1940年にソビエト連邦による弾圧を受けたが、亡命者のコミュニティで生き残り、1990年にラトビアで再び合法化された。2018年の時点で、およそ600人から800人が公式にディエヴトゥリーバのメンバーとして活動している。
歴史
[編集]エルネスツ・ブラスティンシュの時代
[編集]ディエヴトゥリーバ運動の起源は、19世紀の第一次ラトビア民族覚醒運動でラトビアの伝承を収拾し、第一次世界大戦でラトビア独立を目指して戦った青年ラトビア (ラトビア語: jaunlatvieši) 運動に遡ることができる[1]。1925年、エルネスツ・ブラスティンシュとカールリス・マロヴスキス=ブレグジスが「ラトビア宗教の復興」を宣言し、ディエヴトゥリーバ運動を始めた。彼らは1926年にラトビア・ディエヴトゥリ集会 (Latvju Dievtur̦u Draudze) を設立した。しかし2人の運動の構想には相違点があった。マロヴスキス=ブレグジスが家族や小さなコミュニティの身近な関係の中での活動を志していたのに対し、ブラスティンシュはこれを政治運動化して多くの人々を引き込もうと考え、組織を作り、公共の場で明確な声明を出すこともいとわなかった。マロヴスキス=ブレグジスは自身の結成した団体を登録する一方、ブラスティンシュも1927年の時点で既に独自の団体を結成し登録していた。二人は1929年に決別し、以降ディエヴトゥリーバは主にブラスティンシュの名の下で展開されるようになった[2]。
マロヴスキス=ブレグジスの団体は1930年代前半に消滅したが、ブラスティンシュのラトビア・ディエヴトゥリ集会は1935年に世俗団体として再登録するよう強制されてからも活動を続けた[3]。こうしてブラスティンシュは初期ディエヴトゥリーバ第一の中心人物となった。彼は芸術家、アマチュアの歴史家、民俗学者、考古学者といった顔も持っていた。彼は数々の古代ラトビアの建築物に関する文献を執筆し、『ラトビアのダイナスの神話的観念の索引』を著した。また1932年の著書『ディエヴトゥリ・カテキズム』は、ディエヴトゥリーバにおいて中心的なインスピレーションをもたらす文書となった。他の戦間期の理念的指導者としては、アルヴェードス・ブラスティンシュやアルフレードス・ゴバが挙げられる[4]。
1920年代から1930年代にかけて、ディエヴトゥリーバ運動は数々の文化人から注目を集めた。例えば、画家のイェーカブス・ビーネ、作家のヴォルデマールス・ダンベルグス、ヴィクトルス・エグリーティス、文学史家でアルフレードス・ゴバの批判者となったユリス・コサ、作曲家のヤーニス・ノルヴィリスやアルトゥールス・サラクスなどがいる[5]。一般大衆に浸透する試みは失敗に終わったものの、ディエヴトゥリーバは芸術家や知識人を通して相当量の民間伝承を収集することができた[4]。1933年から1940年にかけて、ラトビア・ディエヴトゥリ集会は『ラビエティス』(Labietis、善良な、高貴な者の意)と題した雑誌を刊行した[6]。ノルヴィリス、サラクス、それに作曲家兼指揮者のヴァルデマールス・オゾリンシュ、ラトビアの伝統的なコクレ(弦楽器)やトリーデクスニス(鳴子のような打楽器)、合唱を取り入れた小音楽シーンを作成した。また彼らは伝承音楽を祝賀曲にアレンジしたり、ディエヴトゥリーバの理念に触発されたオリジナルの曲を作曲したりした[7]。
弾圧と亡命者の活動
[編集]1940年にソビエト連邦がラトビアを占領すると、ディエヴトゥリーバは弾圧され、散り散りになった。ブラスティンシュは1941年にソ連の強制労働収容所に送られて1942年に処刑され、他の指導者たちもシベリアへ流刑にされたり、西方へ亡命したりした[4]。
ラトビアがソ連に支配されている間、ディエヴトゥリーバは国外の亡命者のコミュニティで細々と存続していた[4]。初期にはドイツやスウェーデンで活動がみられたが、1947年にエルネスツ・ブラスティンシュの兄弟アルヴェードス・ブラスティンシュがアメリカで立ち上げた組織が最大勢力となった。アルヴェードスは自ら大指導者 (Dižvadonis) と名乗り、1985年に死去するまでこの地位にあった[6]。各地の亡命者により枝分かれしていたディエヴトゥリーバ運動は、1971年にイリノイ州に拠点を置くラトヴィアン・チャーチ・ディエヴトゥリのもとに統一された。先立つ1955年にはネブラスカ州リンカーンでラビエティス誌が再刊され、1977年初頭にはウィスコンシン州に宗教集合施設「ディエヴセータ」(Dievsēta、「ディエヴスの屋敷」の意)が建設された。こうした亡命者たちの運動は必ずしも明確に宗教色を出していたわけではなく、より広範にラトビア文化を亡命者の共同体の中で維持し振興する活動となっていた[8]。アルヴェードス・ブラスティンシュの後はヤーニス・パリエプス(1985年–1990年)、マルジェルス・グリーンス(1990年–1995年)、ユリス・クリャヴィンシュ(1995年–2000年)と指導者の座が受け継がれ、2000年以降はパリエプスが再任している(2005年現在)[6]。
ラトビア・ソビエト社会主義共和国では、ディエヴトゥリーバの参加者や関心を寄せる者たちが、婚礼や葬儀の際に運動のシンボルや特徴的な身振りを行うという形で活動を続けていた[6]。1983年にソビエト当局がおこなったディエヴトゥリーバ弾圧の報告書によれば、活動家インツ・ツァーリーティスや詩人グナルス・フレイマニスのように、ディエヴトゥリーバの宗教に興味を持って他と違う環境に身を置くラトビア人が存在していた。ソビエト当局は、ディエヴトゥリーバの参加者をナチズム活動家とみなして摘発した[9]。
復活
[編集]1986年、ふたたびラトビアの歴史や伝承に注目が集まるようになると、ラトビア内のディエヴトゥリーバも復興に向けた活動を始めた。その中心となったのは、陶芸家のエドゥアルドス・デトラヴス(1919年–1992年)だった[10]。ディエヴトゥリーバは、1990年4月18日にLatvijas Dievturu Sadraudze[訳語疑問点] (Congregation of Latvian Dievturi、略称LDS) の名で宗教団体として再公認された[11]。1992年にデトラヴスが死去すると、亡命ディエヴトゥリ教会から戻ってきたマルジェルス・グリーンスが1995年までLDSを率い、そこから1998年まではヤーニス・ブリクマニスが、その後はロマーンス・プッサルスが指導者となっている[12]。
1990年代を通して、ディエヴトゥリーバ運動はその活動を改新し、ヨーロッパにおける知的なネオペイガンの潮流の一つとなった[4]。2000年代初頭には、ラトビアで16団体が活動していた。そのほとんどはLDSの傘下にあるが、独立して活動しているものもあった。ディエヴトゥリーバ運動内での対立点としては、どこまで戦間期の要素を追認するべきか、またキリスト教とディエヴトゥリーバはどのような関係を持てばよいのか(両立できると考える信者もいる)といった問題がある[13]。
2017年5月6日、LDSはロクステネス・ディエブトゥル・スヴェートニーツァを開いた[14]。これは起業家のダグニス・チャークルスの出資により、プリャヴィニャスに近いダウガヴァ川の島に建設されたものである[15]。
2018年現在、LDS は中央の委員会と8つの地域団体で構成されており、参加しているディエヴトゥリの総数は600人から800人ほどである。LDSの会長はアンドレイス・ブロクスで、芸術家のヴァルディス・ツェルムスが名誉会長と評議会長を務めている。ツェルムスはLatvju raksts un zīmes(「ラトビアのパターンとシンボル」、2008年)やBaltu dievestības pamati(「バルト宗教の基礎」、2016年)を著し、バルト・ネオペイガニズムに影響を与えた人物である[11]。
信仰
[編集]ディエヴトゥリーバは主にラトビアの民間伝承、伝統的な民謡 (ダイナス)、ラトビア神話を基礎としている。主神はディエヴァス(ディエヴス)で、精神と物質、父と母、善と悪といった背反する二重性を統一している。他の神々は、それぞれディエヴァスの一側面であったり、神格化されない霊の形態であったりする。例えば女神マーラは、ディエヴァスの母としての一面を象徴している。同じく女神のライマもディエヴァスの側面の一つで、因果関係、炎、運命と結びついている[3]。
現代のディエヴトゥリーバには、必要に応じて歴史的なラトビアの宗教と相違する部分も出てきている。例えば、ラトビアの古い異教に神々の三位一体の概念があったという証拠はないが、ディエヴトゥリーバではディエヴァスとマーラ、ライマを三位一体の神格とみなしている。他にも、ディエヴトゥリーバ神学内ではいくつかの三位一体の神々の組が考えられている。
人間は、ディエヴァスの意思により生まれつき善であると信じられている[6]。また人間は、肉体(ミエサあるいはアウグムス)、アストラル体、魂(ディエーセレ)の三つが重なった存在であると考えられている。人間が死ぬと、肉体は消滅し、アストラル体は「影の世界」(ヴェリュ・ヴァルスツ)に入って徐々に消滅し、魂は不滅でディエヴァスと一体化するとされる[16]。
秋が終わり冬に入る頃が、亡くなった祖先を追憶する時であると考えられている。秋の暗くなったころに、ディエヴトゥリーバの人々は夏の作物の収穫を感謝するために、亡くなった親族に食物を備える儀式を行っている。
脚注
[編集]- ^ Ozoliņš 2014, p. 96.
- ^ Hanovs & Tēraudkalns 2016.
- ^ a b Muktupalevs 2005, p. 763.
- ^ a b c d e Purs & Plakans 2017, pp. 90–91.
- ^ Stasulane & Ozoliņš 2017, p. 238.
- ^ a b c d e Muktupalevs 2005, p. 764.
- ^ Muktupāvels 2000, pp. 393–394.
- ^ Ozoliņš 2014, p. 97.
- ^ Lettlander 1983.
- ^ Stasulane & Ozoliņš 2017, p. 243.
- ^ a b Ozoliņš 2019.
- ^ Muktupalevs 2005, p. 765.
- ^ Stasulane & Ozoliņš 2017, pp. 244–245.
- ^ Skaties 2017.
- ^ Dieziņa 2017.
- ^ Muktupalevs 2005, pp. 763–764.
出典
[編集]- Dieziņa, Sandra (17 January 2017). ““Liepsalās” atklās dievturu svētnīcu” (Latvian). Latvijas Avīze 27 October 2019閲覧。
- Hanovs, Deniss; Tēraudkalns, Valdis (2016). “The Return of the Gods? Authoritarian Culture and Neo-Paganism in Interwar Latvia, 1934–1940”. In Smith, David J.. Latvia—A Work in Progress?: 100 Years of State- and Nation-Building. Soviet and Post-Soviet Politics and Society. New York: Columbia University Press. ISBN 9783838267180
- Lettlander, Erik (3 October 1983). “Crackdown on Latvian religion hides Soviet fear of nationalism”. The Christian Science Monitor 27 October 2019閲覧。
- Muktupāvels, Valdis (Winter 2000). “On Some Relations Between Kokles Styles and Contexts in the Twentieth Century”. Journal of Baltic Studies (London: Routledge) 31 (4). ISSN 1751-7877 .
- Muktupalevs, Valdis (2005). “Baltic Religion: New Religious Movements”. In Jones, Lindsay. Encyclopedia of Religion, vol 2: Attributes of God – Butler, Joseph. Detroit: Thomson Gale. ISBN 0-02-865997-X
- Ozoliņš, Gatis (2014). “The Dievturi movement in Latvia as invention of tradition”. In Aitamurto, Kaarina; Simpson, Scott. Modern Pagan and Native Faith Movements in Central and Eastern Europe. Acumen Publishing. ISBN 978-1-8446-5663-9
- Ozoliņš, Gatis (18 April 2019). “dievturība Latvijā” (Latvian). Nacionālā Enciklopēdija. 27 October 2019閲覧。
- Purs, Aldis; Plakans, Andrejs (2017). Historical Dictionary of Latvia. ISBN 9781538102206
- “Uz salas Daugavā atklāta dievturu svētnīca” (Latvian). Skaties. (11 May 2017) 27 October 2019閲覧。
- Stasulane, Anita; Ozoliņš, Gatis (2017). “Transformations of Neopaganism in Latvia: From Survival to Revival”. Open Theology 2 (3). doi:10.1515/opth-2017-0019. ISSN 2300-6579 .
参考文献
[編集]- Brastiņš, Ernests (1932) (Latvian). Dievtur̦u cerokslis [Dievturi Catechism]. Riga: Latvijas dievtur̦u sadraudzes izdevums
- Celms, Valdis (2016) (Latvian). Baltu dievestības pamati [Fundamentals of the Baltic Religion]. Riga: Lauku Avīze. ISBN 9789934152412
- Stasulane, Anita (25 April 2020). “Dievturi”. World Religions and Spirituality Project. Virginia Commonwealth University. 3 July 2020閲覧。
- Tupešu, Jānis (1987). “The Ancient Latvian Religion—Dievturība”. Lituanus 33 (3). ISSN 0024-5089 .