コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「アメリカン航空587便墜落事故」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
98行目: 98行目:
本事故は[[アメリカ同時多発テロ事件]]からわずか2か月後の出来事であったことから、新たなテロの可能性が疑われ、ニューヨーク市民の間に緊張が走った<ref name=mainichi-13-m27/><ref name=asahi-13m39/><ref name=asahi-13e3/>{{sfn|Paul|2014|loc=位置No. 7170/8214}}。ニューヨーク市は最高レベルの警戒態勢を発動し、墜落現場周辺および[[マンハッタン島]]に通じる橋やトンネル、地下鉄が封鎖された<ref name=mainichi-13m1/><ref name=yomiuri-13m1/>。ニューヨーク近郊のJFK空港、[[ラガーディア空港]]、[[ニューアーク・リバティー国際空港|ニューアーク空港]]は閉鎖され、[[エンパイア・ステート・ビルディング]]でも安全対策のため退去命令が出された<ref name=asahi-13e3/>。ニューヨークにある国連本部では国連総会の開催中であったが、予防的措置として建物が一時封鎖され、全ての歩行者と車両の立ち入りが禁じられた<ref name=yomiuri-13m5/><ref name=yomiuri-13m3/><ref name=mainichi-13e2/>。[[アメリカ空軍]]は複数の基地から戦闘機を緊急発進させ、全米上空の警備にあたった<ref name=mainichi-13e2/>。
本事故は[[アメリカ同時多発テロ事件]]からわずか2か月後の出来事であったことから、新たなテロの可能性が疑われ、ニューヨーク市民の間に緊張が走った<ref name=mainichi-13-m27/><ref name=asahi-13m39/><ref name=asahi-13e3/>{{sfn|Paul|2014|loc=位置No. 7170/8214}}。ニューヨーク市は最高レベルの警戒態勢を発動し、墜落現場周辺および[[マンハッタン島]]に通じる橋やトンネル、地下鉄が封鎖された<ref name=mainichi-13m1/><ref name=yomiuri-13m1/>。ニューヨーク近郊のJFK空港、[[ラガーディア空港]]、[[ニューアーク・リバティー国際空港|ニューアーク空港]]は閉鎖され、[[エンパイア・ステート・ビルディング]]でも安全対策のため退去命令が出された<ref name=asahi-13e3/>。ニューヨークにある国連本部では国連総会の開催中であったが、予防的措置として建物が一時封鎖され、全ての歩行者と車両の立ち入りが禁じられた<ref name=yomiuri-13m5/><ref name=yomiuri-13m3/><ref name=mainichi-13e2/>。[[アメリカ空軍]]は複数の基地から戦闘機を緊急発進させ、全米上空の警備にあたった<ref name=mainichi-13e2/>。


同時多発テロ設されていた[[アメリカ合衆国国土安全保障省]]の長は、本事故の連絡を受けてすぐに同国[[アメリカ合衆国司法省|司法省]]、[[連邦捜査局]](Federal Bureau of Investigation; FBI)、[[アメリカ合衆国運輸省|運輸省]]、[[アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁|連邦緊急事態管理庁]]の各長官および[[アメリカ国防総省|国防総省]]と[[連邦航空局]](Federal Aviation Administration; FAA)の高官らと連絡を取り墜落原因を分析した<ref name=mainichi-13e2/>。事故とテロの両面で墜落原因の調査が開始されたものの、まもなく事故であった可能性が高いと判断され、調査主体は[[国家運輸安全委員会]](National Transportation Safety Board; NTSB)となった<ref name=yomiuri-13m1/><ref name=mainichi-13e2/>。
大統領府内に設置されていた国土安全保障局{{efn|group="注釈"|同時多発テロを受けてアメリカ大統領府内国土安全保障局がされ、2002年により[[アメリカ合衆国国土安全保障省]]に再編された<ref>{{Citation |last1=富井 |first1=幸雄 |title=国土安全保障の概念 : 法的考察 |journal=法学会雑誌 |year=2018 |volume=58 |number=2 |publisher=首都大学東京都市教養学部法学系 |pages=77-117 |issn=1880-7615}}</ref>}}長は、本事故の連絡を受けてすぐに同国[[アメリカ合衆国司法省|司法省]]、[[連邦捜査局]](Federal Bureau of Investigation; FBI)、[[アメリカ合衆国運輸省|運輸省]]、[[アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁|連邦緊急事態管理庁]]の各長官および[[アメリカ国防総省|国防総省]]と[[連邦航空局]](Federal Aviation Administration; FAA)の高官らと連絡を取り墜落原因を分析した<ref name=mainichi-13e2/>。事故とテロの両面で墜落原因の調査が開始されたものの、まもなく事故であった可能性が高いと判断され、調査主体は[[国家運輸安全委員会]](National Transportation Safety Board; NTSB)となった<ref name=yomiuri-13m1/><ref name=mainichi-13e2/>。


== 事故調査 ==
== 事故調査 ==

2019年11月29日 (金) 05:12時点における版

アメリカン航空587便墜落事故
墜落するAA587便(白丸)は、マリン・パークウェイ=ギル・ホッジス記念橋英語版の料金所にあった監視カメラに写っていた。
事故の概要
日付 2001年11月12日
概要 後方乱流遭遇時に方向舵を過剰に操作したことによる垂直尾翼の分離
現場 ジョン・F・ケネディ国際空港近くの住宅街(ニューヨーク市クイーンズ区
北緯40度34分38秒 西経73度51分02秒 / 北緯40.57722度 西経73.85056度 / 40.57722; -73.85056 (accident site)座標: 北緯40度34分38秒 西経73度51分02秒 / 北緯40.57722度 西経73.85056度 / 40.57722; -73.85056 (accident site)
乗客数 251
乗員数 9
死者数 265(搭乗者全員、地上5人)
生存者数 0
機種 エアバスA300B4-605R
運用者 アメリカン航空
機体記号 N14053
出発地 ジョン・F・ケネディ国際空港
アメリカ合衆国ニューヨーク
目的地 ラス・アメリカス国際空港
ドミニカ共和国サントドミンゴ
地上での死傷者
地上での死者数 5
地上での負傷者数 1
テンプレートを表示

アメリカン航空587便墜落事故(アメリカンこうくう587びんついらくじこ)は、2001年11月12日アメリカン航空エアバスA300-600型機がジョン・F・ケネディ国際空港を離陸直後に墜落した航空事故である。

587便はドミニカ共和国サントドミンゴラス・アメリカス国際空港行きの定期旅客便で、上昇中に前方を飛行するボーイング747後方乱気流に遭遇した。その際に副操縦士方向舵を過剰に操作したことで、垂直尾翼に設計時の想定を超える空気力荷重がかかり、胴体との接合部が破壊され尾翼が分離した。操縦不能に陥った事故機は住宅地に墜落し、爆発炎上した。搭乗者260人全員と、地上で巻き込まれた5人が死亡した。

アメリカ同時多発テロ事件からわずか2か月後の墜落事故であったことから、ニューヨーク市やアメリカ空軍はテロの警戒態勢をとったほか、市民の間にも緊張が走った。アメリカ国家運輸安全委員会による事故調査の結果、副操縦士の不要で過剰なラダーペダル(方向舵ペダル)操作が事故原因であり、それを引き起こした背景にはアメリカン航空が実施していた非現実的な訓練シナリオと、エアバスA300-600型機のラダーペダルの軽い操作性があったことが明らかとなった。

事故当日のアメリカン航空587便

アメリカン航空587便墜落事故の位置
JFK
JFK
SDQ
SDQ
AA587便の出発地であるジョン・F・ケネディ国際空港 (JFK) と目的地であったラス・アメリカス国際空港 (SDQ) の位置。事故はJFK空港を離陸して間も無く発生した。
事故機のエアバスA300型機(機体記号N14853、1989年撮影)

アメリカン航空587便(以下、AA587便)は、アメリカ合衆国東海岸ニューヨークジョン・F・ケネディ国際空港から、ドミニカ共和国の首都サントドミンゴラス・アメリカス国際空港へ向かう定期旅客便だった[1]

2001年11月12日の機材はエアバス・インダストリー(現・エアバス)社製のA300-605R型機で、機体記号は「N14053 」であった[1]。A300-605RはA300-600型機の1形式で、ワイドボディ(双通路)で双発のジェット旅客機である[2][3][4]。当該機は1988年7月に新造機として納入され、事故までの総飛行時間は37,550時間、飛行回数[注釈 1]は14,934回であった[2]。この旅客機の客席は2クラス制で、ビジネスクラスが16席、コーチクラスが236席の251人乗りであった[5]。当日は5席の空席があったものの、搭乗券を持たない5人の乳幼児が搭乗しており、乗客数は251人と実質的に満席であった[5]。当該便には運航乗務員2名と客室乗務員7名が乗務し、搭乗者数の合計は260人だった[1]

A300-600型機の操縦室はグラスコックピット化され、2名のパイロットで運航可能な旅客機である[3]。この日のAA587便の機長は42歳の男性だった[6]。彼はアメリカ空軍予備役およびゼネラル・アビエーションで合計1,922時間の飛行経験を積んだ後、1985年にアメリカン航空に入社した[6]。1988年9月にA300型機の運航資格を取得して副操縦士として乗務を開始し、ボーイング727型機の資格取得を経て、1998年8月からA300型機の機長として乗務していた[6]。アメリカン航空での飛行時間は8,050時間、そのうちA300型機の機長としての飛行時間は1,723時間だった[6]。副操縦士は34歳の男性で、1991年にアメリカン航空に入社し、1998年にA300型機の運航資格を取得した[7]。彼はアメリカン航空に入社する前に、他社やゼネラル・アビエーションで3,220時間の飛行経験があった[7]。アメリカン航空での飛行時間は合計4,403時間で、そのうちA300型機の副操縦士として1,835時間乗務していた[7]。アメリカン航空の記録によると、この日までに、この機長と副操縦士のペアで36回飛行していた[6][8]

事故の経過

出発から離陸まで

東部標準時11月12日8時51分[注釈 2]に定期通報されたJFK空港の気象情報によると、風は310度の方角から風速11ノット(秒速5.7メートル)、視程は10マイル(約16キロメートル)で高度4,300フィート(約1,300メートル)に僅かな雲があった[9]

滑走路31Lに入った事故機。事故当日にJFK空港内の工事現場のカメラ映像に残っていたもので、画像中の時刻は正確ではない[10]

9時1分33秒、地上管制はAA587便に滑走路31Lまでの地上走行を許可した[11][12]。続けて地上管制はAA587便に対し、日本航空47便(以下JL47便)の後ろにつき、飛行場管制(local controller)に通信設定するよう指示した[13][12]。JL47便は、ボーイング社製の747-400型機だった[11]。9時11分8秒に飛行場管制はJL47便に離陸許可を与え、同便は離陸した[11][12]。およそ30秒後、飛行場管制はAA587便に対して「後方乱気流(ウェイク・タービュランス)への注意を促した上で、滑走路31Lで待機するよう指示した[11][12]

9時13分21秒、機長は操縦を担当するよう副操縦士に伝えた[12]。フライト・データ・レコーダー(Flight Data Recorder; FDR)によると、この便では墜落まで自動操縦装置は使用されなかった[12]。9時13分28秒、飛行場管制はAA587便に離陸を許可した[12]。9時13分35秒、副操縦士は機長に先行機との距離が充分か尋ねた[12][14]。それに対して機長は「滑走するから大丈夫、我々が浮揚するまでに5マイル(約8キロメートル)離れるさ」と答えた[12][14]

後方乱気流とは、飛行機の後方に発生する乱気流である[15]。後方乱気流の1種である翼端渦は、翼の両端から発生する螺旋状の渦流であり、周囲の空気を巻き込みながら成長して数分間持続する[15]。飛行するためにより大きな揚力を必要とする飛行機、すなわち重量の大きい飛行機ほど、より強い翼端渦が発生する[15]。軽量機が低空を飛行中に翼端渦に巻き込まれると墜落の危険もある[15]。翼端渦を避けるため、飛行機の最大離陸重量に応じた間隔をあけて飛行することが規則に定められていた[15]。JL47便(ボーイング747)とAA587便(エアバスA300)の場合、2分または7.4キロメートルあけることになっていた[14]

AA587便は9時13分51秒に離陸滑走を開始し、9時14分29秒に浮揚した[14]。先行するJL47便との時間差は1分40秒で、事故後の調査によると両機間の距離は常に水平で8キロメートル、垂直で1,160メートル以上離れていた[12]。9時14分43秒、飛行場管制はAA587便に左旋回してJL47便と同じ経路を取り、ニューヨーク・ターミナルレーダー進入管制(Terminal Radar Approach Control ; TRACON)[注釈 3]に通信設定するよう指示した[14]。9時15分5秒、TRACONの管制官はAA587便に対し高度13,000フィート(約4,000メートル)へ上昇するよう指示した[17][14]。9時15分29秒、機長は「クリーン・マシーン(clean machine)」 を宣言した[14]。これは、降着装置高揚力装置が全て収納されたことを意味する[17]

後方乱気流への遭遇

9時15分35秒ごろ、AA587便は左右の翼を水平にし、高度1,700フィート(約520メートル)を上昇していた[14]。ここからAA587便は、前方を飛ぶJL74便の後方乱気流に2回遭遇する[17][18]。1回目の遭遇は9時15分36秒ごろである[18]。この時、下方向の荷重が0.7g(gは重力加速度)に減少したことをFDRは記録している[14]。これは、体重が7割になることに相当し、体が浮き上がるように感じる状態である[17]

後方乱気流への最初の遭遇と時を同じくして、TRACONの管制官はAA587に左旋回してWAVEY(航法上の交差点)へ向かうよう指示していた[17]。9時15分41秒、機長がこの指示に従っている旨を応答し、これがAA587便から管制への最後の通信となった[17][19]。AA587便は左にバンク角(ロール角)をとって左旋回に入った[20]。9時15分45秒ごろ、機長が「ちょっとした後方乱気流だな(little wake turbulence, huh?)」と発言し、副操縦士は「ええ(yeah)」と答えた[21][20]

9時15分51秒、AA587便は後方乱気流に再度遭遇した[21]。FDRの記録によると、下向きの荷重が1.0g(地上での重力加速度に等しい値)から0.6gまで変化した[20]。9時15分51秒から53秒までに、コックピット・ボイス・レコーダ(CVR)にはドシン、カチッ、ドシン、ドシンという音が記録されていた[22]。同54秒、副操縦士は緊張した声で「最大出力(max power)」と言った[22]。この時の飛行速度は、240ノット(時速約444キロメートル)だった[22][20]

過剰な反応

後方乱気流への2回目の遭遇直後から、副操縦士は操縦輪を左右に激しく回した[23]。それと同時に左右のラダーペダルもほぼ限界まで繰り返し踏み替えた[24][25]

ラダーペダルは操縦席の足元にあり、垂直尾翼の後縁にある方向舵を操作するために用いられる[26][27]。右のラダーペダルを踏むと方向舵面が右に振れて機首が右を向く[27]。反対に左のラダーペダルを踏むと、方向舵面は左に振れて機首は左を向く[27]。ラダーペダルの踏み替えにより、AA587便の方向舵は繰り返し左右に振れた[28]

機長は「大丈夫か?(you all right?)」と尋ね、副操縦士は「ええ、大丈夫です(yeah, I'm fine)」と答えた[22][20]。続けて機長は「しっかり保持しろ、しっかり保持しろ(hang onto it, hang onto it)」と声をかけた[20]。9時15分57秒、副操縦士は「パワーお願いします(Let's go for power please)」と言い、ほぼ同時に大きなドシンという音が、続けて1秒弱後に大きなバンという音がCVRに録音されていた[22][20]。この時点で、垂直尾翼の右後部の接続部が破壊され、垂直尾翼が分離した[22]。この時点の飛行速度は251ノット(時速約465キロメートル)だった[20]

墜落

JFK空港の滑走路31L (Runway 31L) を離陸したAA587便は、ニューヨークのベルハーバー (Belle Harbor) 地区に墜落した。
墜落地点の空撮写真。

9時16分4秒に失速警報音が鳴り出し、その3秒後、副操縦士は「いったいどうなっているんだ…抜け出せない(what the hell are we into...we’re stuck in it)」と言った[29][22][30]。9時16分12秒、機長は「抜け出すんだ、抜け出すんだ(get out of it, get out of it)」と叫び、その2秒後、CVRの録音は終了している[20][31][22]

左右のエンジンが翼から分離し、白煙を引きながら落下するAA587便が多くの人に目撃された [32][33]。飛行機の主要部分は、JFK空港から約8キロメートル南西に位置するベルハーバー地区に墜落した[34][35]

墜落地点は爆発炎上して大きな黒煙が立ちのぼり、煙はJFK空港の管制塔からも確認された[36]。墜落の衝撃と火災により機体は破壊された[37]。墜落地点は住宅地区であり、住宅4棟が破壊され、周囲の6棟の住宅が損傷した[37][35]。左エンジンは直撃こそしなかったもののガソリンスタンド付近に、右エンジンは車道に置かれていたボートに落下し、被害を与えた[38][31]。また、大小の破片が墜落地点までの経路に散乱した[39]

現場には消防車40台以上と約350人の消防士が駆けつけ、消火と救出にあたった[40][41]。しかし搭乗者の生存は絶望的で、巻き添えとなった住民を含め265人の遺体が同日中に収容された[42]。当時のニューヨーク市長のルドルフ・ジュリアーニは現場に急行し、消防士や警察官の迅速な活動を労うとともに、市民に冷静な対応を呼びかけた[43][44]

事故かテロか

本事故はアメリカ同時多発テロ事件からわずか2か月後の出来事であったことから、新たなテロの可能性が疑われ、ニューヨーク市民の間に緊張が走った[40][45][43][46]。ニューヨーク市は最高レベルの警戒態勢を発動し、墜落現場周辺およびマンハッタン島に通じる橋やトンネル、地下鉄が封鎖された[47][48]。ニューヨーク近郊のJFK空港、ラガーディア空港ニューアーク空港は閉鎖され、エンパイア・ステート・ビルディングでも安全対策のため退去命令が出された[43]。ニューヨークにある国連本部では国連総会の開催中であったが、予防的措置として建物が一時封鎖され、全ての歩行者と車両の立ち入りが禁じられた[49][50][51]アメリカ空軍は複数の基地から戦闘機を緊急発進させ、全米上空の警備にあたった[51]

大統領府内に設置されていた国土安全保障局[注釈 4]の局長は、本事故の連絡を受けてすぐに同国司法省連邦捜査局(Federal Bureau of Investigation; FBI)、運輸省連邦緊急事態管理庁の各長官および国防総省連邦航空局(Federal Aviation Administration; FAA)の高官らと連絡を取り墜落原因を分析した[51]。事故とテロの両面で墜落原因の調査が開始されたものの、まもなく事故であった可能性が高いと判断され、調査主体は国家運輸安全委員会(National Transportation Safety Board; NTSB)となった[48][51]

事故調査

事故機の垂直尾翼を前にNTSB委員長のマリオン・ブレイキー(右から3番目の女性)に調査状況を報告している様子(2002年2月11日撮影)。

パイロットは2人ともアメリカ合衆国が定める資格要件を満たしており、乗務に悪影響を及ぼすような医学的問題も確認されなかった[53]。また、2人の疲労は本事故の要因ではないと判断された[54]。事故機の整備は適切に行われていたことも確認された[54]

事故機のCVRは、エンジン分離後もバックアップ電源により動作し、8時45分35秒から9時16分14秒までの音声を記録していた[55]。CVRからは、コックピット内の音声情報を良好な品質で得ることができた[55]。FDRには81時間超のデータが残っていた[56]。そのうち事故のフライトについては、9時14分28秒から同16分1秒までの約1分33秒のデータが記録されていた[56]マリン・パークウェイ=ギル・ホッジス記念橋英語版の監視カメラ映像にAA587便が写っていた[57]。映像にはAA587便は白い筋を引きながら降下している様子が残っており、FDR停止後の同機の解析などに用いられた[57]

エンジンには問題がなかった

事故機は、墜落する前に垂直尾翼と左右のエンジンが分離していた[54]。当初エンジンの異常が事故原因として疑われたものの[42]、CVRとFDRのデータから、エンジンが分離したのは操縦不能に陥る過程、すなわち垂直尾翼の分離後だと確認された[54]。離陸から上昇する間、エンジンに不具合はなく、エンジン操作も正常に行われていた[54]。そして墜落前に目撃された機体火災については、エンジン分離によって漏れた燃料に引火したものか、エンジンのサージングによるものと事故調査委員会は結論づけた[32]

なぜ垂直尾翼が分離したか

先行機との飛行間隔を含めて管制官の指示は適切だった[54]。AA587便が遭遇した2回目の後方乱気流は、それ単独で異常姿勢をもたらすものではなかった[58]。データ解析の結果、垂直尾翼の分離を発端として事故機は操縦不能に陥ったことが判明した[54]

回収された事故機の垂直尾翼。飛行中に分離した尾翼はジャマイカ湾内で発見された。

垂直尾翼は、墜落地点から1.2キロメートル北のジャマイカ湾内で発見・回収された[39]。A300-600型機の垂直尾翼は、左右3対の接合部によって胴体に固定されている[59]。そして、この接合部および垂直尾翼の1次構造[注釈 5]の部材には炭素繊維強化プラスチック(CFRP)が使用されていた[61][59]。本事故は、複合材料を用いた尾翼が飛行中に分離した初めての事例であったことから、構造の強度や耐久性に疑問が生じた[61]。事故から4日後には、FAAとフランスの民間航空当局[注釈 6]が協調し、A300-600型機とエアバスA310型機[注釈 7]の運航者に対して、同型機について垂直尾翼と胴体の接合部および垂直安定板と方向舵の接合部を点検するように、緊急の耐空改善命令を発行した[62]。しかし、回収された残骸を調査した結果、尾翼と胴体の固定部には疲労や欠陥の痕跡はなく、過大応力による破壊の特徴が認められた[63]

事故機の飛行をNTSBが再現したアニメーション。この映像の4:00頃から急激な操縦入力が加わる。

CVRやFDRなどの各種データと数値流体力学に基づくコンピュータシミュレーションによって、事故機の挙動解析が行われた[64]。この解析により、事故機がどう動いたか、どのような操縦入力があったか、そしてどのような空気力荷重が垂直尾翼にかかったかが分析された[64]。2回目の後方乱気流に遭遇した直後、すなわち垂直尾翼が胴体から分離する7秒前から、左右のラダーペダルがほとんど限度まで繰り返し踏み込まれた[65][25]。その結果、横滑り角(ヨー軸まわりの回転を表す角度[66])が増大し、垂直尾翼に極めて大きい荷重がかかった[63]。垂直尾翼には、尾翼を横に倒す向きに働く曲げモーメントと、垂直軸回りに回転させるよう働く捻りモーメントが働く[67]。垂直尾翼には振動的な荷重がかかり、ペダルの踏み替えとともにその振幅が増大した[63][68]

航空機を設計する際には、「制限荷重」と「終極荷重」という2つの荷重が設定される[69]。飛行中に予想される最大の荷重を「制限荷重」といい、設計上の不確かさや製造上のばらつきを考慮して制限荷重に安全率(一般には1.5倍)を乗じたものが「終極荷重」である[69]。調査の結果、事故機の垂直尾翼の付け根にかかった荷重は終極荷重を超え、制限荷重のおよそ2倍に達したと推定された[70][71]

有限要素法を用いた構造解析が行われ、尾翼と胴体をつなぐ6か所の接合部のうち、まず右後方の構造物が破断したと推定された[72]。続いてほぼ瞬間的に残りの接続部が破壊され、垂直尾翼は分離した[73]。この推定結果は、エアバス社が開発時に実施していた耐久試験の結果と一致していた[72]。さらには、事故後に行われた破壊試験および事故機の残骸に残された痕跡とも合致するものだった[72]。尾翼の性能や破壊の挙動は設計どおりであり、FAAによる認証内容とも整合していた[71]

設計時の想定を超える高い負荷がかかった原因は、後方乱気流ではなく過剰な方向舵操作にあった[74]。A300-600型機の操縦系統では、ラダーペダルの操作量はリンク機構と索を介して尾部の方向舵に伝達される[75]。また、方向舵操縦系統には、ヨーダンパー[注釈 8]やトリム[注釈 9]、自動操縦装置の操縦入力を加えるためのアクチュエータが備わっている[75]。各アクチュエータの操作量はラダーペダルにもフィードバックされる[75]。FDRに記録された方向舵の操作パターンは、ヨーダンパーや自動操縦装置からは出力され得ないことが調査により確認された[28]。したがって、事故のきっかけとなった方向舵の挙動は、操縦していた副操縦士によるものと結論づけられた[28]。もし尾翼が分離する前に、ラダーペダルの過剰な操作を副操縦士が止めていれば、機体の安定が回復し事故は防げたと事故調査報告書は述べている[74]

過剰なラダーペダル操作

なぜ副操縦士はラダーペダルを過剰に操作したのか。その要因として事故調査報告書は次の3点を指摘している[78]。1点目は副操縦士が後方乱気流に対して過激(アグレッシブ)に反応する傾向があったこと、2点目は彼が受けたアメリカン航空の訓練内容、3点目はエアバスA300-600型機の方向舵操作系の特性である[78]

副操縦士の傾向

事故調査において、アメリカン航空の機長の1人から事故機の副操縦士に関する証言を得た[78]。彼は、この副操縦士とボーイング727型機を数回運航した経験があった[79]。そのうちの1回で後方乱気流に遭遇した際に、副操縦士はラダーペダルを目一杯まで繰り返し踏みかえた[79][80]。この時、この機長は驚いて、副操縦士にペダル操作が非常にアグレッシブだと指摘した[79][80]。それに対して、副操縦士はアメリカン航空の先進航空機操作プログラム (Advanced Aircraft Maneuvering Program; AAMP)でこのようにラダーペダルを使うよう指導されたと答えた[80]。それに対して機長は、AAMPで教えたラダーペダルの使用事例は低速飛行の場合についてであり、AAMPの内容を復習し、ペダルの使用を控えるよう促した[81]。この機長によると、のちに後方乱気流に遭遇した際には、副操縦士はペダルを目一杯踏み込むことはなかったが、それでも「とても素早く」踏み替えていた[82]。このようなペダル操作をするパイロットに出会ったことがなかったため、727型機の機長はこの副操縦士との出来事を鮮明に覚えていた[83]。一方で、後方乱気流への対応を除くと、副操縦士の操縦能力は素晴らしいと評価される水準だった[83]

アメリカン航空の訓練

アメリカン航空のAAMPは不測の事態に対する訓練であり、座学やビデオ学習、シミュレーター訓練などで構成された[84]。1997年に受講したAAMPの座学において、副操縦士は異常姿勢から回復する際にラダーペダルを補助的に使えることを教わった[85]。AAMPのシミュレーター訓練の中には、AA587便の状況と似たシナリオがあった[86][80]。その訓練では、ボーイング747型機の後を離陸し、後方乱気流に注意するよう告げられる[80]。そして上昇中、軽い揺れに続いて機体が10度ロールする[86][80]。ここまではAA587便と類似しているものの、シミュレーターでは続いて反対側に急激に90度以上ロールする[80]。このシナリオはA300-600型機には非現実的であった[80]。この訓練は、「A300にとって後方乱気流は取り返しがつかなくなる恐れがあり、即座に積極的な対応が必要だ」という誤解を生んだ可能性がある[87][80]

加えて、このシミュレーター訓練でアメリカン航空は、操縦輪とラダーペダルの働きを一部で抑制していた[88][89]。揺動が始まってから10秒間、またはロールの傾きが50度を超えるまで、補助翼と方向舵が利かなくされていた[90][89]。舵を抑制していることはパイロットに知らされなかった[90]。その上で、教官は異常姿勢に素早く対処するよう指示していた[90]。舵を抑制したことで、舵の利き方や適切な使用法について、より誤った理解を促した可能性がある[90][89]

さらに、アメリカン航空のA300-600型機のシミュレーターは、ラダーペダルの操作性が実機と異なっていた[91]。ラダーペダルには、踏み込んだ際に反力が返るよう弾性が設定されている[91][92]。シミュレーターではソフトウェアによってこの弾性を模擬していたが、その特性は実機よりも柔らかく、ペダルをより奥まで踏み込めるようになっていた[91][92]

異常姿勢からの回復法を教えるつもりで作成した訓練プログラムであったものの、その実態は、シミュレーターの設定が非現実的であったため、実際の飛行には不適切であり危険とさえ言えるものだった[90][89]。事故調査報告書は、副操縦士の後方乱気流に対する認識が、この訓練によって非現実的で誇張されたものになった可能性を指摘している[93]

ラダーペダルの操作性

A300-600型機のラダーペダルには、その可動範囲を制限する機械的なリミッターが備わっていた[94]。A300型機の第1世代(エアバスA300参照)では、ペダルの可動範囲は一定で、飛行速度が上がるにつれてペダルの踏み込み量に対する方向舵角が減少する設計だった[95]。これに対してA300-600型機では、ペダルの可動範囲が飛行速度によって変化するよう改められた[95]。これは、設計を単純化して深刻な故障を避けるためだった[95][96]

さらに、第1世代と比べてA300-600型機では、ペダルを踏むのに要する力が減らされた[95]。これは、A300-600型機への改良の際に操縦輪の操舵力(操作に必要な力)を減らす設計変更が加えられたため、操縦輪とペダルの操舵力の整合性をとるための変更だった[97][98]

この2点の変更により、A300-600型機では、ペダル操作力に対する飛行機の応答が敏感になった[97][99]。可動範囲が可変となったことで、ペダル入力に対する方向舵角の変位は一定となった[100][99]。このことは、ペダル操作に対する感度が飛行速度の2乗に比例して増大することを意味する[99][96]。A300-600型機の方向舵操縦系統は、調査された航空運送事業用の航空機のなかで、ペダルの操作力が最も軽かった[100][101]

なぜ2回目の後方乱気流だったのか

事故機は後方乱気流に2回遭遇した。なぜ、副操縦士は1回目ではなく2回目に過剰な反応をしたのか。

事故調査委員会は、その要因として機体のバンク角を指摘している[58]。1回目の遭遇時には、事故機のバンク角はほぼ0(左右の翼が水平)であった[58]。そこから管制官の指示に従って左旋回を開始し、バンク角が左に約23度に傾いたあたりで2回目の後方乱気流に遭遇した[58]。事故調査委員会によるシミュレーションによると、後方乱気流により(操縦入力がなければ)さらに10度左にロールさせる力が働いたと推定された[58]。ただし、シミュレーションにおいて、方向舵で操作するヨー軸には大きな変化は現れなかった[58]。左にバンクしている状態で、機体がさらに左へ回転しようとしたことで、副操縦士は乱気流に対し過剰に反応した可能性がある[58]

機長の対応

2回目の後方乱気流から副操縦士がラダーペダルを激しく操作した際、機長は大丈夫か尋ね、しっかり保持するよう声をかけたものの、操縦を交代することはなかった[28]。機長は、飛行機の挙動は後方乱気流によるものと考えていた節があることに加え、短時間で事態が進行し機長が得られた情報が限られていたことから、機長の対応は理解できる範囲だと事故調査報告書は述べている[28]

事故原因

2004年10月26日に事故調査報告書は採択され[102]、本事故の原因は次のように結論された[101][注釈 10]

事故原因は、副操縦士の不要で過剰なラダーペダル操作により設計上の終極荷重を超えた結果、飛行中に垂直安定板が分離したことである。このようなラダーペダル操作が行われた要因には、A300-600型機のラダーシステムの設計と、アメリカン航空の先進航空機操作プログラム(AAMP)が挙げられる。

マニューバリング・スピードに関する誤解

事故調査が進むにつれて、設計上の設定速度の1つである「マニューバリング・スピード」について、パイロットの多くが誤解していることが明らかになった[103]

設計においてマニューバリング・スピードとは、「加速度が1Gの状態から、パイロットが最大限度で、もしくは操縦装置のストッパーまで操縦入力を急激に加えても飛行機が耐えられる最大速度」である[104][105]。飛行機を設計する際には、ピッチ(縦揺れ)、ロール(横揺れ)、ヨー(偏揺れ)の3軸について、1軸ずつ単一の最大入力が加わった場合を想定する[104][105]。この場合、1軸の入力は途中で変化させず、複数の軸に同時に入力が加わることは想定しない[104][105]。アメリカン航空のパイロットの大多数は、マニューバリング・スピードより低速であれば、ラダーペダルを最大まで繰り返し踏み替えても構造的損傷が起きないよう飛行機は守られていると考えていた[104][103]。アメリカン航空のA300型機運用マニュアルではマニューバリング・スピードに言及しているのは1か所のみで、「それは突風通過速度(turbulence penetration speed)で270ノット(時速500キロメートル)」と記されているだけだった[104][103]。マニューバリング・スピードより低速であったにも拘らず、副操縦士がペダルを極端に踏み替えた結果、AA587便には致命的な構造破壊が生じた[106][107]。事故調査報告書は、マニューバリング・スピード以下において機体構造がどの程度保護されているかについて、パイロット間に誤解が広く行き渡っていると指摘している[101][107]

事故後の対策

本事故を受けて、アメリカン航空は訓練プログラムを見直し、異常姿勢からの回復訓練の内容を改めた[108]。加えて同社は、方向舵の使用法、ラダーペダルのリミッターの動作、垂直尾翼にかかる負荷と横滑り角との関係などをパイロットに周知する措置を講じた[108]。舵を逆方向に操作した際のリスクについて各運航会社に周知するため、エアバス社とFAAも同様の動きをとった[108]

NTSBはFAAおよびフランスの民間航空当局[注釈 6]に対して勧告を出し、A300-600型機ならびにA310型機[注釈 7]について、危険なラダーペダル操作が行われた場合の安全性を向上させるよう求めた[108]

また、本事故の調査過程において、FDRの記録に問題があったことが発覚した[108]。事故機のFDRではフィルタリング後の信号データのみが記録されており、操縦翼面の厳密な位置情報が残されていなかった[108]。必要なデータが正確に記録されるように、FDRの改善対策についてもNTSBはFAAに勧告を行った[108][110]

犠牲者

国籍別の犠牲者数[111][112]
国籍 乗客 乗員 地上
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 176 9 5 190
ドミニカ共和国の旗 ドミニカ共和国 68 0 0 68
中華民国の旗 台湾 3 0 0 3
フランスの旗 フランス[注釈 11] 2 0 0 2
ハイチの旗 ハイチ 1 0 0 1
イスラエルの旗 イスラエル 1 0 0 1
総計 251 9 5 265

本事故では、乳幼児を含む乗客251人と乗員9人の搭乗者260人全員が死亡したほか、同乗していた犬1匹が死亡した[5]。また、地上で巻き込まれた住民5名と犬1匹が死亡した[5]

ラス・アメリカス国際空港では、AA587便の乗客関係者の待機場所が用意された[113]。中には、AA587便が墜落したことを知らずに空港に迎えに来た人もいた[113]。JFK空港では、ラマダプラザホテルに犠牲者の関係者らの待機場所が設置された[114]。集まった人々の多くはドミニカ共和国系であり、ホテルはドミニカ共和国の料理を提供した[114]。その後、ニューヨークの待機所はジェイコブ・ジャヴィッツ・コンベンション・センターへ移された[115]

事故が起きた2001年11月時点で、JFK空港とドミニカ共和国の間の直行便は週に51便運航されており、同年12月には増便も計画されていた[116]。ニューヨークとドミニカ共和国を結ぶ路線は、大半がアメリカン航空によって運航され、実質的に同社の独占路線となっていた[116]。事故機の乗客のおよそ9割はドミニカ系だった[117]。マンハッタンに住むドミニカ系住民の間で、AA587便は憧れの特別なフライトだった[117]。犠牲者の遺族の1人は、「ニューヨーク在住の全てのドミニカ系住民は、自身あるいは知人の誰かが同便を利用したことがある」という声もあった[117]。ニューヨークの旅行代理店主の1人は、事故後の取材で「ドミニカ系住民にとって、クリスマス休暇や夏休みにサントドミンゴへ行くことは、ムスリムメッカへ巡礼するようなものだ」と述べた[116][118]。ドミニカ系住民は本事故を嘆き悲しんだが、ニューヨーク - サントドミンゴ便の予約状況に本事故の影響は見られなかった[116]

ドミニカ共和国へ向かうメジャーリーグの選手やスカウトらも、AA587便を頻繁に利用していた[119]。事故後早い段階において、当時ニューヨーク・ヤンキースに所属していたドミニカ共和国出身のアルフォンソ・ソリアーノがAA587便に搭乗していたという誤報が流れた[120]ものの、彼は事故機には搭乗しておらず無事だった[121]。彼と同郷でチームメイトだった内野手、エンリケ・ウィルソン英語版は、もともと事故当日のAA587便を予約していたものの、ヤンキースが同年のワールドシリーズに敗退したことで、数日前の便で帰省していた[122]

本事故の犠牲者の1人に、ドミニカ共和国出身の26歳女性がいた[123]。彼女は2か月前のアメリカ同時多発テロ事件の際にはワールドトレードセンターのレストランで働いており、幸いにも脱出して九死に一生を得ていたが、故郷に帰るため搭乗した機で事故に遭遇するという不運に見舞われた[117][124]

追悼施設

ロッカウェイ・パークにあるAA587便の追悼施設。

ニューヨーク市・クイーンズ区にあるロッカウェイ・パーク英語版に本事故の追悼施設が建設された[125][126]。ロッカウェイ・パークは墜落現場のベルハーバーに隣接する地区である[126]

事故からちょうど5年後の2006年11月12日、当時のニューヨーク市長マイケル・ブルームバーグも出席して除幕式が行われた[127]。この事故の犠牲者全員の名前が読み上げられ、墜落した午前9時16分に鐘が鳴らされた[125]。以来、この場所では毎年、同じ日の同じ時間に同様の追悼式典が執り行われている[128]

追悼碑は湾曲した壁状で、AA587便が目指していたドミニカ共和国の方角を向き海岸に面して立っている[125][127]。ドミニカ出身のアーティストであるフレディ・ロドリゲス英語版によって設計された[127]。碑には犠牲者全員の名前が刻まれているのに加え、ドミニカの詩人ペドロ・ミア英語版による次の言葉が英語とスペイン語で記されている[127][129]

Después no quiero más que paz / Afterwards I want nothing more than peace.

2007年5月には、身元が特定できなかった遺体片889個が、ブロンクス区ウッドローン墓地にあるマウソレウムに埋葬された[130]

映像化

本事故を主題としたドキュメンタリー作品がいくつか制作されている。2006年には、ナショナルジオグラフィックが『衝撃の瞬間』第4シーズン第1話で「クイーンズ墜落事故」として本事故を取り上げた[131]。2014年には同じくナショナルジオグラフィックの『メーデー!:航空機事故の真実と真相』第11シーズン第5話で「アメリカン航空587便(原題: Queens Catastrophe)」で本事故が描かれた[132]BBCでもドキュメンタリー番組『ホライゾン』で本事故を主題として取り上げた[133]

脚注

注釈

  1. ^ 離陸から着陸までを1回として数える。
  2. ^ 本項における時間表記はアメリカ東部標準時とし24時間表記を用いる。
  3. ^ JFK空港とその近隣に位置するラガーディア空港ニューアーク空港を含む空域において、離陸して巡航高度に上昇する出発機および、巡航高度から降下する到着機を誘導する管制業務を担当していたのがニューヨークTRACONである[16]
  4. ^ 同時多発テロを受けてアメリカ大統領府内に国土安全保障局が設置され、2002年によりアメリカ合衆国国土安全保障省に再編された[52]
  5. ^ 翼全体の荷重を分担して胴体まで伝達する構造[60]
  6. ^ a b エアバス社の本社はフランスにあった。
  7. ^ a b A300-600型機とA310型機は、垂直尾翼の構造が共通である[109]
  8. ^ ヨーダンパーとは、フィードバック制御により自動的に方向舵を操作する装置である[76]。主に、ダッチロールモードと呼ばれる振動を減衰させるのに用いられる[76]
  9. ^ パイロットが操縦装置に力を加えることなく、そのままの姿勢で飛行できるよう釣合いをとること[77]
  10. ^ 事故調査報告書 NTSB 2004, p. 160 の原文は以下の通り:
    The National Transportation Safety Board determines that the probable cause of this accident was the in-flight separation of the vertical stabilizer as a result of the loads beyond ultimate design that were created by the first officer’s unnecessary and excessive rudder pedal inputs. Contributing to these rudder pedal inputs were characteristics of the Airbus A300-600 rudder system design and elements of the American Airlines Advanced Aircraft Maneuvering Program.
  11. ^ アメリカン航空がイギリス人と特定した乗客1名はフランスのパスポートを所持しており、イギリスの外務・英連邦省はフランス人と判断した[111]

出典

  1. ^ a b c NTSB 2004, p. 1.
  2. ^ a b NTSB 2004, p. 14.
  3. ^ a b 青木謙知『旅客機年鑑2014-2015』イカロス出版、2014年、122–125頁。ISBN 978-4-86320-820-9 
  4. ^ (English) (PDF) EASA Type-Certificate Data Sheet No. A.172, Issue 1, European Aviation Safety Agency (EASA), (2014), https://easa.europa.eu/documents/type-certificates/aircraft-cs-25-cs-22-cs-23-cs-vla-cs-lsa/easaa172 2015年10月27日閲覧。 
  5. ^ a b c d Vidoli & Mundorff 2012, p. 412.
  6. ^ a b c d e NTSB 2004, pp. 9–10.
  7. ^ a b c NTSB 2004, pp. 11.
  8. ^ 加藤 2007, pp. 135–136.
  9. ^ NTSB 2004, p. 45.
  10. ^ NTSB footage of takeoff from construction site, National Transportation Safety Board, オリジナルのJune 22, 2011時点におけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20110622112510/http://www.ntsb.gov/events/2001/AA587/anim_587.htm 
  11. ^ a b c d NTSB 2004, p. 2.
  12. ^ a b c d e f g h i j 加藤 2007, p. 137.
  13. ^ NTSB 2004, pp. 2, 47.
  14. ^ a b c d e f g h i NTSB 2004, p. 3.
  15. ^ a b c d e 飛行機の百科事典編集委員会 編「後方乱流」『飛行機の百科事典』2009年12月、232–235頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  16. ^ 平田, 輝満 (2010), “ニューヨーク首都圏空域における航空管制の現状と空域再編--我が国首都圏空域における航空管制運用の効率化への示唆”, 運輸政策研究 (運輸政策研究機構) 13 (2): 33-41, ISSN 13443348, https://ci.nii.ac.jp/naid/40017261713/ 
  17. ^ a b c d e f 加藤 2007, p. 139.
  18. ^ a b NTSB 2004, pp. 3, 134.
  19. ^ NTSB 2004, pp. 3, 194.
  20. ^ a b c d e f g h i NTSB 2004, p. 4.
  21. ^ a b 加藤 2007, p. 140.
  22. ^ a b c d e f g h 加藤 2007, p. 143.
  23. ^ NTSB 2004, pp. 134–147.
  24. ^ NTSB 2004, pp. 134, 146.
  25. ^ a b 加藤 2008, 位置No. 2657/3446.
  26. ^ 飛行機の百科事典編集委員会 編「コックピットの装備」『飛行機の百科事典』2009年12月、104–108頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  27. ^ a b c 飛行機の百科事典編集委員会 編「操縦系統」『飛行機の百科事典』2009年12月、109–112頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  28. ^ a b c d e NTSB 2004, p. 134.
  29. ^ NTSB 2004, p. 5.
  30. ^ Paul 2014, 位置No. 7200/8214.
  31. ^ a b Paul 2014, 位置No. 7208/8214.
  32. ^ a b NTSB 2004, pp. 133–134.
  33. ^ Paul 2014, 位置No. 7207/8214.
  34. ^ NTSB 2004, p. 8.
  35. ^ a b “アメリカン航空機墜落 NYに悪夢ふたたび 近くの学校、泣き叫ぶ児童”. 読売新聞 東京朝刊: p. 39. (2001年11月13日) 
  36. ^ NTSB 2004, p. 47.
  37. ^ a b NTSB 2004, p. 9.
  38. ^ NTSB 2004, pp. 50, 133.
  39. ^ a b NTSB 2004, p. 50.
  40. ^ a b “アメリカン航空機墜落 火の玉、住宅地に 「人が落ちてきた」恐怖におびえる市民”. 毎日新聞 東京朝刊: p. 27. (2001年1月13日) 
  41. ^ “米旅客機がNY住宅地に墜落、十数棟炎上 255人乗り、離陸直後”. 朝日新聞 東京朝刊: p. 1. (2001年11月13日) 
  42. ^ a b “アメリカン航空機墜落 「事故の可能性」265遺体収容--米国務長官がテロ否定”. 毎日新聞 東京夕刊: p. 1. (2001−11−13) 
  43. ^ a b c “NY、再び厳戒態勢 米旅客機墜落事故”. 朝日新聞 東京夕刊: p. 3. (2001年11月13日) 
  44. ^ “国連本部に緊張走る 一般演説の最中に一報 米旅客機、NYに墜落”. 朝日新聞 東京朝刊: p. 3. (2001年11月13日) 
  45. ^ “朝のNYに悪夢再び 休日の住宅街炎上 米旅客機墜落”. 朝日新聞 東京朝刊: p. 39. (2001年11月13日) 
  46. ^ Paul 2014, 位置No. 7170/8214.
  47. ^ “米旅客機、ニューヨークで墜落 密集地、民家炎上--テロとの関連捜査”. 毎日新聞 東京朝刊: p. 1. (2001年11月13日) 
  48. ^ a b “NYで255人乗り旅客機墜落 住宅密集地炎上、死傷者多数の模様”. 読売新聞 東京朝刊: p. 1. (2001年11月13日) 
  49. ^ “NYで航空機墜落 衝撃走る国連本部 総会に各国首脳集結”. 読売新聞 東京朝刊: p. 5. (2001年11月13日) 
  50. ^ “国連本部に緊張走る 一般演説の最中に一報 米旅客機、NYに墜落”. 朝日新聞 東京朝刊: p. 3. (2001年11月13日) 
  51. ^ a b c d “NY旅客機墜落 米、危機管理で騒然 「テロ」打ち消しに躍起--国民に平静訴え”. 毎日新聞 東京夕刊: p. 2. (2001−11−13) 
  52. ^ 富井, 幸雄 (2018), “国土安全保障の概念 : 法的考察”, 法学会雑誌 (首都大学東京都市教養学部法学系) 58 (2): 77-117, ISSN 1880-7615 
  53. ^ NTSB 2004, pp. 53, 133.
  54. ^ a b c d e f g NTSB 2004, p. 133.
  55. ^ a b NTSB 2004, p. 48.
  56. ^ a b NTSB 2004, p. 49.
  57. ^ a b NTSB 2004, pp. 53–54.
  58. ^ a b c d e f g NTSB 2004, p. 147.
  59. ^ a b NTSB 2004, p. 15.
  60. ^ 飛行機の百科事典編集委員会 編「翼の構造」『飛行機の百科事典』2009年12月、346–351頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  61. ^ a b Gero 2017, p. 335.
  62. ^ NTSB 2004, p. 110.
  63. ^ a b c NTSB 2004, p. 135.
  64. ^ a b NTSB 2004, pp. 54–55, 135.
  65. ^ NTSB 2004, pp. 134–135, 149.
  66. ^ 飛行機の百科事典編集委員会 編「運動モード」『飛行機の百科事典』2009年12月、328–333頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  67. ^ 加藤 2007, pp. 145–146.
  68. ^ 加藤 2007, pp. 147–148.
  69. ^ a b 加藤 2007, p. 147.
  70. ^ 加藤 2007, pp. 146–148.
  71. ^ a b NTSB 2004, pp. 136–137.
  72. ^ a b c NTSB 2004, p. 136.
  73. ^ NTSB 2004, pp. 70, 136.
  74. ^ a b NTSB 2004, p. 149.
  75. ^ a b c NTSB 2004, pp. 18–20.
  76. ^ a b 飛行機の百科事典編集委員会 編「安定性増大装置」『飛行機の百科事典』2009年12月、156–158頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  77. ^ 飛行機の百科事典編集委員会 編「トリムのとり方」『飛行機の百科事典』2009年12月、156–158頁。ISBN 978-4-621-08170-9 
  78. ^ a b c NTSB 2004, p. 137.
  79. ^ a b c NTSB 2004, pp. 12, 137.
  80. ^ a b c d e f g h i 加藤 2007, p. 144.
  81. ^ NTSB 2004, p. 12.
  82. ^ NTSB 2004, pp. 12–13.
  83. ^ a b NTSB 2004, p. 13.
  84. ^ NTSB 2004, pp. 80–82.
  85. ^ NTSB 2004, pp. 140–141.
  86. ^ a b NTSB 2004, p. 141.
  87. ^ NTSB 2004, pp. 141–142.
  88. ^ 加藤 2007, pp. 144–145.
  89. ^ a b c d NTSB 2004, p. 142.
  90. ^ a b c d e 加藤 2007, p. 145.
  91. ^ a b c NTSB 2004, p. 91.
  92. ^ a b Gero 2017, p. 336.
  93. ^ NTSB 2004, pp. 142–143.
  94. ^ NTSB 2004, pp. 20–23.
  95. ^ a b c d NTSB 2004, p. 24.
  96. ^ a b 加藤 2007, pp. 148–149.
  97. ^ a b NTSB 2004, pp. 24–25.
  98. ^ 加藤 2007, p. 148.
  99. ^ a b c NTSB 2004, pp. 25–26.
  100. ^ a b 加藤 2007, p. 149.
  101. ^ a b c NTSB 2004, p. 160.
  102. ^ NTSB 2004, p. 164.
  103. ^ a b c 加藤 2007, p. 150.
  104. ^ a b c d e NTSB 2004, p. 155.
  105. ^ a b c 加藤 2007, pp. 150–151.
  106. ^ NTSB 2004, pp. 155–156.
  107. ^ a b 加藤 2007, p. 151.
  108. ^ a b c d e f g Gero 2017, p. 33.
  109. ^ NTSB 2004, p. 30.
  110. ^ NTSB 2004, p. 163.
  111. ^ a b “Flight 587: Final Passenger List”. The Guardian. Associated Press. (2001年11月15日). オリジナルの2016年12月21日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161221134838/https://www.theguardian.com/world/2001/nov/15/airbuscrash.usa 2018年12月21日閲覧. "The Foreign Office has said passenger Sylvie Greleau, identified as British by American Airlines, carried a French passport, and as far it was concerned she was French. Ms Greleau, a sales and marketing director for Menzies Aviation Group, was formerly based in London." 
  112. ^ Barry, Dan; Gootman, Elissa (2001年11月14日). “THE CRASH OF FLIGHT 587: BELLE HARBOR; 5 Neighbors Gone, and a Jet Engine Where a Child's Bike Might Have Been”. The New York Times. オリジナルの2013年12月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131225061226/http://www.nytimes.com/2001/11/14/nyregion/crash-flight-587-belle-harbor-5-neighbors-gone-jet-engine-where-child-s-bike.html 2013年5月13日閲覧。 
  113. ^ a b Shocked relatives gather at Dominican airport”. CNN (2001年11月13日). 2008年12月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年6月6日閲覧。
  114. ^ a b Hotel Near JFK Airport is Familiar With Airline Tragedy”. CNN (2001年11月17日). 2014年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月29日閲覧。
  115. ^ Banduci, Lucy (2011年11月15日). “JFK’s Ramada Hotel Once Again Becomes Makeshift Crisis Center”. Queens Chronicle. オリジナルの2014年3月9日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20140309050715/http://www.qchron.com/editions/queenswide/jfk-s-ramada-hotel-once-again-becomes-makeshift-crisis-center/article_582561ba-518b-5376-b880-00ffa3ed79b4.html 2016年1月13日閲覧。 
  116. ^ a b c d Kugel, Seth (2001年11月18日). “Now Boarding, Dreams”. The New York Times. オリジナルの2016年3月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160307104458/http://www.nytimes.com/2001/11/18/nyregion/now-boarding-dreams.html 2018年1月30日閲覧。 
  117. ^ a b c d Younge, Gary (2006年11月10日). “Flight to the death”. The Guardian. オリジナルの2012年11月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20121113035208/http://www.guardian.co.uk/lifeandstyle/2006/nov/11/weekend.garyyounge 2013年10月15日閲覧。 
  118. ^ Smith, Patrick (2004年11月5日). “Don't blame the pilot for the crash of Flight 587. The truth is much more complicated”. Salon.com. 2011年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年10月15日閲覧。
  119. ^ Kepner, Tyler (2001年11月13日). “BASEBALL: Scouts had used doomed flight”. The New York Times. オリジナルの2013年11月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131113011435/http://www.nytimes.com/2001/11/13/sports/baseball-scouts-had-used-doomed-flight.html 2013年10月15日閲覧。 
  120. ^ Soriano Heads Home To Help”. New York Daily News (2001年11月15日). 2012年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年6月6日閲覧。
  121. ^ Davidof, Ken (2001年11月14日). “Soriano Hardly a Victim / He wasn't on doomed flight, but will help Dominicans”. Newsday.com. 2013年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年10月15日閲覧。
  122. ^ Olney, Buster (2005年5月3日). “Epilogue: 'The Last Night of the Yankee Dynasty'”. オリジナルの2018年8月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150814051810/http://sports.espn.go.com/mlb/columns/story?columnist=olney_buster&id=2051491 2016年1月13日閲覧。 
  123. ^ “Airline releases victim list”. CNN. (2001年11月15日). オリジナルの2009年6月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090612140320/http://archives.cnn.com/2001/US/11/13/crash.victimlist/index.html 2009年6月6日閲覧。 
  124. ^ Mikkelson, Barbara (2008年4月23日). “WTC Survivor Dies on AA Flight 587, Second Scythe”. Snopes.com. 2013年10月15日閲覧。
  125. ^ a b c Flight 587 Memorial Dedicated in Rockaways”. WNYC (2006年11月13日). 2008年12月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月20日閲覧。
  126. ^ a b Memorial service marks 16th anniversary of Flight 587 crash in Belle Harbor, Queens”. abc7ny.com (2017年11月12日). 2018年4月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月20日閲覧。
  127. ^ a b c d NYC dedicates memorial to Flight 587”. NBC News (2006年11月12日). 2018年12月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月20日閲覧。
  128. ^ Ceremonies - Flight 587 Memorial Service”. NYC.gov (2017年11月12日). 2019年2月6日閲覧。
  129. ^ “Families dedicate Flight 587 memorial on 5-year anniversary”. The International Herald Tribune. The Associated Press (IHT). (2006年11月12日). オリジナルの2009年2月1日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20090201155045/http://www.iht.com/articles/ap/2006/11/12/america/NA_GEN_US_Flight_587_Anniversary.php 
  130. ^ Lee, Trymaine (2007年5月7日). “Only 4 Coffins, but 265 Victims Are Mourned at Mass in the Bronx”. The New York Times (NYTimes Co.). オリジナルの2017年10月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20171014092737/http://www.nytimes.com/2007/05/07/nyregion/07remains.html 2018年12月20日閲覧。 
  131. ^ 1 ・・ 5”. ナショナル ジオグラフィック. 2019年2月2日閲覧。
  132. ^ 1 ・・ 5”. 2019年2月2日閲覧。
  133. ^ BBC - Science & Nature - Horizon - Flight 587”. BBC Home (May 8, 2003-05-08). May 1, 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月2日閲覧。

参考文献

事故調査報告書

書籍・雑誌記事等

  • 加藤, 寛一郎 (2007), まさかの墜落, 大和書房, ISBN 9784479391555 
  • 加藤寛一郎『航空機事故50年史 : 第一人者がはじめてすべてを明かす』(Kindle)講談社〈講談社+α文庫〉、2008年。 
  • Gero, David (2017), Aviation Disasters: The World’s Major Civil Airliner Crashes Since 1950 (Kindle; Sixth ed.), The History Press, ISBN 9780752499925 
  • Paul, Simpson (2014), The Mammoth Book of Air Disasters and Near Misses (Kindle ed.), Robinson 
  • Vidoli, Giovanna M.; Mundorff, Amy Z. (2012-04-01), “Victim Fragmentation Patterns and Seat Location Supplements Crash Data: American Airlines Flight 587”, Aviation, Space, and Environmental Medicine 83 (4): 412, doi:10.3357/ASEM.3155.2012 

オンライン資料

外部リンク