「シャマシュ・シュム・ウキン」の版間の差分
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| 画像 = Detail of a stone monument of Shamash-shum-ukin as a basket-bearer. 668-655 BCE. From the temple of Nabu at Borsippa, Iraq and is currently housed in the British Museum.jpg |
| 画像 = Detail of a stone monument of Shamash-shum-ukin as a basket-bearer. 668-655 BCE. From the temple of Nabu at Borsippa, Iraq and is currently housed in the British Museum.jpg |
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| 画像説明 = シャマシュ・シュム・ウキンの像([[大英博物館]]蔵) |
| 画像説明 = カゴを運ぶシャマシュ・シュム・ウキンの石像、クローズアップ。前668年-前644年。[[ボルシッパ]]の[[ナブー]]神殿より発見([[大英博物館]]蔵) |
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| 在位 = 前668年-前648年 |
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| 父親 = アッシリア王[[エサルハドン]] |
| 父親 = アッシリア王[[エサルハドン]] |
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| 母親 = 不明{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=174–176}}、恐らくはバビロニア出身の女性{{sfn|Ahmed|2018|p=65–66}}。 |
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'''シャマシュ・シュム・ウキン''' |
'''シャマシュ・シュム・ウキン'''([[英語]]:''Shamash-shum-ukin''/''Shamashshumukin''{{Sfn|Mullo-Weir|1929|p=553}}、[[アッカド語]]:''Šamaš-šuma-ukin''{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=168}}/''Šamaš-šumu-ukīn''{{Sfn|Frahm|2005|p=47}}、「[[シャマシュ]]神は後継者を立てり{{Sfn|Frahm|2005|p=47}}」、在位:前668年-前648年)はアッシリア支配下の{{仮リンク|バビロン王|label=バビロンの王|en|King of Babylon}}。[[アッシリア|新アッシリア]]時代のアッシリア王[[エサルハドン]]の息子であり、アッシリア王となった弟の[[アッシュールバニパル]]と共に王位に就いた。彼はサウルムギナ(''Saulmugina''{{Sfn|Budge|2010|p=52}})、あるいはサルムゲ(''Sarmuge''{{Sfn|Teppo|2007|p=395}})という名前でも言及される。 |
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エサルハドンは前672年に、存命中の王子で最年長であったにも関わらずシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王位継承者に指名し、弟のアッシュールバニパルをアッシリアの王位継承者とした。エサルハドンが作らせた条約文書はアッシュールバニパルを上位者とするものであったが、両者の関係について若干の曖昧さを残すものであった。エサルハドンの死後、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュールバニパルの王位継承の数ヶ月後になってバビロンの王位に登り、その治世を通じてその決定と命令はアッシュールバニパルの承認と確認を経た上でのみ有効とされた。 |
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アッシリア王[[エサルハドン]]の息子として生まれた。エサルハドンの長子[[シン・イディナ・アパラ]]({{lang|en|Sin-iddin-apli}})が[[紀元前672年]]に死去していたために、アッシュールバニパルが上位者たるアッシリア王、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニア王としてそれぞれ即位する事となったが、恐らくシャマシュ・シュム・ウキンの方が兄であり、弟であるアッシュールバニパルがアッシリア王に付くに至った経緯は完全には明らかではないが、エサルハドンの生母[[ナキア]](ザクトゥ)の策動があった事が知られる。 |
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最終的にシャマシュ・シュム・ウキンはこの境遇からの離脱を試み、前652年にアッシュールバニパルに対して反乱を起こした。反乱のためにアッシリアに敵対する勢力をいくつも同調させることに成功したが、にも関わらず反乱は悲惨な結果に終わった。2年にもわたるアッシュールバニパルのバビロン包囲の後、シャマシュ・シュム・ウキンは自殺に追い込まれ、[[焼身自殺|自らに火をかけて]]死亡した。 |
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エサルハドンの死後10年以上にわたってその状態を甘受していたが、[[紀元前652年]]にアッシュールバニパルに対し反乱を起こした。なぜ反乱がこの時であったのかは分かっていない。この反乱には[[エラム]]({{仮リンク|フンバンタラ朝|ru|Новоэламская династия}})や{{仮リンク|海の国|ru|Страна Моря}}の首長[[ナブー・ベール・シュマティ]]({{lang-ru|Набу-бел-шумате}}, {{lang-en-short|Nabu-bel-shumati}})等も加わった。しかし、アッシュールバニパルはアッシリアに持ち去られていた[[マルドゥク]]神像をバビロニアに返還していた他、南部バビロニアの[[都市]]に懐柔工作を取っており、シャマシュ・シュム・ウキンが反乱を起こすと[[ウル]]をはじめ南部バビロニアの諸都市はアッシュールバニパル側に寝返った。 |
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シャマシュ・シュム・ウキンは恐らくアッシリア王[[エサルハドン]]の次男であり、兄に王太子{{仮リンク|シン・ナディン・アプリ|en|Sin-nadin-apli}}がいた{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=168}}。シン・ナディン・アプリは前674年に急死した。自らが極めて困難な王位継承争いの上に即位したエサルハドンは同じ問題を回避することを切望しており、すぐに新たな王位継承計画の策定を始めた{{sfn|Ahmed|2018|p=63}}。 |
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前672年5月、恐らくエサルハドンの4番目の息子(間違いなくシャマシュ・シュム・ウキンよりは若い)[[アッシュールバニパル]]がエサルハドンによってアッシリアの王位継承者に指名され、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロニアの王位継承者に指名された{{Sfn|Encyclopaedia Britannica||p=}}。両名は共にニネヴェに到着し、外国の代表、アッシリアの貴族、そして兵士たちからの祝賀を共有した{{sfn|Ahmed|2018|p=64}}。息子の一人をアッシリアの王位継承者とし、別の一人をバビロンの王位継承者とするのは新機軸であった。それまでの数十年間、アッシリア王は同時にバビロンの王を兼任していた{{Sfn|Radner|2003|p=170}}。 |
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[[紀元前650年]]までにバビロニアの主だった都市はアッシュールバニパルに奪われ、[[バビロン]]も包囲された。シャマシュ・シュム・ウキンは2年にわたって包囲に耐えたが、食料の欠乏のため(城内で食人が行われたと言う)紀元前648年にバビロンは陥落し、彼も戦死した。一説には宮殿に火を放って自殺したとも言われる。 |
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明らかにエサルハドンの第一の称号であったアッシリア王の継承者に弟を任命し、兄をバビロンの王位とする処置は、彼ら二人の母親によって説明できるかもしれない。アッシュールバニパルの母親は恐らくアッシリア出身であり、シャマシュ・シュム・ウキンの母はバビロンの出身であった(これは確実ではない。アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟である可能性もある{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=174–176}})。このためシャマシュ・シュム・ウキンがもしもアッシリア王となれば問題を引き起こした可能性がある。エサルハドンはバビロニア人が自分たちの王を戴くことに満足すると推測し、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロンおよびアッシリア帝国の南部の継承者とするように取り計らったのであろう{{sfn|Ahmed|2018|p=65–66}}。エサルハドンによって作成された条約は彼が二人の息子たちがどのような関係を持つことを意図していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュールバニパルが帝国の第一の継承者であり、シャマシュ・シュム・ウキンが彼に対して忠誠の誓いを立てることは明白であったが、別の部分ではアッシュールバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に介入しないことも明記されており、これはより対等な関係を示唆する{{sfn|Ahmed|2018|p=68}}。なお、エサルハドンには3番目の息子シャマシュ・メトゥ・ウバリト(''Shamash-metu-uballit'')もいたが、彼はこの王位継承計画において完全に除外されている。これは恐らく彼が健康に恵まれなかったためであろう{{Sfn|Novotny|Singletary|2009|p=170}}。 |
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治世最後の数年間、エサルハドンが頻繁に病を患っていたため、アッシリア帝国の行政的義務の大半はアッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって担われた{{Sfn|Radner|2003|p=170}}。 |
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== 治世 == |
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[[File:Confirmation_by_Shamash-shum-ukim_of_a_grant_originally_made_by_Ashur-nadin-shumi._670-650_BCE,_from_Babylonia,_Iraq._The_tablet_is_currently_housed_in_the_British_Museum.jpg|alt=|left|thumb|[[アッシュール・ナディン・シュミ]]が定めた給付を確認するシャマシュ・シュム・ウキンの証書。前670年-前650年([[大英博物館]]蔵)。]] |
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前669年末ににエサルハドンが死去した後、彼が定めた継承計画に従ってアッシュールバニパルがアッシリア王となった。翌年の春、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロンの王位に就き、バビロン市の主神{{仮リンク|マルドゥク像|label=マルドゥクの像|en|statue of Marduk}}がバビロンに返還された。この像は20年程前、シャマシュ・シュム・ウキンとアッシュールバニパルの祖父[[センナケリブ]]がバビロンから奪っていたものである。シャマシュ・シュム・ウキンは以降16年間、明らかに概ねアッシュールバニパルとの平和的な関係を維持しバビロンで統治することになる、しかしシャマシュ・シュム・ウキンの正確な支配領域を巡って見解の不一致を繰り返した{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}。エサルハドンの碑文では、シャマシュ・シュム・ウキンが全バビロニアの支配権を与えられるべきことが示されているが、同時代史料によって間違いなく証明されているのは彼がバビロン自体とその周辺を保持していたことだけである。[[ニップル]]市、[[ウルク (メソポタミア)|ウルク市]]、[[ウル]]市のようなバビロニアの諸都市の総督たち、そして「海の国」の首長たちはバビロン王の存在を完全に無視し、アッシュールバニパルを自らの君主と見なした{{Sfn|Ahmed|2018|p=80}}。 |
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シャマシュ・シュム・ウキンがいくつかの伝統的なバビロニア王の行事に参加したことが記録に残されている。彼は[[シッパル]]市の市壁を再建し、バビロニアの信念差異に参加した{{Sfn|Ahmed|2018|p=80}}。彼は自分の支配領域にある諸神殿にかなりの注意を払い、自身の碑文においていくつかの神殿に寄進を行ったことを印、ウルクの[[イシュタル]]神殿の土地を拡大した{{Sfn|Ahmed|2018|p=82}}。 |
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エサルハドンによってシャマシュ・シュム・ウキンがバビロン王に指名されていたにもかかわらず、アッシュールバニパルは自身の碑文において自分がシャマシュ・シュム・ウキンにバビロンの支配を与えたと記している。これは恐らく、シャマシュ・シュム・ウキンが公式に即位したのがアッシュールバニパル即位の数ヶ月後であったことによるで。シャマシュ・シュム・ウキンの即位を止める権力がアッシュールバニパルにはあったであろう{{Sfn|Ahmed|2018|p=87}}。 |
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=== 地位 === |
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[[File:Meso2mil-English.JPG|thumb|[[メソポタミア]]の主要都市の地図。|alt=]] |
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アッシュールバニパルに対してシャマシュ・シュム・ウキンが反旗を翻した正確な理由は不明であるが、いくつかの可能性がある。恐らく、最も一般的に考えられている理由は、エサルハドンによってシャマシュ・シュム・ウキンが全バビロニアの支配を継承することが定められていたにもかかわらず、エサルハドンの死後アッシュールバニパルがこれを尊重しなかったことである。バビロニア全域においてシャマシュ・シュム・ウキンの名を持つ商業文書が発見されている(これはバビロニアの大部分でシャマシュ・シュム・ウキンが王とみなされていたことを示す)。しかし、アッシュールバニパルの治世中の同様の文章もまたバビロニアから発見されており、これはアッシュールバニパルが(バビロンの王の存在にもかかわらず)バビロニアの君主とみなされていたことを示す{{Sfn|Ahmed|2018|pp=82–83}}。 |
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バビロン、{{仮リンク|ディルバト|en|Dilbat}}、ボルシッパ、シッパルからはアッシュールバニパルの商業文書は全く見つかっておらず、これらの都市が完全にシャマシュ・シュム・ウキンの下にあったことが示されている。しかし、アッシュールバニパルはバビロニア全域にエージェントを配置しており(シャマシュ・シュム・ウキンではなく)自身へと直接報告を行わせていた。そして碑文記録によって、シャマシュ・シュム・ウキンが自身の臣下たちに与えたのいかなる命令も、実行に移される前にまずアッシュールバニパルの確認と承認を得なければならかったことが示されている{{Sfn|Ahmed|2018|p=83}}。アッシュールバニパルはシャマシュ・シュムウキンの支配地の遥か内側であったはずの都市ボルシッパに常駐部隊と役人を置いていた{{Sfn|Ahmed|2018|p=84}}。バビロンの役人から直接アッシュールバニパルに送付された請願書も現存している。シャマシュ・シュム・ウキンがバビロンにおいて普遍的に尊重される主権者であったならば、彼がこのような書簡の最終受取人であったであろう{{Sfn|Ahmed|2018|p=85}}。 |
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アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが平和的に共存していた時代のバビロニアから発見された王室文書には両方の名前が記されているが、それと同時代のアッシリアから発見された文書にはアッシュールバニパルの名前しかなく、この二人の王が同等でなかったという見解を補強している。ウルクはバビロニアに位置する都市であったにもかかわらず、ウルク総督クドゥル(Kudurru)はアッシュールバニパルに宛てた書簡で{{仮リンク|全土の王|en|King of the Lands}}という称号を彼に付している。これはクドゥルがシャマシュ・シュム・ウキンではなくアッシュールバニパルを自らの君主として見ていたことを示している{{Sfn|Ahmed|2018|p=86}}。シャマシュ・シュム・ウキン自身は自らをアッシュールバニパルと対等であると見ていたと考えられ、書簡においてアッシュールバニパルに対してシンプルに「我が兄弟」と呼び掛けている(これはシャマシュ・シュム・ウキンが父親のエサルハドンに対して「王、我が父」と書いていたのとは異なる)。シャマシュ・シュム・ウキンからアッシュールバニパルに送られた書簡が複数現存しているが、それに対する返信は残されていない。アッシュールバニパルが情報提供者網を張っていたため、シャマシュ・シュム・ウキンに書簡を描く必要を感じなかったのかもしれない{{Sfn|Ahmed|2018|p=87}}。 |
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=== アッシュールバニパルに対する反乱と死 === |
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前650年代後半までにシャマシュ・シュム・ウキンとアッシュールバニパルの間の敵意は増大した。シャマシュ・シュム・ウキンの廷臣であったザキル(Zakir)からアッシュールバニパルへ与えられた手紙では、「海の国」からの使者がシャマシュ・シュム・ウキンの面前で公然とアッシュールバニパルを批判したことが述べられているが「これは王の言葉ではありません!」というフレーズが用いられている。ザキルはシャマシュ・シュム・ウキンがこの発言に怒りを示したことを報告しているが、同時に彼とバビロンの総督ウバル(Ubaru)がこの使者に対して何の処置も行わないことにしたことも報告している{{Sfn|Ahmed|2018|p=88}}。恐らくシャマシュ・シュム・ウキンの反乱のは以後にあった最も重要な要因は兄弟であるアッシュールバニパルに対する自身の地位への不満、バビロニア人のアッシリアに対する一般的かつ不変の怒り、アッシリアと戦う者に加担する[[エラム]]の支配者たちの尽きることの無い熱意であった{{Sfn|Ahmed|2018|p=90}}。 |
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前652年にシャマシュ・シュム・ウキンは反乱を起こした{{Sfn|MacGinnis|1988|p=38}}。この内戦はその後3年間続くことになる{{Sfn|Ahmed|2018|p=8}}。碑文史料からシャマシュ・シュム・ウキンがバビロンの市民に対して自分の反乱に参加するよう呼びかけたことがわかる。アッシュールバニパルの碑文ではシャマシュ・シュム・ウキンの「アッシュールバニパルはバビロニア人の名を恥で覆う」という発言が引用されている。アッシュールバニパルはこれを「風(風聞)」「嘘」と言っている。このすぐ後にシャマシュ・シュム・ウキンは反乱に踏み切り、南部メソポタミアの他の地域でもシャマシュ・シュム・ウキンについてアッシュールバニパルに対する反乱の火の手が上がった{{Sfn|Ahmed|2018|p=91}}。 |
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アッシュールバニパルの碑文によれば、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリアに対抗するための同盟相手を見つけることに大きな成功を収めた。アッシュールバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの同調者を3つのグループに分類している。第一に何よりもまず[[カルデア人]]、[[アラム人]]およびバビロニアに住むその他の人々、第二にエラム人、第三に[[グティ人]]、[[アムル人]](アムル人)、そして{{仮リンク|メルッハ|en|Meluhha}}の王たちである。第三のグループの王たちは[[メディア王国|メディア人]]のことであるかもしれないが(グティ人、アムル人、メルッハはこの時点ではもはや存在していない)が、不明瞭である。メルッハはエジプトを指した者である可能性があるが、彼らはこの戦争においてシャマシュ・シュム・ウキンに支援を行ってはいない。シャマシュ・シュム・ウキンはエラムに使者を送り贈り物(アッシュールバニパルはこれを「賄賂」と呼んでいる)、エラム王は内戦を戦うシャマシュ・シュム・ウキンを支援するため、王子の指揮する援軍を派遣した{{Sfn|Ahmed|2018|p=93}}。 |
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アッシリアの敵国を集めて連合したにも関わらず、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱は成功しなかった。第一の同盟相手であったエラム人は{{仮リンク|デール (シュメール)|label=デール|en|Der (Sumer)}}でアッシリア軍に敗れ、この内戦で役割を果たすことはなくなった{{Sfn|Carter|Stolper|1984|p=51}}。前650年までにシャマシュ・シュム・ウキンの状況は厳しいものとなっていたように見え、アッシュールバニパルの軍勢はシッパル、ボルシッパ、{{仮リンク|クタ|en|Kutha}}、そしてバビロンそれ自体も包囲下に置いた。バビロンは包囲の中で飢えと疫病に耐えたが、最終的に前648年に陥落し、アッシュールバニパルによって略奪された。シャマシュ・シュム・ウキンは自殺に追い込まれ、宮殿で[[焼身自殺|自らに火をかけた]]{{Sfn|Johns|1913|p=124–125}}。その後、アッシュールバニパルは自らの役人の一人[[カンダラヌ]]を属王としてバビロンの王位に就けた{{Sfn|Johns|1913|p=124–125}}。シャマシュ・シュム・ウキンが残した祈りの文書の1つは、この内戦の最終局面における彼の絶望を記録に残している。 |
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{{Quote| quote = 余は昼夜を問わずハトの如く慟哭する。余は自らを哀れみ、余はただ嘆く。我が瞳から涙が落ちるのを止めることは適わず{{Sfn|Ahmed|2018|p=102}}。}} |
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== 関連項目 == |
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* {{仮リンク|サルゴン王朝|en|Sargonid dynasty}} |
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* {{仮リンク|バビロン王の一覧|en|List of kings of Babylon}} |
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* {{仮リンク|新アッシリア帝国の軍事史|en|Military history of the Neo-Assyrian Empire}} |
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== 脚注 == |
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{{Reflist|20em}} |
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=== 参考文献 === |
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*{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=ibF6DwAAQBAJ&dq=Sin-apla-iddina|title=Southern Mesopotamia in the time of Ashurbanipal|last=Ahmed|first=Sami Said|publisher=Walter de Gruyter GmbH & Co KG|year=2018|isbn=978-3111033587|location=|pages=|ref=CITEREFAhmed2018}} |
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*{{Cite book|url=https://books.google.com/?id=GYCJ9JbDHvAC&pg=PA52&lpg=PA52&dq=death+of+esarhaddon#v=onepage&q=Saulmugina&f=false|title=The History of Esarhaddon, King of Assyria, B.C. 681-688: Translated from the Cuneiform Inscriptions Upon Cylinders and Tablets in the British Museum Collection, Together with Original Texts|last=Budge|first=Ernest A.|publisher=Cambridge University Press|year=2010|isbn=9781108017107|location=|pages=|ref=CITEREFBudge2010|orig-year=1880}} |
|||
*{{Cite book|last=Carter|first=Elizabeth|url=https://archive.org/details/elamsurveysofpol0000cart|url-access=registration|title=Elam: Surveys of Political History and Archaeology|last2=Stolper|first2=Matthew W.|publisher=University of California Press|year=1984|isbn=978-0520099500|location=|pages=|ref=CITEREFCarterStolper1984}} |
|||
*{{Cite journal|last=Frahm|first=Eckart|date=2005|title=Observations on the Name and Age of Sargon II and on Some Patterns of Assyrian Royal Onomastics|url=https://www.ucl.ac.uk/sargon/downloads/frahm_nabu2005_44.pdf|journal=NABU|volume=2|issue=|pages=46–50|ref=CITEREFFrahm2005|via=}} |
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*{{cite book|url=https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.281906|page=[https://archive.org/details/in.ernet.dli.2015.281906/page/n148 124]|quote=Shamash-shum-ukin.|title=Ancient Babylonia|last=Johns|first=C. H. W.|publisher=Cambridge University Press|year=1913|location=|pages=|ref=CITEREFJohns1913}} |
|||
*{{Cite journal|last=MacGinnis|first=J. D. A.|date=1988|title=Ctesias and the Fall of Nineveh|hdl=2142/12326|journal=Illinois Classical Studies|publisher=University of Illionis Press|volume=13|issue=1|pages=37–42|ref=CITEREFMacGinnis1988|via=}} |
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* {{Cite journal|last=Mullo-Weir|first=Cecil J.|date=1929|title=The Return of Marduk to Babylon with Shamashshumukin|doi=10.1017/S0035869X00151561|journal=Journal of the Royal Asiatic Society|volume=61|issue=3|pages=553–555|ref=CITEREFMullo-Weir1929}} |
|||
*{{Cite journal|last=Novotny|first=Jamie|last2=Singletary|first2=Jennifer|date=2009|title=Family Ties: Assurbanipal's Family Revisited|url=https://journal.fi/store/article/view/52460|journal=Studia Orientalia Electronica|volume=106|issue=|pages=167–177|ref=CITEREFNovotnySingletary2009|via=}} |
|||
*{{Cite journal|last=Radner|first=Karen|date=2003|title=The Trials of Esarhaddon: The Conspiracy of 670 BC|url=https://repositorio.uam.es/handle/10486/3476|journal=ISIMU: Revista sobre Oriente Próximo y Egipto en la antigüedad|publisher=Universidad Autónoma de Madrid|volume=6|pages=165–183|ref=CITEREFRadner2003|via=}} |
|||
* {{Cite journal|last=Teppo|first=Saana|date=2007|title=Agency and the Neo-Assyrian Women of the Palace|url=https://journal.fi/store/article/view/52624|journal=Studia Orientalia Electronica|volume=101|issue=|pages=381–420|ref=CITEREFTeppo2007|via=}} |
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{{DEFAULTSORT:しやましゆしゆむうきん}} |
{{DEFAULTSORT:しやましゆしゆむうきん}} |
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[[Category:アッシリアの君主]] |
[[Category:アッシリアの君主]] |
2020年3月28日 (土) 14:14時点における版
シャマシュ・シュム・ウキン | |
---|---|
在位 | 前668年-前648年 |
死去 |
紀元前648年 バビロン |
父親 | アッシリア王エサルハドン |
母親 | 不明[1]、恐らくはバビロニア出身の女性[2]。 |
シャマシュ・シュム・ウキン(英語:Shamash-shum-ukin/Shamashshumukin[3]、アッカド語:Šamaš-šuma-ukin[4]/Šamaš-šumu-ukīn[5]、「シャマシュ神は後継者を立てり[5]」、在位:前668年-前648年)はアッシリア支配下のバビロンの王。新アッシリア時代のアッシリア王エサルハドンの息子であり、アッシリア王となった弟のアッシュールバニパルと共に王位に就いた。彼はサウルムギナ(Saulmugina[6])、あるいはサルムゲ(Sarmuge[7])という名前でも言及される。
エサルハドンは前672年に、存命中の王子で最年長であったにも関わらずシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンの王位継承者に指名し、弟のアッシュールバニパルをアッシリアの王位継承者とした。エサルハドンが作らせた条約文書はアッシュールバニパルを上位者とするものであったが、両者の関係について若干の曖昧さを残すものであった。エサルハドンの死後、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシュールバニパルの王位継承の数ヶ月後になってバビロンの王位に登り、その治世を通じてその決定と命令はアッシュールバニパルの承認と確認を経た上でのみ有効とされた。
最終的にシャマシュ・シュム・ウキンはこの境遇からの離脱を試み、前652年にアッシュールバニパルに対して反乱を起こした。反乱のためにアッシリアに敵対する勢力をいくつも同調させることに成功したが、にも関わらず反乱は悲惨な結果に終わった。2年にもわたるアッシュールバニパルのバビロン包囲の後、シャマシュ・シュム・ウキンは自殺に追い込まれ、自らに火をかけて死亡した。
背景
シャマシュ・シュム・ウキンは恐らくアッシリア王エサルハドンの次男であり、兄に王太子シン・ナディン・アプリがいた[4]。シン・ナディン・アプリは前674年に急死した。自らが極めて困難な王位継承争いの上に即位したエサルハドンは同じ問題を回避することを切望しており、すぐに新たな王位継承計画の策定を始めた[8]。
前672年5月、恐らくエサルハドンの4番目の息子(間違いなくシャマシュ・シュム・ウキンよりは若い)アッシュールバニパルがエサルハドンによってアッシリアの王位継承者に指名され、シャマシュ・シュム・ウキンはバビロニアの王位継承者に指名された[9]。両名は共にニネヴェに到着し、外国の代表、アッシリアの貴族、そして兵士たちからの祝賀を共有した[10]。息子の一人をアッシリアの王位継承者とし、別の一人をバビロンの王位継承者とするのは新機軸であった。それまでの数十年間、アッシリア王は同時にバビロンの王を兼任していた[11]。
明らかにエサルハドンの第一の称号であったアッシリア王の継承者に弟を任命し、兄をバビロンの王位とする処置は、彼ら二人の母親によって説明できるかもしれない。アッシュールバニパルの母親は恐らくアッシリア出身であり、シャマシュ・シュム・ウキンの母はバビロンの出身であった(これは確実ではない。アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが同母兄弟である可能性もある[1])。このためシャマシュ・シュム・ウキンがもしもアッシリア王となれば問題を引き起こした可能性がある。エサルハドンはバビロニア人が自分たちの王を戴くことに満足すると推測し、シャマシュ・シュム・ウキンをバビロンおよびアッシリア帝国の南部の継承者とするように取り計らったのであろう[2]。エサルハドンによって作成された条約は彼が二人の息子たちがどのような関係を持つことを意図していたのか幾分不明瞭なものとなっている。アッシュールバニパルが帝国の第一の継承者であり、シャマシュ・シュム・ウキンが彼に対して忠誠の誓いを立てることは明白であったが、別の部分ではアッシュールバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの管轄に介入しないことも明記されており、これはより対等な関係を示唆する[12]。なお、エサルハドンには3番目の息子シャマシュ・メトゥ・ウバリト(Shamash-metu-uballit)もいたが、彼はこの王位継承計画において完全に除外されている。これは恐らく彼が健康に恵まれなかったためであろう[13]。
治世最後の数年間、エサルハドンが頻繁に病を患っていたため、アッシリア帝国の行政的義務の大半はアッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンによって担われた[11]。
治世
前669年末ににエサルハドンが死去した後、彼が定めた継承計画に従ってアッシュールバニパルがアッシリア王となった。翌年の春、シャマシュ・シュム・ウキンがバビロンの王位に就き、バビロン市の主神マルドゥクの像がバビロンに返還された。この像は20年程前、シャマシュ・シュム・ウキンとアッシュールバニパルの祖父センナケリブがバビロンから奪っていたものである。シャマシュ・シュム・ウキンは以降16年間、明らかに概ねアッシュールバニパルとの平和的な関係を維持しバビロンで統治することになる、しかしシャマシュ・シュム・ウキンの正確な支配領域を巡って見解の不一致を繰り返した[14]。エサルハドンの碑文では、シャマシュ・シュム・ウキンが全バビロニアの支配権を与えられるべきことが示されているが、同時代史料によって間違いなく証明されているのは彼がバビロン自体とその周辺を保持していたことだけである。ニップル市、ウルク市、ウル市のようなバビロニアの諸都市の総督たち、そして「海の国」の首長たちはバビロン王の存在を完全に無視し、アッシュールバニパルを自らの君主と見なした[15]。
シャマシュ・シュム・ウキンがいくつかの伝統的なバビロニア王の行事に参加したことが記録に残されている。彼はシッパル市の市壁を再建し、バビロニアの信念差異に参加した[15]。彼は自分の支配領域にある諸神殿にかなりの注意を払い、自身の碑文においていくつかの神殿に寄進を行ったことを印、ウルクのイシュタル神殿の土地を拡大した[16]。
エサルハドンによってシャマシュ・シュム・ウキンがバビロン王に指名されていたにもかかわらず、アッシュールバニパルは自身の碑文において自分がシャマシュ・シュム・ウキンにバビロンの支配を与えたと記している。これは恐らく、シャマシュ・シュム・ウキンが公式に即位したのがアッシュールバニパル即位の数ヶ月後であったことによるで。シャマシュ・シュム・ウキンの即位を止める権力がアッシュールバニパルにはあったであろう[17]。
地位
アッシュールバニパルに対してシャマシュ・シュム・ウキンが反旗を翻した正確な理由は不明であるが、いくつかの可能性がある。恐らく、最も一般的に考えられている理由は、エサルハドンによってシャマシュ・シュム・ウキンが全バビロニアの支配を継承することが定められていたにもかかわらず、エサルハドンの死後アッシュールバニパルがこれを尊重しなかったことである。バビロニア全域においてシャマシュ・シュム・ウキンの名を持つ商業文書が発見されている(これはバビロニアの大部分でシャマシュ・シュム・ウキンが王とみなされていたことを示す)。しかし、アッシュールバニパルの治世中の同様の文章もまたバビロニアから発見されており、これはアッシュールバニパルが(バビロンの王の存在にもかかわらず)バビロニアの君主とみなされていたことを示す[18]。
バビロン、ディルバト、ボルシッパ、シッパルからはアッシュールバニパルの商業文書は全く見つかっておらず、これらの都市が完全にシャマシュ・シュム・ウキンの下にあったことが示されている。しかし、アッシュールバニパルはバビロニア全域にエージェントを配置しており(シャマシュ・シュム・ウキンではなく)自身へと直接報告を行わせていた。そして碑文記録によって、シャマシュ・シュム・ウキンが自身の臣下たちに与えたのいかなる命令も、実行に移される前にまずアッシュールバニパルの確認と承認を得なければならかったことが示されている[19]。アッシュールバニパルはシャマシュ・シュムウキンの支配地の遥か内側であったはずの都市ボルシッパに常駐部隊と役人を置いていた[20]。バビロンの役人から直接アッシュールバニパルに送付された請願書も現存している。シャマシュ・シュム・ウキンがバビロンにおいて普遍的に尊重される主権者であったならば、彼がこのような書簡の最終受取人であったであろう[21]。
アッシュールバニパルとシャマシュ・シュム・ウキンが平和的に共存していた時代のバビロニアから発見された王室文書には両方の名前が記されているが、それと同時代のアッシリアから発見された文書にはアッシュールバニパルの名前しかなく、この二人の王が同等でなかったという見解を補強している。ウルクはバビロニアに位置する都市であったにもかかわらず、ウルク総督クドゥル(Kudurru)はアッシュールバニパルに宛てた書簡で全土の王という称号を彼に付している。これはクドゥルがシャマシュ・シュム・ウキンではなくアッシュールバニパルを自らの君主として見ていたことを示している[22]。シャマシュ・シュム・ウキン自身は自らをアッシュールバニパルと対等であると見ていたと考えられ、書簡においてアッシュールバニパルに対してシンプルに「我が兄弟」と呼び掛けている(これはシャマシュ・シュム・ウキンが父親のエサルハドンに対して「王、我が父」と書いていたのとは異なる)。シャマシュ・シュム・ウキンからアッシュールバニパルに送られた書簡が複数現存しているが、それに対する返信は残されていない。アッシュールバニパルが情報提供者網を張っていたため、シャマシュ・シュム・ウキンに書簡を描く必要を感じなかったのかもしれない[17]。
アッシュールバニパルに対する反乱と死
前650年代後半までにシャマシュ・シュム・ウキンとアッシュールバニパルの間の敵意は増大した。シャマシュ・シュム・ウキンの廷臣であったザキル(Zakir)からアッシュールバニパルへ与えられた手紙では、「海の国」からの使者がシャマシュ・シュム・ウキンの面前で公然とアッシュールバニパルを批判したことが述べられているが「これは王の言葉ではありません!」というフレーズが用いられている。ザキルはシャマシュ・シュム・ウキンがこの発言に怒りを示したことを報告しているが、同時に彼とバビロンの総督ウバル(Ubaru)がこの使者に対して何の処置も行わないことにしたことも報告している[23]。恐らくシャマシュ・シュム・ウキンの反乱のは以後にあった最も重要な要因は兄弟であるアッシュールバニパルに対する自身の地位への不満、バビロニア人のアッシリアに対する一般的かつ不変の怒り、アッシリアと戦う者に加担するエラムの支配者たちの尽きることの無い熱意であった[24]。
前652年にシャマシュ・シュム・ウキンは反乱を起こした[25]。この内戦はその後3年間続くことになる[14]。碑文史料からシャマシュ・シュム・ウキンがバビロンの市民に対して自分の反乱に参加するよう呼びかけたことがわかる。アッシュールバニパルの碑文ではシャマシュ・シュム・ウキンの「アッシュールバニパルはバビロニア人の名を恥で覆う」という発言が引用されている。アッシュールバニパルはこれを「風(風聞)」「嘘」と言っている。このすぐ後にシャマシュ・シュム・ウキンは反乱に踏み切り、南部メソポタミアの他の地域でもシャマシュ・シュム・ウキンについてアッシュールバニパルに対する反乱の火の手が上がった[26]。
アッシュールバニパルの碑文によれば、シャマシュ・シュム・ウキンはアッシリアに対抗するための同盟相手を見つけることに大きな成功を収めた。アッシュールバニパルはシャマシュ・シュム・ウキンの同調者を3つのグループに分類している。第一に何よりもまずカルデア人、アラム人およびバビロニアに住むその他の人々、第二にエラム人、第三にグティ人、アムル人(アムル人)、そしてメルッハの王たちである。第三のグループの王たちはメディア人のことであるかもしれないが(グティ人、アムル人、メルッハはこの時点ではもはや存在していない)が、不明瞭である。メルッハはエジプトを指した者である可能性があるが、彼らはこの戦争においてシャマシュ・シュム・ウキンに支援を行ってはいない。シャマシュ・シュム・ウキンはエラムに使者を送り贈り物(アッシュールバニパルはこれを「賄賂」と呼んでいる)、エラム王は内戦を戦うシャマシュ・シュム・ウキンを支援するため、王子の指揮する援軍を派遣した[27]。
アッシリアの敵国を集めて連合したにも関わらず、シャマシュ・シュム・ウキンの反乱は成功しなかった。第一の同盟相手であったエラム人はデールでアッシリア軍に敗れ、この内戦で役割を果たすことはなくなった[28]。前650年までにシャマシュ・シュム・ウキンの状況は厳しいものとなっていたように見え、アッシュールバニパルの軍勢はシッパル、ボルシッパ、クタ、そしてバビロンそれ自体も包囲下に置いた。バビロンは包囲の中で飢えと疫病に耐えたが、最終的に前648年に陥落し、アッシュールバニパルによって略奪された。シャマシュ・シュム・ウキンは自殺に追い込まれ、宮殿で自らに火をかけた[29]。その後、アッシュールバニパルは自らの役人の一人カンダラヌを属王としてバビロンの王位に就けた[29]。シャマシュ・シュム・ウキンが残した祈りの文書の1つは、この内戦の最終局面における彼の絶望を記録に残している。
余は昼夜を問わずハトの如く慟哭する。余は自らを哀れみ、余はただ嘆く。我が瞳から涙が落ちるのを止めることは適わず[30]。
関連項目
脚注
- ^ a b Novotny & Singletary 2009, p. 174–176.
- ^ a b Ahmed 2018, p. 65–66.
- ^ Mullo-Weir 1929, p. 553.
- ^ a b Novotny & Singletary 2009, p. 168.
- ^ a b Frahm 2005, p. 47.
- ^ Budge 2010, p. 52.
- ^ Teppo 2007, p. 395.
- ^ Ahmed 2018, p. 63.
- ^ Encyclopaedia Britannica.
- ^ Ahmed 2018, p. 64.
- ^ a b Radner 2003, p. 170.
- ^ Ahmed 2018, p. 68.
- ^ Novotny & Singletary 2009, p. 170.
- ^ a b Ahmed 2018, p. 8.
- ^ a b Ahmed 2018, p. 80.
- ^ Ahmed 2018, p. 82.
- ^ a b Ahmed 2018, p. 87.
- ^ Ahmed 2018, pp. 82–83.
- ^ Ahmed 2018, p. 83.
- ^ Ahmed 2018, p. 84.
- ^ Ahmed 2018, p. 85.
- ^ Ahmed 2018, p. 86.
- ^ Ahmed 2018, p. 88.
- ^ Ahmed 2018, p. 90.
- ^ MacGinnis 1988, p. 38.
- ^ Ahmed 2018, p. 91.
- ^ Ahmed 2018, p. 93.
- ^ Carter & Stolper 1984, p. 51.
- ^ a b Johns 1913, p. 124–125.
- ^ Ahmed 2018, p. 102.
参考文献
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