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「第二特務艦隊」の版間の差分

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2014年には艦隊派遣後100周年を迎えた事で日本国内でも再度注目が集まり、欧米諸国の研究者からも新たな学術論文が発表され、日本海軍の実施した「第二特務艦隊」に関する研究が進んだとされる<ref>[http://www.sankei.com/world/news/140803/wor1408030035-n1.html 「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年] 産経ニュース 2014.8.3</ref>。[[五大国]]として[[スイス]][[ジュネーブ]]に戦後設置された[[国際連盟]]に対して、[[第一次世界大戦]]における[[連合国]]戦勝に大きく貢献した日本海軍「第二特務艦隊」の活躍が[[戦間期]]の[[欧州]]諸国でも知られるようになり、[[ヴェルサイユ条約]]や[[セーブル条約]]によって分割される事になった[[敗戦国]][[オスマン帝国]]と、その後の後継[[国民国家]][[トルコ共和国]]の成立を日本代表団も見届け、国連設立の提唱国自身である[[アメリカ合衆国]]代表団は国内議会の反対で参加できなかったが、日本政府は[[戦勝国]][[フランス]]・[[イギリス]]・[[イタリア]]と共に、[[常任理事国]]として[[国際連盟]]の創設国となった。以降日本国内では第二特務艦隊の[[地中海]]派遣任務中に建造された[[楢]]型[[駆逐艦]]と共に、帰国後も[[桃型駆逐艦]]は功勲艦として知られるようになった。司令官であった[[佐藤皐蔵]]提督は、戦勝によって打ち立てた武勲によって[[中将]]まで進級した。明治の[[東郷平八郎]]提督は既にトルコなどで知られていたが、特に海軍国として[[大英帝国]]を誇っていた英国[[首都]][[ロンドン]]市内においても、当時の日本地中海艦隊の活躍が大手新聞氏によって報じられ、「[[世界三大]][[提督]]」(ジョン・ポール・ジョーンズ、東郷平八郎、ホレーショ・ネルソン)の名を挙げて佐藤提督の健闘ぶりを伝えるなど、同盟国からの信頼も篤かったとされる。戦後も並び賞されているが、この任務で粘り強く活躍した佐藤司令官は、[[大正]]期の[[日本海軍]][[職業軍人]]として最も著名な人物の一員となり、その後[[連合国]]の君主からも[[勲章]]を授与されるなど対[[協商国]]戦勝への貢献が認められた。特に陸上戦で国土が独仏両軍の戦場となった[[ベルギー王国]]王室からは、[[連合国]]側戦勝に大きく貢献したとして正式に佐藤提督へ「ベルギー王室勲二等王冠勲章」が授与され、佐藤司令官の郷里である[[岩手県]][[花巻市]]に寄贈されている。[https://www.city.hanamaki.iwate.jp/]
2014年には艦隊派遣後100周年を迎えた事で日本国内でも再度注目が集まり、欧米諸国の研究者からも新たな学術論文が発表され、日本海軍の実施した「第二特務艦隊」に関する研究が進んだとされる<ref>[http://www.sankei.com/world/news/140803/wor1408030035-n1.html 「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年] 産経ニュース 2014.8.3</ref>。[[五大国]]として[[スイス]][[ジュネーブ]]に戦後設置された[[国際連盟]]に対して、[[第一次世界大戦]]における[[連合国]]戦勝に大きく貢献した日本海軍「第二特務艦隊」の活躍が[[戦間期]]の[[欧州]]諸国でも知られるようになり、[[ヴェルサイユ条約]]や[[セーブル条約]]によって分割される事になった[[敗戦国]][[オスマン帝国]]と、その後の後継[[国民国家]][[トルコ共和国]]の成立を日本代表団も見届け、国連設立の提唱国自身である[[アメリカ合衆国]]代表団は国内議会の反対で参加できなかったが、日本政府は[[戦勝国]][[フランス]]・[[イギリス]]・[[イタリア]]と共に、[[常任理事国]]として[[国際連盟]]の創設国となった。以降日本国内では第二特務艦隊の[[地中海]]派遣任務中に建造された[[楢]]型[[駆逐艦]]と共に、帰国後も[[桃型駆逐艦]]は功勲艦として知られるようになった。司令官であった[[佐藤皐蔵]]提督は、戦勝によって打ち立てた武勲によって[[中将]]まで進級した。明治の[[東郷平八郎]]提督は既にトルコなどで知られていたが、特に海軍国として[[大英帝国]]を誇っていた英国[[首都]][[ロンドン]]市内においても、当時の日本地中海艦隊の活躍が大手新聞氏によって報じられ、「[[世界三大]][[提督]]」(ジョン・ポール・ジョーンズ、東郷平八郎、ホレーショ・ネルソン)の名を挙げて佐藤提督の健闘ぶりを伝えるなど、同盟国からの信頼も篤かったとされる。戦後も並び賞されているが、この任務で粘り強く活躍した佐藤司令官は、[[大正]]期の[[日本海軍]][[職業軍人]]として最も著名な人物の一員となり、その後[[連合国]]の君主からも[[勲章]]を授与されるなど対[[協商国]]戦勝への貢献が認められた。特に陸上戦で国土が独仏両軍の戦場となった[[ベルギー王国]]王室からは、[[連合国]]側戦勝に大きく貢献したとして正式に佐藤提督へ「ベルギー王室勲二等王冠勲章」が授与され、佐藤司令官の郷里である[[岩手県]][[花巻市]]に寄贈されている。[https://www.city.hanamaki.iwate.jp/]


特に重要視された[[アンザック]]([[英国]]本土と[[豪州]]及び[[ニュージーランド]][[自治領]]を繋ぐ連合国側重要補給海路)である大洋連絡[[航路]]を担当する「第三特務艦隊」には、司令官として山路一善[[少将]]が任命されたが、中でも最も危険を伴うと想定された「地中海横断航路」を担当する第二特務艦隊の司令官に任じられた佐藤司令官は、地中海で触雷し損傷した「[[駆逐艦]]「榊」」乗組員などを中心に、日本海軍から約78名の戦死者を出しながらも、駆逐艦部隊の正確な操船と誠実な対応で護送任務を完遂したことが同盟国海軍将校にも高く評価され、戦勝後[[フランス]]や[[イギリス]]の新聞で、海軍軍人の鏡として称えられる人物として歴史に残る事となった。[[1917年]]に派遣が決定された[[大日本帝国]]海軍として、初の東部[[地中海]]実戦派遣となった佐藤司令官率いる「第二特務艦隊」は、戦略目的としていた[[連合国]]側輸送船団護衛任務を長期にわたり成功させ、作戦の成功が同時に国産駆逐艦[[桃型駆逐艦]]の性能を実績で証明した事で、[[桃型駆逐艦]]及びその後の日本国産水上艦艇は、事実上[[アジア]]初の本格的[[東洋]]製[[駆逐艦]]として名を馳せることとなった。(任務中に艦隊を構成する[[桃型駆逐艦]]の損耗から同盟国[[英国海軍]]からの[[駆逐艦]]供与を受けて編入していると共に、[[日本]][[国産]][[駆逐艦]]として受注を受けた同級[[桃型駆逐艦]]は、その後[[フランス海軍]]に向けた海外輸出艦も建造され、[[戦間期]]に仏海軍所属アラブ級駆逐艦と命名され[[地中海]]で活躍した)[[http://www.japanjournals.com/feature/survivor/4989-ww1-13414617.html]]
特に重要視された[[アンザック]]([[英国]]本土と[[豪州]]及び[[ニュージーランド]][[自治領]]を繋ぐ連合国側重要補給海路)である大洋連絡[[航路]]を担当する「第三特務艦隊」には、司令官として山路一善[[少将]]が任命されたが、中でも最も危険を伴うと想定された「地中海横断航路」を担当する第二特務艦隊の司令官に任じられた佐藤司令官は、地中海で触雷し損傷した「[[駆逐艦]]「榊」」乗組員などを中心に、日本海軍から約78名の戦死者を出しながらも、駆逐艦部隊の正確な操船と誠実な対応で護送任務を完遂したことが同盟国海軍将校にも高く評価され、戦勝後[[フランス]]や[[イギリス]]の新聞で、海軍軍人の鏡として称えられる人物として歴史に残る事となった。[[1917年]]に派遣が決定された[[大日本帝国]]海軍として、初の東部[[地中海]]実戦派遣となった佐藤司令官率いる「第二特務艦隊」は、戦略目的としていた[[連合国]]側輸送船団護衛任務を長期にわたり成功させ、作戦の成功が同時に国産駆逐艦[[桃型駆逐艦]]の性能を実績で証明した事で、[[桃型駆逐艦]]及びその後の日本国産水上艦艇は、事実上[[アジア]]初の本格的[[東洋]]製[[駆逐艦]]として名を馳せることとなった。(任務中に艦隊を構成する[[桃型駆逐艦]]の損耗から同盟国[[英国海軍]]からの[[駆逐艦]]供与を受けて編入していると共に、[[日本]][[国産]][[駆逐艦]]として受注を受けた同級[[桃型駆逐艦]]は、その後[[フランス海軍]]に向けた海外輸出艦も建造され、[[戦間期]]に仏海軍所属アラブ級駆逐艦と命名され[[地中海]]で活躍した)[http://www.japanjournals.com/feature/survivor/4989-ww1-13414617.html]


== イギリス王立海軍地中海艦隊英領マルタ軍港司令官バラード少将の評価 ==
== イギリス王立海軍地中海艦隊英領マルタ軍港司令官バラード少将の評価 ==

2019年2月11日 (月) 01:25時点における版

第二特務艦隊(だいにとくむかんたい)とは、日英同盟に基づいて日本第一次世界大戦連合国側で参戦することになった際にマルタ島を中心とする地中海海域において連合国側の輸送船団護衛作戦に従事した日本海軍の遠洋派遣部隊である。

概要

艦隊は、地中海における共同作戦に従事し、日英米仏伊海軍が構成した連合国側の各国海軍が、地中海の大国オスマン帝国に対して有利に戦況を進めた大きな要因となった[1]

2014年には艦隊派遣後100周年を迎えた事で日本国内でも再度注目が集まり、欧米諸国の研究者からも新たな学術論文が発表され、日本海軍の実施した「第二特務艦隊」に関する研究が進んだとされる[2]五大国としてスイスジュネーブに戦後設置された国際連盟に対して、第一次世界大戦における連合国戦勝に大きく貢献した日本海軍「第二特務艦隊」の活躍が戦間期欧州諸国でも知られるようになり、ヴェルサイユ条約セーブル条約によって分割される事になった敗戦国オスマン帝国と、その後の後継国民国家トルコ共和国の成立を日本代表団も見届け、国連設立の提唱国自身であるアメリカ合衆国代表団は国内議会の反対で参加できなかったが、日本政府は戦勝国フランスイギリスイタリアと共に、常任理事国として国際連盟の創設国となった。以降日本国内では第二特務艦隊の地中海派遣任務中に建造された駆逐艦と共に、帰国後も桃型駆逐艦は功勲艦として知られるようになった。司令官であった佐藤皐蔵提督は、戦勝によって打ち立てた武勲によって中将まで進級した。明治の東郷平八郎提督は既にトルコなどで知られていたが、特に海軍国として大英帝国を誇っていた英国首都ロンドン市内においても、当時の日本地中海艦隊の活躍が大手新聞氏によって報じられ、「世界三大提督」(ジョン・ポール・ジョーンズ、東郷平八郎、ホレーショ・ネルソン)の名を挙げて佐藤提督の健闘ぶりを伝えるなど、同盟国からの信頼も篤かったとされる。戦後も並び賞されているが、この任務で粘り強く活躍した佐藤司令官は、大正期の日本海軍職業軍人として最も著名な人物の一員となり、その後連合国の君主からも勲章を授与されるなど対協商国戦勝への貢献が認められた。特に陸上戦で国土が独仏両軍の戦場となったベルギー王国王室からは、連合国側戦勝に大きく貢献したとして正式に佐藤提督へ「ベルギー王室勲二等王冠勲章」が授与され、佐藤司令官の郷里である岩手県花巻市に寄贈されている。[2]

特に重要視されたアンザック(英国本土と豪州及びニュージーランド自治領を繋ぐ連合国側重要補給海路)である大洋連絡航路を担当する「第三特務艦隊」には、司令官として山路一善少将が任命されたが、中でも最も危険を伴うと想定された「地中海横断航路」を担当する第二特務艦隊の司令官に任じられた佐藤司令官は、地中海で触雷し損傷した「駆逐艦「榊」」乗組員などを中心に、日本海軍から約78名の戦死者を出しながらも、駆逐艦部隊の正確な操船と誠実な対応で護送任務を完遂したことが同盟国海軍将校にも高く評価され、戦勝後フランスイギリスの新聞で、海軍軍人の鏡として称えられる人物として歴史に残る事となった。1917年に派遣が決定された大日本帝国海軍として、初の東部地中海実戦派遣となった佐藤司令官率いる「第二特務艦隊」は、戦略目的としていた連合国側輸送船団護衛任務を長期にわたり成功させ、作戦の成功が同時に国産駆逐艦桃型駆逐艦の性能を実績で証明した事で、桃型駆逐艦及びその後の日本国産水上艦艇は、事実上アジア初の本格的東洋駆逐艦として名を馳せることとなった。(任務中に艦隊を構成する桃型駆逐艦の損耗から同盟国英国海軍からの駆逐艦供与を受けて編入していると共に、日本国産駆逐艦として受注を受けた同級桃型駆逐艦は、その後フランス海軍に向けた海外輸出艦も建造され、戦間期に仏海軍所属アラブ級駆逐艦と命名され地中海で活躍した)[3]

イギリス王立海軍地中海艦隊英領マルタ軍港司令官バラード少将の評価

当時のイギリス地中海艦隊英領マルタ軍港司令官であったバラード少将は、現在もマルタ共和国に記念碑と慰霊碑が残る日本海軍の連合国艦隊として行った活躍を称えた際に、第一次世界大戦の地中海戦線を回想する回顧録において戦間期には、「日本海軍第二特務艦隊」について言及しており、その回想録の中で英国王立海軍バラード提督は「我々英国海軍地中海艦隊は、意見の不一致や戦略思想のズレから、同盟国イタリア及びフランス海軍とは、しばしば摩擦を生じていたが、遥々東洋から到着したはずの日本の第二特務艦隊はそうではなく、勤勉なる日本海軍の佐藤司令官は、我々との意思疎通を欠かさずに行い、常に要望に答えてくれ、何の問題もなく任務を遂行したし、彼らは稼働率において我が軍と並ぶ優秀さを見せていた。これはフランスの稼働率はイギリスに比べて低く、イタリアはフランスよりもさらに低いが、日本海軍は日露戦争における日本海海戦の結果に対しても納得できる練度の高さを証明した」と第二特務艦隊を讃えており、同じ連合国側で国際連盟の常任理事国として日本やイギリスと「5大列強国」として知られるようになったイタリア及びフランス海軍も、日英同盟の規定に基づき、日本の第二特務艦隊がイギリスの船しか護衛してくれないことを不満に思った事もあるが、その戦いぶりと英国から借り受けた損耗補てん分の駆逐艦を十分に活かした活躍は認めていたようで、当時のフランス海軍母校トゥーロン軍港では、戦勝後に第二特務艦隊の歌が造られ、地元新聞で取りあげられた事もあった。特に横須賀から出立し、インド洋を渡り切り中東アラビア海を横切る為に当時の乗組員は、相当な苦労をしたとされるがスエズ運河を抜けてエジプトアレクサンドリア港での補給など、当時の大日本帝国海軍においても例を見ない水準での遠洋航海を行い、結果として地中海世界での知名度を向上させた大正期海軍「桃型駆逐艦」の乗組員や、既に国際共通語となっていた英語やフランス語を経た上で、国際的な連合国 (第一次世界大戦)側艦隊の一部として機能する為には各国海軍における仕来たりや文化を理解する必要があり、当時の列強海軍幕僚らとの交流を通じて、様々な経験をする事が出来た日本海軍上層部将校らは、この時に得た航行及び語学など慣習に関する知識の習得は大きな好影響を与え、その後国際化していく日本海軍組織の基礎的教訓として、長期的に活かされる事となった。セーヴル条約やその後の希土戦争を経て、今日のトルコ共和国が建国されるまでの歴史的な潮流で、地中海全体に大きな影響を与えた連合国 (第一次世界大戦)側の国際協力作戦の成功事例を構築する要因となった長期的派遣とされる。(「ガリポリの戦い」及び「桃型駆逐艦」項目も参照)

脚注

主要出典

関連項目

外部リンク

  • 三沢伸生、「20世紀前半のイスタンブルにおける日本軍部の活動」 東洋大学社会学部紀要 53巻 (2015/11) p.21-34, ISSN 0495-9892
  • 「第二特務艦隊の海上交通保護作戦--第一次世界大戦・地中海」 新倉幸雄、軍事史学 第十五巻(昭和54〈1979〉年度), NAID [https://ci.nii.ac.jp/naid/40000814397 40000814397