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「テッド・バンディ」の版間の差分

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'''セオドア・ロバート・バンディ'''(Theodore Robert Bundy、[[1946年]][[11月24日]] - [[1989年]][[1月24日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[犯罪者]]、[[死刑囚]]。
'''セオドア・ロバート・バンディ'''(Theodore Robert Bundy、[[1946年]][[11月24日]] - [[1989年]][[1月24日]])は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[シリアルキラー]]であり、[[誘拐]]、[[強姦]]、[[強盗]]犯である。少なくとも1970年代から多数の若い女性を強姦、殺害するとともに体に対する[[屍姦|凌辱]]も行っていた。死刑執行の直前に、10年以上も否認してきた殺人事件について自白を始め、1974年から1978年の間に7つの州で30人を殺害していることが明らかになった。被害者の実数は不明だが、おそらくはこの数字を上回る


バンディの手にかかった女性の多くは、彼のことをハンサムな男だと思うだけでなくカリスマ性すら感じていたが、彼のほうでも信頼を得るためにその容姿を利用した。バンディがターゲットの女性に近づくときによく使っていたのは、人目のある開けた場所で怪我人や障害者のふりをしたり、当局の人間であるかのように振舞う手口だった。そして女性を予定の場所へ連れていくと、力で屈服させて強姦した。彼は女性を殺害した場所に再訪して、犠牲者に別の犯罪を犯すこともあった。つまり彼は遺体が完全に朽ちたり野生動物に食べられて屍姦ができなくなるまで、腐敗の進む死体を身づくろいし、何時間もかけて性交を行ったのである。バンディは殺害した女性のうち少なくも12人の首を斬り落とし、しばらくの間、自分のアパートでその首を記念に保管していた{{sfn|Keppel|2005|pp=378, 393}}。時には堂々と夜半に住居に押し入り、眠っていた被害者を脅して強姦することもあった。
== 概要 ==
バンディは、[[1974年]]から[[1978年]]にかけて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した。被害者の正確な総数はわかっていないが、彼は10年間にわたる否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している。彼は原型的なアメリカの[[シリアルキラー]]として考察される。実際、「シリアルキラー」という表現は彼を表すために考え出されている。IQは124前後と考えられる。バンディの主な殺害方法は撲殺や[[絞殺]]であった。少女や若い女性を言葉巧みに誘い、無防備状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、[[性行為]]を行う。[[アナルセックス]]が気に入りであったとされる。その後殺害し、死体を遠くまで運んで切断し、[[屍姦]]を行い、数日後に死体の場所に戻り、切り取った女性の口の中に[[射精]]したという。残酷で粗野な殺害方法から、元FBI捜査官[[ロバート・K・レスラー]]をして「けだもの」と言わしめた。バンディは、女性を乱暴して殺害することをなんとも思わない、残忍で加虐的な性格の持ち主であった。バンディは[[反社会性パーソナリティ障害]]であったと考えられている。残忍な殺人犯という一般的な評価の一方、現地のメディアではしばしば知的でハンサムで愛嬌がある青年であったとも評される。また、日本のメディアにも題材として登場し、ハンサムで頭脳明晰なシリアルキラーとしてショッキングに扱われる。


1975年、バンディは<!-- 重犯罪の -->誘拐事件と強姦未遂によりユタ州で投獄され、初めて刑務所に入ることになる。彼は同時に複数の州で進行中であった連続殺人事件の容疑者でもあった。殺人罪で起訴されたのはコロラド州だが、彼は2度の劇的な脱獄を果たし、1978年にフロリダ州で逮捕されるまでに3件の殺人を犯し、暴行を繰り返した。フロリダ州の殺人だけで、彼は別個の2回の裁判で3回の死刑を宣告された。
== 生涯 ==
=== 青年期 ===
[[1946年]][[11月24日]]、[[バーモント州]][[バーリントン (バーモント州)|バーリントン]]に私生児として生まれる。出生時の名前は'''セオドア・ロバート・カウエル'''(Theodore Robert Cowell)。彼の母ルイーズはデパートの店員、血縁上の父親は不明である。バンディと母親は、彼が9歳になるまで祖父と共に[[フィラデルフィア]]で暮らしている。この祖父は家族によると、気性が激しく暴力的だったという。私生児という不名誉を隠すため、バンディは祖父母の養子、つまり母親の弟として周囲に触れ込まれていたようである。彼の叔母は、バンディが幼少期の頃、彼女のベッドの横に立ち、笑みを浮かべながらナイフで彼女を威嚇したと主張している。


1989年1月24日にバンディはフロリダ州刑務所で電気椅子による死刑が執行された<ref>{{cite news|first1=Barry|last1=Bearak|title=Bundy Electrocuted After Night of Weeping, Praying : 500 Cheer Death of Murderer|url=http://articles.latimes.com/1989-01-24/news/mn-1075_1_ted-bundy|accessdate=July 16, 2016|newspaper=[[Los Angeles Times]]|publisher=[[Tronc]]|location=Los Angeles, California|date=January 24, 1989|deadurl=no|archiveurl=http://archive.wikiwix.com/cache/20160718145205/http://articles.latimes.com/1989-01-24/news/mn-1075_1_ted-bundy|archivedate=July 18, 2016|df=mdy-all}}</ref>。伝記作家のアン・ルールはバンディを「[[サディズム|サディスティック]]な[[ソシオパス]]であり、自分以外の人間が苦しんだり、被害者を支配することに喜びを覚えていた。死ぬまで、そして死後でさえも」と表現している{{sfn|Rule|2009|p=xiv}}。彼自身は自分のことを「あんたが今まで会った中で、一番冷血なくそ野郎{{Interp|son of a bitch|和文=1}}」と呼んでいた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=263}}<ref name="Hare1999" />。最後の弁護士チームにいたポーリー・ネルソンは「テッドは残酷な悪魔がいるとすれば、その定義どおりの男」だと書いている{{sfn|Nelson|1994|p=319}}。
バンディと母親は[[ワシントン州]][[タコマ (ワシントン州)|タコマ]](彼女の叔父がこの地にある大学で音楽講師として教鞭を取っていた)に引っ越した。それからしばらく後、母親は教会の会合で出会った退役海軍軍人で病院のコックを務めるジョン・カルペパー・バンディという男性と結婚。バンディ姓となる。複数の情報によれば、幼年期青年期にわたりバンディは実の母親を姉と考えていたかも知れないとのことである。


== 生い立ち ==
ウィルソン高校での高校時代、バンディは華々しいとまでは云えないまでも、[[メソジスト]]教会と[[ボーイスカウト]]の活動に熱心な優れた学生であった。ただ、伝記『''The Only Living Witness''』の著者である[[スティーブン・ミショー]]と[[ヒュー・エインスウォース]]によれば、彼には他者と迎合する生まれつきの感覚が欠如していたという。事実、バンディは著者に対し、「人が他人とコミュニケーションをとろうとすることの理由が分からなかった」という内容のことを語っている。バンディは、高校の大半と大学時代の早期を通じて、内気で内向的なままであった。
[[File:Ted Bundy HS Yearbook.jpeg|thumb|300px|ハイスクール時代のバンディ]]


=== 少年時代 ===
高校を卒業する前から、[[万引き]]や[[窃盗]]などの[[犯罪]]活動は始まった。また思春期の若者として[[出歯亀|覗き]]などの倒錯的な性行為に耽っていたと公言している。また自分自身の一部は、幼年期より性や暴力のイメージに魅了されていたことを「実体」と表し、またそれをよく隠していた、とバンディは自身のことを語っている(しかし、この「他の自分自身」をバンディが語っている時は、自身の[[死刑]]判決を[[上告]]しようとしていた時期であったということに、留意しなければならない)。また、彼は残虐な性描写を特徴とする[[スナッフフィルム]]のファンであると語っている。
テッド・バンディことセオドア・ロバート・カウエルは、1946年11月24日に[[バーモント州]][[バーリントン (バーモント州)|バーリントン]]で生まれた。テッドを未婚女性のための産院であるエリザベス・ランド・ホームで生んだ母は、名をエレノア・ルイーズ・カウエルといった(彼女は人生の大半をルイーズと呼ばれて過ごした)<ref>[http://www.lundvt.org/ Lund Family Center] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20170307150638/https://lundvt.org/ |date=March 7, 2017 }}, retrieved September 30, 2015.</ref>。父については確実な事はわかっていない。出生届には父親として販売員でありアメリカ空軍の退役軍人であったロイド・マーシャルの名があるが{{sfn|Rule|2000|p=8}}、ルイーズは後に自分が名前はうろ覚えだがジャック・ワシントンという「水兵」{{sfn|Rule|2009|p=xxxiii}}に貞操を奪われたのだと主張している{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=56, 330}}。だいぶ後になって当局も調査を行ったが、海軍にも民間船にもそのような名前を持った人間の記録は見つからなかった{{sfn|Von Drehle|1995|p=308}}。親戚の中には、バンディの父親が、ルイーズに暴力をふるい虐待をしていた彼女自身の父親サミュエル・カウエルだという人間もいたが{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=56}}、この説を否定するにせよ肯定するにせよ客観的な証拠は何もない{{sfn|Rule|2009|p=xxxiv}}。


3歳までバンディはフィラデルフィアにある母方の祖父の家で生活した。婚外子といえば社会的に不名誉な時代であったので、祖父のサミュエル・カウエルと母のエレノア・カウエルは、後ろ指を指されないようにテッドを育てた。だから幼いテッドは祖父母のことを両親、母のことを姉だと教えられていた。最終的に真実を知ることにはなるのだが、それに気づいた瞬間に関する彼の回想は食い違っている。ガールフレンドには、自分を「私生児」呼ばわりしたいとこが出生届のコピーを見せてきたと語っていた{{sfn|Kendall|1981|pp=40–41}}。しかし伝記作家のスティーヴン・ミショーとヒュー・エインズワースには、自分で出生届を見つけたと話している{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=62}}。伝記作家であり犯罪ルポライターでもあるアン・ルールは、個人的にもバンディをよく知っている人物だが、彼女は1969年にバーモント州で自分の出生届の原本を探し出すまで、家族の秘密に気づいていなかったと考えている{{sfn|Rule|2000|pp=16–17}}。自分の本当の父親について語らず、探したければ探せという母親の姿勢に、バンディは死ぬまでずっと怒っていた{{sfn|Rule|2009|pp=51–52}}。
高校卒業後、[[ピュージェットサウンド大学]]へ入学したバンディは、[[心理学]]を専攻する傍ら自己変革に取り組み、「ハンサムで頭脳明晰な青年」へと周囲の評価は変わる。マナーを磨き、ファッションセンスを洗練させ、社交的に振舞うようになった。その傍ら、社会的な活動にも目を向け、手始めに[[ワシントン州]]の[[共和党 (アメリカ)|共和党員]]としてワシントン州知事選の選挙活動に参加し、その目覚ましい活躍ぶりでたちまち若手党員の中から頭角を現し、「テッドなら将来、州知事や連邦上院議員にもなれるだろう」と称賛された。共和党員としての活動だけでなく、州政府犯罪対策委員会や[[シアトル]]自殺救済電話相談室(Seattle suicide crisis center)では、専攻している心理学の知識を活かして犯罪対策に関する政策立案・法案作成の補助や[[カウンセリング]]などの[[ボランティア]]活動で業績を上げている。この時期、水難事故で溺れた子供を救助し、地元警察より表彰されている。自殺救済電話相談室で共にボランティア活動をしていた駆け出しの犯罪記者[[アン・ルール]]は、皮肉なことに彼女の友人であるバンディの犯罪と知らずに、彼の犯した犯罪記事を書いている。数年後、彼女はバンディの伝記『テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇(原題:''The Stranger Beside Me'')』を書くこととなる。


取材を受ける中でバンディはたびたび祖父サミュエルの優しさを語り{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=17–18}}、ルールにも自分は祖父がいたからあるのであり、尊敬していて、いつもくっついていたと話している{{sfn|Rule|2009|p=9}}。しかし1987年に、家族はテッドを連れて弁護士に父親の素行について相談をしている。サミュエル・カウエルは家庭を牛耳って威張り散らし、黒人やイタリア人、カトリック、ユダヤを嫌ってひどく偏狭だ、という内容だった。バンディの祖父は妻や飼い犬を殴り、近所に猫がいれば尻尾をつかんで振り回した。ある時はルイーズの妹を、寝坊したという理由で階段から投げ飛ばしている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=330}}。サミュエルは初対面の人にも大声で話す時があり<!-- He sometimes spoke aloud to unseen presences, -->{{sfn|Nelson|1994|p=154}}、テッドの父親が誰なのかという話が持ち上がったことに激昂して暴れまわったことも、確実なだけで一回はあった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=330}}。バンディの思い出の中の祖母はおどおどして言われるがままの女性で、鬱状態の改善のため定期的に電気けいれん療法を受けていたという{{sfn|Nelson|1994|p=154}}。そして老いるにつれて祖母は外出を怖がるようになった{{sfn|Rule|2000|pp=501–08}}。テッドは、すでに幼いころから、周りを困らせるような行動をとることがあった。ある日、叔母のジュリアがうたた寝からふと目を覚ますと、カウエル家の台所にあった包丁という包丁が自分のまわりに置いてあってひどく驚いたことがあった。3歳の甥っ子は彼女が寝ていたベッドのそばで微笑んでいた、とジュリアは回想している{{sfn|Rule|2000|p=505}}。
バンディは大学一年生のときに[[サンフランシスコ]]の名家出身の女性と交際を始めた。彼女を追ってサンフランシスコへ移り、[[スタンフォード大学]]にも一時籍を置いたこともあった。しかし、彼女がバンディの未熟な面、覇気のなさに嫌気が差した結果、交際は破綻する。バンディが前述の自己変革に取り組んだのはこの失恋がきっかけである。交際破綻より2年間を経て、再び彼女とバンディは交際を始め、彼らは婚約を果たす。だが婚約より2週間後、バンディは彼女からの電話に出ることがなくなり、あっさりと彼女を捨てる(なお、バンディはこの時期、違う女性とも交際中)。この交際の破綻後、バンディは3年間にわたる殺人凶行を始めた。


1950年、ルイーズは名字をカウエルからネルソンに改め{{sfn|Rule|2000|p=8}}、家族の度重なる強い勧めもあって、息子を連れてフィラデルフィアを離れ、いとこのアラン・スコットとジェーン・スコットを頼って[[ワシントン州]][[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]に移った{{sfn|Nelson|1994|p=155}}。1951年、メソジスト教会主催のお見合いパーティで、ルイズは病院の調理師だったジョニー・カルペッパー・バンディと出会った{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=57}}。この年の後半に2人は結婚し、ジョニー・バンディは正式にテッドを養子とした。ジョニーはルイーズと4人の子をつくり、実の子供といっしょにテッドもキャンプに連れて行ったりして、彼を家族として扱おうとはしていたが、テッドとの距離は縮まらなかった。後にテッドはガールフレンドに、ジョニーは本当の父親ではないだけでなく「全然さえないし」「稼ぎもよくない」と不平をこぼしていた{{sfn|Rule|2009|p=51}}。
バンディの殺人対象者に見られる共通点、「髪を真ん中で分けた黒髪の若い白人女性」という原型はこの女性から形成されていると、ルールは考察している。


伝記作家にバンディが語るタコマの思い出は、相手によって内容が変わった。ミショーとエインズワースに話したときは、近所をうろついて、ゴミ箱をあさっては女性のヌード写真を探していた、という{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=22}}。またポーリー・ネルソンには、刑事もの<!-- detective magazines -->や犯罪小説、犯罪ルポが好きで、性犯罪を扱っていたり、死体や四肢が欠損した身体の挿絵には目がなかった、と説明している{{sfn|Nelson|1994|pp=277–78}}。一方でルールに宛てた手紙では、「実話系の刑事もの雑誌<!-- fact-detective magazines -->なんて読んだことは絶対ないし、考えただけでぞっとする」と断言している{{sfn|Rule|2009|p=612}}。さらにミショーとの会話では、自分がいかに大酒を飲んでいたかを語り、夜中に「地元を徘徊して」裸の女性を覗くことのできるカーテンのかかってない窓を探しまわっていたし、なんなら「覗けるものであればなんでも」よかったとさえ回想している{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=74–77}}。
=== 殺人 ===
[[ファイル:Ted_Bundy_HS_Yearbook.jpeg|リンク=https://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ted_Bundy_HS_Yearbook.jpeg|サムネイル|214x214ピクセル|ハイスクール時代のバンディ(1965年)]]
バンディ専門家の一部、ルールや[[キング郡 (ワシントン州)|キング郡]]の元刑事ロバート・D・ケッペルなどは、10代前半からバンディは殺人を始めていたかもしれないと考えているものの(バンディが15歳の時、[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]在住の8歳の女の子が失踪している事に関連付けられて考えられている)、最古の立証された彼の殺人は、バンディが27歳の時である[[1974年]]に犯されている。
バンディの話は、学校生活についても食い違っている。ミショーとエインズワースには、人との距離の取り方がわからず思春期には「好んで1人でいた」と説明している{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=64}}。彼が言うには、友情を育むということがそもそもどういうことか理解できなかったのだ。「友達になりたいという気持ちがどういうものなのかわからない」、「人間関係というのが何で成り立っているのか知らない」と彼は言っている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=66}}。だがウッドロー・ウィルソン高校時代の同級生はルールに、バンディが「有名で、人気もあった」といい、例えるなら「広い池だったとしたら中ぐらいの大きさの魚」だったと語っている{{sfn|Rule|2009|p=13}}。


スキーはバンディにとって唯一の趣味らしい趣味だった。彼は盗んだ道具と偽造したリフト券で、大いにスキーを楽しんだ{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=62}}。
[[1974年]][[1月4日]]の夜半過ぎ、[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]に通う18歳の女子生徒の地下寝室に忍び込み、眠っている彼女を[[バール (工具)|バール]]にて殴打、ベッドの鉄棒を引っこ抜き、それを使って彼女に性的な暴行を行った。翌朝、彼女は自身の血の海の中、昏睡状態で横たわっている所を見つかる。一命は取り留めたものの、永久的な脳障害を負った。


彼は高校在籍中に、住居侵入と自動車泥棒の容疑で少なくとも2度逮捕されている。しかし彼が18歳になった時点で、ワシントン州などでは通例であったが、事件の詳細は公的な記録からは抹消されている{{sfn|Rule|2009|pp=13–14}}。
バンディの次の犠牲者はワシントン大学4年生の女子生徒であった。地下室に忍び込んだバンディは、彼女を気絶するまで殴り、その後ジーンズとシャツを着させてシーツで包み、彼女を運び出した。一年後、彼女は[[シアトル]]の東の山中で首を斬られた姿で発見された。


=== 大学時代 ===
1974年の[[1月]]から[[6月]]にかけて、ワシントン州の8人の女性を[[ストーキング]]しては殺害している。[[7月]]には凶行も全盛を極め、[[サマミシュ湖]]州立公園にて昼間から2人の女性が拉致、殺害されている。バンディは魅力的な顔立ちをしていたが、とりわけて覚えやすい顔立ちでもないという長所を持っていた。後年、「彼はひげや髪型を変えるといった小さな変化だけで、全く姿を変えられるカメレオンのようだ」と言われている。
1965年に高校を卒業したバンディは、[[ピュージェットサウンド大学]]に一年だけ在籍した後で、中国語を勉強するため1966年には[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]に移っている{{sfn|Rule|2009|p=14}}。翌年から彼は、大学の同級生と付きあい始めている。バンディの諸々の伝記ではさまざまな偽名が使われているが、一般的にはステファニー・ブルックスとされている<ref name="akaLeslieHolland" />。1968年の初めに、彼は大学をドロップアウトして最低賃金の仕事を転々とした。ネルソン・ロックフェラーが大統領選に出馬した時は、シアトル事務所でボランティアスタッフもしていて<ref name="timeline" />、この年の8月にはマイアミで行われた共和党の全国集会にロックフェラーの代議員として出席している{{sfn|Larsen|1980|pp=5, 7}}。その直後にバンディはブルックスと別れており、彼女はカリフォルニア州の実家に帰ってしまった。彼女が言うには、バンディの幼稚さと向上心のなさが理由であった。精神科医のドロシー・ルイスは、後にこの破局が「おそらく彼の人格が形成される上で<!-- ←in his development -->きわめて重要な事件」だと指摘している{{sfn|Nelson|1994|p=279}}。ブルックスに振られて傷心のバンディは、[[コロラド州]]に旅行に出かけ、さらに東に向かって[[アーカンソー州]]と[[フィラデルフィア]]の親戚を訪ね、[[テンプル大学]]に1学期(セメスター)だけ通っている{{sfn|Rule|2009|p=19}}。1869年の初めに、バンディは[[バーリントン (バーモント州)|バーリントン]]の出生登録所に行き、自分の父親が本当はサミュエルではないことを初めて知った、とルールは考えている{{sfn|Rule|2009|p=19}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=53}}。


バンディは1969年の秋にはワシントン州に戻り、エリザベス・クレプファー(バンディ関係の文献におけるメグ・アンダース、ベス・アーチャー、リズ・ケダルと同一人物)と出会っている。彼女は[[ユタ州]][[オグデン (ユタ州)|オグデン]]出身のバツイチで、ワシントン大学医学部の職員の仕事をしていた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=74}}。2人の激しい恋愛は、1976年にバンディがユタ州で初めて投獄されるまで途切れることなく続いた。
夏が過ぎ、秋に入った頃にはバンディの犠牲者たちの遺体がサマミッシュ湖周辺の山奥で次々と発見され始めたが、時期を同じくしてバンディはユタ州に移住していた。優秀な成績で大学を卒業した彼はワシントン州知事の推薦状を携えて、[[ソルトレイクシティ]]にある[[ユタ大学]][[ロー・スクール (アメリカ合衆国)|法科大学院]]に進学したのである。ここでバンディは[[10月]]から殺人を再開した。17歳の女性をレイプし、アナルセックスをし、その後に絞殺している。彼女の遺体は7日後に見つかった。またその後、他の17歳の女性が[[ハロウィン]]の日に失踪し、約1ヶ月後の感謝祭の日に遺体が見つかっている。


1970年代半ば、この頃のバンディには明確な目標があった。ワシントン大学に再入学して、今度は心理学を専攻している。彼は優等生であり、教授陣からの評判もよかった{{sfn|Rule|2000|pp=18–20}}。1971年には、シアトルの自殺防止ホットライン緊急センター(Suicide Hotline Crisis Center)で職を得るとともにアン・ルールと知り合い、また同僚となった。ルールは元警察官で、犯罪ルポライターになる夢を持っていた。彼女は後に、決定的なバンディの伝記である『私のそばの他人』(''The Stranger Beside Me'')を書いている。当時の彼女はまだバンディの内面には分け入っておらず、彼のことは「親切で気遣いもあり、親身になってくれる」と考えていた{{sfn|Rule|2000|pp=22–33}}。
バンディが毒牙に掛ける女性の特徴は決まっており、長髪かつ髪を真ん中で分けたスタイルの良い若い女性ということでほぼ共通していた。


1972年にワシントン大学を卒業すると{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=76}}、州知事のダニエル・J・エバンスの再選を目指した選挙戦に参加している{{sfn|Rule|2009|p=39}}。大学生を装ってエバンスの対立候補である元知事のアルバート・ロゼリーニの行動を追いかけ、街頭演説の内容を記録しては分析のためにエバンスの選対チームに情報を送った{{sfn|Larsen|1980|pp=7–10}}<ref name="Ellensburg1973-08-30" />。無事エバンスが再選を果たすと、バンディは共和党ワシントン州支部長のロス・デイビスに助手として雇われた。デイビスはバンディを気に入っており、彼のことも「頭は良いし積極的だし、仕組みってものを大事にしている」と語っていた{{sfn|Rule|2009|p=46}}。1973年の初めに[[ピュージェットサウンド大学]]と[[ユタ大学]]のロースクールに合格したが、ロースクール入学試験の点数は凡庸だった。バンディの合格はエバンスやデイビス、ワシントン大学の複数の心理学部教授の推薦の手紙のおかげだった{{sfn|Rule|2009|pp=22, 43–44}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=79}}。
=== 第1審そして逃亡 ===
1974年[[11月4日]]、ユタ州[[マリ (ユタ州)|マリ]]に住む18歳の女性は、バンディの手にかかりそうになったところから逃げ出した。バンディは警察官を装い、ショッピングモールにいた彼女に、彼女の車が泥棒に押し入られた旨を伝えるという手法を取った。危惧する彼女をモールから連れ出し、車を点検させる。だが車には何も異常がない。バンディは彼女に書類を作るので警察署まで来てくれないかと、彼女をバンディの所有する[[フォルクスワーゲン・タイプ1]]に乗せて走り始める。だが、彼女は違和感を覚えていた。その後バンディが彼女に手錠をはめようとしたところで、彼女は逃亡した。以上のあらましを彼女は地元の警察に訴えている。


共和党の仕事でカリフォルニアへ出張していた1973年の夏に、バンディはブルックスとよりを戻している。彼女にはバンディが法曹界においても政治の世界においても素晴らしいキャリアを築きつつあるように映ったし、真面目でひたむきなプロフェッショナルに変身したことに驚かされたのだった。バンディはクレプファーとも交際を続けたが、彼女たちはお互いの存在に気づくことはなかった。1973年の秋にバンディはピュージェットサウンド大学ロースクールに入学するが{{sfn|Rule|2009|pp=45–46}}、ブルックスとの恋愛関係は途切れなかった。彼女はバンディのために、何度も大陸を横断してシアトルまで飛行機に乗って会いにきていた。2人は当時結婚も考えている。一度はデイビスにフィアンセとして彼女を紹介していたほどだ{{sfn|Rule|2009|p=51}}。しかし1974年1月に、バンディは突然一切の連絡を絶った。彼女からの電話にも手紙にも、返事を返していない。一ヶ月後にようやく一度だけ電話がつながったので、彼女はなぜバンディが説明もなく一方的に関係を終わらせたのか知りたいと伝えた。バンディは抑揚のない、落ち着いた声で「ステファニー、何が言いたいのかまるでわからないよ」とだけ答えて電話を切った。彼女は二度とバンディの声を聞くことはなかった{{sfn|Rule|2009|p=52}}。後にバンディは「僕だって自分が彼女と結婚するに値する人間でありたかったよ」と説明しているが{{sfn|Foreman|1992|p=16}}、彼女のほうはバンディとの過去を振り返って、交際そのものが計画的であり最後にバンディが彼女を振ることは予定通りのことで、1986年に彼女のほうから振ったことに対する復讐だったのだと断言している{{sfn|Rule|2009|p=52}}。
[[1975年]][[8月16日]]、バンディは彼女を誘拐したタイプ1で走行していた所を逮捕され、その車は彼女を誘拐した車と同一であると確認される。[[1976年]][[3月1日]]1週間にわたる裁判の後、バンディは上記の少女を誘拐した罪で1年から15年にわたるユタ州立刑務所での[[禁錮]]刑を受ける。しかし、[[コロラド州|コロラド]]当局は連続殺人事件を追求していた。


この頃にはバンディはロースクールの授業をサボるようになっていて、4月になるとまったく大学に行くのをやめてしまった{{sfn|Rule|2000|pp=44–47}}。ちょうどその頃、[[太平洋岸北西部|アメリカ北西部]]では若い女性の失踪が続いていた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=81–84}}。この年にバンディはシアトル犯罪対策諮問委員会の副委員長を務めており、女性向けにレイプ対策のパンフレットも書いていた<ref name="nyt 1989">{{cite news|first=Jon|last=Nordheimer|url=https://www.nytimes.com/1989/01/25/us/bundy-is-put-to-death-in-florida-after-admitting-trail-of-killings.html|title=Bundy Is Put to Death in Florida After Admitting Trail of Killings|newspaper=[[The New York Times]]|publisher=New York Times Company|location=New York City|date=January 25, 1989|accessdate=September 7, 2018|dead-url=no|archive-url=https://web.archive.org/web/20171022194108/http://www.nytimes.com/1989/01/25/us/bundy-is-put-to-death-in-florida-after-admitting-trail-of-killings.html |archive-date=October 22, 2017 }}</ref>。ずっと後になって、バンディはユタ州の報道記者にこんなジョークを言っていた。ソルトレークシティの刑務所にはいって8週間、保釈を待っている間に身をもって法を学ぶという得難い経験をして、刑事司法の仕組みの改善につながる新たな考えが浮かんだよ、と。彼に対して初めての法的措置がとられたことで、むしろ保釈保証の問題が浮き彫りになり、その改正に対する取り組みが行われることになったのだった<ref>{{cite book |first1=Robert |last1=Keller |title=Bundy: Portrait of a Serial Killer: The Shocking True Story of Ted Bundy |publisher=Robert Keller |date=2017|isbn=978-1548730673 }}</ref>。
[[1976年]][[6月7日]]、彼の殺人事件の裁判準備中、彼はコロラド州ピトキンにある裁判所へ移送される。休廷中、裁判所内の法律図書室に入室を許可される。バンディはそこの2階の窓から飛び降り、逃亡した。しかしその際に足首を痛め、結果として逃亡を図れなかったバンディは1週間後に捕まった。バンディは刑務所に戻された。


== 2つの連続殺人 ==
しかし裁判の開始を待っている時期に、彼は再び逃亡する。[[コロラド州]][[グレンウッドスプリングス]]にある刑務所に収監されていたバンディは、どういうわけか弓鋸を所持しており、それを用いて[[独房]]の天井に四角い穴を開けていた。[[1977年]][[12月30日]]の夜、彼はその穴によじ登り、こそこそせずに正門まで歩いていき、車を盗んで逃亡した。
[[File:Ted Bundy volkswagen.JPG|thumb|犯行に使われたバンディの車]]


=== ワシントン州とオレゴン州 ===
=== フロリダへ ===
バンディが女性の殺めるようになったのが、いつ・どこでなのかについて統一した見解はない。彼は言っていることが相手によってばらばらであるうえに、最初期の犯罪の解明につながることについては口を閉ざしている{{sfn|Keppel|2005|p=400}}。比較的新しい、死刑執行の直前までに行った殺人についてはありありと詳細を告白するのとは対照的である{{sfn|Nelson|1994|pp=282–84}}。ネルソンには、1969年に[[ニュージャージー州]][[オーシャンシティ (ニュージャージー州)|オーシャンシティ]]で初めて誘拐を試みたが、1971年某日のシアトルの事件までは誰1人殺していないと語っている。精神科医のアート・ノーマンには1969年に[[フィラデルフィア]]へ旅行に来た家族をターゲットに、[[アトランティックシティ]]で2人の女性を殺したと言う<ref name="DailyNews" />{{sfn|Sullivan|2009|p=57}}。殺人担当課の刑事ロバート・D・ケッペルには、1972年にシアトルで1人殺して{{sfn|Keppel|2005|p=387}}、1973年にタムウォーターあたりにいたヒッチハイカーが犠牲になった別の事件でも殺人をほのめかしているが、詳しくは語っていない{{sfn|Keppel|2005|p=396}}。ルールもケッペルも、彼は未成年の頃から殺人に手を染めていただろうと考えている{{sfn|Rule|2000|p=526}}{{sfn|Keppel|2005|pp=399–400}}。状況証拠しかないが、1961年に当時8歳だったタコマ在住のアン・マリー・バーを誘拐して、殺した疑いがある。このとき彼は14歳だった。しかしバンディは繰り返しこの説を否定している{{sfn|Keppel|2005|p=387}}。彼による殺人事件として認定されているうちで、一番古いものは、バンディが27歳(1974年)の時のものだ。しかしこの時代にはまだDNA鑑定がなかったとはいえ、自分でも認める通り、彼はすでに犯行現場に最小限の法科学的な証拠しか残さないようにする技術をマスターしていた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=87}}。
刑務所を訪問した友人が渡した約500ドルで、バンディは片道の航空券を購入。[[トランス・ワールド航空]]の[[デンバー]]発[[シカゴ]]行に乗って逃亡。[[ミシガン州]][[アナーバー]]行きの[[アムトラック]]の旅客列車に乗車し、その後、車を盗んで[[アトランタ]]の[[スラム街]]で乗り捨てる。そこから[[フロリダ州]][[タラハシー (フロリダ州)|タラハッシー]]までバスで移動した。タラハッシーではクリス・ヘイゲンという偽名でアパートを借り、ひとまず腰を落ち着ける。[[1978年]][[1月15日]]深夜、カイ・オメガ女子寮にて、睡眠中の女生徒を襲い、2人を撲殺し、2人に重傷を負わせる。


1974年1月4日(この頃すでにブルックスとは連絡を絶っていた)の0時を少し過ぎたころに、バンディはワシントン大学の学生でありダンサーの仕事もしていた18歳のカレン・スパークス{{sfn|Keppel|2005|p=389}}(文献によってはジョニ・レンツ{{sfn|Rule|2009|p=57}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=27}}、メアリー・アダムス{{sfn|Michaud|Aynesworth|1983|p=27}}、テリー・コードウェル{{sfn|Sullivan|2009|p=14}}となっている)のアパート地階の部屋に侵入している。ベッドフレームから鉄の棒を外して、眠っていた彼女を意識がなくなるまで殴りつけ、その鉄の棒(文献によっては鉄の[[膣鏡|スペキュラム]]{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=27}})で彼女に性的暴行を加えた{{sfn|Rule|2009|pp=56-7}}{{sfn|Foreman|1992|p=16}}。そのため彼女は酷い内蔵損傷を被ることになった。バンディの暴行によって彼女は意識不明の状態が10日続き{{sfn|Sullivan|2009|p=14}}、その後一命をとりとめたもののその後身体と精神に障害を抱えて一生を送ることになった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=28}}。2月1日の早朝には、リンダ・アン・ヒーリーの部屋に押し入っている。彼女はワシントン大学の学部生であると同時にスキーヤーのために朝のラジオで天気予報のレポーターをしていた。バンディは彼女に拳を浴びせて気絶させると、青いデニムと白のブラウスを着せ、ブーツを履かせて彼女を連れ去った{{sfn|Rule|2009|pp=60–62}}。
[[1978年]][[2月9日]]、[[レークシティー]]に移動。そこで12歳の少女を誘拐して性的暴行を加えながら、彼女の顔を泥につけて溺死させ、死体を小屋の下に遺棄する。彼女がバンディの最後の被害者となった。その後、[[1978年]][[2月15日]]午前1時[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]にて、彼が乗っていた[[フォルクスワーゲン]]が盗難車のナンバーであったことから警官に拘束される。警察での取り調べの際、自分はクリス・ヘイゲンであり不当逮捕だと強硬に主張したが、やがてバンディの身元は判明し、カイ・オメガ女子寮での殺人事件の裁判のため[[マイアミ]]に移送される。


1974年の前半には月に1人のペースで女子大学生が失踪した。3月12日、シアトルから南西に100キロメートル弱離れた[[オリンピア (ワシントン州)|オリンピア]]で、エヴァーグリーン州立大学に通う19歳のドナ・ゲイル・マンソンは、大学のキャンパスで開かれるジャズコンサートに行くために寮を出たが、会場には姿を表わさなかった。4月17日、スーザン・エレイン・ランコートが寮への帰宅途中に失踪した。彼女はシアトルから東南東に200キロメートル弱の[[エレンズバーグ (ワシントン州)|エレンズバーグ]]にあるワシントン州立大学でその日の午後にあった新入生オリエンテーションから帰るところだった{{sfn|Rule|2009|p=71}}<ref name="Spokesman-Review" />。セントラルワシントン大学の女子学生2人が後に名乗り出て、ランコートが失踪した日の夜に(もう1人はその三日前の夜に)ある男に出会ったという情報を提供した。その男は怪我人のように腕を[[スリング]]で吊っていて、荷物の本を自分のブラウンあるいは褐色のフォルクスワーゲン・ビートルに積むのを手伝ってくれないかと頼んできたという{{sfn|Keppel|2005|pp=42–46}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=31–33}}。5月6日には、ロベルタ・キャスリーン・パークスが[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]から150キロメートル弱南にある[[コーバリス (オレゴン州)|コーバリス]]の[[オレゴン州立大学]]の寮を出たまま姿を消した。キャンパス内にある学生会館メモリアルユニオンで友人たちとカフェをするはずだった{{sfn|Rule|2009|pp=75–76}}。
=== 判決そして死刑執行 ===
[[ファイル:Ted Bundy in court.jpg|200px|thumb|法廷でのバンディ。彼は弁護士を依頼せず、自ら弁論や弁護に立った。]]
[[1979年]][[6月25日]]から[[7月31日]]にかけて、バンディの第2審が開かれた。5人の国選弁護人がいるにもかかわらず、バンディは自分で自分の弁護を行った。また、公判中、昔仕事場で同僚だった女性と結婚している(一子をもうけた後、離婚)。また死刑執行までの間、バンディは数百に及ぶファンレターをもらっている。


キング郡保安局とシアトル警察署の刑事たちは次第に懸念を募らせていたが、物理的な証拠は一切見つかっておらず、失踪した女性にも共通点はほとんど無かった。あるとすれば、彼女たちはみな若く魅力的な白人の女子大生で、長い髪を真ん中で分けていることぐらいだった{{sfn|Rule|2009|pp=73–74}}。6月1日、22歳のブレンダ・キャロル・ボールが、[[シアトル・タコマ国際空港]]に近い[[ベリアン (ワシントン州)|ベリアン]]のパブから出た後に行方不明になった。最後に彼女が目撃されたのはこの店の駐車場で、髪の毛がブラウンで腕をスリングで吊っている男と話している場面以降は消息がわからなかった{{sfn|Rule|2009|p=77}}。6月11日の深夜にはワシントン大学の学生ジョーガン・ホーキンスが、ボーイフレンドの寮から自分の女子寮までの、街灯もあって明るい路地を歩いていった途中で行方不明になる{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=37}}。翌朝、シアトル警察署の刑事と鑑識官3人が路地をくまなく探したが、何も見つからなかった{{sfn|Rule|2009|p=82}}。ホーキンスの失踪後にその事実が公表されると、目撃者が現れた。その夜は寮のすぐ裏にある小道に男が立っていて、片足にギプスをして松葉づえをついており、書類かばん1つ運ぶのにも難渋していたという情報だった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=38}}。もう1人、女性の証言もあり、その男から自分のライトブラウンのフォルクスワーゲンにそのかばんを入れるのを手伝ってくれないかと頼まれたという{{sfn|Rule|2000|p=75}}。
判決は死刑であった。裁判官は判決の際、以下のことを言った。
<!--ほぼ、直訳です。意訳すると主観が入りそうで-->
<!--原文:"It is ordered that you be put to death by a current of electricity,that current be passed through your body until you are dead. Take care of yourself, young man. I say that to you sincerely; take care of yourself. It's a tragedy for this court to see such a total waste of humanity as I've experienced in this courtroom. You're a bright young man. You'd have made a good lawyer, and I'd have loved to have you practice in front of me, but you went the wrong way, partner. Take care of yourself. I don't have any animosity to you. I want you to know that. Take care of yourself."-->
{{quotation|<small>(フロリダでの死刑執行は[[電気椅子]]で行われることから)</small>貴下が電流によって死に至るまで座っているよう、貴下が死ぬまで電流が貴下の体内を通るよう、ここに命じるものである。体に気をつけなさい。<small>(「Take care of yourself」。別れの時の慣用句で、日本語で表すなら「それではお元気で」、「お体に気を付けて」の意。「自制した人生を」とも解釈できる)</small>。青年よ。これは真摯に言っているのだ。この法廷で私が経験したそのような人間性の浪費は、この裁判所にとって悲劇とも言える。貴下は聡明な青年だ。貴下は優秀な法律家になれたかも知れない。そして私は、法廷で貴下が活躍する姿に惚れ込んだかも知れない。私は、貴下に何ら敵意も持っていない。それは理解してほしい。しかしあなたは道を間違えた。体に気をつけなさい。}}


この時期に、バンディはオリンピアの危機管理局(DES)で仕事をしていた。つまり州政府で失踪女性を捜索する職員だった。そしてこの職場で、彼は二児の母であり二度の離婚を経験していたキャロル・アン・ブーンと知り合い、付き合うようになってた。彼女は6年後に、バンディの人生の最後の局面で重要な役割を演じることになる<ref name="Michaud-trutv" />。
[[ファイル:TedBundyprisonFlorida.jpg|200px|thumb|獄中でのバンディ]]
ロバート・K・レスラーは、フロリダの刑務所にいたバンディに会いに行き、彼と面談を行ったことがある。バンディが有罪となり、上訴請求が棄却されてから、FBIの調査プロジェクトのために、レスラーはバンディとの面談を望んでいたが、あるとき、バンディがレスラーに手紙を出し、面談が実現した。バンディが手紙を送ったのは、FBIの調査資料を入手して自分に科された死刑宣告を覆すためであった。しかし、レスラーは資料の受け渡しを拒否し、バンディが犯した罪にしか興味がないと告げた。するとバンディは、「自分は上訴に勝つ。死刑にはならない」と豪語したという。レスラーの質問をのらりくらりとかわしたり、自分の犯した殺人については3人称を使って話し、「自分がそうした」と、はっきりとは認めなかった。レスラーは、バンディが真実を語ることは決してないと考えたという。


6人の女性が失踪し、スパークスに残酷な暴行が加えられたことがテレビや新聞で報じられ、ワシントン州とオレゴンでは誰もが知る事件となった{{sfn|Rule|2000|p=81}}。市民には不安感が広がり、若い女性のヒッチハイカーはあっという間に見かけなくなった{{sfn|Rule|2000|p=76}}。当局に対する不満の声が強まったが{{sfn|Rule|2000|p=77}}、物理的な証拠に乏しく打つ手がなかった。警察にしても、捜査に支障をきたさない範囲で記者に伝えられる情報はいくらもなかったのである{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=vi}}。それでも、被害者たちには新たな共通点が見つかっていた。失踪はすべて夜間に起きており、たいてい工事現場の近くで、中間か期末の試験がある週だった。被害女性は全員、スラックスか青いデニムをはいていた。そしてほとんどのケースで、ギプスかスリングをして、ブラウンか褐色のフォルクスワーゲン・ビートルを運転する男が近くで目撃されていた{{sfn|Rule|2009|pp=90–91}}。
それまで冤罪、無罪を訴えて久しかったが、死刑執行の3~4日前になって、バンディは全てを話すと言い出した。全国から警察官が集まり、バンディの話を聞くことになった。バンディは初めての殺人について曖昧に話し続け、時間がかかりそうなので死刑を延期するよう請願をしてくれれば全部話せると言ってもいる。しかし、それは聞き入れられず、彼はとうとう電気椅子に座ることになった。最終的には自分の罪を認め、その上で「私は暴力の中毒だった」と語り、寂寥感(せきりょうかん 寂しい様子)にあふれた顔を見せた。
[[ファイル:Ted_Bundy_volkswagen.JPG|代替文=A light tan rusty Volkswagen is positioned for display behind a chain made of handcuffs|サムネイル|でテッド・バンディが多くの犯行現場で乗っていた1968年式のフォルクスワーゲン・ビートル(いまは閉鎖されたが、国立犯罪・刑罰博物館に展示されていた時の写真)<ref name="Kennicott-wapo" /><ref name="CrimeMuseum-car" />]]


アメリカ北西部での殺人事件がクライマックスを迎えたのは7月14日のことで、シアトルから30キロメートルほど東の[[イサクア (ワシントン州)|イサクア]]にあるレイク・サマミッシュ州立公園のビーチに人がつめかけている中、白昼堂々、2人の女性が誘拐されたのである<ref name="bbapdent74">{{cite news|url=https://news.google.com/newspapers?id=6DlYAAAAIBAJ&sjid=VPcDAAAAIBAJ&pg=1580%2C3631677|work=The Bulletin|location=(Bend, Oregon)|agency=Associated Press|title=Dental records establish identities of two women|date=September 11, 1974|page=11}}</ref>。5人の女性がある男性のことを証言していた。その男は若くて感じもよく、話せばカナダ人かイギリス人を思わせる軽いアクセントで、白いテニスウェアを着こみ左腕にはスリングをつけていた。そして自分のことを「テッド」と名乗り、ヨットを褐色かブロンズのフォルクスワーゲン・ビートルに積むのを手伝ってくれないかと頼んできたという。彼女たちのうち4人は断ったが、1人は車までついていってしまった。しかしヨットなどないことに気づくのが早く、走って逃げることができた。その男がジャニス・アン・オットにも話を持ちかけているところも別の3人が目撃している。彼女は23歳でキング郡の少年裁判所で試用期間中のケースワーカーをしており、やはりヨットの話をされて、男といっしょにビーチを離れたところまでは見ている人がいた{{sfn|Keppel|2005|pp=3–6}}。4時間後には、プログラマーになる勉強中のデニス・マリー・ナスランドという19歳の女性が、ピクニックの最中にトイレに行ったきり戻らなくなった{{sfn|Rule|2009|pp=99–101}}。バンディは、スティーヴン・ミショーに、オットはナスランドを拾って戻ってくるまで生きていた(そして片方を殺すところを無理やりもう片方に見せつけていた{{sfn|Foreman|1992|p=45}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=139–42}})と語ったが、処刑の前日にルイスから受けた取材のときはこの話を否定している{{sfn|Nelson|1994|pp=294–295}}。
[[1989年]][[1月24日]]午前7時6分、フロリダにある電気椅子で42歳であったバンディに死刑が執行された。2000ボルト以上の[[電圧]]を2分間にわたり加圧され、午前7時16分に死亡を確認。その翌日、バンディの死刑執行を信じない人間が多数存在していたため、新聞の一面に彼の遺体のカラー写真が大きく掲載されている。なお、この記事のタイトルは「Killer dies with a smile on his face(殺人鬼は微笑みを浮かべ死んだ)」であった。


キング郡保安局は、ようやく容疑者と彼の車を詳細に解説したチラシをつくって、シアトル地区に配布した。似顔絵も地方新聞に掲載されたほか、地元のテレビ番組でも報道された。エリザベス・クレプファー、アン・ルール、オリンピアの危機管理局(DES)の職員1名、そしてワシントン大学の心理学部教授の4人全員が、報道されたプロフィール、似顔絵、車について覚えがあり、バンディがおそらく犯人であるという通報を行った{{sfn|Keppel|2005|pp=61–62}}。しかしこの頃1日に200件の情報提供を処理していた刑事たちは{{sfn|Keppel|2005|p=40}}、成人になってからの犯罪歴もない、見た目もさわやかな法学部生が犯人である可能性は低いだろうと考えた{{sfn|Rule|2000|pp=103–05}}。
== 参考文献 ==

* 『The Stranger Returns』 - Michael Roger Perry マイケル・ロジャー・ペリー著 [[1992年]] ISBN 0671734954
9月6日、ライチョウを獲っていた2人のハンターが、レイク・サマミッシュ州立公園から東に3キロメートルのイサクアの側道で、白骨化したオットとナスランドの遺体に出くわした<ref name="bbapdent74" />{{sfn|Keppel|2005|pp=8–15}}。この場所からは、別人の大腿骨と脊椎骨が発見されたが、バンディは後にそれがジョーガン・ホーキンスのものだと語った{{sfn|Keppel|2005|p=18}}。6ヵ月後、グリーン・リバー大学で林業を勉強する学生が、テーラー山でヒーリー、ランコート、パークス、ボールの頭骨や下顎骨を発見した。この山はバンディがよくハイキングにでかけていた場所で、イサクアからすぐ東にあった{{sfn|Keppel|2005|pp=25–30}}。マンソンの遺体はその後も見つかっていない。
* 上記の邦訳本『テッド・バンディの帰還』 青木悦子訳 [[東京創元社]] [[2002年]] ISBN 4-488-22102-5

* 『FBI心理分析官 ~異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記~』[[ロバート・K・レスラー]]&トム・シャットマン著 相原真理子訳 [[早川書房]] [[1994年]] ISBN 4152078464
=== アイダホ州、ユタ州、コロラド州 ===
* 『死体を愛した男』ロバート・D・ケッペル&ウィリアム・J・バーンズ著 戸根由紀恵訳 [[翔泳社]][[1996年]] ISBN 4881353888
1974年8月、バンディはユタ大学ロースクールから二度目の合格通知が来たので、クレプファーをシアトルに残してソルトレークシティに引っ越した。頻繁に彼女を呼び出す一方で、デートを重ねる女性はクレプファー以外に「少なくとも1ダース」はいた{{sfn|Rule|2009|pp=130–31}}。初年度のカリキュラムを勉強するのはこれで二度目だったが、「彼は自分にはない、何か知的な能力を持っている学生がいないか必死になって探していた。しかし彼が通うクラスにそれを求めても無意味だということに気づいた。『心底がっかりしたよ』と彼は語った」{{sfn|Nelson|1994|p=55}}。

この月以降、新たな連続殺人が始まった。犠牲者のうち2人は、バンディが処刑される直前に自白しなければ遺体すら発見できなかった。9月2日、[[アイダホ州]]で未だ身元不明のヒッチハイカーが強姦された後に絞殺され、遺体はそばの川にそのまま流されたか{{sfn|Sullivan|2009|p=86}}、翌日に写真を撮るために戻ってきたときに切り刻んでから川に流された{{sfn|Nelson|1994|pp=257–59}}{{sfn|Rule|2000|p=527}}。10月2日、ソルトレークシティ近郊のホラディでバンディは16歳のナンシー・ウィルコックスを無理やり木が生い茂ったエリアに連れて行くと、自分の病理学的な衝動を鎮めるために(と彼は言う)強姦した後は解放するつもりだったが、うっかり(と彼は言う)叫び声を抑えようとして絞殺してしまった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=91}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=143–46}}。ナンシーの遺体はホラディから南に300キロメートル以上あるキャピトル・リーフ国立公園のあたりに埋めたというが、その後も見つかっていない<ref name="Psychics" />。

10月18日、[[ソルトレイクシティ]]近郊にあるミッドヴェールの警察署長の娘で17歳のメリッサ・アン・スミスがピザ店を出た後に行方不明になった。9日後、そばにある山間部で彼女の裸の遺体が見つかった。検死の結果、失踪から7日後までは生きていた可能性があることがわかった{{sfn|Sullivan|2009|p=96}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=92–93}}。10月31日、同じく17歳のローラ・アン・エイミーが40キロメートル南の[[ユタ州]]リーハイで、夜中にカフェから出た後に行方不明になっている{{sfn|Rule|1989|p=112}}。彼女の遺体も、[[感謝祭]]の日に14キロメートル北東のアメリカンフォークキャニオンに裸で見つかった<ref name="Deseret1977" />。2人とも殴られ、強姦されて(肛門にも性交の痕跡があった)、ナイロンストッキングで絞殺されていた<ref name="Bell-KillingSpree" />{{sfn|Rule|1989|pp=112–13}}。数年後に、バンディはスミスとエイミーの遺体の髪をシャンプーしたり、顔にメイクをするといった死後の儀式について詳しく語っている{{sfn|Rule|1989|p=486}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=334–35}}。

11月8日の午後遅くにバンディはユタ州マリのショッピングモール「ファッション・プレイス」で18歳のテレホンオペレーター、キャロル・ダロンシュに声をかけている<ref>{{cite book|title=Ted Bundy: The FBI File|url=https://books.google.com/books?id=JXm3zfQuNEUC&pg=PA61&lpg=PA61&dq=fashion+place+mall+bundy&source=bl&ots=NgFzncrGwm&sig=WjQ55lmIzE1jKLJgGxJAJW221Qw&hl=en&sa=X&ei=J_oNVeTDBISFyQTG-YGYCA&ved=0CDMQ6AEwAw#v=onepage&q=fashion%20place%20mall%20bundy&f=false|accessdate=March 21, 2015|quote=Bundy was convicted of kidnaping Carol DaRonch, 19, from Fashion Place Mall earlier that day.}}</ref>。そこは、メリッサ・アン・スミスが最後に目撃された場所から1キロメートル足らずの場所だった。彼は自分のことをマリ警察署の「ローズランド巡査」と名乗り、ダロンシュに、君の車に誰かが押し入ろうとしていたので、被害届を出すために署までついてきてほしいと頼んだ。しかし車が向かっているのが警察署がある方向ではないことを彼女に指摘されたバンディは、車をすぐに路肩に停めて、彼女に手錠をかけようとした。もみ合いになったが彼は手錠を2つとも片方の手にかけてしまったため、ダロンシュは車のドアを開けて脱出することができた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=93–95}}。その日の午後遅くにマリから北に30キロメートルほどいったバウンティフルのビューモント高校で17歳の生徒デブラ・ジーン・ケントが、学校での演劇製作の後で弟を迎えにいくはずがそのまま行方不明になった<ref name="map-Murray2Bountiful" />。演劇を指導していた教師と生徒の1人は、「見たことのない人」が自分の車を探すため駐車場に来てほしいと頼んできた、と警察に証言した。別の生徒も後から、同じ男が講堂の裏でうろうろしていると話していた。この教師は芝居が終わった直後にもその男を見かけていた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=95–97}}。講堂の外で、警察はダロンシュにかけられていた手錠を外す鍵を見つけている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=101}}。

11月に、ソルトレークシティ周辺の町でまた若い女性の失踪が起こっているという新聞記事を読んだエリザベス・クレプファーは、キング郡保安局にもう一度連絡を入れた。重大犯罪課の刑事ランディ・ハーゲスハイマーが彼女の話を詳しく聞き、バンディは今度こそキング郡における容疑者の筆頭に挙げられるようになったが、レイク・サマミッシュ州立公園の事件において最も信頼できると警察が考えていた証人は、顔写真リストからバンディを特定することができなかった{{sfn|Kendall|1981|pp=78–79}}。12月にクレプファーはソルトレーク郡保安局にも連絡し、繰り返しバンディが怪しいと伝えた。バンディの名は容疑者リストに加わったが、この時点ではユタ州の犯罪と彼を結びつける確かな証拠は一切なかった{{sfn|Rule|2009|pp=148–49}}。1975年1月、バンディは大学の期末試験を終え、クレプファーと1週間一緒に過ごした後でシアトルに戻った。バンディは、彼女が3度にわたって別々の警察署に自分のことを通報したことなど聞かされていなかった。一方彼女のほうでは8月にソルトレークシティでバンディに会う計画を立てていた{{sfn|Rule|2009|pp=149–50}}。

1975年には、バンディが犯行に及ぶ場所は、彼の拠点であるユタ州ではなくコロラド州のほうが多くなっていた。1月12日、キャリン・アイリーン・キャンベルという名の23歳の登録看護婦が、ソルトレークシティから南東に640キロメートルのスノーマスビレッジのホテル「ワイルドイウッド・イン」の中で行方不明になった。最後に目撃されたのは、エレベーターから彼女の部屋までの、十分に明るい廊下を歩いているところまでだった{{sfn|Rule|1989|p=126}}。一ヶ月後に、このリゾート地の近郊にある砂利道のすぐ脇で、キャンベルの裸の遺体が見つかった。彼女は鈍器で頭を殴られて絶命しており、その証拠に頭蓋骨は細長く陥没していたほか、逆に身体は鋭利な刃物による深い切り傷があった{{sfn|Rule|2000|pp=132–36}}。3月15日にはスノーマスから北東に160キロメートルのヴェイルの町で、スキーインストラクターのジュリー・カニンガム26歳が、友人の1人とディナーをするためアパートを出た後に行方不明になった。後からバンディはコロラド州の捜査員に、カニンガムには松葉杖をついて近づき、スキー靴を車に運ぶのを手伝ってほしいと頼んだと話した。そして棒で殴りつけると手錠をかけ、そこから140キロメートル西にいったライフル近辺に移動して、性的な暴行を加えてから絞殺したという{{sfn|Keppel|2005|pp=402–07}}。数週間後、バンディはソルトレークシティから車で6時間かけて、彼女の遺体がある場所まで戻ってきている{{sfn|Keppel|2010|loc=Kindle location 7431–98}}。

25歳のデニス・リン・オリバーソンは 4月6日、ユタ州とコロラド州の境界に近いグランドジャンクション近郊で行方がわからなくなった。実家まで自転車に乗って向かっている途中だった。彼女の自転車とサンダルが、鉄道橋そばの高架下から見つかっている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=110}}。5月6日、バンディはソルトレークシティから260キロメートル北へいったアイダホ州[[ポカテッロ (アイダホ州)|ポカテッロ]]でアラメダ中学校に通う12歳のリネット・ドーン・カリバーを誘拐している。彼は自分のホテルに連れ込むと、カリバーを溺死させてから性的暴行を行い{{sfn|Sullivan|2009|pp=137–38}}、ポカテッロの北に流れる川に遺体を棄てた<ref name="Culver" /><ref name="Moscow" />。

5月半ばに、ワシントン州の危機管理局でバンディと一緒に働く3人の同僚がソルトレークシティの彼のアパートを訪れ、一週間そこで過ごしている。その中にはキャロル・アン・ブーンもいた。その後6月初めにバンディは[[シアトル]]でクレプファーと一週間共に生活し、クリスマスの後の結婚について話し合った。やはり彼女はキング郡やソルトレーク郡の警察に伝えた内容については黙っていた。一方バンディも、ブーンとは関係を継続中であることや、文献によってはキム・アンドリューズ{{sfn|Kendall|1981|pp=140–41}}やシャロン・オーア{{sfn|Rule|2009|pp=164–65}}とされるがユタ大学ロースクールの学生とも並行して関係を持っていることを秘密にしていた。
[[ファイル:Caryn_campbell_ted_bundy.jpg|代替文=An outdoor hallway. Hotel rooms are on the left and a balcony is on the right.|サムネイル|キャリン・キャンベルはこの明るい廊下を通って自分の部屋に行く途中で行方不明になった]]
6月28日、スーザン・カーティスがソルトレークシティから70キロメートルほど南にある[[プロボ (ユタ州)|プロボ]]の[[ブリガムヤング大学]]のキャンパスから姿を消した。カーティスは、バンディが最後に殺人を認めた被害者だった。彼の告白は処刑室に入る直前で、テープにも録音されている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=343}}。ウィルコックス、ケント、カニンガム、カルヴァー、カーティス、オリバーソンの遺体はその後も見つかっていない。

1975年の8月か9月に、バンディは[[末日聖徒イエス・キリスト教会]]で洗礼を受けているが、教会での礼拝には熱心ではなく、戒律もほとんど無視していた<ref name="Smith1979" /><ref name="Bennett-Connaughton1978" /><ref>{{Harvnb|Michaud|Aynesworth|1999|p=158}}: "Bundy joined the Mormon Church that September."</ref>。翌1976年に彼は誘拐について有罪判決を受け、教会からは破門されている<ref name="Smith1979" />。逮捕後にどの宗教を選択しているのか聞かれたバンディは、子供の頃に信仰していた「[[メソジスト]]」と答えている{{sfn|Von Drehle|1995|p=389}}。

ワシントン州では、突如として始まり突如として止んだ[[太平洋岸北西部]]の連続殺人を解明することに心血が注がれていた。大量に集まったデータを分析するために、警察はその情報をデータベース化するという当時としては画期的な手法を捜査に取り入れた。このとき使われたのがキング郡の給与計算業務用コンピューターで、現代の基準に照らせば「巨大で、原始的な機械」だが、当時使えるコンピューターといえばこれしかなかった。自分たちが集めたデータ(被害者ごとのクラスメイトや知人、「テッド」という名前のフォルクスワーゲンのオーナー、性犯罪者など)を入力し、コンピューターに重複する人物を照会した。その結果、何千人という中から、4つのグループで26人がピックアップされた。その中の1人はテッド・バンディだった。捜査員たちは人力でもデータベースをつくり、「ずばり」な容疑者を100人まで絞っていたが、こちらにもバンディが入っていた。ユタ州から彼が逮捕されたという知らせが届く頃には、ワシントン州でも彼が「文字通り山積みにされた{{Interp|容疑者たちの|和文=1}}一番上のところにいた」{{sfn|Keppel|2005|pp=62–66}}。

== 逮捕と最初の裁判 ==
{{External media|image1=[https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/7/7d/Ted_Bundy_murder_kit.JPG 車内で発見されたテッド・バンディの殺人キット]}}
1975年8月16日にバンディはグレンジャー([[ソルトレイクシティ]]の近く)でユタ州のハイウェイパトロールに車を停められている。夜明け前に住宅街を流して走っている最中にパトロールカーに発見されたバンディは、スピードを上げてそのエリアを離れようとしたが、停車を指示された<ref name="Gehrke2000" />。警官はフォルクスワーゲンの助手席のシートが外されて後ろの席に置いてあるのに注目し、車内を捜索することにした。すると目出しのスキー帽、ストッキングでつくった別の目出し帽、バール、手錠、ゴミ袋、ロープ一巻き、アイスピックなどが見つかり、初めは強盗を疑われていた。バンディは、手錠はコンテナのゴミ箱から拾ったものだが、スキー帽はスキーのためで、残りはよくある家庭用品じゃないかと説明した{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=98–99, 113–15}}。しかし<!-- パトカーから連絡を受けて到着した? -->刑事のジェリー・トンプソンは、1974年11月にダロンシュが誘拐されたときに情報公開された容疑者と車の特徴に似ていることに気づいており、バンディという名前も1974年12月にクレプファーが情報提供の電話をしたときに覚えがあった。バンディのアパートも捜索することになり、ワイルドウッド・インに印のつけてあるコロラド州のスキー場のガイドブックだけでなく{{sfn|Keppel|2005|p=71}}、バウンティフルのビューモント高校で上演される芝居の宣伝パンフレットも見つかった{{sfn|Sullivan|2009|p=151}}。バンディを拘束するだけの証拠としては不十分であり、警官は彼に誓約書を提出させると引き揚げてしまった。バンディは後に、もうちょっとよく探せば被害者を獲ったポラロイド写真のコレクションが見つかったのにと語っている。彼は警察に解放された後で、この写真を破棄してしまった{{sfn|Nelson|1994|p=258}}。

警察はソルトレイクシティのバンディに24時間の監視体制を敷いた。トンプソンは2人の捜査員を連れてシアトルに飛び、クレプファーに面会している。彼女によれば、バンディがユタ州に引っ越す前の年に、自分の家やバンディのアパートから何故あるのか「理解できない」ものを見つけていたのだという。例えば、松葉杖、ギプスのはいったバッグ(彼はそれを薬局から盗んだことを認めていた)、料理には使ったことのない肉切り包丁だった。ほかにも外科用手袋や、車のダッシュボードには木箱入りの東洋風の刀があり、女性の服がつまった袋もあった{{sfn|Rule|2000|p=167}}。バンディは慢性的に借金を抱えていたので、クレプファーは彼が持っている高価なものはほぼすべて盗品ではないかと疑っていた。彼のアパートにあった新しいテレビとステレオのことでいさかいになった時にはバンディから「もし誰かに話したら、貴様の首をへし折るぞ」と警告されていた{{sfn|Kendall|1981|p=74}}。また彼女によれば、真ん中で分けた長い髪を切ろうとすると、バンディはいつも「ひどく慌てて」いたという。夜に目を覚ますと、ベッドカバーの下でバンディが自分の体を診察するように触っている時もあった。また彼女の車(バンディの車とは別のフォルクスワーゲン・ビートルで、彼はよく借りていった)には、取っ手の下半分をテープ巻きにした[[レンチ|ラグレンチ]]を常に置いていて、バンディはそれが「護身用」だと言っていた。警察の調べでは、バンディがクレプファーといる日には太平洋岸北西部で失踪者が出ておらず、オットやナスランドが誘拐された日にも重ならなかった{{sfn|Rule|2009|pp=187–94}}。クレプファーはトンプソンからの事情聴取の直後に、シアトル警察署の刑事ケイシー・マクチェスニーからも聴取を受けており、この時にステファニー・ブルックスの存在やバンディと1973年のクリスマス前後につかの間の関係を持っていたことを知った{{sfn|Kendall|1981|pp=96–100}}。

9月に、バンディは自分のフォルクスワーゲン・ビートルをミッドヴェールの少年に売り渡している{{sfn|Rule|2009|pp=226–27}}。この車はユタ州の警察に押収され、FBIの技術班によって分解と調査が行われた。車内からはキャリン・キャンベルの遺体からとった標本と一致する髪の毛が見つかった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=188}}。さらに後になって、髪の毛にはメリッサ・スミスとキャロル・ダロンシュのものと「顕微鏡でみても区別できない」ものもあることがわかった{{sfn|Rule|2000|p=250}}。FBIの鑑識のスペシャリスト、ロバート・ネイルは、1台の車から互いに面識のない3人の人間と一致する髪の毛が出てくるのは「途方もないほどの偶然の一致」だと結論づけた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=189–91}}。

10月2日、警察によってバンディの面通しが行われ、ダロンシュはすぐに「ローズランド巡査」は彼だと言った。この面通しでは、バウンティフルから来た目撃者も学校の講堂でうろついていた見知らぬ人として彼を選んだ{{sfn|Rule|2009|pp=178–79}}。デブラ・ケント(遺体は見つかっていない)の事件と彼を結びつける証拠は不足していたが、ダロンシュに対する誘拐と暴行未遂だけで起訴するには十分だった。彼は保釈金15,000ドルを親に肩代わりしてもらい{{sfn|Foreman|1992|p=24}}、シアトルで行われる裁判まで、ほとんどの時間をクレプファーの家で過ごした。シアトルの警察はアメリカ北西部で起こった一連の殺人事件について決定的な証拠を欠いたままだったが、それでもバンディを厳しい監視下に置いた。「テッドと私が外出しようとしてポーチに出ると、何台も停まっていた警察の覆面車両が一斉にエンジンをかけるので、[[インディ500]]のスタートの時のようなすごい音がした」とクレプファーは伝記に書いている{{sfn|Kendall|1981|pp=119–20}}。

11月、バンディを追いかける3人の捜査主任(ユタ州のジェリー・トンプソン、ワシントン州のロバート・ケッペル、コロラド州のマイケル・フィッシャー)がコロラド州のアスペンに揃い、5つの州から来た30人の刑事と検察官とともに情報交換を行った{{sfn|Rule|2009|pp=213–15}}。捜査員たちはバンディが自分たちが追いかけている殺人鬼だと確認しあってこの会合(後にアスペン・サミットと呼ばれるようになる)を終えたが、彼の殺人事件について何から罪を問うにせよ、その前にもっと確実な証拠が必要だということで意見は一致をみた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=163–65}}。

1976年2月23日、バンディはダロンシュ誘拐事件の公判に出頭した。この事件に関して世間の評価は彼にとって厳しいものになっていたので、弁護士のジョン・オコネルのアドバイス通りにバンディは陪審裁判を受ける権利を放棄した。3月1日、4日間のベンチトライアル〔陪審を交えず判事のみで行う裁判〕と週末の審議の時間をはさみ、裁判官のスチュワート・ハンソン・ジュニアは誘拐と暴行で彼を有罪とした{{sfn|Kendall|1981|pp=140–141}}{{sfn|Rule|2009|p=205}}。6月30日にはユタ州立刑務所での1年以上15年以下の懲役の判決が下されている{{sfn|Foreman|1992|p=24}}。10月、獄中のバンディは「脱出キット」(道路地図、飛行機の時刻表、ソーシャル・セキュリティ・カード)を持って刑務所の中庭の茂みに隠れているところを見つかり、数週間を独房で過ごす懲罰を受けている{{sfn|Rule|2009|pp=265–267}}。この月の末に、コロラド州政府は彼をキャリン・キャンベルに対する殺人罪で起訴している。しばらく抵抗したものの、結局彼は州間の身柄引き渡しに関する法的手続きを経る権利を放棄したので、1977年1月に裁判地を同州の[[アスペン (コロラド州)|アスペン]]に移された{{sfn|Rule|1989|p=219}}{{sfn|Foreman|1992|p=25}}。

== 脱獄 ==
[[ファイル:Pitkin_County_Courthouse.jpg|代替文=A two-story brick building with a tall tower is partially obscured by trees.|右|サムネイル|ピトキン郡裁判所。バンディが飛び降りたのは二階の左から2番目の窓である{{sfn|Winn|Merrill|1980}}]]
1977年6月7日、バンディはグレンウッドスプリングスのガーフィールド郡刑務所から70キロメートル弱離れたアスペンのピトキン郡裁判所に移送され、予備審問を受けた。彼は自ら弁護士として法廷に立ったので、その立場上、裁判官から手錠と足かせの着用の免除を認められた{{sfn|Rule|2009|p=285}}。休憩中に、彼は判例を研究したいと申し入れをして、判所の図書館に行った。そして書棚の後ろに隠れて窓を開けると、そのまま二階から飛び降りた。着地した時に右足首をねんざしたが、そのまま上着を脱ぎ捨て、外部との交通にバリケードが張り巡らされたアスペンを抜けて、徒歩で南のアスペン山に向かった。頂上付近でハンター小屋を見つけたバンディは、中に押し入って食料と衣服、ライフルを手に入れた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=197}}。翌日に彼は小屋を出て、さらに南にあるクレスティド・ビュートの町を目指したが、森の中で迷ってしまった。山の中で方向感覚を失って2日間さまよい、目指していた目的地へと降りるための標識を二つも見逃していた。6月10日、アスペンの町から16キロメートルのマルーン湖に停まっていたキャンピングカーに侵入し、食料とスキー用の上着を奪った。そして南へは向かわず、バリケードや追ってきた捜索隊をかわすために、アスペンのある北に進んだ{{sfn|Rule|2009|pp=286–291}}。3日後、彼はアスペンゴルフ場の片隅で車を盗んでいる。すでに睡眠不足でくじいた足の痛みも引かず、盗んだ車をアスペンに走らせたが道を左右に蛇行したため、2人組の警察官に気づかれて停止させられた。結局、彼が逃亡者でいることができたのは6日間だった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=203–05}}。車の中にはアスペン周辺の山岳地帯の地図があったが、それは彼が自分自身の弁護人として[[文書提出命令|権利]]を行使したため携行できたものだった。そしてこのことは、脱走が思い付きではなく、計画的であったことを示唆している{{sfn|Rule|2009|pp=290–293}}。
[[ファイル:FBI-360-Ted_Bundy_FBI_10_most_wanted_photo.jpg|代替文=Black-and-white photo of a man with curly hair|左|サムネイル|1977年の写真(最初の脱走から捕まった直後{{sfn|Larsen|1980|p=2}})で、 [[FBI10大最重要指名手配|FBIの10大最重要指名手配]]のポスターに掲載された]]
[[グレンウッドスプリングス]]の刑務所に戻ったバンディは友人たちや法律家の大人しくしていろという助言に耳をかさなかった。裁判はすでにお世辞にもいいとは言えない流れで、公判前の申し立ては一貫して彼の想定内であり、重要な証拠のいくつかも証拠能力がないと退けられていたのに、趨勢は着実に彼に不利になっていた{{sfn|Winn|Merrill|1980|pp=204–208}}。「被告人にもっと分別というものがあれば、無罪となる素晴らしいチャンスをつかみかけていたことに気づいていたはずだ。そしてコロラド州でかけられた殺人容疑で無罪を勝ち取れば、おそらく本件に関わっていない検察官も諦めるだろう、と...。ダロンシュの件で有罪になっても、たった1年と半年のお勤めを我慢さえすれば、彼は自由に身になることができたのに」という人もいた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=206}}。結局彼は新しい脱出計画を練ることになる。彼はまわりの囚人から刑務所の詳細な平面図と金のこぎりの刃を入手し、現金で500ドルを集めた。6ヵ月以上かけて複数の面会人に持ち込んでもらった、と彼は後に語ったが、大きかったのはキャロル・アン・ブーンの存在だった{{sfn|Rule|2009|p=306}}。午後になると他の囚人たちはシャワーを浴びたが、その間にバンディはのこぎりの刃を使い監房の天井に鉄筋を避けて30センチメートル四方の穴を空け、獄中で16キログラム体重の落ちた身体をくねらせれば天井裏に潜り込めるように工作した<ref name="ChiOmegaKiller" />。その後数週間かけて、そのスペースを動き回って探索をしたため、夜になると天井の中で動いているものがあると繰り返し密告する人間がいたが、調査が行われることはなかった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=209}}。

バンディにとっては切迫した裁判だったが、1977年の後半にはアスペンという小さな町は彼の話題で持ちきりになっていたこもあり、彼は裁判地を[[デンバー]]に変更する申し立てを行った{{sfn|Rule|2009|pp=302–03}}。12月23日、裁判官は彼の申し立てを認めたが、ただし変更後の裁判地は伝統的に陪審が殺人犯に厳しい[[コロラドスプリングス]]だった{{sfn|Rule|2009|pp=304–05}}。12月30日の夜、刑務所の職員のほとんどがクリスマスで休暇をとっており、許可を得た非暴力犯も一時帰休して家族と過ごしていた中で、バンディはベッドに本やファイルを積み上げ、それにブランケットをかぶせて自分が寝ているようにみせかけると、自分が空けた穴から天井裏に上がった{{sfn|Rule|2009|p=305}}。妻と過ごすため午後から外出していた主任刑務官の部屋の天井を破って中に入ると{{sfn|Rule|2009|p=308}}、クローゼットにあった街着に着替えて、歩いて正門を抜けて刑務所の外に出た{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=209–11}}。

バンディは車を盗んでグレンウッドスプリングスから東へ向かったが、山間部を抜けて[[州間高速道路70号線]]を走っている途中で車はすぐに壊れてしまった。しかし通りがかった車に拾われて、さらに100キロメートル弱東のヴェイルまで送ってもらった。そこからバスに乗ってデンバーまで行き、朝を待って飛行機に乗りシカゴへ向かった。グレンウッドスプリングスの刑務所はぎりぎりの人数で管理されており、バンディが脱獄したことが判明するのは12月31日になってからで、すでに17時間が経過していたが、その頃もうバンディはシカゴに着いていた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=212–13}}。

== フロリダ ==
[[ファイル:TedBundyprisonFlorida.jpg|代替文=Bundy casually leans on the wall while dressed in prison garb.|サムネイル|3件分の殺人事件の公判中のバンディ(1978年7月、[[タラハシー (フロリダ州)|タラハシー]])]]
シカゴからは電車でミシガン州の[[アナーバー]]に向かった。1月2日には、この町のパブで母校であるワシントン大学がミシガン大学に負けたカレッジフットの[[ローズボウル|ロウズボウル]]を観戦している{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=215–16}}。5日後に盗んだ車で[[アトランタ]]へ行き、バスに乗って1月8日の朝には[[フロリダ州]][[タラハシー (フロリダ州)|タラハシー]]に到着した。彼はクリス・ハーゲンの偽名を使ってフロリダ州立大学(FSU)のキャンパスの近くにある下宿で部屋を借りた。彼はこの時、フロリダで警察から目をつけれなければおそらく自由の身のままで捕まることはないと考えていたので、合法的な仕事を探して犯罪からは足を洗おうと一時は心に決めた、と後に語っている{{sfn|Rule|2009|p=7}}。しかし彼が唯一した求職活動といえば工事現場の仕事だったが、身分証明をつくるように言われたので就職を諦めてしまった{{sfn|Foreman|1992|p=31}}。結局彼は、昔のように万引きやショッピングカードに忘れてある女性の財布からクレジットカードを盗む生業に逆戻りした{{sfn|Rule|2009|p=318}}。

1978年1月15日の夜明け前に(タラハシーに到着してから一週間後だった)、バンディはフロリダ州立大学の女子寮であるカイ・オメガの裏にある鍵の壊れたドアから中に侵入した{{sfn|Rule|2009|p=332}}。時間は午前2時45分ごろで、眠っていた21歳のマーガレット・ボウマンを薪で殴りつけ、それからナイロンストッキングで絞殺した。そして20歳のリサ・レヴィの部屋に入り、彼女を強打して失神させると、のどを絞めて殺した{{sfn|Foreman|1992|p=34}}。さらに片方の乳首を引きちぎるとともに、左の臀部に深い歯の痕が残るほど噛みつき、ヘアミストの瓶で彼女に性的な暴行を加えた{{sfn|Rule|1989|pp=278–79}}。彼は隣の部屋で寝ているキャシー・クライナーにも襲いかかり、顎を砕くだけでなく肩のところに深い切り傷をつけた。さらにカレン・チャンドラーも彼に襲われ脳震盪を起こし、顎を砕かれて何本も歯を無くすとともに指も1本折れた<ref name="EveningIndependent" />。その後現場を検分したタラハシーの警察は、彼が4人の犠牲者を手にかけるまで合わせても15分足らずであったと結論しており、寮内には物音が聞こえる距離に30人以上がいたが何かを聞いた人間は皆無だった{{sfn|Rule|2009|p=332}}。女子寮を離れたバンディは、8ブロック先のアパートの地階に住むフロリダ州立大学の学生シェリル・トーマスを襲って彼女の肩を脱臼させ、顎の骨と頭蓋骨を5ヶ所骨折する大怪我を負わせた。彼女には一生の聴覚障害が残り、平衡感覚も失われたためダンサーになるという夢は消えてしまった{{sfn|Rule|2009|p=340}}。警察の捜査で彼女のベッドには精液の染みがみつかったほか、ストッキングの"マスク"もあり、それから採取できた2本の髪の毛は「バンディのものと種類も特徴もそっくりだった」{{sfn|Rule|1989|p=277}}{{sfn|Rule|2009|p=339}}。
[[ファイル:LevyBowmanBundyvictims.jpg|代替文=Black-and-white photo of two smiling young women. Levy, on the left, has light hair parted in the middle and Bowman, on the right, has longer dark hair parted to the side.|左|サムネイル|バンディの犠牲になったリザ・レヴィ(左)とマーガレット・ボウマン(右)]]
2月8日には盗んだフロリダ州立大学のバンで240キロメートルを移動して[[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]に向かった。ある駐車場で14歳のレスリー・パーメンターに声をかけたが、彼女はジャクソンビル警察署の署長の娘だった。自分のことを「消防署のリチャード・バートン」と名乗ったが、途中でやってきた彼女の兄はまったく信じてない様子だったため、その場を立ち去っている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=243–44}}。この日の午後には100キロメートル弱を西に引き返してレイクシティにも行っている。その翌朝、レイクシティ中学校で12歳のキンバリー・ダイアン・リーチが教師から忘れた財布を引き取りに生活指導室に来るように言われて教室を出たきり、そのまま行方がわからなくなった。数週間かけて執念深く捜索活動が行われた結果、街から北西に60キロメートル行ったスワニーリバー州立公園の近くにある豚舎の中で彼女の遺体が部分的にミイラ化した状態で見つかった<ref name="FL-HighwayPatrol" />{{sfn|Rule|1989|pp=324–25}}。

2月12日、手持ちの現金が不足して溜まった家賃も払えず、警察が自分の居所をつかみかけているという疑念にとらわれたバンディは{{sfn|Winn|Merrill|1980|pp=245–246}}、車を盗んでタラハシーを去り、フロリダ・パンハンドルを越えて西へ向かった。3日後の午前1時頃、彼はアラバマ州との境界付近で[[ペンサコーラ (フロリダ州)|ペンサコーラ]]の警官デイヴィッド・リーから職務質問を受け、車が「指名手配・捜査令状」データベースに照会されて、彼の運転するフォルクスワーゲン・ビートルが盗難車だということが発覚した<ref name="pensacolapolice" />。逮捕すると告げられたバンディは、その場を切り抜けるために警官の足を蹴り上げ、走って逃げた。警官は威嚇射撃をしてから彼を追いかけ、組みついた。銃を奪いあって格闘したが、最後には警官に組み伏せられて、逮捕された{{sfn|Rule|2009|p=366}}。盗難車の中には、フロリダ州立大学の女子学生の身分証が3人分、盗んだクレジットカードが21枚、盗んだテレビ1セットがあった{{sfn|Rule|2009|p=367}}。さらに、市販の黒縁メガネと格子柄のスラックスも見つかったが、これは以前に彼がジャクソンビルで「消防署のリチャード・バートン」に成りすますときに身に着けていたものだった{{sfn|Rule|2009|p=398}}。この時の警官は、[[FBI10大最重要指名手配|FBIの10大最重要指名手配]]を逮捕したことに気づかないままバンディを容疑者として刑務所に護送しているが、その途中でバンディが「いっそ殺してくれればよかったのに」というのが聞こえたという{{sfn|Rule|2000|pp=321–23}}。

== フロリダでの裁判と結婚 ==
[[ファイル:TedBundyincustody.JPG|代替文=A smiling Bundy holds a sheaf of papers and enters a vehicle. He is escorted by two police officers.|サムネイル|マイアミの裁判で予備審問を終えたバンディ(1979年)]]
裁判地がマイアミに変更になり、1979年6月にバンディは女子寮のカイ・オメガでの殺人および暴行の罪で起訴された{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=274}}。この裁判には世界中から250人の記者が押しかけ、初めて全米でテレビ中継された{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=10}}。国選弁護人が5人もついたにも関わらず、バンディはまた自己弁論のほとんどを自分1人でこなした。彼は裁判が始まった時から「悪意と不信感と誇大妄想のせいで、弁護人が何をするにもそれを妨害した」と後にネルソンは書いている。「テッドは殺人容疑をかけられていて、判決はおそらく死刑だった。彼にとって重要なのはとにかく自分が仕切ることだったのだろう」{{sfn|Nelson|1994|pp=87, 91}}。

マイク・ミネルヴァによると、タラハシーのときの弁護団は、公判前に司法取引の可能性について協議を行っていた。その場合検察はレヴィ、ボウマン、リーチの殺人をバンディに認めさせれば確実に75年の懲役刑にできた。一説によると「この裁判では敗色が濃厚だった」ため、検察もこの取引に前向きであった{{sfn|Dekle|2011|p=124}}。一方でバンディはこの司法取引が死刑を免れる手段となるだけでなく、「先を見据えた手」だとみていた。つまり申し立てをして何年か時間を稼げば、証拠が崩れたり消えたりすることや、証人が亡くなったり証言を撤回することもありえるからだった。裁判において取り返しがつかないほど旗色が悪くなれば、有罪判決後にも司法取引の申し立てを破棄して無罪を目指すこともできた<!-- Once the case against him had deteriorated beyond repair, he could file a post-conviction motion to set aside the plea and secure an acquittal. -->{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=271–72; attorney Millard Farmer devised this strategy as a means of "selling" Bundy on the plea deal, according to this account}}{{sfn|Dekle|2011|p=125}}。しかしいよいよという時になって、バンディはこの取引を蹴った。「全世界を相手にして、お前は有罪だと言われることに向かい合わなければならくなるということに気づいたのだ。彼にはそれが耐えられなかった」とミネルヴァは言う<ref name="Word1999-01-24" />。[[ファイル:Dental_evidence_ted_bundy.jpeg|代替文=Souviron is seen in the courtroom. Several enlargements of dental x-rays have been pinned up, and he is holding one in his hand.|左|サムネイル|カイ・オメガ裁判で被害者のかまれた傷に関する証拠の説明をする歯科医のリチャード・スーヴィロン]]
裁判では、カイ・オメガの寮生であるコニー・へスティングから、事件の日の夕方に寮のそばでバンディをみたという決定的な証言があったほか{{sfn|Dekle|2011|pp=154–155}}、ニタ・ニアリーも彼が凶器となったオーク材を握りしめて寮を抜け出すところを目撃していた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=227, 283}}<ref name="St.Petersburg1" />。有罪の物理的証拠としてはバンディがリザの左臀部に残した噛み傷の分析を、法歯科医のリチャード・スーヴィロンとローウェル・レヴィンが行っており、傷跡がバンディの歯からとった型と一致したことを証言している{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=230, 283–85}}{{sfn|Dekle|2011|p=156}}。陪審は7時間足らずの審理で、1979年7月24日に、ボウマンとレヴィの殺人、3件の一級殺人の未遂罪(クライナー、チャンドラー、トーマスに対する暴行)、2件の住居侵入でバンディを有罪とした。そして裁判官のエドワード・カワートが殺人罪による死刑判決を言い渡した<ref>[http://ftp.resource.org/courts.gov/c/F2/808/808.F2d.1410.86-5509.html Bundy v. Wainwright, 808 F.2d 1410 (Fla. 1987)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120407031445/http://ftp.resource.org/courts.gov/c/F2/808/808.F2d.1410.86-5509.html|date=April 7, 2012}}. Retrieved July 21, 2011.</ref><ref>[http://www.law.fsu.edu/library/flsupct/59128/op-59128.pdf Bundy v. State, 455 So.2d 330 (Fla.1984)] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120916105323/http://www.law.fsu.edu/library/flsupct/59128/op-59128.pdf|date=September 16, 2012}}. Retrieved July 21, 2011.</ref>。

6ヵ月後にフロリダ州オーランドで二度目の裁判が開かれ、キンバリー・リーチの誘拐と殺人について審理が行われた<ref name="Bell-KimberlyLeach" />。8時間に満たない審議によりバンディは再び有罪となったが、何より大きかったのはリーチを校庭から盗難車のバンに連れ出すところを目撃されていたことだった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=303}}。物理的証拠としては、あまりない製造不良のあった服の繊維がそのバンとリーチの遺体から採取されており、この繊維はバンディが逮捕された時にきていたジャケットのものと一致していた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=306–07}}。

バンディは有罪判決後の罰則審査の段階で、結婚をしている。裁判所において、裁判官の立ち合いのもと結婚の宣言をすることで正式な結婚とみなされる、というフロリダ州の法律のあいまいさを逆手にとったのである。彼が頼ったのは元ワシントン州危機管理局の同僚、キャロル・アン・ブーンだった。彼女はバンディのそばにいるためフロリダ州に引っ越してきており、どちらの裁判でも彼の弁護側に立って性格証人となっていた。彼女が結婚の申し込みを受け入れたため、バンディは裁判所に対して2人が正式に結婚したと宣言した{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=308–10}}<ref name="AP1981-09-30wife-pregnant" />。

1980年2月10日、バンディは電気椅子での死刑判決を受けた。3度目だった<ref>Hagood, Dick (February 10, 1980). "Bundy Jury: Death" [http://search.jacksonville.com/ ''Florida Times Union'' archive] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100628211058/http://search.jacksonville.com/|date=June 28, 2010}}. Retrieved August 30, 2011.</ref>。判決文が読み上げられると、彼は立ち上がって「陪審にお前らは間違っていると言ってやれ!<!-- Tell the jury they were wrong! -->」と叫んだといわれている{{sfn|Foreman|1992|p=42}}。このときの裁判は、この3度目の判決が下されるまでに9年近くを要していた{{sfn|Nelson|1994|p=7}}。

1982年10月、妻のブーンが女の子を出産し、バンディを父親として認知した{{sfn|Rule|2009|p=xxxiv}}{{sfn|Nelson|1994|p=56}}。ライフォードの刑務所では夫婦でも面会は制限されていたが、収容者たちが金をためて看守にわいろを渡せば、女性の面会者と2人きりの時間を与えてくれることで有名だった{{sfn|Rule|2009|p=xxxiv}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=272; Bundy, Boone, and a prison guard all told this source that the couple "took advantage on at least one visit together to consummate their relationship"}}。

== 死刑囚として ==
リーチが殺された事件の裁判も最終弁論が終わり、長い上告手続きが始まった直後に、スティーヴン・ミショーとヒュー・エインズワースはバンディにインタビューを開始した。彼はついに白状したと思われることを嫌ったため、ほぼ一貫して第三者の視点からではあったが、初めて自分の犯罪や思考のプロセスを詳しく明かした{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=15–17}}。

彼はまず自身が生業にしていた泥棒の話から語り始めた。それはクレプファーがずっと疑っていたように、彼が持っているものはほぼすべて万引きしたものではないかという説を裏付けるものだった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=37–39}}。「何が有難いって、盗んだら何でも本当に自分の'''持ち物'''<!-- 強調原文 -->なんだ。何かを手にいれるのは本当に楽しかったよ...欲しい、出かける、持っていく、なんだから」。持ち物になる、所有するという概念は、強姦や殺人にも通ずる重要な動機だった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=41}}。彼に言わせれば、性的な暴行は犠牲者を「完全に所有」したいという彼の欲求を満たすものだった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=102–14}}。初めは、女性たちを殺すのは「そちらのほうが好都合だった...つまり捕まる可能性を減らせるからだった。しかし次第に、殺人もまた「胸がおどること」の1つになった。「'''究極の<!-- 強調原文 -->'''所有ってのは、要するに、命を奪うということだろ」「そして...遺体を物理的に所有することだ」{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=124–26}}。

バンディはFBI行動分析チームの特別捜査官ウィリアム・ハグメイアーにも突っ込んだ話をしている。ハグメイアーはバンディが殺人から得る「深く、ほとんど神秘的なまでの満足感」に衝撃を受けている。「彼はしばらくしてからこう言った。殺人は単に情欲とか激情の結果の犯罪ではない」「持ち物になるんだ。その人の一部なんだ...{{Interp|犠牲者は|和文=1}}その人の一部になって、永遠に1つになる...そして殺したり、死体を棄ててきた場所は神聖な土地になり、その人は何かあると戻ってくるんだ」。彼はハグメイアーに自分が「素人」であり、若いころは「衝動的な」殺人者だと考えていたと語っている。そしていつしか1974年にリンダ・ヒーリーを殺した頃のような「円熟した」あるいは「プレデター」{{Interp|捕食者|和文=1}}と彼が名付けたステージに移行した。この例えは彼が1974年より前から殺人に手をそめていたことをほのめかすものだが、彼は決してそれをはっきりと認めることはなかった{{sfn|Rule|2009|pp=380–96}}。

1984年7月、ライフォードの看守はバンディの独房に隠されていた金のこぎりの刃2枚を発見した。さらに部屋の窓にはめられた鉄棒のうち1本が窓枠から完全に切り離されており、石鹸をベースに彼が調合した接着剤でくっつけて元に戻されていた{{sfn|Rule|2009|p=528}}<ref name="DN-trials" />。数か月後、許可されていない鏡を部屋に隠し持っていることが発覚し、バンディはさらに別の部屋に移された{{sfn|Rule|2009|p=532}}。

この時期に、バンディは他の死刑囚たちのグループから襲われることも何度かあった。彼は暴行は受けたことを否定しているが、「集団レイプ」と表現している伝記もある通り、この行為を認めている囚人は多い{{sfn|Dekle|2011|p=216}}。ほどなくして、バンディは有名な犯罪者である[[ジョン・ヒンクリー]]と不正に連絡をとり規律違反をとがめられている{{sfn|Nelson|1994|pp=155–156}}。1984年10月、バンディはロバート・ケッペルとコンタクトをとり、彼の収監後にワシントン州で続いていた事件([[ゲイリー・リッジウェイ|グリーンリバー・キラー]])を解決するためにシリアルキラーの心理の専門家を自称するその知識を警察と共有した{{sfn|Rule|2009|p=532}}{{sfn|Keppel|2005|p=176}}。ケッペルとグリーンリバー捜査班の刑事デイヴ・ライカートはバンディの意見を参考にしたが、結局[[ゲイリー・リッジウェイ]]はそれから17年も野放しのままだった{{sfn|Nelson|1994|pp=33, 101, 135}}。ケッペルはこの聞き取りの結果をグリーンリバー事件の詳細なドキュメントとして出版したほか{{sfn|Keppel|2005|p=}}、後にミショーと協同して別の取材資料の考証にも参加した{{sfn|Keppel|Michaud|2011|loc=Kindle location 1690}}。バンディがゲイリー・リッジウェイのために考え出した「リバーマン」というニックネームは、後にケッペルの本のタイトルにも採用された<ref>{{Cite news|first=Peyton|last=Whitely|url=http://www.spokesman.com/stories/1995/aug/07/ted-bundy-helped-green-river-investigation/|title=Ted Bundy Helped Green River Investigation Detective Says Bundy Met With King County Officials Probing Killings|newspaper=[[The Spokesman-Review]]|publisher=[[Cowles Company]]|location=Spokane, Washington|date=August 7, 1995|accessdate=May 8, 2018|language=en}}</ref>。

1986年の初めに、カイ・オメガ裁判で下された死刑判決の執行日(3月4日)が決まった。最高裁判所はしばらく延期をするよう命令を出していたが、新しい執行日はすぐに決まった{{sfn|Mello|1997|pp=103–104}}。4月に新しい執行日(7月2日)が公表された直後、ついにバンディはハグメイアーとネルソンに彼の凶行の全容(と2人が考えているもの)の告白を始めた。それは例えば、被害者が亡くなった後にその遺体に何かをしたのかということであった。バンディは、[[イサクア (ワシントン州)|イサクア]]のテイラー山を再訪したときの、第二の犯罪現場を語っている。彼は何度もそこを訪れたのだが、そのたびに被害者に添い寝し、完全に腐敗が進んでしまうまで遺体に性行為をおこなった。ある時は、片道を何時間もかけて車で移動し、まるまる一晩を犯行現場で過ごすこともあった{{sfn|Keppel|2010|loc=Kindle location 7431–98}}。ユタ州では、メリッサ・スミスの生気のない顔にメイクを施し、ローラ・エイミーの髪を繰り返し洗った。「時間さえあれば、何だって望む通りの姿になってくれた」と彼は言った{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=334–35}}。バンディは12人前後の犠牲者の首を金のこぎりで切り落とし<ref name="timeline" />{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=339}}、少なくともいくつかの頭(おそらく後にテイラー山で発見されたランコート、パークス、ボール、ヒーリーの4人分)をしばらく自分のアパートに保管していた{{sfn|Keppel|2005|pp=378, 393}}。[[ファイル:Ted Bundy in court.jpg|200px|thumb|法廷でのバンディ。彼は弁護士に頼らず、自ら弁論を行った。]]7月2日、予定された死刑執行まであと15時間を切ったところで、第11巡回控訴裁判所(Eleventh Circuit Court of Appeals)がその無期限の延期を命じ、複数の専門的な論点の再検討を行うためにカイ・オメガ事件の再審理を求めた。問題とされたのは、例えばバンディが裁判にかけられる上での精神病理学な責任能力、罰則審査の段階での終身刑と死刑で6対6にわかれた陪審団に対して決着をつけるように求めた裁判官の指示の誤りなどだったが{{sfn|Nelson|1994|p=111}}、結局解決はされなかった<ref name="findlaw">{{cite court|litigants=Bundy v. Wainwright|vol=794 F.2d|court=US Court of Appeals for the 11th Circuit|date=July 2, 1986|url=https://law.justia.com/cases/federal/appellate-courts/F2/808/1410/173788/|accessdate=October 11, 2018|quote=The judgment of the district court is REVERSED and the case REMANDED to that court for proper consideration.}}</ref>。新しい執行日(1986年11月18日)が今度はリーチ事件の判決に対するものとして設定され、第11巡回控訴裁判所は11月17日にその延期を命じた<ref name="findlaw" />。1988年の半ばに第11巡回裁判所がバンディの控訴に不利な判決を下し、12月には最高裁判所がそれを見直す申し立てを棄却した。それから数時間のうちに最終的な執行日1989年1月24日が公表された{{sfn|Mello|1997|pp=103–106}}。バンディの控訴審での取り扱いは、重大な殺人事件としては前例がないほど駆け足だった。「一般に考えられているのとは反対に、裁判所はバンディの審議を可能な限り早く進めていた...。検察もバンディの弁護士が時間稼ぎをしたはずがないということは認めている。どこにいってもアークデーモンの処刑が遅いと考えて騒ぎ立てる人がいたが、テッド・バンディが載っていたのはまさに特急車だったのである」{{sfn|Von Drehle|1995|p=297}}。

=== 告白 ===
上訴のカードを使い果たし、これ以上犯行を否認する理由もなくなったバンディは、捜査員たちにざっくばらんに語ることにした。彼はケッペルに、自分が真っ先に疑われていたワシントン州とオレゴン州の8件の殺人についてすべて自分が犯人だと認めた。さらにワシントン州で3人、オレゴン州で2人を殺した時のことを語ったが、犠牲者については(実際に知っていたとしてだが)身元の確認を拒んだ{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=337}}。テイラー山には5人目の遺体(ドナ・メイソン)も棄ててきたと話したが{{sfn|Rule|2000|p=516}}、頭は切り落としてエリザベス・クレプファーの家の暖炉(「事もあろうに、そこだからね。たぶん彼女もこれだけは許してないかもしれないな。かわいそうなリズ」)にくべたという{{sfn|Keppel|2005|p=395}}。

ワシントン大学そばの明るい路地からジョーガン・ホーキンスを誘拐した時のことも、ありありと語っている。彼女を車まで誘い出し、そばに用意してあったバールで殴って気絶させ、手錠をかけてイサクアまで連れて行くと、そこで首を絞めて殺した{{sfn|Keppel|2005|pp=367–78}}。バンディは彼女の遺体と共に一晩を過ごし、3件の犯行を重ねた後にまたこの場所を再訪していた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=336}}。そして、ホーキンスを誘拐して殺した翌朝にワシントン大学の路地に戻ってきたことも初めて明かした。大事件に対する捜査が行われている真っ只中に、彼はそばの駐車場でそのままになっていたホーキンスのイヤリングと靴一足を拾い集め、見つからないように持ち去った。「あの図々しさは表彰ものだ。今でも警察では語り草になっている」とケッペルは書いている{{sfn|Keppel|2005|p=22}}。

「彼がイサクアの犯行現場について語る時は、すごい臨場感だった」とケッペルは言う。「すべてが目の前にあるみたいだった。あそこであまりに長い時間を過ごしたものだから、その頃のイメージが彼の中にあふれていた{{sfn|Rule|2000|p=519}}。彼はどんな時にも殺人になると完全に夢中になってしまうんだ」。ネルソンの印象も似たようなところがある。「彼の犯行が完全にミソジニー的であることに私は衝撃を受けた」「彼の告白を聞けば女性は怒り狂うだろう。バンディの話には思いやりというものが全くなく...犯行のときの細かいところを説明するのに夢中になっていた。彼にとって人を殺すことは、その一回一回が人生の到達点なのだ」{{sfn|Nelson|1994|p=258}}。

バンディはアイダホ州、ユタ州、コロラド州から来た刑事たちを前に、まだ警察も関知していない事件も含めて数えきれないほど殺した、と打ち明けた。ユタ州にいたときは、犠牲者をアパートの部屋まで運ぶことができたので「そこで実話系雑誌の表紙に描かれた場面の再現ができた」という<ref name="timeline" />。このとき彼がひそかに練っていた新たな戦略はすでに明らかだった。詳細については語ることを控え、不完全な情報をちらつかせることで、続きを求めて死刑がさらに延期されることを狙っていたのである。「コロラド州にも埋めてる死体がある」と彼は告白したが、やはり詳しいことは語らなかった{{sfn|Keppel|2010|loc=Kindle location 7600–05}}。この新作戦はすぐに「テッドの犬のしつけスキーム」(Ted's bones-for-time scheme)とあだ名されたが、新しい情報に対する期待感は乏しく、死刑の執行予定を控えた当局の態度を硬化させただけだった{{sfn|Von Drehle|1995|pp=352–358}}。あるいは詳しく話した事件もあったが、何も新発見はなかった{{sfn|Keppel|2005|p=363}}。コロラド州の刑事マット・リンドヴァルはそこに彼の葛藤をみる。つまり、情報を隠し立てせずに死刑を延期したいという欲望と「犠牲者が安らかに眠る本当の場所を知っているのは自分だけだという完全な所有」を維持したいという欲求が衝突していたのだという{{sfn|Keppel|2010|loc=Kindle location 7550–58}}。

これ以上裁判所からは延期命令が出ないことがはっきりすると、バンディの支援者はただ一つ残った可能性である恩赦に向けてロビー活動を始めた。フロリダ州の若き弁護士でありバンディが最後に愛した人と言われるダイアナ・ウェイナーも支援者の1人だった{{sfn|Nelson|1994|pp=136–137, 255, 302–304}}。彼女はコロラド州とユタ州の被害者遺族たちに、バンディからさらに情報を引き出すためフロリダ州知事{{仮リンク|ボブ・マルティネス|en|Bob Martinez}}に死刑の延期を嘆願するように求めた{{sfn|Nelson|1994|p=264}}。それに応じる遺族は皆無だった{{sfn|Rule|2000|p=518}}。ネルソンによれば「遺族は犠牲者は一人残らず亡くなっており、それもテッドが殺したのだと考えていた」「告白など求めていなかったのだ」{{sfn|Nelson|1994|p=256}}。州知事のマルティネスも、この件に関してこれ以上の延期には反対するという態度を明らかにした。記者会見では「我々はいまの方針に手心を加える予定はない」「彼が被害者の遺体を交渉材料にして自分の命を永らえさせようとしているなら、見下げ果てた男というほかない」と語った{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=335–36}}。

ブーンは裁判中ずっとバンディを擁護し、彼の無実を主張し続けたが、一転して彼が自ら有罪だと認めた(実際にそうだった)ことで「完全に裏切られた」と感じた。彼女は娘を連れてワシントンに戻り、死刑執行の日にバンディからかかってきた電話にも取り次ぎを拒否した。ブーンは「彼とダイアナの関係にも傷ついていた」とネルソンはいう。「そして執行直前になって急にあらいざらい告白したことにも失望したのだった」{{sfn|Nelson|1994|pp=271, 303}}。

ハグメイアーは他の捜査官とともにバンディの最後の聴取にも立ち会っている。死刑執行の前日、バンディは自殺をほのめかしていた。「この国が自分が死ぬところを見守って満足するのに耐えられなかったのだ」とハグメイアーは語っている<ref name="Word1999-01-24" />。

== 死 ==
バンディは1989年1月24日の東部標準時で午前7時16分にライフォードの電気椅子の上で死んだ。42歳だった。死刑が執行されると、一説によると20人の非番の警官を含めて<ref name="Bundy'sWill" />、刑務所につめかけた何百人という人が大騒ぎになり、道路をはさんで向かいにある牧草地で歌い、踊り、花火をあげた。刑務所から彼の遺体を乗せた白い葬儀車が出発すると、ひときわ大きな歓声があがった{{sfn|Nelson|1994|pp=311–321}}。フロリダ州グレインズヴィルで火葬された後で{{sfn|Nelson|1994|p=323}}、遺灰は彼の遺言に従い、非公開のままワシントン州にあるカスケード山脈のどこかに撒かれた<ref name="Bundy'sWill" />{{sfn|Rule|2009|pp=xxxvi–xxxvii}}。

== 才覚と手口 ==
バンディは珍しいほど手法が体系的で計算高い犯罪者であり、長期にわたって身元の特定や逮捕を逃れるために当局の方法論についても該博な知識を有していた{{sfn|Von Drehle|1995|pp=283–285}}。彼の犯行現場は、地理的に非常に広い範囲に及んだ。絶望的なまでに広いエリアで管轄をまたがって大量の捜査員が動員されたが、全員が同じ人間を追いかけているということがわかる頃には、被害者の数は少なくとも20人に達していた{{sfn|Von Drehle|1995|p=285}}。女性を襲う手段としては鈍器による外傷か絞殺のどちらかを選んだが、この2つは比較的物音が出にくく、市販されている家庭用品でも十分にその目的を達することができた{{sfn|Keppel|2005|p=30}}。音が出たり、弾道の証拠が残ることを嫌って、銃器はあえて使わなかった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=111}}。バンディは「きちょうめんな研究者」であり、犠牲者を捕まえたり遺棄するのに安全な場所を探すときには、ごく細かいところまで周りに目を配った{{sfn|Nelson|1994|p=257}}。そして物理的な証拠を残さないことにかけては並外れた技術を持っていた{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=87}}。犯行現場からは指紋どころか、それ以外の有罪を証明する動かぬ証拠が見つかったことはなく、彼は長期にわたる裁判で自分の無実を主張するためにこの事実を繰り返し強調した{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=16}}。
[[ファイル:Bundy & Hagmaier.jpg|サムネイル|FBIのウィリアム・ハグメイヤー(左)とテッド・バンディ(死刑執行前日の最期の取材にて)]]
当局にとってさらに厄介だったのは、バンディの生まれつき無個性的な身体的特徴だった{{sfn|Keppel|2005|p=80}}。つまり、彼はほとんど自由自在に自分の外見を変えられるカメレオンのような能力を持っていたのである{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=159}}。早い段階から、警察は目撃者に彼の写真を見せることの無意味さに匙を投げていた。彼を撮影した写真はほぼすべて、あたかも一枚ごとに見た目が違っていたのである{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=vii}}。面と向かいあっても「彼は表情によって全体の印象がくるくる変わるので、同じ人間を見ているはずなのにそれにすら自信が持てなくなる瞬間があった」「彼は本物の取り替え子だ」とダロンシュ事件の裁判官スチュワート・ハンソン・ジュニアも語っている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=176}}。バンディもこの珍しい特性に自覚的であり、積極的に利用した。ひげや髪型をすこしいじるだけで、必要に応じて見た目を大きく変えることができたのである{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=73}}。彼の首にはほくろが1つあり、それはわかりやすい目印になってしまうので、タートルネックの服を着て、隠していた{{sfn|Rule|2009|p=241}}。彼のフォルクスワーゲン・ビートルもまた記憶には残りにくかった。車の外見は目撃者によって表現がさまざまで、メタリックだとかそうでないとか、カラーも褐色、ブロンズ色、ライトブラウン、ダークブラウンと証言が一致しなかった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=172}}。

バンディの仕事のやり方は時が経つにつれ体系的になり洗練されていった。これはFBIの専門家によれば連続殺人犯にはありがちなことである<ref name="timeline" />。初期には、夜遅くに無理やり部屋に侵入し、寝ていた被害者を鈍器で襲っていた。被害者の中には鋭利でない道具で性的な暴行を受けた女性もいた。またヒーリーを除く全員が、バンディが現場を離れる時には、失神しているか死んだ状態でその場に横たわったままにされた{{sfn|Rule|2009|pp=14–16}}。彼の方法論が進化するにつれ、バンディのターゲットや犯行現場の選び方はさらに体系的になった。様々な作戦を立てて、あらかじめ道具(たいていバール)を用意している車のそばまで被害者を誘い出した。多くの事例で彼は足にギプスをはめたり腕をスリングで吊っており、時には足を引きずって松葉杖をついていた。そして何かを車に運ぶのを手伝ってくれないかと頼むのである。バンディは被害者の女性からハンサムでカリスマ的と思われることが多く、彼のほうでもその特徴を前面に押し出して信頼を獲得した{{sfn|Keppel|2005|pp=3–6}}{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=12}}<ref name="Time25crimes" />。「生命の宿っていないシルクフラワーがミツバチをだますように、バンディは女性を誘い出した」とミショーは書いている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=14}}。ひとたび彼の車に近づいたり中に入った被害者は、力で圧倒されるか道具で殴られ、手錠で自由が奪われた。ほとんどの女性が性的暴行を受けて、絞殺された。第一の犯行現場でそこまで行く場合もあれば、そこからだいぶ距離のある、事前に決めた第二の犯行現場まで連れて行かれる場合もあった(こちらのほうが一般的だった){{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=12–13}}。その容姿や魅力が通じない状況では、警官か消防士のふりをして官憲を装った。末期に連続殺人が行われたフロリダ州では、おそらく逃亡のストレスから眠っている女性を襲うやり口には見境がなく、それまでに培われた洗練性はみられなかった<ref name="timeline" />。

第二の犯行現場では、被害者の衣服を脱がせて後でそれを燃やしたが{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=196}}、少なくとも1件だけ(カニンガム)は[[グッドウィル・インダストリーズ]]の回収ボックスに服を入れている{{sfn|Keppel|2010|loc=Kindle location 7481}}。バンディは服を脱がせるのは儀式としての意味があると説明したが、犯行現場に自分に関わるものをの残す可能性をなくすという現実的な理由もあった(皮肉なことに、キンバリー・リーチの殺人の場合は、彼自身の服から採取された繊維の製造不良が決定的な証拠になってしまった{{sfn|Rule|2009|p=279}}){{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=196}}。彼は死体愛好のためこの第二の犯行現場に再訪することがあり{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|p=334}}、その時は遺体を身づくろいしたり飾り立てた{{sfn|Keppel|2010|loc=Kindle location 7583–91, 7655}}。そのため家族が見たことのないような服を着たり、マニキュアをつけている状態で遺体が発見される被害者もいた<ref name="Mystique" />。バンディは被害者女性の大半のポラロイド写真を撮っている。「あんただって何か正しいことを一生懸命やっているなら」「思い出せなくなるのはいやだろう」と彼はハグマイヤーに語った{{sfn|Michaud|Aynesworth|1999|pp=334–35}}。大量にアルコールを消費することは「不可欠な要素」だとはケッペルにも、後にミショーにも語った言葉だ。獲物をさがして徘徊するには「飲みすぎるほど呑む」必要があった{{sfn|Keppel|2005|p=379}}{{sfn|Keppel|2010|loc=Kindle location 7046}}。それは彼の心の中の「存在」が衝動的な行動を咎める、という「支配的な人格」を馴致し、心の抑制を「十分に解く」ためだった{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|pp=76–77}}。

=== 被害女性の肖像 ===
バンディの犠牲者と認定されているのは全員が白人の女性であり、ほとんどがミドルクラスである。ほぼ全員の年齢が15歳から25歳の間で、女子大学生が大半を占める。彼は以前に会ったことがあるかもしれない人間には決して近づかなかったようだ(死刑執行前の最期の会話で、バンディはクレプファーに「自分のなかに培われた病的な感覚がそれと教える」女性からはあえて距離をとっていた、と話している{{sfn|Kendall|1981|p=182}}){{sfn|Von Drehle|1995|pp=283–285}}。ルールが指摘しているように、身元が分かっている犠牲者のほとんどが、ステファニー・ブルックスのようにストレートの長い髪を額の真ん中で分けていた。ブルックスはかつてバンディを拒絶した女性で、彼は後にあえて彼女と再交際してから関係を断つことで復讐をした。この初めてのガールフレンドにバンディが向けた敵意が、その後長く続く凶行の引きがねとなり、彼女に似た女性ばかりをターゲットにする原因だとルールは推測している{{sfn|Rule|2000|pp=431–32}}。もっともバンディはこの仮説を否定している。「あるのは...ただ若くて魅力的だという一般的な基準だけだ」とヒュー・エインズワースに語っている。「女の子たちがみんなそっくりとかそういうたわごとを言ってくる奴が多すぎる...およそあらゆるものは似ていないんだ...身体的にみればもう全くちがうといっていい」{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=156}}。しかし、ターゲットを選ぶにあたって若さと美しさは「絶対に必要な基準」である事は彼も認めている{{sfn|Michaud|Aynesworth|1989|p=85}}。

バンディの死後、アン・ルールはあることに驚かされ、また心を痛めた。彼が亡くなったことに深く落胆していることを手紙に書いたり、電話で伝えてくる「感受性豊かで、知性的で、心やさしい若い女性」が大勢いたのである。多くがバンディと文通をしており「それぞれに自分は彼にとって唯一の存在だと信じていた」。彼が亡くなったことでノイローゼになったという女性も複数いた。「死後もなお、テッドは女性を傷つけているのだ」とルールは書いている。「よくなるためには、自分が詐欺の達人にかつがれているのだという事を理解しなければいけない。彼女たちは存在しない影のような男のことで悲しんでいるのだから」{{sfn|Rule|2009|pp=612–3}}。


== 映画 ==
== 映画 ==
{{節スタブ}}
* 『テッド・バンディ』…彼が実際に起こした事件を元に製作された[[スリラー映画]]。電気椅子によって処刑されるまでを描く。 ASIN: B0000844EZ


* 『[[ダブルフェイス (アメリカのテレビドラマ)|ダブルフェイス]]』 (1986年)…[[マーク・ハーモン]](テッド・バンディ役・以下同)
== テレビドラマ ==

* ダブルフェイス (''The Deliberate Stranger''、[[1986年]]。テッド・バンディ役は[[マーク・ハーモン]]が演じた)
* 『[[テッド・バンディ 全米史上最高の殺人者]]』(2002年)…マイケル・レイリー・バーク
* 『''The Deliberate Stranger''』 (2003年)…[[ビリー・キャンベル]]
* 『''The Riverman''』 (2004年)…[[ケイリー・エルウィス]]
* 『''Bundy: A Legacy of Evil''』 (2008年)…[[コリン・ネメック]]
* 『''The Capture of the Green River Killer''』 (2008年)…[[ジェームズ・マースターズ]]
* 『''Extremely Wicked, Shockingly Evil and Vile''』 (2019年)…[[ザック・エフロン]]

== ドキュメンタリー番組 ==
* 『殺人鬼との対談:テッド・バンディの場合』(2019年、[[Netflix]])


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

* [[サイコキラー]]
*[[ジェームズ・マースターズ|サイコキラー]]
*[[シリアルキラー]]
*[[快楽殺人]]

== 脚注 ==
{{Reflist|20em|refs=

<ref name="timeline">
{{cite web|title=Ted Bundy Multiagency Investigative Team Report 1992 |format=PDF |date=1992 |publisher=U.S. Department of Justice, Federal Bureau of Investigation |work=web.archive.org |url=http://tedbundy.com/errata/freebies/Ted%20Bundy%20Multiagency%20Investigative%20Team%20Report%201992%20from%20tedbundy.com.pdf |accessdate=June 3, 2016 |deadurl=unfit |archiveurl=https://web.archive.org/web/20060621144017/http://tedbundy.com/errata/freebies/Ted%20Bundy%20Multiagency%20Investigative%20Team%20Report%201992%20from%20tedbundy.com.pdf |archivedate=June 21, 2006 }}
</ref>

<ref name="Time25crimes">
{{cite magazine
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Also known as Leslie Holland ({{harvnb|Foreman|1992|p=15}}), Susan Phillips ({{harvnb|Kendall|1981|p=99}}), and Marjorie Russell ({{harvnb|Michaud|Aynesworth|1989|p=161}}).
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<ref name="Bell-KillingSpree">{{cite web|first=Rachael |last=Bell |title=Ted Bundy: Killing Spree |website=True TV Crime Library: Criminal Minds and Methods |publisher=Turner Broadcasting System |url=http://www.trutv.com/library/crime/serial_killers/notorious/bundy/5.html |accessdate=May 1, 2011 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110807114059/http://www.trutv.com/library/crime/serial_killers/notorious/bundy/5.html |archivedate=August 7, 2011 }}
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<ref name="Deseret1977">
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<ref name="EveningIndependent">
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|title = A "Cool" Bundy&nbsp;– Friends of Two Murdered Sorority Sisters Testify As Pace of Trial Picks Up
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|title = Pensacola Police Make a Mark in History
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}}
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<ref name="Word1999-01-24">
{{cite news
|first = Ron
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|title = Survivors Are Haunted By Memory of Ted Bundy 10 Years After Execution
|date = January 24, 1999
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{{cite news
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|title = Nita Neary tells jury Bundy is man she saw leaving Chi Omega
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}}
</ref>

<ref name="Bell-KimberlyLeach">{{cite web|first=Rachael |last=Bell |title=Ted Bundy: The Kimberly Leach Trial |website=True TV Crime Library: Criminal Minds and Methods |publisher=Turner Broadcasting System |url=http://www.trutv.com/library/crime/serial_killers/notorious/bundy/15.html |accessdate=May 1, 2011 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110807124409/http://www.trutv.com/library/crime/serial_killers/notorious/bundy/15.html |archivedate=August 7, 2011 }}
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<ref name="AP1981-09-30wife-pregnant">
{{cite news
|title = Bundy's wife is pregnant&nbsp;– but she refuses to kiss, tell
|date = September 30, 1981
|newspaper = [[Deseret News]]
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<ref name="DN-trials">
{{cite news
|title = The Trials of Ted Bundy
|date = January 24, 1989
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|publisher = [[Deseret News Publishing Company]]
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<ref name="Mystique">{{cite news|first=Gregory |last=Enns |title=Bundy's mystique lives on |date=May 21, 1989 |newspaper=[[Anchorage Daily News]]|publisher=Binkley Co.|location=Anchorage, Alaska |url=https://news.google.com/newspapers?nid=1828&dat=19890521&id=ED8eAAAAIBAJ&sjid=fcAEAAAAIBAJ&pg=2797,2126506 |archive-url=https://archive.is/20130124190951/http://news.google.com/newspapers?nid=1828&dat=19890521&id=ED8eAAAAIBAJ&sjid=fcAEAAAAIBAJ&pg=2797,2126506 |dead-url=yes |archive-date=January 24, 2013 |accessdate=May 6, 2012 }}
</ref>

<ref name="Bundy'sWill">
{{cite news
|title = Bundy's Will Requests Cremation and Scattering of Ashes in Washington
|date = January 26, 1989
|newspaper = [[Deseret News]]
|publisher = [[Deseret News Publishing Company]]
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<ref name="Psychics">
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|title = Psychics Join Search
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
:(注)ショッキングな文面、画像あり。
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[[Category:アメリカ合衆国のシリアルキラー]]
[[Category:アメリカ合衆国のシリアルキラー]]

2019年2月16日 (土) 17:36時点における版

セオドア・ロバート・バンディ
Theodore Robert Bundy
個人情報
生誕 (1946-11-24) 1946年11月24日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国バーモント州バーリントン
死没 (1989-01-24) 1989年1月24日(42歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ
死因 電気椅子による処刑での電気ショック
殺人
犠牲者数 30人以上
犯行期間 1974年1978年
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ワシントン州の旗 ワシントン州
オレゴン州の旗 オレゴン州
ユタ州の旗 ユタ州
アイダホ州の旗 アイダホ州
コロラド州の旗 コロラド州
フロリダ州の旗 フロリダ州
逮捕日 1975年8月16日逮捕
1977年12月30日脱走
1978年2月15日再逮捕
司法上処分
刑罰 死刑
有罪判決 殺人罪死体遺棄罪誘拐罪など
判決 死刑
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セオドア・ロバート・バンディ(Theodore Robert Bundy、1946年11月24日 - 1989年1月24日)は、アメリカシリアルキラーであり、誘拐強姦強盗犯である。少なくとも1970年代から多数の若い女性を強姦、殺害するとともに死体に対する凌辱も行っていた。死刑執行の直前に、10年以上も否認してきた殺人事件について自白を始め、1974年から1978年の間に7つの州で30人を殺害していることが明らかになった。被害者の実数は不明だが、おそらくはこの数字を上回る。

バンディの手にかかった女性の多くは、彼のことをハンサムな男だと思うだけでなくカリスマ性すら感じていたが、彼のほうでも信頼を得るためにその容姿を利用した。バンディがターゲットの女性に近づくときによく使っていたのは、人目のある開けた場所で怪我人や障害者のふりをしたり、当局の人間であるかのように振舞う手口だった。そして女性を予定の場所へ連れていくと、力で屈服させて強姦した。彼は女性を殺害した場所に再訪して、犠牲者に別の犯罪を犯すこともあった。つまり彼は遺体が完全に朽ちたり野生動物に食べられて屍姦ができなくなるまで、腐敗の進む死体を身づくろいし、何時間もかけて性交を行ったのである。バンディは殺害した女性のうち少なくも12人の首を斬り落とし、しばらくの間、自分のアパートでその首を記念に保管していた[1]。時には堂々と夜半に住居に押し入り、眠っていた被害者を脅して強姦することもあった。

1975年、バンディは誘拐事件と強姦未遂によりユタ州で投獄され、初めて刑務所に入ることになる。彼は同時に複数の州で進行中であった連続殺人事件の容疑者でもあった。殺人罪で起訴されたのはコロラド州だが、彼は2度の劇的な脱獄を果たし、1978年にフロリダ州で逮捕されるまでに3件の殺人を犯し、暴行を繰り返した。フロリダ州の殺人だけで、彼は別個の2回の裁判で3回の死刑を宣告された。

1989年1月24日にバンディはフロリダ州刑務所で電気椅子による死刑が執行された[2]。伝記作家のアン・ルールはバンディを「サディスティックソシオパスであり、自分以外の人間が苦しんだり、被害者を支配することに喜びを覚えていた。死ぬまで、そして死後でさえも」と表現している[3]。彼自身は自分のことを「あんたが今まで会った中で、一番冷血なくそ野郎〔son of a bitch〕」と呼んでいた[4][5]。最後の弁護士チームにいたポーリー・ネルソンは「テッドは残酷な悪魔がいるとすれば、その定義どおりの男」だと書いている[6]

生い立ち

少年時代

テッド・バンディことセオドア・ロバート・カウエルは、1946年11月24日にバーモント州バーリントンで生まれた。テッドを未婚女性のための産院であるエリザベス・ランド・ホームで生んだ母は、名をエレノア・ルイーズ・カウエルといった(彼女は人生の大半をルイーズと呼ばれて過ごした)[7]。父については確実な事はわかっていない。出生届には父親として販売員でありアメリカ空軍の退役軍人であったロイド・マーシャルの名があるが[8]、ルイーズは後に自分が名前はうろ覚えだがジャック・ワシントンという「水兵」[9]に貞操を奪われたのだと主張している[10]。だいぶ後になって当局も調査を行ったが、海軍にも民間船にもそのような名前を持った人間の記録は見つからなかった[11]。親戚の中には、バンディの父親が、ルイーズに暴力をふるい虐待をしていた彼女自身の父親サミュエル・カウエルだという人間もいたが[12]、この説を否定するにせよ肯定するにせよ客観的な証拠は何もない[13]

3歳までバンディはフィラデルフィアにある母方の祖父の家で生活した。婚外子といえば社会的に不名誉な時代であったので、祖父のサミュエル・カウエルと母のエレノア・カウエルは、後ろ指を指されないようにテッドを育てた。だから幼いテッドは祖父母のことを両親、母のことを姉だと教えられていた。最終的に真実を知ることにはなるのだが、それに気づいた瞬間に関する彼の回想は食い違っている。ガールフレンドには、自分を「私生児」呼ばわりしたいとこが出生届のコピーを見せてきたと語っていた[14]。しかし伝記作家のスティーヴン・ミショーとヒュー・エインズワースには、自分で出生届を見つけたと話している[15]。伝記作家であり犯罪ルポライターでもあるアン・ルールは、個人的にもバンディをよく知っている人物だが、彼女は1969年にバーモント州で自分の出生届の原本を探し出すまで、家族の秘密に気づいていなかったと考えている[16]。自分の本当の父親について語らず、探したければ探せという母親の姿勢に、バンディは死ぬまでずっと怒っていた[17]

取材を受ける中でバンディはたびたび祖父サミュエルの優しさを語り[18]、ルールにも自分は祖父がいたからあるのであり、尊敬していて、いつもくっついていたと話している[19]。しかし1987年に、家族はテッドを連れて弁護士に父親の素行について相談をしている。サミュエル・カウエルは家庭を牛耳って威張り散らし、黒人やイタリア人、カトリック、ユダヤを嫌ってひどく偏狭だ、という内容だった。バンディの祖父は妻や飼い犬を殴り、近所に猫がいれば尻尾をつかんで振り回した。ある時はルイーズの妹を、寝坊したという理由で階段から投げ飛ばしている[20]。サミュエルは初対面の人にも大声で話す時があり[21]、テッドの父親が誰なのかという話が持ち上がったことに激昂して暴れまわったことも、確実なだけで一回はあった[20]。バンディの思い出の中の祖母はおどおどして言われるがままの女性で、鬱状態の改善のため定期的に電気けいれん療法を受けていたという[21]。そして老いるにつれて祖母は外出を怖がるようになった[22]。テッドは、すでに幼いころから、周りを困らせるような行動をとることがあった。ある日、叔母のジュリアがうたた寝からふと目を覚ますと、カウエル家の台所にあった包丁という包丁が自分のまわりに置いてあってひどく驚いたことがあった。3歳の甥っ子は彼女が寝ていたベッドのそばで微笑んでいた、とジュリアは回想している[23]

1950年、ルイーズは名字をカウエルからネルソンに改め[8]、家族の度重なる強い勧めもあって、息子を連れてフィラデルフィアを離れ、いとこのアラン・スコットとジェーン・スコットを頼ってワシントン州タコマに移った[24]。1951年、メソジスト教会主催のお見合いパーティで、ルイズは病院の調理師だったジョニー・カルペッパー・バンディと出会った[25]。この年の後半に2人は結婚し、ジョニー・バンディは正式にテッドを養子とした。ジョニーはルイーズと4人の子をつくり、実の子供といっしょにテッドもキャンプに連れて行ったりして、彼を家族として扱おうとはしていたが、テッドとの距離は縮まらなかった。後にテッドはガールフレンドに、ジョニーは本当の父親ではないだけでなく「全然さえないし」「稼ぎもよくない」と不平をこぼしていた[26]

伝記作家にバンディが語るタコマの思い出は、相手によって内容が変わった。ミショーとエインズワースに話したときは、近所をうろついて、ゴミ箱をあさっては女性のヌード写真を探していた、という[27]。またポーリー・ネルソンには、刑事ものや犯罪小説、犯罪ルポが好きで、性犯罪を扱っていたり、死体や四肢が欠損した身体の挿絵には目がなかった、と説明している[28]。一方でルールに宛てた手紙では、「実話系の刑事もの雑誌なんて読んだことは絶対ないし、考えただけでぞっとする」と断言している[29]。さらにミショーとの会話では、自分がいかに大酒を飲んでいたかを語り、夜中に「地元を徘徊して」裸の女性を覗くことのできるカーテンのかかってない窓を探しまわっていたし、なんなら「覗けるものであればなんでも」よかったとさえ回想している[30]

ハイスクール時代のバンディ(1965年)

バンディの話は、学校生活についても食い違っている。ミショーとエインズワースには、人との距離の取り方がわからず思春期には「好んで1人でいた」と説明している[31]。彼が言うには、友情を育むということがそもそもどういうことか理解できなかったのだ。「友達になりたいという気持ちがどういうものなのかわからない」、「人間関係というのが何で成り立っているのか知らない」と彼は言っている[32]。だがウッドロー・ウィルソン高校時代の同級生はルールに、バンディが「有名で、人気もあった」といい、例えるなら「広い池だったとしたら中ぐらいの大きさの魚」だったと語っている[33]

スキーはバンディにとって唯一の趣味らしい趣味だった。彼は盗んだ道具と偽造したリフト券で、大いにスキーを楽しんだ[15]

彼は高校在籍中に、住居侵入と自動車泥棒の容疑で少なくとも2度逮捕されている。しかし彼が18歳になった時点で、ワシントン州などでは通例であったが、事件の詳細は公的な記録からは抹消されている[34]

大学時代

1965年に高校を卒業したバンディは、ピュージェットサウンド大学に一年だけ在籍した後で、中国語を勉強するため1966年にはワシントン大学に移っている[35]。翌年から彼は、大学の同級生と付きあい始めている。バンディの諸々の伝記ではさまざまな偽名が使われているが、一般的にはステファニー・ブルックスとされている[36]。1968年の初めに、彼は大学をドロップアウトして最低賃金の仕事を転々とした。ネルソン・ロックフェラーが大統領選に出馬した時は、シアトル事務所でボランティアスタッフもしていて[37]、この年の8月にはマイアミで行われた共和党の全国集会にロックフェラーの代議員として出席している[38]。その直後にバンディはブルックスと別れており、彼女はカリフォルニア州の実家に帰ってしまった。彼女が言うには、バンディの幼稚さと向上心のなさが理由であった。精神科医のドロシー・ルイスは、後にこの破局が「おそらく彼の人格が形成される上できわめて重要な事件」だと指摘している[39]。ブルックスに振られて傷心のバンディは、コロラド州に旅行に出かけ、さらに東に向かってアーカンソー州フィラデルフィアの親戚を訪ね、テンプル大学に1学期(セメスター)だけ通っている[40]。1869年の初めに、バンディはバーリントンの出生登録所に行き、自分の父親が本当はサミュエルではないことを初めて知った、とルールは考えている[40][41]

バンディは1969年の秋にはワシントン州に戻り、エリザベス・クレプファー(バンディ関係の文献におけるメグ・アンダース、ベス・アーチャー、リズ・ケダルと同一人物)と出会っている。彼女はユタ州オグデン出身のバツイチで、ワシントン大学医学部の職員の仕事をしていた[42]。2人の激しい恋愛は、1976年にバンディがユタ州で初めて投獄されるまで途切れることなく続いた。

1970年代半ば、この頃のバンディには明確な目標があった。ワシントン大学に再入学して、今度は心理学を専攻している。彼は優等生であり、教授陣からの評判もよかった[43]。1971年には、シアトルの自殺防止ホットライン緊急センター(Suicide Hotline Crisis Center)で職を得るとともにアン・ルールと知り合い、また同僚となった。ルールは元警察官で、犯罪ルポライターになる夢を持っていた。彼女は後に、決定的なバンディの伝記である『私のそばの他人』(The Stranger Beside Me)を書いている。当時の彼女はまだバンディの内面には分け入っておらず、彼のことは「親切で気遣いもあり、親身になってくれる」と考えていた[44]

1972年にワシントン大学を卒業すると[45]、州知事のダニエル・J・エバンスの再選を目指した選挙戦に参加している[46]。大学生を装ってエバンスの対立候補である元知事のアルバート・ロゼリーニの行動を追いかけ、街頭演説の内容を記録しては分析のためにエバンスの選対チームに情報を送った[47][48]。無事エバンスが再選を果たすと、バンディは共和党ワシントン州支部長のロス・デイビスに助手として雇われた。デイビスはバンディを気に入っており、彼のことも「頭は良いし積極的だし、仕組みってものを大事にしている」と語っていた[49]。1973年の初めにピュージェットサウンド大学ユタ大学のロースクールに合格したが、ロースクール入学試験の点数は凡庸だった。バンディの合格はエバンスやデイビス、ワシントン大学の複数の心理学部教授の推薦の手紙のおかげだった[50][51]

共和党の仕事でカリフォルニアへ出張していた1973年の夏に、バンディはブルックスとよりを戻している。彼女にはバンディが法曹界においても政治の世界においても素晴らしいキャリアを築きつつあるように映ったし、真面目でひたむきなプロフェッショナルに変身したことに驚かされたのだった。バンディはクレプファーとも交際を続けたが、彼女たちはお互いの存在に気づくことはなかった。1973年の秋にバンディはピュージェットサウンド大学ロースクールに入学するが[52]、ブルックスとの恋愛関係は途切れなかった。彼女はバンディのために、何度も大陸を横断してシアトルまで飛行機に乗って会いにきていた。2人は当時結婚も考えている。一度はデイビスにフィアンセとして彼女を紹介していたほどだ[26]。しかし1974年1月に、バンディは突然一切の連絡を絶った。彼女からの電話にも手紙にも、返事を返していない。一ヶ月後にようやく一度だけ電話がつながったので、彼女はなぜバンディが説明もなく一方的に関係を終わらせたのか知りたいと伝えた。バンディは抑揚のない、落ち着いた声で「ステファニー、何が言いたいのかまるでわからないよ」とだけ答えて電話を切った。彼女は二度とバンディの声を聞くことはなかった[53]。後にバンディは「僕だって自分が彼女と結婚するに値する人間でありたかったよ」と説明しているが[54]、彼女のほうはバンディとの過去を振り返って、交際そのものが計画的であり最後にバンディが彼女を振ることは予定通りのことで、1986年に彼女のほうから振ったことに対する復讐だったのだと断言している[53]

この頃にはバンディはロースクールの授業をサボるようになっていて、4月になるとまったく大学に行くのをやめてしまった[55]。ちょうどその頃、アメリカ北西部では若い女性の失踪が続いていた[56]。この年にバンディはシアトル犯罪対策諮問委員会の副委員長を務めており、女性向けにレイプ対策のパンフレットも書いていた[57]。ずっと後になって、バンディはユタ州の報道記者にこんなジョークを言っていた。ソルトレークシティの刑務所にはいって8週間、保釈を待っている間に身をもって法を学ぶという得難い経験をして、刑事司法の仕組みの改善につながる新たな考えが浮かんだよ、と。彼に対して初めての法的措置がとられたことで、むしろ保釈保証の問題が浮き彫りになり、その改正に対する取り組みが行われることになったのだった[58]

2つの連続殺人

ワシントン州とオレゴン州

バンディが女性の殺めるようになったのが、いつ・どこでなのかについて統一した見解はない。彼は言っていることが相手によってばらばらであるうえに、最初期の犯罪の解明につながることについては口を閉ざしている[59]。比較的新しい、死刑執行の直前までに行った殺人についてはありありと詳細を告白するのとは対照的である[60]。ネルソンには、1969年にニュージャージー州オーシャンシティで初めて誘拐を試みたが、1971年某日のシアトルの事件までは誰1人殺していないと語っている。精神科医のアート・ノーマンには1969年にフィラデルフィアへ旅行に来た家族をターゲットに、アトランティックシティで2人の女性を殺したと言う[61][62]。殺人担当課の刑事ロバート・D・ケッペルには、1972年にシアトルで1人殺して[63]、1973年にタムウォーターあたりにいたヒッチハイカーが犠牲になった別の事件でも殺人をほのめかしているが、詳しくは語っていない[64]。ルールもケッペルも、彼は未成年の頃から殺人に手を染めていただろうと考えている[65][66]。状況証拠しかないが、1961年に当時8歳だったタコマ在住のアン・マリー・バーを誘拐して、殺した疑いがある。このとき彼は14歳だった。しかしバンディは繰り返しこの説を否定している[63]。彼による殺人事件として認定されているうちで、一番古いものは、バンディが27歳(1974年)の時のものだ。しかしこの時代にはまだDNA鑑定がなかったとはいえ、自分でも認める通り、彼はすでに犯行現場に最小限の法科学的な証拠しか残さないようにする技術をマスターしていた[67]

1974年1月4日(この頃すでにブルックスとは連絡を絶っていた)の0時を少し過ぎたころに、バンディはワシントン大学の学生でありダンサーの仕事もしていた18歳のカレン・スパークス[68](文献によってはジョニ・レンツ[69][70]、メアリー・アダムス[71]、テリー・コードウェル[72]となっている)のアパート地階の部屋に侵入している。ベッドフレームから鉄の棒を外して、眠っていた彼女を意識がなくなるまで殴りつけ、その鉄の棒(文献によっては鉄のスペキュラム[70])で彼女に性的暴行を加えた[73][54]。そのため彼女は酷い内蔵損傷を被ることになった。バンディの暴行によって彼女は意識不明の状態が10日続き[72]、その後一命をとりとめたもののその後身体と精神に障害を抱えて一生を送ることになった[74]。2月1日の早朝には、リンダ・アン・ヒーリーの部屋に押し入っている。彼女はワシントン大学の学部生であると同時にスキーヤーのために朝のラジオで天気予報のレポーターをしていた。バンディは彼女に拳を浴びせて気絶させると、青いデニムと白のブラウスを着せ、ブーツを履かせて彼女を連れ去った[75]

1974年の前半には月に1人のペースで女子大学生が失踪した。3月12日、シアトルから南西に100キロメートル弱離れたオリンピアで、エヴァーグリーン州立大学に通う19歳のドナ・ゲイル・マンソンは、大学のキャンパスで開かれるジャズコンサートに行くために寮を出たが、会場には姿を表わさなかった。4月17日、スーザン・エレイン・ランコートが寮への帰宅途中に失踪した。彼女はシアトルから東南東に200キロメートル弱のエレンズバーグにあるワシントン州立大学でその日の午後にあった新入生オリエンテーションから帰るところだった[76][77]。セントラルワシントン大学の女子学生2人が後に名乗り出て、ランコートが失踪した日の夜に(もう1人はその三日前の夜に)ある男に出会ったという情報を提供した。その男は怪我人のように腕をスリングで吊っていて、荷物の本を自分のブラウンあるいは褐色のフォルクスワーゲン・ビートルに積むのを手伝ってくれないかと頼んできたという[78][79]。5月6日には、ロベルタ・キャスリーン・パークスがポートランドから150キロメートル弱南にあるコーバリスオレゴン州立大学の寮を出たまま姿を消した。キャンパス内にある学生会館メモリアルユニオンで友人たちとカフェをするはずだった[80]

キング郡保安局とシアトル警察署の刑事たちは次第に懸念を募らせていたが、物理的な証拠は一切見つかっておらず、失踪した女性にも共通点はほとんど無かった。あるとすれば、彼女たちはみな若く魅力的な白人の女子大生で、長い髪を真ん中で分けていることぐらいだった[81]。6月1日、22歳のブレンダ・キャロル・ボールが、シアトル・タコマ国際空港に近いベリアンのパブから出た後に行方不明になった。最後に彼女が目撃されたのはこの店の駐車場で、髪の毛がブラウンで腕をスリングで吊っている男と話している場面以降は消息がわからなかった[82]。6月11日の深夜にはワシントン大学の学生ジョーガン・ホーキンスが、ボーイフレンドの寮から自分の女子寮までの、街灯もあって明るい路地を歩いていった途中で行方不明になる[83]。翌朝、シアトル警察署の刑事と鑑識官3人が路地をくまなく探したが、何も見つからなかった[84]。ホーキンスの失踪後にその事実が公表されると、目撃者が現れた。その夜は寮のすぐ裏にある小道に男が立っていて、片足にギプスをして松葉づえをついており、書類かばん1つ運ぶのにも難渋していたという情報だった[85]。もう1人、女性の証言もあり、その男から自分のライトブラウンのフォルクスワーゲンにそのかばんを入れるのを手伝ってくれないかと頼まれたという[86]

この時期に、バンディはオリンピアの危機管理局(DES)で仕事をしていた。つまり州政府で失踪女性を捜索する職員だった。そしてこの職場で、彼は二児の母であり二度の離婚を経験していたキャロル・アン・ブーンと知り合い、付き合うようになってた。彼女は6年後に、バンディの人生の最後の局面で重要な役割を演じることになる[87]

6人の女性が失踪し、スパークスに残酷な暴行が加えられたことがテレビや新聞で報じられ、ワシントン州とオレゴンでは誰もが知る事件となった[88]。市民には不安感が広がり、若い女性のヒッチハイカーはあっという間に見かけなくなった[89]。当局に対する不満の声が強まったが[90]、物理的な証拠に乏しく打つ手がなかった。警察にしても、捜査に支障をきたさない範囲で記者に伝えられる情報はいくらもなかったのである[91]。それでも、被害者たちには新たな共通点が見つかっていた。失踪はすべて夜間に起きており、たいてい工事現場の近くで、中間か期末の試験がある週だった。被害女性は全員、スラックスか青いデニムをはいていた。そしてほとんどのケースで、ギプスかスリングをして、ブラウンか褐色のフォルクスワーゲン・ビートルを運転する男が近くで目撃されていた[92]

A light tan rusty Volkswagen is positioned for display behind a chain made of handcuffs
でテッド・バンディが多くの犯行現場で乗っていた1968年式のフォルクスワーゲン・ビートル(いまは閉鎖されたが、国立犯罪・刑罰博物館に展示されていた時の写真)[93][94]

アメリカ北西部での殺人事件がクライマックスを迎えたのは7月14日のことで、シアトルから30キロメートルほど東のイサクアにあるレイク・サマミッシュ州立公園のビーチに人がつめかけている中、白昼堂々、2人の女性が誘拐されたのである[95]。5人の女性がある男性のことを証言していた。その男は若くて感じもよく、話せばカナダ人かイギリス人を思わせる軽いアクセントで、白いテニスウェアを着こみ左腕にはスリングをつけていた。そして自分のことを「テッド」と名乗り、ヨットを褐色かブロンズのフォルクスワーゲン・ビートルに積むのを手伝ってくれないかと頼んできたという。彼女たちのうち4人は断ったが、1人は車までついていってしまった。しかしヨットなどないことに気づくのが早く、走って逃げることができた。その男がジャニス・アン・オットにも話を持ちかけているところも別の3人が目撃している。彼女は23歳でキング郡の少年裁判所で試用期間中のケースワーカーをしており、やはりヨットの話をされて、男といっしょにビーチを離れたところまでは見ている人がいた[96]。4時間後には、プログラマーになる勉強中のデニス・マリー・ナスランドという19歳の女性が、ピクニックの最中にトイレに行ったきり戻らなくなった[97]。バンディは、スティーヴン・ミショーに、オットはナスランドを拾って戻ってくるまで生きていた(そして片方を殺すところを無理やりもう片方に見せつけていた[98][99])と語ったが、処刑の前日にルイスから受けた取材のときはこの話を否定している[100]

キング郡保安局は、ようやく容疑者と彼の車を詳細に解説したチラシをつくって、シアトル地区に配布した。似顔絵も地方新聞に掲載されたほか、地元のテレビ番組でも報道された。エリザベス・クレプファー、アン・ルール、オリンピアの危機管理局(DES)の職員1名、そしてワシントン大学の心理学部教授の4人全員が、報道されたプロフィール、似顔絵、車について覚えがあり、バンディがおそらく犯人であるという通報を行った[101]。しかしこの頃1日に200件の情報提供を処理していた刑事たちは[102]、成人になってからの犯罪歴もない、見た目もさわやかな法学部生が犯人である可能性は低いだろうと考えた[103]

9月6日、ライチョウを獲っていた2人のハンターが、レイク・サマミッシュ州立公園から東に3キロメートルのイサクアの側道で、白骨化したオットとナスランドの遺体に出くわした[95][104]。この場所からは、別人の大腿骨と脊椎骨が発見されたが、バンディは後にそれがジョーガン・ホーキンスのものだと語った[105]。6ヵ月後、グリーン・リバー大学で林業を勉強する学生が、テーラー山でヒーリー、ランコート、パークス、ボールの頭骨や下顎骨を発見した。この山はバンディがよくハイキングにでかけていた場所で、イサクアからすぐ東にあった[106]。マンソンの遺体はその後も見つかっていない。

アイダホ州、ユタ州、コロラド州

1974年8月、バンディはユタ大学ロースクールから二度目の合格通知が来たので、クレプファーをシアトルに残してソルトレークシティに引っ越した。頻繁に彼女を呼び出す一方で、デートを重ねる女性はクレプファー以外に「少なくとも1ダース」はいた[107]。初年度のカリキュラムを勉強するのはこれで二度目だったが、「彼は自分にはない、何か知的な能力を持っている学生がいないか必死になって探していた。しかし彼が通うクラスにそれを求めても無意味だということに気づいた。『心底がっかりしたよ』と彼は語った」[108]

この月以降、新たな連続殺人が始まった。犠牲者のうち2人は、バンディが処刑される直前に自白しなければ遺体すら発見できなかった。9月2日、アイダホ州で未だ身元不明のヒッチハイカーが強姦された後に絞殺され、遺体はそばの川にそのまま流されたか[109]、翌日に写真を撮るために戻ってきたときに切り刻んでから川に流された[110][111]。10月2日、ソルトレークシティ近郊のホラディでバンディは16歳のナンシー・ウィルコックスを無理やり木が生い茂ったエリアに連れて行くと、自分の病理学的な衝動を鎮めるために(と彼は言う)強姦した後は解放するつもりだったが、うっかり(と彼は言う)叫び声を抑えようとして絞殺してしまった[112][113]。ナンシーの遺体はホラディから南に300キロメートル以上あるキャピトル・リーフ国立公園のあたりに埋めたというが、その後も見つかっていない[114]

10月18日、ソルトレイクシティ近郊にあるミッドヴェールの警察署長の娘で17歳のメリッサ・アン・スミスがピザ店を出た後に行方不明になった。9日後、そばにある山間部で彼女の裸の遺体が見つかった。検死の結果、失踪から7日後までは生きていた可能性があることがわかった[115][116]。10月31日、同じく17歳のローラ・アン・エイミーが40キロメートル南のユタ州リーハイで、夜中にカフェから出た後に行方不明になっている[117]。彼女の遺体も、感謝祭の日に14キロメートル北東のアメリカンフォークキャニオンに裸で見つかった[118]。2人とも殴られ、強姦されて(肛門にも性交の痕跡があった)、ナイロンストッキングで絞殺されていた[119][120]。数年後に、バンディはスミスとエイミーの遺体の髪をシャンプーしたり、顔にメイクをするといった死後の儀式について詳しく語っている[121][122]

11月8日の午後遅くにバンディはユタ州マリのショッピングモール「ファッション・プレイス」で18歳のテレホンオペレーター、キャロル・ダロンシュに声をかけている[123]。そこは、メリッサ・アン・スミスが最後に目撃された場所から1キロメートル足らずの場所だった。彼は自分のことをマリ警察署の「ローズランド巡査」と名乗り、ダロンシュに、君の車に誰かが押し入ろうとしていたので、被害届を出すために署までついてきてほしいと頼んだ。しかし車が向かっているのが警察署がある方向ではないことを彼女に指摘されたバンディは、車をすぐに路肩に停めて、彼女に手錠をかけようとした。もみ合いになったが彼は手錠を2つとも片方の手にかけてしまったため、ダロンシュは車のドアを開けて脱出することができた[124]。その日の午後遅くにマリから北に30キロメートルほどいったバウンティフルのビューモント高校で17歳の生徒デブラ・ジーン・ケントが、学校での演劇製作の後で弟を迎えにいくはずがそのまま行方不明になった[125]。演劇を指導していた教師と生徒の1人は、「見たことのない人」が自分の車を探すため駐車場に来てほしいと頼んできた、と警察に証言した。別の生徒も後から、同じ男が講堂の裏でうろうろしていると話していた。この教師は芝居が終わった直後にもその男を見かけていた[126]。講堂の外で、警察はダロンシュにかけられていた手錠を外す鍵を見つけている[127]

11月に、ソルトレークシティ周辺の町でまた若い女性の失踪が起こっているという新聞記事を読んだエリザベス・クレプファーは、キング郡保安局にもう一度連絡を入れた。重大犯罪課の刑事ランディ・ハーゲスハイマーが彼女の話を詳しく聞き、バンディは今度こそキング郡における容疑者の筆頭に挙げられるようになったが、レイク・サマミッシュ州立公園の事件において最も信頼できると警察が考えていた証人は、顔写真リストからバンディを特定することができなかった[128]。12月にクレプファーはソルトレーク郡保安局にも連絡し、繰り返しバンディが怪しいと伝えた。バンディの名は容疑者リストに加わったが、この時点ではユタ州の犯罪と彼を結びつける確かな証拠は一切なかった[129]。1975年1月、バンディは大学の期末試験を終え、クレプファーと1週間一緒に過ごした後でシアトルに戻った。バンディは、彼女が3度にわたって別々の警察署に自分のことを通報したことなど聞かされていなかった。一方彼女のほうでは8月にソルトレークシティでバンディに会う計画を立てていた[130]

1975年には、バンディが犯行に及ぶ場所は、彼の拠点であるユタ州ではなくコロラド州のほうが多くなっていた。1月12日、キャリン・アイリーン・キャンベルという名の23歳の登録看護婦が、ソルトレークシティから南東に640キロメートルのスノーマスビレッジのホテル「ワイルドイウッド・イン」の中で行方不明になった。最後に目撃されたのは、エレベーターから彼女の部屋までの、十分に明るい廊下を歩いているところまでだった[131]。一ヶ月後に、このリゾート地の近郊にある砂利道のすぐ脇で、キャンベルの裸の遺体が見つかった。彼女は鈍器で頭を殴られて絶命しており、その証拠に頭蓋骨は細長く陥没していたほか、逆に身体は鋭利な刃物による深い切り傷があった[132]。3月15日にはスノーマスから北東に160キロメートルのヴェイルの町で、スキーインストラクターのジュリー・カニンガム26歳が、友人の1人とディナーをするためアパートを出た後に行方不明になった。後からバンディはコロラド州の捜査員に、カニンガムには松葉杖をついて近づき、スキー靴を車に運ぶのを手伝ってほしいと頼んだと話した。そして棒で殴りつけると手錠をかけ、そこから140キロメートル西にいったライフル近辺に移動して、性的な暴行を加えてから絞殺したという[133]。数週間後、バンディはソルトレークシティから車で6時間かけて、彼女の遺体がある場所まで戻ってきている[134]

25歳のデニス・リン・オリバーソンは 4月6日、ユタ州とコロラド州の境界に近いグランドジャンクション近郊で行方がわからなくなった。実家まで自転車に乗って向かっている途中だった。彼女の自転車とサンダルが、鉄道橋そばの高架下から見つかっている[135]。5月6日、バンディはソルトレークシティから260キロメートル北へいったアイダホ州ポカテッロでアラメダ中学校に通う12歳のリネット・ドーン・カリバーを誘拐している。彼は自分のホテルに連れ込むと、カリバーを溺死させてから性的暴行を行い[136]、ポカテッロの北に流れる川に遺体を棄てた[137][138]

5月半ばに、ワシントン州の危機管理局でバンディと一緒に働く3人の同僚がソルトレークシティの彼のアパートを訪れ、一週間そこで過ごしている。その中にはキャロル・アン・ブーンもいた。その後6月初めにバンディはシアトルでクレプファーと一週間共に生活し、クリスマスの後の結婚について話し合った。やはり彼女はキング郡やソルトレーク郡の警察に伝えた内容については黙っていた。一方バンディも、ブーンとは関係を継続中であることや、文献によってはキム・アンドリューズ[139]やシャロン・オーア[140]とされるがユタ大学ロースクールの学生とも並行して関係を持っていることを秘密にしていた。

An outdoor hallway. Hotel rooms are on the left and a balcony is on the right.
キャリン・キャンベルはこの明るい廊下を通って自分の部屋に行く途中で行方不明になった

6月28日、スーザン・カーティスがソルトレークシティから70キロメートルほど南にあるプロボブリガムヤング大学のキャンパスから姿を消した。カーティスは、バンディが最後に殺人を認めた被害者だった。彼の告白は処刑室に入る直前で、テープにも録音されている[141]。ウィルコックス、ケント、カニンガム、カルヴァー、カーティス、オリバーソンの遺体はその後も見つかっていない。

1975年の8月か9月に、バンディは末日聖徒イエス・キリスト教会で洗礼を受けているが、教会での礼拝には熱心ではなく、戒律もほとんど無視していた[142][143][144]。翌1976年に彼は誘拐について有罪判決を受け、教会からは破門されている[142]。逮捕後にどの宗教を選択しているのか聞かれたバンディは、子供の頃に信仰していた「メソジスト」と答えている[145]

ワシントン州では、突如として始まり突如として止んだ太平洋岸北西部の連続殺人を解明することに心血が注がれていた。大量に集まったデータを分析するために、警察はその情報をデータベース化するという当時としては画期的な手法を捜査に取り入れた。このとき使われたのがキング郡の給与計算業務用コンピューターで、現代の基準に照らせば「巨大で、原始的な機械」だが、当時使えるコンピューターといえばこれしかなかった。自分たちが集めたデータ(被害者ごとのクラスメイトや知人、「テッド」という名前のフォルクスワーゲンのオーナー、性犯罪者など)を入力し、コンピューターに重複する人物を照会した。その結果、何千人という中から、4つのグループで26人がピックアップされた。その中の1人はテッド・バンディだった。捜査員たちは人力でもデータベースをつくり、「ずばり」な容疑者を100人まで絞っていたが、こちらにもバンディが入っていた。ユタ州から彼が逮捕されたという知らせが届く頃には、ワシントン州でも彼が「文字通り山積みにされた〔容疑者たちの〕一番上のところにいた」[146]

逮捕と最初の裁判

画像外部リンク
車内で発見されたテッド・バンディの殺人キット

1975年8月16日にバンディはグレンジャー(ソルトレイクシティの近く)でユタ州のハイウェイパトロールに車を停められている。夜明け前に住宅街を流して走っている最中にパトロールカーに発見されたバンディは、スピードを上げてそのエリアを離れようとしたが、停車を指示された[147]。警官はフォルクスワーゲンの助手席のシートが外されて後ろの席に置いてあるのに注目し、車内を捜索することにした。すると目出しのスキー帽、ストッキングでつくった別の目出し帽、バール、手錠、ゴミ袋、ロープ一巻き、アイスピックなどが見つかり、初めは強盗を疑われていた。バンディは、手錠はコンテナのゴミ箱から拾ったものだが、スキー帽はスキーのためで、残りはよくある家庭用品じゃないかと説明した[148]。しかし刑事のジェリー・トンプソンは、1974年11月にダロンシュが誘拐されたときに情報公開された容疑者と車の特徴に似ていることに気づいており、バンディという名前も1974年12月にクレプファーが情報提供の電話をしたときに覚えがあった。バンディのアパートも捜索することになり、ワイルドウッド・インに印のつけてあるコロラド州のスキー場のガイドブックだけでなく[149]、バウンティフルのビューモント高校で上演される芝居の宣伝パンフレットも見つかった[150]。バンディを拘束するだけの証拠としては不十分であり、警官は彼に誓約書を提出させると引き揚げてしまった。バンディは後に、もうちょっとよく探せば被害者を獲ったポラロイド写真のコレクションが見つかったのにと語っている。彼は警察に解放された後で、この写真を破棄してしまった[151]

警察はソルトレイクシティのバンディに24時間の監視体制を敷いた。トンプソンは2人の捜査員を連れてシアトルに飛び、クレプファーに面会している。彼女によれば、バンディがユタ州に引っ越す前の年に、自分の家やバンディのアパートから何故あるのか「理解できない」ものを見つけていたのだという。例えば、松葉杖、ギプスのはいったバッグ(彼はそれを薬局から盗んだことを認めていた)、料理には使ったことのない肉切り包丁だった。ほかにも外科用手袋や、車のダッシュボードには木箱入りの東洋風の刀があり、女性の服がつまった袋もあった[152]。バンディは慢性的に借金を抱えていたので、クレプファーは彼が持っている高価なものはほぼすべて盗品ではないかと疑っていた。彼のアパートにあった新しいテレビとステレオのことでいさかいになった時にはバンディから「もし誰かに話したら、貴様の首をへし折るぞ」と警告されていた[153]。また彼女によれば、真ん中で分けた長い髪を切ろうとすると、バンディはいつも「ひどく慌てて」いたという。夜に目を覚ますと、ベッドカバーの下でバンディが自分の体を診察するように触っている時もあった。また彼女の車(バンディの車とは別のフォルクスワーゲン・ビートルで、彼はよく借りていった)には、取っ手の下半分をテープ巻きにしたラグレンチを常に置いていて、バンディはそれが「護身用」だと言っていた。警察の調べでは、バンディがクレプファーといる日には太平洋岸北西部で失踪者が出ておらず、オットやナスランドが誘拐された日にも重ならなかった[154]。クレプファーはトンプソンからの事情聴取の直後に、シアトル警察署の刑事ケイシー・マクチェスニーからも聴取を受けており、この時にステファニー・ブルックスの存在やバンディと1973年のクリスマス前後につかの間の関係を持っていたことを知った[155]

9月に、バンディは自分のフォルクスワーゲン・ビートルをミッドヴェールの少年に売り渡している[156]。この車はユタ州の警察に押収され、FBIの技術班によって分解と調査が行われた。車内からはキャリン・キャンベルの遺体からとった標本と一致する髪の毛が見つかった[157]。さらに後になって、髪の毛にはメリッサ・スミスとキャロル・ダロンシュのものと「顕微鏡でみても区別できない」ものもあることがわかった[158]。FBIの鑑識のスペシャリスト、ロバート・ネイルは、1台の車から互いに面識のない3人の人間と一致する髪の毛が出てくるのは「途方もないほどの偶然の一致」だと結論づけた[159]

10月2日、警察によってバンディの面通しが行われ、ダロンシュはすぐに「ローズランド巡査」は彼だと言った。この面通しでは、バウンティフルから来た目撃者も学校の講堂でうろついていた見知らぬ人として彼を選んだ[160]。デブラ・ケント(遺体は見つかっていない)の事件と彼を結びつける証拠は不足していたが、ダロンシュに対する誘拐と暴行未遂だけで起訴するには十分だった。彼は保釈金15,000ドルを親に肩代わりしてもらい[161]、シアトルで行われる裁判まで、ほとんどの時間をクレプファーの家で過ごした。シアトルの警察はアメリカ北西部で起こった一連の殺人事件について決定的な証拠を欠いたままだったが、それでもバンディを厳しい監視下に置いた。「テッドと私が外出しようとしてポーチに出ると、何台も停まっていた警察の覆面車両が一斉にエンジンをかけるので、インディ500のスタートの時のようなすごい音がした」とクレプファーは伝記に書いている[162]

11月、バンディを追いかける3人の捜査主任(ユタ州のジェリー・トンプソン、ワシントン州のロバート・ケッペル、コロラド州のマイケル・フィッシャー)がコロラド州のアスペンに揃い、5つの州から来た30人の刑事と検察官とともに情報交換を行った[163]。捜査員たちはバンディが自分たちが追いかけている殺人鬼だと確認しあってこの会合(後にアスペン・サミットと呼ばれるようになる)を終えたが、彼の殺人事件について何から罪を問うにせよ、その前にもっと確実な証拠が必要だということで意見は一致をみた[164]

1976年2月23日、バンディはダロンシュ誘拐事件の公判に出頭した。この事件に関して世間の評価は彼にとって厳しいものになっていたので、弁護士のジョン・オコネルのアドバイス通りにバンディは陪審裁判を受ける権利を放棄した。3月1日、4日間のベンチトライアル〔陪審を交えず判事のみで行う裁判〕と週末の審議の時間をはさみ、裁判官のスチュワート・ハンソン・ジュニアは誘拐と暴行で彼を有罪とした[165][166]。6月30日にはユタ州立刑務所での1年以上15年以下の懲役の判決が下されている[161]。10月、獄中のバンディは「脱出キット」(道路地図、飛行機の時刻表、ソーシャル・セキュリティ・カード)を持って刑務所の中庭の茂みに隠れているところを見つかり、数週間を独房で過ごす懲罰を受けている[167]。この月の末に、コロラド州政府は彼をキャリン・キャンベルに対する殺人罪で起訴している。しばらく抵抗したものの、結局彼は州間の身柄引き渡しに関する法的手続きを経る権利を放棄したので、1977年1月に裁判地を同州のアスペンに移された[168][169]

脱獄

A two-story brick building with a tall tower is partially obscured by trees.
ピトキン郡裁判所。バンディが飛び降りたのは二階の左から2番目の窓である[170]

1977年6月7日、バンディはグレンウッドスプリングスのガーフィールド郡刑務所から70キロメートル弱離れたアスペンのピトキン郡裁判所に移送され、予備審問を受けた。彼は自ら弁護士として法廷に立ったので、その立場上、裁判官から手錠と足かせの着用の免除を認められた[171]。休憩中に、彼は判例を研究したいと申し入れをして、判所の図書館に行った。そして書棚の後ろに隠れて窓を開けると、そのまま二階から飛び降りた。着地した時に右足首をねんざしたが、そのまま上着を脱ぎ捨て、外部との交通にバリケードが張り巡らされたアスペンを抜けて、徒歩で南のアスペン山に向かった。頂上付近でハンター小屋を見つけたバンディは、中に押し入って食料と衣服、ライフルを手に入れた[172]。翌日に彼は小屋を出て、さらに南にあるクレスティド・ビュートの町を目指したが、森の中で迷ってしまった。山の中で方向感覚を失って2日間さまよい、目指していた目的地へと降りるための標識を二つも見逃していた。6月10日、アスペンの町から16キロメートルのマルーン湖に停まっていたキャンピングカーに侵入し、食料とスキー用の上着を奪った。そして南へは向かわず、バリケードや追ってきた捜索隊をかわすために、アスペンのある北に進んだ[173]。3日後、彼はアスペンゴルフ場の片隅で車を盗んでいる。すでに睡眠不足でくじいた足の痛みも引かず、盗んだ車をアスペンに走らせたが道を左右に蛇行したため、2人組の警察官に気づかれて停止させられた。結局、彼が逃亡者でいることができたのは6日間だった[174]。車の中にはアスペン周辺の山岳地帯の地図があったが、それは彼が自分自身の弁護人として権利を行使したため携行できたものだった。そしてこのことは、脱走が思い付きではなく、計画的であったことを示唆している[175]

Black-and-white photo of a man with curly hair
1977年の写真(最初の脱走から捕まった直後[176])で、 FBIの10大最重要指名手配のポスターに掲載された

グレンウッドスプリングスの刑務所に戻ったバンディは友人たちや法律家の大人しくしていろという助言に耳をかさなかった。裁判はすでにお世辞にもいいとは言えない流れで、公判前の申し立ては一貫して彼の想定内であり、重要な証拠のいくつかも証拠能力がないと退けられていたのに、趨勢は着実に彼に不利になっていた[177]。「被告人にもっと分別というものがあれば、無罪となる素晴らしいチャンスをつかみかけていたことに気づいていたはずだ。そしてコロラド州でかけられた殺人容疑で無罪を勝ち取れば、おそらく本件に関わっていない検察官も諦めるだろう、と...。ダロンシュの件で有罪になっても、たった1年と半年のお勤めを我慢さえすれば、彼は自由に身になることができたのに」という人もいた[178]。結局彼は新しい脱出計画を練ることになる。彼はまわりの囚人から刑務所の詳細な平面図と金のこぎりの刃を入手し、現金で500ドルを集めた。6ヵ月以上かけて複数の面会人に持ち込んでもらった、と彼は後に語ったが、大きかったのはキャロル・アン・ブーンの存在だった[179]。午後になると他の囚人たちはシャワーを浴びたが、その間にバンディはのこぎりの刃を使い監房の天井に鉄筋を避けて30センチメートル四方の穴を空け、獄中で16キログラム体重の落ちた身体をくねらせれば天井裏に潜り込めるように工作した[180]。その後数週間かけて、そのスペースを動き回って探索をしたため、夜になると天井の中で動いているものがあると繰り返し密告する人間がいたが、調査が行われることはなかった[181]

バンディにとっては切迫した裁判だったが、1977年の後半にはアスペンという小さな町は彼の話題で持ちきりになっていたこもあり、彼は裁判地をデンバーに変更する申し立てを行った[182]。12月23日、裁判官は彼の申し立てを認めたが、ただし変更後の裁判地は伝統的に陪審が殺人犯に厳しいコロラドスプリングスだった[183]。12月30日の夜、刑務所の職員のほとんどがクリスマスで休暇をとっており、許可を得た非暴力犯も一時帰休して家族と過ごしていた中で、バンディはベッドに本やファイルを積み上げ、それにブランケットをかぶせて自分が寝ているようにみせかけると、自分が空けた穴から天井裏に上がった[184]。妻と過ごすため午後から外出していた主任刑務官の部屋の天井を破って中に入ると[185]、クローゼットにあった街着に着替えて、歩いて正門を抜けて刑務所の外に出た[186]

バンディは車を盗んでグレンウッドスプリングスから東へ向かったが、山間部を抜けて州間高速道路70号線を走っている途中で車はすぐに壊れてしまった。しかし通りがかった車に拾われて、さらに100キロメートル弱東のヴェイルまで送ってもらった。そこからバスに乗ってデンバーまで行き、朝を待って飛行機に乗りシカゴへ向かった。グレンウッドスプリングスの刑務所はぎりぎりの人数で管理されており、バンディが脱獄したことが判明するのは12月31日になってからで、すでに17時間が経過していたが、その頃もうバンディはシカゴに着いていた[187]

フロリダ

Bundy casually leans on the wall while dressed in prison garb.
3件分の殺人事件の公判中のバンディ(1978年7月、タラハシー

シカゴからは電車でミシガン州のアナーバーに向かった。1月2日には、この町のパブで母校であるワシントン大学がミシガン大学に負けたカレッジフットのロウズボウルを観戦している[188]。5日後に盗んだ車でアトランタへ行き、バスに乗って1月8日の朝にはフロリダ州タラハシーに到着した。彼はクリス・ハーゲンの偽名を使ってフロリダ州立大学(FSU)のキャンパスの近くにある下宿で部屋を借りた。彼はこの時、フロリダで警察から目をつけれなければおそらく自由の身のままで捕まることはないと考えていたので、合法的な仕事を探して犯罪からは足を洗おうと一時は心に決めた、と後に語っている[189]。しかし彼が唯一した求職活動といえば工事現場の仕事だったが、身分証明をつくるように言われたので就職を諦めてしまった[190]。結局彼は、昔のように万引きやショッピングカードに忘れてある女性の財布からクレジットカードを盗む生業に逆戻りした[191]

1978年1月15日の夜明け前に(タラハシーに到着してから一週間後だった)、バンディはフロリダ州立大学の女子寮であるカイ・オメガの裏にある鍵の壊れたドアから中に侵入した[192]。時間は午前2時45分ごろで、眠っていた21歳のマーガレット・ボウマンを薪で殴りつけ、それからナイロンストッキングで絞殺した。そして20歳のリサ・レヴィの部屋に入り、彼女を強打して失神させると、のどを絞めて殺した[193]。さらに片方の乳首を引きちぎるとともに、左の臀部に深い歯の痕が残るほど噛みつき、ヘアミストの瓶で彼女に性的な暴行を加えた[194]。彼は隣の部屋で寝ているキャシー・クライナーにも襲いかかり、顎を砕くだけでなく肩のところに深い切り傷をつけた。さらにカレン・チャンドラーも彼に襲われ脳震盪を起こし、顎を砕かれて何本も歯を無くすとともに指も1本折れた[195]。その後現場を検分したタラハシーの警察は、彼が4人の犠牲者を手にかけるまで合わせても15分足らずであったと結論しており、寮内には物音が聞こえる距離に30人以上がいたが何かを聞いた人間は皆無だった[192]。女子寮を離れたバンディは、8ブロック先のアパートの地階に住むフロリダ州立大学の学生シェリル・トーマスを襲って彼女の肩を脱臼させ、顎の骨と頭蓋骨を5ヶ所骨折する大怪我を負わせた。彼女には一生の聴覚障害が残り、平衡感覚も失われたためダンサーになるという夢は消えてしまった[196]。警察の捜査で彼女のベッドには精液の染みがみつかったほか、ストッキングの"マスク"もあり、それから採取できた2本の髪の毛は「バンディのものと種類も特徴もそっくりだった」[197][198]

Black-and-white photo of two smiling young women. Levy, on the left, has light hair parted in the middle and Bowman, on the right, has longer dark hair parted to the side.
バンディの犠牲になったリザ・レヴィ(左)とマーガレット・ボウマン(右)

2月8日には盗んだフロリダ州立大学のバンで240キロメートルを移動してジャクソンビルに向かった。ある駐車場で14歳のレスリー・パーメンターに声をかけたが、彼女はジャクソンビル警察署の署長の娘だった。自分のことを「消防署のリチャード・バートン」と名乗ったが、途中でやってきた彼女の兄はまったく信じてない様子だったため、その場を立ち去っている[199]。この日の午後には100キロメートル弱を西に引き返してレイクシティにも行っている。その翌朝、レイクシティ中学校で12歳のキンバリー・ダイアン・リーチが教師から忘れた財布を引き取りに生活指導室に来るように言われて教室を出たきり、そのまま行方がわからなくなった。数週間かけて執念深く捜索活動が行われた結果、街から北西に60キロメートル行ったスワニーリバー州立公園の近くにある豚舎の中で彼女の遺体が部分的にミイラ化した状態で見つかった[200][201]

2月12日、手持ちの現金が不足して溜まった家賃も払えず、警察が自分の居所をつかみかけているという疑念にとらわれたバンディは[202]、車を盗んでタラハシーを去り、フロリダ・パンハンドルを越えて西へ向かった。3日後の午前1時頃、彼はアラバマ州との境界付近でペンサコーラの警官デイヴィッド・リーから職務質問を受け、車が「指名手配・捜査令状」データベースに照会されて、彼の運転するフォルクスワーゲン・ビートルが盗難車だということが発覚した[203]。逮捕すると告げられたバンディは、その場を切り抜けるために警官の足を蹴り上げ、走って逃げた。警官は威嚇射撃をしてから彼を追いかけ、組みついた。銃を奪いあって格闘したが、最後には警官に組み伏せられて、逮捕された[204]。盗難車の中には、フロリダ州立大学の女子学生の身分証が3人分、盗んだクレジットカードが21枚、盗んだテレビ1セットがあった[205]。さらに、市販の黒縁メガネと格子柄のスラックスも見つかったが、これは以前に彼がジャクソンビルで「消防署のリチャード・バートン」に成りすますときに身に着けていたものだった[206]。この時の警官は、FBIの10大最重要指名手配を逮捕したことに気づかないままバンディを容疑者として刑務所に護送しているが、その途中でバンディが「いっそ殺してくれればよかったのに」というのが聞こえたという[207]

フロリダでの裁判と結婚

A smiling Bundy holds a sheaf of papers and enters a vehicle. He is escorted by two police officers.
マイアミの裁判で予備審問を終えたバンディ(1979年)

裁判地がマイアミに変更になり、1979年6月にバンディは女子寮のカイ・オメガでの殺人および暴行の罪で起訴された[208]。この裁判には世界中から250人の記者が押しかけ、初めて全米でテレビ中継された[209]。国選弁護人が5人もついたにも関わらず、バンディはまた自己弁論のほとんどを自分1人でこなした。彼は裁判が始まった時から「悪意と不信感と誇大妄想のせいで、弁護人が何をするにもそれを妨害した」と後にネルソンは書いている。「テッドは殺人容疑をかけられていて、判決はおそらく死刑だった。彼にとって重要なのはとにかく自分が仕切ることだったのだろう」[210]

マイク・ミネルヴァによると、タラハシーのときの弁護団は、公判前に司法取引の可能性について協議を行っていた。その場合検察はレヴィ、ボウマン、リーチの殺人をバンディに認めさせれば確実に75年の懲役刑にできた。一説によると「この裁判では敗色が濃厚だった」ため、検察もこの取引に前向きであった[211]。一方でバンディはこの司法取引が死刑を免れる手段となるだけでなく、「先を見据えた手」だとみていた。つまり申し立てをして何年か時間を稼げば、証拠が崩れたり消えたりすることや、証人が亡くなったり証言を撤回することもありえるからだった。裁判において取り返しがつかないほど旗色が悪くなれば、有罪判決後にも司法取引の申し立てを破棄して無罪を目指すこともできた[212][213]。しかしいよいよという時になって、バンディはこの取引を蹴った。「全世界を相手にして、お前は有罪だと言われることに向かい合わなければならくなるということに気づいたのだ。彼にはそれが耐えられなかった」とミネルヴァは言う[214]

Souviron is seen in the courtroom. Several enlargements of dental x-rays have been pinned up, and he is holding one in his hand.
カイ・オメガ裁判で被害者のかまれた傷に関する証拠の説明をする歯科医のリチャード・スーヴィロン

裁判では、カイ・オメガの寮生であるコニー・へスティングから、事件の日の夕方に寮のそばでバンディをみたという決定的な証言があったほか[215]、ニタ・ニアリーも彼が凶器となったオーク材を握りしめて寮を抜け出すところを目撃していた[216][217]。有罪の物理的証拠としてはバンディがリザの左臀部に残した噛み傷の分析を、法歯科医のリチャード・スーヴィロンとローウェル・レヴィンが行っており、傷跡がバンディの歯からとった型と一致したことを証言している[218][219]。陪審は7時間足らずの審理で、1979年7月24日に、ボウマンとレヴィの殺人、3件の一級殺人の未遂罪(クライナー、チャンドラー、トーマスに対する暴行)、2件の住居侵入でバンディを有罪とした。そして裁判官のエドワード・カワートが殺人罪による死刑判決を言い渡した[220][221]

6ヵ月後にフロリダ州オーランドで二度目の裁判が開かれ、キンバリー・リーチの誘拐と殺人について審理が行われた[222]。8時間に満たない審議によりバンディは再び有罪となったが、何より大きかったのはリーチを校庭から盗難車のバンに連れ出すところを目撃されていたことだった[223]。物理的証拠としては、あまりない製造不良のあった服の繊維がそのバンとリーチの遺体から採取されており、この繊維はバンディが逮捕された時にきていたジャケットのものと一致していた[224]

バンディは有罪判決後の罰則審査の段階で、結婚をしている。裁判所において、裁判官の立ち合いのもと結婚の宣言をすることで正式な結婚とみなされる、というフロリダ州の法律のあいまいさを逆手にとったのである。彼が頼ったのは元ワシントン州危機管理局の同僚、キャロル・アン・ブーンだった。彼女はバンディのそばにいるためフロリダ州に引っ越してきており、どちらの裁判でも彼の弁護側に立って性格証人となっていた。彼女が結婚の申し込みを受け入れたため、バンディは裁判所に対して2人が正式に結婚したと宣言した[225][226]

1980年2月10日、バンディは電気椅子での死刑判決を受けた。3度目だった[227]。判決文が読み上げられると、彼は立ち上がって「陪審にお前らは間違っていると言ってやれ!」と叫んだといわれている[228]。このときの裁判は、この3度目の判決が下されるまでに9年近くを要していた[229]

1982年10月、妻のブーンが女の子を出産し、バンディを父親として認知した[13][230]。ライフォードの刑務所では夫婦でも面会は制限されていたが、収容者たちが金をためて看守にわいろを渡せば、女性の面会者と2人きりの時間を与えてくれることで有名だった[13][231]

死刑囚として

リーチが殺された事件の裁判も最終弁論が終わり、長い上告手続きが始まった直後に、スティーヴン・ミショーとヒュー・エインズワースはバンディにインタビューを開始した。彼はついに白状したと思われることを嫌ったため、ほぼ一貫して第三者の視点からではあったが、初めて自分の犯罪や思考のプロセスを詳しく明かした[232]

彼はまず自身が生業にしていた泥棒の話から語り始めた。それはクレプファーがずっと疑っていたように、彼が持っているものはほぼすべて万引きしたものではないかという説を裏付けるものだった[233]。「何が有難いって、盗んだら何でも本当に自分の持ち物なんだ。何かを手にいれるのは本当に楽しかったよ...欲しい、出かける、持っていく、なんだから」。持ち物になる、所有するという概念は、強姦や殺人にも通ずる重要な動機だった[234]。彼に言わせれば、性的な暴行は犠牲者を「完全に所有」したいという彼の欲求を満たすものだった[235]。初めは、女性たちを殺すのは「そちらのほうが好都合だった...つまり捕まる可能性を減らせるからだった。しかし次第に、殺人もまた「胸がおどること」の1つになった。「究極の所有ってのは、要するに、命を奪うということだろ」「そして...遺体を物理的に所有することだ」[236]

バンディはFBI行動分析チームの特別捜査官ウィリアム・ハグメイアーにも突っ込んだ話をしている。ハグメイアーはバンディが殺人から得る「深く、ほとんど神秘的なまでの満足感」に衝撃を受けている。「彼はしばらくしてからこう言った。殺人は単に情欲とか激情の結果の犯罪ではない」「持ち物になるんだ。その人の一部なんだ...〔犠牲者は〕その人の一部になって、永遠に1つになる...そして殺したり、死体を棄ててきた場所は神聖な土地になり、その人は何かあると戻ってくるんだ」。彼はハグメイアーに自分が「素人」であり、若いころは「衝動的な」殺人者だと考えていたと語っている。そしていつしか1974年にリンダ・ヒーリーを殺した頃のような「円熟した」あるいは「プレデター」〔捕食者〕と彼が名付けたステージに移行した。この例えは彼が1974年より前から殺人に手をそめていたことをほのめかすものだが、彼は決してそれをはっきりと認めることはなかった[237]

1984年7月、ライフォードの看守はバンディの独房に隠されていた金のこぎりの刃2枚を発見した。さらに部屋の窓にはめられた鉄棒のうち1本が窓枠から完全に切り離されており、石鹸をベースに彼が調合した接着剤でくっつけて元に戻されていた[238][239]。数か月後、許可されていない鏡を部屋に隠し持っていることが発覚し、バンディはさらに別の部屋に移された[240]

この時期に、バンディは他の死刑囚たちのグループから襲われることも何度かあった。彼は暴行は受けたことを否定しているが、「集団レイプ」と表現している伝記もある通り、この行為を認めている囚人は多い[241]。ほどなくして、バンディは有名な犯罪者であるジョン・ヒンクリーと不正に連絡をとり規律違反をとがめられている[242]。1984年10月、バンディはロバート・ケッペルとコンタクトをとり、彼の収監後にワシントン州で続いていた事件(グリーンリバー・キラー)を解決するためにシリアルキラーの心理の専門家を自称するその知識を警察と共有した[240][243]。ケッペルとグリーンリバー捜査班の刑事デイヴ・ライカートはバンディの意見を参考にしたが、結局ゲイリー・リッジウェイはそれから17年も野放しのままだった[244]。ケッペルはこの聞き取りの結果をグリーンリバー事件の詳細なドキュメントとして出版したほか[245]、後にミショーと協同して別の取材資料の考証にも参加した[246]。バンディがゲイリー・リッジウェイのために考え出した「リバーマン」というニックネームは、後にケッペルの本のタイトルにも採用された[247]

1986年の初めに、カイ・オメガ裁判で下された死刑判決の執行日(3月4日)が決まった。最高裁判所はしばらく延期をするよう命令を出していたが、新しい執行日はすぐに決まった[248]。4月に新しい執行日(7月2日)が公表された直後、ついにバンディはハグメイアーとネルソンに彼の凶行の全容(と2人が考えているもの)の告白を始めた。それは例えば、被害者が亡くなった後にその遺体に何かをしたのかということであった。バンディは、イサクアのテイラー山を再訪したときの、第二の犯罪現場を語っている。彼は何度もそこを訪れたのだが、そのたびに被害者に添い寝し、完全に腐敗が進んでしまうまで遺体に性行為をおこなった。ある時は、片道を何時間もかけて車で移動し、まるまる一晩を犯行現場で過ごすこともあった[134]。ユタ州では、メリッサ・スミスの生気のない顔にメイクを施し、ローラ・エイミーの髪を繰り返し洗った。「時間さえあれば、何だって望む通りの姿になってくれた」と彼は言った[122]。バンディは12人前後の犠牲者の首を金のこぎりで切り落とし[37][249]、少なくともいくつかの頭(おそらく後にテイラー山で発見されたランコート、パークス、ボール、ヒーリーの4人分)をしばらく自分のアパートに保管していた[1]

法廷でのバンディ。彼は弁護士に頼らず、自ら弁論を行った。

7月2日、予定された死刑執行まであと15時間を切ったところで、第11巡回控訴裁判所(Eleventh Circuit Court of Appeals)がその無期限の延期を命じ、複数の専門的な論点の再検討を行うためにカイ・オメガ事件の再審理を求めた。問題とされたのは、例えばバンディが裁判にかけられる上での精神病理学な責任能力、罰則審査の段階での終身刑と死刑で6対6にわかれた陪審団に対して決着をつけるように求めた裁判官の指示の誤りなどだったが[250]、結局解決はされなかった[251]。新しい執行日(1986年11月18日)が今度はリーチ事件の判決に対するものとして設定され、第11巡回控訴裁判所は11月17日にその延期を命じた[251]。1988年の半ばに第11巡回裁判所がバンディの控訴に不利な判決を下し、12月には最高裁判所がそれを見直す申し立てを棄却した。それから数時間のうちに最終的な執行日1989年1月24日が公表された[252]。バンディの控訴審での取り扱いは、重大な殺人事件としては前例がないほど駆け足だった。「一般に考えられているのとは反対に、裁判所はバンディの審議を可能な限り早く進めていた...。検察もバンディの弁護士が時間稼ぎをしたはずがないということは認めている。どこにいってもアークデーモンの処刑が遅いと考えて騒ぎ立てる人がいたが、テッド・バンディが載っていたのはまさに特急車だったのである」[253]

告白

上訴のカードを使い果たし、これ以上犯行を否認する理由もなくなったバンディは、捜査員たちにざっくばらんに語ることにした。彼はケッペルに、自分が真っ先に疑われていたワシントン州とオレゴン州の8件の殺人についてすべて自分が犯人だと認めた。さらにワシントン州で3人、オレゴン州で2人を殺した時のことを語ったが、犠牲者については(実際に知っていたとしてだが)身元の確認を拒んだ[254]。テイラー山には5人目の遺体(ドナ・メイソン)も棄ててきたと話したが[255]、頭は切り落としてエリザベス・クレプファーの家の暖炉(「事もあろうに、そこだからね。たぶん彼女もこれだけは許してないかもしれないな。かわいそうなリズ」)にくべたという[256]

ワシントン大学そばの明るい路地からジョーガン・ホーキンスを誘拐した時のことも、ありありと語っている。彼女を車まで誘い出し、そばに用意してあったバールで殴って気絶させ、手錠をかけてイサクアまで連れて行くと、そこで首を絞めて殺した[257]。バンディは彼女の遺体と共に一晩を過ごし、3件の犯行を重ねた後にまたこの場所を再訪していた[258]。そして、ホーキンスを誘拐して殺した翌朝にワシントン大学の路地に戻ってきたことも初めて明かした。大事件に対する捜査が行われている真っ只中に、彼はそばの駐車場でそのままになっていたホーキンスのイヤリングと靴一足を拾い集め、見つからないように持ち去った。「あの図々しさは表彰ものだ。今でも警察では語り草になっている」とケッペルは書いている[259]

「彼がイサクアの犯行現場について語る時は、すごい臨場感だった」とケッペルは言う。「すべてが目の前にあるみたいだった。あそこであまりに長い時間を過ごしたものだから、その頃のイメージが彼の中にあふれていた[260]。彼はどんな時にも殺人になると完全に夢中になってしまうんだ」。ネルソンの印象も似たようなところがある。「彼の犯行が完全にミソジニー的であることに私は衝撃を受けた」「彼の告白を聞けば女性は怒り狂うだろう。バンディの話には思いやりというものが全くなく...犯行のときの細かいところを説明するのに夢中になっていた。彼にとって人を殺すことは、その一回一回が人生の到達点なのだ」[151]

バンディはアイダホ州、ユタ州、コロラド州から来た刑事たちを前に、まだ警察も関知していない事件も含めて数えきれないほど殺した、と打ち明けた。ユタ州にいたときは、犠牲者をアパートの部屋まで運ぶことができたので「そこで実話系雑誌の表紙に描かれた場面の再現ができた」という[37]。このとき彼がひそかに練っていた新たな戦略はすでに明らかだった。詳細については語ることを控え、不完全な情報をちらつかせることで、続きを求めて死刑がさらに延期されることを狙っていたのである。「コロラド州にも埋めてる死体がある」と彼は告白したが、やはり詳しいことは語らなかった[261]。この新作戦はすぐに「テッドの犬のしつけスキーム」(Ted's bones-for-time scheme)とあだ名されたが、新しい情報に対する期待感は乏しく、死刑の執行予定を控えた当局の態度を硬化させただけだった[262]。あるいは詳しく話した事件もあったが、何も新発見はなかった[263]。コロラド州の刑事マット・リンドヴァルはそこに彼の葛藤をみる。つまり、情報を隠し立てせずに死刑を延期したいという欲望と「犠牲者が安らかに眠る本当の場所を知っているのは自分だけだという完全な所有」を維持したいという欲求が衝突していたのだという[264]

これ以上裁判所からは延期命令が出ないことがはっきりすると、バンディの支援者はただ一つ残った可能性である恩赦に向けてロビー活動を始めた。フロリダ州の若き弁護士でありバンディが最後に愛した人と言われるダイアナ・ウェイナーも支援者の1人だった[265]。彼女はコロラド州とユタ州の被害者遺族たちに、バンディからさらに情報を引き出すためフロリダ州知事ボブ・マルティネス英語版に死刑の延期を嘆願するように求めた[266]。それに応じる遺族は皆無だった[267]。ネルソンによれば「遺族は犠牲者は一人残らず亡くなっており、それもテッドが殺したのだと考えていた」「告白など求めていなかったのだ」[268]。州知事のマルティネスも、この件に関してこれ以上の延期には反対するという態度を明らかにした。記者会見では「我々はいまの方針に手心を加える予定はない」「彼が被害者の遺体を交渉材料にして自分の命を永らえさせようとしているなら、見下げ果てた男というほかない」と語った[269]

ブーンは裁判中ずっとバンディを擁護し、彼の無実を主張し続けたが、一転して彼が自ら有罪だと認めた(実際にそうだった)ことで「完全に裏切られた」と感じた。彼女は娘を連れてワシントンに戻り、死刑執行の日にバンディからかかってきた電話にも取り次ぎを拒否した。ブーンは「彼とダイアナの関係にも傷ついていた」とネルソンはいう。「そして執行直前になって急にあらいざらい告白したことにも失望したのだった」[270]

ハグメイアーは他の捜査官とともにバンディの最後の聴取にも立ち会っている。死刑執行の前日、バンディは自殺をほのめかしていた。「この国が自分が死ぬところを見守って満足するのに耐えられなかったのだ」とハグメイアーは語っている[214]

バンディは1989年1月24日の東部標準時で午前7時16分にライフォードの電気椅子の上で死んだ。42歳だった。死刑が執行されると、一説によると20人の非番の警官を含めて[271]、刑務所につめかけた何百人という人が大騒ぎになり、道路をはさんで向かいにある牧草地で歌い、踊り、花火をあげた。刑務所から彼の遺体を乗せた白い葬儀車が出発すると、ひときわ大きな歓声があがった[272]。フロリダ州グレインズヴィルで火葬された後で[273]、遺灰は彼の遺言に従い、非公開のままワシントン州にあるカスケード山脈のどこかに撒かれた[271][274]

才覚と手口

バンディは珍しいほど手法が体系的で計算高い犯罪者であり、長期にわたって身元の特定や逮捕を逃れるために当局の方法論についても該博な知識を有していた[275]。彼の犯行現場は、地理的に非常に広い範囲に及んだ。絶望的なまでに広いエリアで管轄をまたがって大量の捜査員が動員されたが、全員が同じ人間を追いかけているということがわかる頃には、被害者の数は少なくとも20人に達していた[276]。女性を襲う手段としては鈍器による外傷か絞殺のどちらかを選んだが、この2つは比較的物音が出にくく、市販されている家庭用品でも十分にその目的を達することができた[277]。音が出たり、弾道の証拠が残ることを嫌って、銃器はあえて使わなかった[278]。バンディは「きちょうめんな研究者」であり、犠牲者を捕まえたり遺棄するのに安全な場所を探すときには、ごく細かいところまで周りに目を配った[279]。そして物理的な証拠を残さないことにかけては並外れた技術を持っていた[67]。犯行現場からは指紋どころか、それ以外の有罪を証明する動かぬ証拠が見つかったことはなく、彼は長期にわたる裁判で自分の無実を主張するためにこの事実を繰り返し強調した[280]

FBIのウィリアム・ハグメイヤー(左)とテッド・バンディ(死刑執行前日の最期の取材にて)

当局にとってさらに厄介だったのは、バンディの生まれつき無個性的な身体的特徴だった[281]。つまり、彼はほとんど自由自在に自分の外見を変えられるカメレオンのような能力を持っていたのである[282]。早い段階から、警察は目撃者に彼の写真を見せることの無意味さに匙を投げていた。彼を撮影した写真はほぼすべて、あたかも一枚ごとに見た目が違っていたのである[283]。面と向かいあっても「彼は表情によって全体の印象がくるくる変わるので、同じ人間を見ているはずなのにそれにすら自信が持てなくなる瞬間があった」「彼は本物の取り替え子だ」とダロンシュ事件の裁判官スチュワート・ハンソン・ジュニアも語っている[284]。バンディもこの珍しい特性に自覚的であり、積極的に利用した。ひげや髪型をすこしいじるだけで、必要に応じて見た目を大きく変えることができたのである[285]。彼の首にはほくろが1つあり、それはわかりやすい目印になってしまうので、タートルネックの服を着て、隠していた[286]。彼のフォルクスワーゲン・ビートルもまた記憶には残りにくかった。車の外見は目撃者によって表現がさまざまで、メタリックだとかそうでないとか、カラーも褐色、ブロンズ色、ライトブラウン、ダークブラウンと証言が一致しなかった[287]

バンディの仕事のやり方は時が経つにつれ体系的になり洗練されていった。これはFBIの専門家によれば連続殺人犯にはありがちなことである[37]。初期には、夜遅くに無理やり部屋に侵入し、寝ていた被害者を鈍器で襲っていた。被害者の中には鋭利でない道具で性的な暴行を受けた女性もいた。またヒーリーを除く全員が、バンディが現場を離れる時には、失神しているか死んだ状態でその場に横たわったままにされた[288]。彼の方法論が進化するにつれ、バンディのターゲットや犯行現場の選び方はさらに体系的になった。様々な作戦を立てて、あらかじめ道具(たいていバール)を用意している車のそばまで被害者を誘い出した。多くの事例で彼は足にギプスをはめたり腕をスリングで吊っており、時には足を引きずって松葉杖をついていた。そして何かを車に運ぶのを手伝ってくれないかと頼むのである。バンディは被害者の女性からハンサムでカリスマ的と思われることが多く、彼のほうでもその特徴を前面に押し出して信頼を獲得した[96][289][290]。「生命の宿っていないシルクフラワーがミツバチをだますように、バンディは女性を誘い出した」とミショーは書いている[291]。ひとたび彼の車に近づいたり中に入った被害者は、力で圧倒されるか道具で殴られ、手錠で自由が奪われた。ほとんどの女性が性的暴行を受けて、絞殺された。第一の犯行現場でそこまで行く場合もあれば、そこからだいぶ距離のある、事前に決めた第二の犯行現場まで連れて行かれる場合もあった(こちらのほうが一般的だった)[292]。その容姿や魅力が通じない状況では、警官か消防士のふりをして官憲を装った。末期に連続殺人が行われたフロリダ州では、おそらく逃亡のストレスから眠っている女性を襲うやり口には見境がなく、それまでに培われた洗練性はみられなかった[37]

第二の犯行現場では、被害者の衣服を脱がせて後でそれを燃やしたが[293]、少なくとも1件だけ(カニンガム)はグッドウィル・インダストリーズの回収ボックスに服を入れている[294]。バンディは服を脱がせるのは儀式としての意味があると説明したが、犯行現場に自分に関わるものをの残す可能性をなくすという現実的な理由もあった(皮肉なことに、キンバリー・リーチの殺人の場合は、彼自身の服から採取された繊維の製造不良が決定的な証拠になってしまった[295][293]。彼は死体愛好のためこの第二の犯行現場に再訪することがあり[296]、その時は遺体を身づくろいしたり飾り立てた[297]。そのため家族が見たことのないような服を着たり、マニキュアをつけている状態で遺体が発見される被害者もいた[298]。バンディは被害者女性の大半のポラロイド写真を撮っている。「あんただって何か正しいことを一生懸命やっているなら」「思い出せなくなるのはいやだろう」と彼はハグマイヤーに語った[122]。大量にアルコールを消費することは「不可欠な要素」だとはケッペルにも、後にミショーにも語った言葉だ。獲物をさがして徘徊するには「飲みすぎるほど呑む」必要があった[299][300]。それは彼の心の中の「存在」が衝動的な行動を咎める、という「支配的な人格」を馴致し、心の抑制を「十分に解く」ためだった[301]

被害女性の肖像

バンディの犠牲者と認定されているのは全員が白人の女性であり、ほとんどがミドルクラスである。ほぼ全員の年齢が15歳から25歳の間で、女子大学生が大半を占める。彼は以前に会ったことがあるかもしれない人間には決して近づかなかったようだ(死刑執行前の最期の会話で、バンディはクレプファーに「自分のなかに培われた病的な感覚がそれと教える」女性からはあえて距離をとっていた、と話している[302][275]。ルールが指摘しているように、身元が分かっている犠牲者のほとんどが、ステファニー・ブルックスのようにストレートの長い髪を額の真ん中で分けていた。ブルックスはかつてバンディを拒絶した女性で、彼は後にあえて彼女と再交際してから関係を断つことで復讐をした。この初めてのガールフレンドにバンディが向けた敵意が、その後長く続く凶行の引きがねとなり、彼女に似た女性ばかりをターゲットにする原因だとルールは推測している[303]。もっともバンディはこの仮説を否定している。「あるのは...ただ若くて魅力的だという一般的な基準だけだ」とヒュー・エインズワースに語っている。「女の子たちがみんなそっくりとかそういうたわごとを言ってくる奴が多すぎる...およそあらゆるものは似ていないんだ...身体的にみればもう全くちがうといっていい」[304]。しかし、ターゲットを選ぶにあたって若さと美しさは「絶対に必要な基準」である事は彼も認めている[305]

バンディの死後、アン・ルールはあることに驚かされ、また心を痛めた。彼が亡くなったことに深く落胆していることを手紙に書いたり、電話で伝えてくる「感受性豊かで、知性的で、心やさしい若い女性」が大勢いたのである。多くがバンディと文通をしており「それぞれに自分は彼にとって唯一の存在だと信じていた」。彼が亡くなったことでノイローゼになったという女性も複数いた。「死後もなお、テッドは女性を傷つけているのだ」とルールは書いている。「よくなるためには、自分が詐欺の達人にかつがれているのだという事を理解しなければいけない。彼女たちは存在しない影のような男のことで悲しんでいるのだから」[306]

映画

ドキュメンタリー番組

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関連項目

脚注

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参考文献

読書案内

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  • アン・ルール; 権田万治(訳) (1999). テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇 (上). 原書房 
  • アン・ルール; 権田万治(訳) (1999). テッド・バンディ―「アメリカの模範青年」の血塗られた闇 (下). 原書房 
  • ロバート・K. レスラー; トム シャットマン; 相原真理子(訳) (1999). FBI心理分析官―異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記. 早川書房 
  • マイケル・R・ペリー; 青木悦子(訳) (2002). テッド・バンディの帰還. 東京創元社 

外部リンク