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「摩訶貴來」の版間の差分

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'''マハー・カーリー'''({{翻字併記|sa|महा काली|Maha Kali}}, 生年不詳 - [[1452年]])は、[[チャンパ王国]]({{仮リンク|占城国|zh|占城}})第14王朝の第4代[[諸王の王|国王]](在位:[[1446年]] - [[1449年]])。漢文史料では'''摩訶貴'''(まかきらい、{{Lang-vi|Ma Kha Quý Lai}})と記される。
'''マハー・カーリー'''({{翻字併記|sa|महा काली|Maha Kali}}, 生年不詳 - [[1452年]])は、[[チャンパ王国]]({{仮リンク|占城国|zh|占城}})第14王朝の第4代[[諸王の王|国王]](在位:[[1446年]] - [[1449年]])。漢文史料では'''摩訶貴'''(まかきらい、{{Lang-vi|Ma Kha Quý Lai}})と記される。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
第2代国王[[インドラヴァルマン6世]]の甥にあたる。国王[[摩訶賁該|マハー・ヴィジャヤ]]からポティー(宰相)に任じられていたが、[[1446年]]にマハー・ヴィジャヤが[[黎朝]][[大越]]に捕らえられると、かつてインドラヴァルマン6世がマハー・カーリーに王位を嗣がせたかったことを根拠と称して即位した。大越に制咎、麻叔、婆被らを遣使して称臣した。翌[[1447年]]にも槃対僉、占濕らを通じて大越に国書を奉った。[[明]]にも使者を送って、大越にマハー・ヴィジャヤの身柄を釈放させるよう仲介を求め、[[英宗 (明)|正統帝]]によって派遣された[[給事中]]の陳誼、{{仮リンク|行人 (官職)|label=行人|zh|行人 (官)}}の{{仮リンク|薛幹|label=薛干|zh|薛幹}}によって王に封じられた。[[1449年]]、弟の[[摩訶貴由|マハー・カーヤ]]に王位を奪われた。[[1452年]]、死去した。
第2代国王[[インドラヴァルマン6世]]の甥にあたる。国王[[摩訶賁該|マハー・ヴィジャヤ]]からポティー(宰相)に任じられていたが、[[1446年]]にマハー・ヴィジャヤが[[黎朝]][[大越]]に捕らえられると、かつてインドラヴァルマン6世がマハー・カーリーに王位を嗣がせたかったことを根拠と称して即位した。大越に制咎、麻叔、婆被らを遣使して称臣した。翌[[1447年]]にも槃対僉、占濕らを通じて大越に国書を奉った。[[明]]にも使者を送って、大越にマハー・ヴィジャヤの身柄を釈放させるよう仲介を求め、[[英宗 (明)|正統帝]]によって派遣された[[給事中]]の陳誼、{{仮リンク|行人 (官職)|label=行人|zh|行人 (官)}}の{{仮リンク|薛幹|zh|薛幹}}によって王に封じられた。[[1449年]]、弟の[[摩訶貴由|マハー・カーヤ]]に王位を奪われた。[[1452年]]、死去した。


== 参考資料 ==
== 参考資料 ==

2018年11月28日 (水) 07:49時点における版

マハー・カーリー
महा काली
第14王朝
第4代国王
王朝 第14王朝
在位期間 1446年 - 1449年
生年 不詳
没年 1452年

マハー・カーリーサンスクリット語: महा काली, ラテン文字転写: Maha Kali, 生年不詳 - 1452年)は、チャンパ王国占城国)第14王朝の第4代国王(在位:1446年 - 1449年)。漢文史料では摩訶貴来(まかきらい、ベトナム語: Ma Kha Quý Lai)と記される。

生涯

第2代国王インドラヴァルマン6世の甥にあたる。国王マハー・ヴィジャヤからポティー(宰相)に任じられていたが、1446年にマハー・ヴィジャヤが黎朝大越に捕らえられると、かつてインドラヴァルマン6世がマハー・カーリーに王位を嗣がせたかったことを根拠と称して即位した。大越に制咎、麻叔、婆被らを遣使して称臣した。翌1447年にも槃対僉、占濕らを通じて大越に国書を奉った。にも使者を送って、大越にマハー・ヴィジャヤの身柄を釈放させるよう仲介を求め、正統帝によって派遣された給事中の陳誼、行人中国語版薛幹中国語版によって王に封じられた。1449年、弟のマハー・カーヤに王位を奪われた。1452年、死去した。

参考資料

先代
マハー・ヴィジャヤ
チャンパ王
第14王朝第4代:
1446年 - 1449年
次代
マハー・カーヤ