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先王の[[阿答阿者|ビナスオール]]に仕えて首将に上った。[[1383年]]、ビナスオールと共に軍を率い、山づたいに陸路をたどって[[陳朝]][[大越]]の都[[ハノイ|昇龍]]に程近い広威鎮(現在の[[バヴィ県]])にまで進軍した。華額軍将の黎密温率いる大越軍が三岐洲に迎撃してくると、伏兵や[[戦象|兵象]]を用い打ち破って黎密温を捕虜とし、数ヶ月留まった後に撤退した。[[1390年]]の{{仮リンク|ルオ川|label=海潮江|en|Luộc River}}の戦いでビナスオールが大越に敗死すると、敗残兵を集めて{{仮リンク|ロ川|label=瀘江|en|Lô River}}上流に至り、そこでビナスオールの遺体を火葬に付した。その後、大越軍の追撃を受けながらも強行軍でチャンパに帰還を果たした。
先王の[[阿答阿者|ビナスオール]]に仕えて首将に上った。[[1383年]]、ビナスオールと共に軍を率い、山づたいに陸路をたどって[[陳朝]][[大越]]の都[[ハノイ|昇龍]]に程近い広威鎮(現在の[[バヴィ県]])にまで進軍した。華額軍将の黎密温率いる大越軍が三岐洲に迎撃してくると、伏兵や[[戦象|兵象]]を用い打ち破って黎密温を捕虜とし、数ヶ月留まった後に撤退した。[[1390年]]の{{仮リンク|ルオ川|label=海潮江|en|Luộc River}}の戦いでビナスオールが大越に敗死すると、敗残兵を集めて{{仮リンク|ロ川|label=瀘江|en|Lô River}}上流に至り、そこでビナスオールの遺体を火葬に付した。その後、大越軍の追撃を受けながらも強行軍でチャンパに帰還を果たした。


帰国後、自立して即位した。ジャヤ・シンハヴァルマン6世の即位後、ビナスオールの子の{{仮リンク|制麻奴イ難|label=制麻奴{{Lang|vi|㐌}}難|zh|制麻奴㐌難}}と制山拏の兄弟は生命の危険を覚えて大越へ亡命した。翌[[1391年]]に[[明]]に朝貢したが、ビナスオールから王位を奪ったことを理由に[[朱元璋|洪武帝]]に退けられた。『明史』では「閣勝が阿答阿者(ビナスオール)を殺害した」としている。[[1397年]]には将軍の制多別とその弟の慕華、子の伽葉が一族を引き連れて大越に降っている。
帰国後、自立して即位した。ジャヤ・シンハヴァルマン6世の即位後、ビナスオールの子の{{仮リンク|制麻奴難|zh|制麻奴㐌難}}と制山拏の兄弟は生命の危険を覚えて大越へ亡命した。翌[[1391年]]に[[明]]に朝貢したが、ビナスオールから王位を奪ったことを理由に[[朱元璋|洪武帝]]に退けられた。『明史』では「閣勝が阿答阿者(ビナスオール)を殺害した」としている。[[1397年]]には将軍の制多別とその弟の慕華、子の伽葉が一族を引き連れて大越に降っている。


[[1400年]]に死去。子の[[インドラヴァルマン6世]]が王位を継承した。
[[1400年]]に死去。子の[[インドラヴァルマン6世]]が王位を継承した。

2018年11月28日 (水) 03:27時点における版

ジャヤ・シンハヴァルマン6世
जय सिंहवर्मन् ६
第14王朝
初代国王
王朝 第14王朝
在位期間 1390年 - 1400年
生年 不詳
没年 1400年

ジャヤ・シンハヴァルマン6世サンスクリット語: जय सिंहवर्मन् ६, ラテン文字転写: Jaya Siṃhavarman VI, 生年不詳 - 1400年[1])は、チャンパ王国占城国)第14王朝の初代国王(在位:1390年 - 1400年)。『大越史記全書』では羅皚(らかい、ベトナム語: La Ngai / La Khải)、『明史』では閣勝ベトナム語: Các Thắng)と記される。

生涯

先王のビナスオールに仕えて首将に上った。1383年、ビナスオールと共に軍を率い、山づたいに陸路をたどって陳朝大越の都昇龍に程近い広威鎮(現在のバヴィ県)にまで進軍した。華額軍将の黎密温率いる大越軍が三岐洲に迎撃してくると、伏兵や兵象を用い打ち破って黎密温を捕虜とし、数ヶ月留まった後に撤退した。1390年海潮江英語版の戦いでビナスオールが大越に敗死すると、敗残兵を集めて瀘江上流に至り、そこでビナスオールの遺体を火葬に付した。その後、大越軍の追撃を受けながらも強行軍でチャンパに帰還を果たした。

帰国後、自立して即位した。ジャヤ・シンハヴァルマン6世の即位後、ビナスオールの子の制麻奴陀難中国語版と制山拏の兄弟は生命の危険を覚えて大越へ亡命した。翌1391年に朝貢したが、ビナスオールから王位を奪ったことを理由に洪武帝に退けられた。『明史』では「閣勝が阿答阿者(ビナスオール)を殺害した」としている。1397年には将軍の制多別とその弟の慕華、子の伽葉が一族を引き連れて大越に降っている。

1400年に死去。子のインドラヴァルマン6世が王位を継承した。

出典

  1. ^ Cœdès,P238

参考資料

  • George Cœdès (May 1, 1968). The Indianized States of South-East Asia. University of Hawaii Press. ISBN 978-0824803681 
  • 明史』巻三百二十四 列伝第二百一十二 外国五 占城
  • 大越史記全書』本紀巻之八 陳紀 廃帝 順宗皇帝
  • ベトナム史略』第1巻 第3部 第10章 陳氏

関連項目

先代
ビナスオール
チャンパ王
第14王朝初代:
1390年 - 1400年
次代
インドラヴァルマン6世