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「ハリエット・ストーントン殺害事件」の版間の差分

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ハリエット・ストーントン(Harriet Staunton)
ハリエット・ストーントン ルイス・ストーントン(Louis Staunton)と婚約をかわしたとき
生誕 ハリエット・リチャードソン(Harriet Richardson)
1841年[1]
エセックス
死没 1877年4月13日(1877-04-13)(35–36歳没)
ペンジ(Penge)
死因 飢餓とネグレクト
著名な実績 謀殺事件の犠牲者
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ハリエット・ストーントン殺人事件(はりえっとすとーんとんさつじんじけん、Murder of Harriet Staunton)は、1877年4月にロンドン郊外のペンジ(Penge)でおきた。 ハリエット・ストーントン(Harriet Staunton)(旧姓リチャードソン(Richardson))は、1歳の子供トマス・ストーントン(Thomas Staunton)がガイズ病院(Guy's Hospital)で栄養失調で死亡した5日後、4月13日(金曜日)にペンジの下宿屋で死亡した。同年9月に、ハリエットの夫ルイス・ストーントン(Louis Staunton)は、パートナーのアリス・ローズ(Alice Rhodes)、弟パトリック・ストーントン(Patrick Staunton)、パトリックの妻エリザベス(Elizabeth)とともに、オールド・ベイリーで、故意の謀殺(wilful murder)で、有罪判決を言い渡された。4人全員が絞首による死刑の判決を言いわたされたが、判決は、医学的証拠と判断の不公平にかんする疑惑がもたらされたのちに、有期刑に減刑された。

背景

ハリエット・ストーントンの父親はエセックス出身の聖職者で、娘が12歳であったときに死亡した。彼女はのちに、おおおばの遺言書から5000ポンドを受け取った。伝えられるところによれば、彼女は知的能力は限られていたし、そして学習障害をかかえていたらしい[2]

ルイス・ストーントン(LouisまたはLewis Staunton)(1851年ころ生まれ)は、ストリーサム(Streatham)出身の競売人の事務員であった。彼は、ハリエットと初めて出会ったとき、23歳であったし、15歳の少女アリス・ローズと関係があった。ストーントンの弟パトリック(Patrick)は、アリス・ローズの姉エリザベス(Elizabeth)と結婚した。

ルイス・ストーントンは、アリス・ローズの義父でリチャードソン家の親戚であるトマス・ヒンクスマン(Thomas Hinksman)をつうじてハリエットに会った。短い求愛期間ののち、2人は婚約をかわした。ハリエットの母親ミセス・バターフィールド(Mrs Butterfield)(彼女は結婚していた)は、この結婚につよく反対し、娘が狂人であると宣告させようとして、不首尾におわり[3]、衡平法裁判所(Court of Chancery)の保護下においた。1875年6月に、2人はクラパム(Clapham)で結婚した。ミセス・バターフィールドは、新婚の娘をブリクストン(Brixton)の自宅に訪ねたが、そのとき、見たところ娘によって書かれた、彼女は将来、夫婦を訪れてはならないという手紙を受け取った[2]

犯行

1876年3月に、ハリエットは息子を生み、彼はトマス(Thomas)と名付けられた。 おなじころ、ルイスは、ケントのカダム(Cudham)の近くにリトル・グレーズ(Little Grays)という家を買った。

8月にルイスは、リトル・グレーズにうつったし、そこでアリス・ローズとともに住んだし、そのいっぽうで、ハリエットとトマスは、1マイルむこうのフリス・コテージ(Frith Cottage)に住むように遣られた[4]が、そこは1マイル離れていて、パトリックおよびエリザベスといっしょであった。母親と子供は、階上の小さな一室に監禁されたが、そこはカーテン、洗濯用設備、しかるべき家具はなかった。彼女は、パトリック・ストーントンからの暴力の脅威で部屋から出ることを思いとどまった。ミセス・バターフィールドは、娘とコンタクトしようと努力したが、リトル・グレーズに旅行したときルイスによって追い返された。

10月に、ハリエットは、コテージから逃れようとしたが、パトリックによって強制的に抑えられ、暴行された[5]

1877年前半に幼児のトマス・ストーントンは重病になったし、4月8日(日曜日)にパトリック・ストーントンおよびエリザベス・ストーントンによってロンドンのガイズ病院に連れて行かれた。 子供はその日、晩くに死亡した--彼は、重い栄養不良で、ほほには肉体的虐待を示唆する打撲傷があった。

4月12日(木曜日)に、ハリエットはコテージからペンジ、フォーブス・ロード34番地(34 Forbes Road)の下宿屋に送られた。到着するやいなや、彼女は「生きた女性というよりもむしろ死体に似る」("more like a corpse than a living woman")と形容されたし、そして翌日、死亡した。死亡証明書は、死因を「脳病」("cerebral disease")あるいは「卒中」("apoplexy")とした[6]

取り調べ

公判での被告人ら(左から)ルイス・ストーントン、パトリック・ストーントン、エリザベス・ストーントン、アリス・ローズ

ハリエットの死亡をめぐる疑惑ははじめは、彼女の義理の息子ルイス・カサビアンカ(Louis Casabianca)によってもたらされたが、彼は或る郵便局でルイス・ストーントンに会ったが、そこでルイス・ストーントンは妻の死亡の記録にかんする情報を得ようとしていた[5]。カサビアンカは警察に行き、検視がおこなわれた。ハリエットの遺体は、不潔で、ひどい栄養失調であったーー髪はもつれていて、シラミがわいていた。死因はこんどは「飢餓およびネグレクト」("starvation and neglect")と記録されていた[6]。死亡時に彼女は体重は5ストーン4ポンドであった[1]

ルイス・ストーントン、パトリック・ストーントン、エリザベス・ストーントン、およびアリス・ローズが、謀殺の容疑で逮捕、起訴された。事件は、公衆の注目をあつめたーー4人の人形がまもなくマダム・タッソー館で展示された。

公判と再審理

9月に、ストーントン家の人々とアリス・ローズは、ハリエット・ストーントンの謀殺の罪で、裁判官ヘンリー・ホーキンス(Henry Hawkins)がつかさどり、オールド・ベイリーで公判に付された。事件はおおきな関心をあつめ、「ファッショナブルな」("fashionable")貴婦人らは被告人をオペラ・グラスでじろじろとながめ、シャンパンで元気を回復した[4]。エドワード・ジョージ・クラーク(Edward George Clarke)にひきいられた弁護側は、ハリエットの栄養失調はアルコール依存症によるし、それが彼女の拒食につながった、と主張した。医学的証拠もまた提出されたが、それは、犠牲者は髄膜炎および結核で死亡したとした[7]。陪審は、被告人4人全員に有罪の評決をくだし、彼らは絞首による死刑の判決を言い渡された[2]。評決が読み上げられると、パトリック・ストーントンは「けいれんをおこしたようにひきつり」("twitched convulsively")、いっぽうで、ルイス・ストーントンは「眼を見開いてじっと見つめ」("stared fixedly")、「かんぜんにぼうぜんとしていた」("completely dazed")[4]。寒く霧深い天候にもかかわらず、大群衆が法廷の建物をとりかこみ、評決に喝采をおくった。ふとした文のなかで、ホーキンスは、この犯罪は記録上いちばん「黒くひどい」("black and hideous")ものの1つであると言い、信じられない「蛮行」("barbarity")と残酷行為に意見を述べた[8]

評決につづいて、専門の医学的な証拠が無視されたやりかたにかんして抗議する、700人の内科医が署名した書簡が、『ランセット』(The Lancet)に公表された。ホーキンスが被告人にたいする偏見をしめしたとひろく考えられた[7]。評決に反対する運動は、小説家チャールズ・リード(Charles Reade)によってみちびかれたし、事件は内務大臣R・A・クロス(R. A. Cross)によって再審理された。アリス・ローズは恩赦をあたえられ、ただちに釈放され、いっぽうでのこり3人の判決は、終身刑に減刑された。パトリック・ストーントンは獄中死をとげたが、エリザベスは1883年に釈放された。ルイス・ストーントンは1897年に釈放され、なおも無実を主張し[9]、オーストラリアに移住した[7]

大衆文化

1934年にエリザベス・ジェンキンス(Elizabeth Jenkins)は、事件にもとづく小説『Harriet』を刊行した。この小説は、イーヴリン・ウォーの『一握の塵』に勝ってフェミナ賞を受賞し[10]、2012年にパーセフォニィ・ブックス(Persephone Books)によって再刊された[2]

脚注

  1. ^ a b “THE TRAIL OF THE LAW”. Wanganui Chronicle. (1919年7月8日). http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=WC19190708.2.73&srpos=11&e=-------10--11----0Harriet+Staunton-- 2014年3月8日閲覧。 
  2. ^ a b c d Rachel Cooke (2012年4月15日). “The Penge Mystery: the terrible story of Harriet Staunton”. The Observer. 2014年3月8日閲覧。
  3. ^ “THE PENGE TRAGEDY”. Evening Post. (1877年10月22日). http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=EP18771022.2.14&srpos=4&e=-------10--1----0Harriet+Staunton-- 2014年3月8日閲覧。 
  4. ^ a b c “The Penge Case”. Bruce Herald. (1877年11月30日). http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=BH18771130.2.31&srpos=5&e=-------10--1----0Harriet+Staunton-- 2014年3月8日閲覧。 
  5. ^ a b “AWFUL STARVATION MURDER”. Auckland Starz. (1930年8月23日). http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=AS19300823.2.153.13&srpos=3&e=-------10--1----0Harriet+Staunton-- 2014年3月8日閲覧。 
  6. ^ a b Hughes, Tom (2011年9月4日). “Victorian Calendar: September 19, 1877 - The Great Penge Murder”. Victoriancalendar.blogspot.com.au. 2014年3月8日閲覧。
  7. ^ a b c THE PENGE MYSTERY”. The Star (1897年11月11日). 2014年3月8日閲覧。
  8. ^ “The Penge Murder”. Pall Mall Gazette. (1877年12月12日). http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=TT18771212.2.45&srpos=8&e=-------10--1----0Harriet+Staunton-- 2014年3月8日閲覧。 
  9. ^ “RELEASED AFTER TWENTY YEARS”. New Zealand Herald. (1897年11月27日). http://paperspast.natlib.govt.nz/cgi-bin/paperspast?a=d&cl=search&d=NZH18971127.2.58.17&srpos=9&e=-------10--1----0Harriet+Staunton-- 2014年3月8日閲覧。 
  10. ^ Elizabeth Jenkins obituary”. The Daily Telegraph (2010年9月6日). 2014年3月8日閲覧。