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エッタ・リエル(Etta Riel)
生誕 エッタ・H・リエル(Etta H. Riel)
(1914-05-04) 1914年5月4日
ロードアイランド州プロヴィデンス
失踪 1934年11月22日
マサチューセッツ州ウースター
現況 行方不明
子供 1
  • Joseph Riel(父)
  • Rose Riel(母)
家族 アルマ(Alma)(娘)
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エッタ・リエル失踪事件(Disappearance of Etta Riel、えったりえるしっそうじけん)は、アメリカ合衆国の女性エッタ・H・リエル(Etta H. Riel、1914年5月4日 - 失踪1934年11月22日)が、マサチューセッツ州ウースターで行方不明になった事件である。

事件

失踪

1934年前半にリエルは、マサチューセッツ州オックスフォード(Oxford)に家族とともに暮らし、ウスター・ステート・ティーチャーズ・カレッジ(Worcester State Teachers College)に通っていた。5月にリエルは、地元の男性ヘンリー・サウィン(Henry Sawin)をあいてどって父親認知の訴訟を起こしたが、リエルはおなかの子の父親はサウィンであると名指しした[1][2]。 リエルとサウィンが1932年にオックスフォード・ハイ・スクール(Oxford High School)を卒業したとき、ふたりはつきあっていた。サウィンは、ベーツ・カレッジ(Bates College)に通うためにメーン州に移ったが、サウィンとリエルは連絡を取り合っていた[3]。10月に、リエルは女の子を産んだ。

11月21日(水曜日)の晩、リエルとサウィンは2人だけで数時間をすごした。晩の早い時刻に、リエルの美容師が、リエルがサウィンと話しているのを見たし、そして真夜中近くに、オックスフォードの警察官が、サウィンの車がリエルの自宅の前に駐まっているのを見た[4]。真夜中直後に、リエルは姉妹に、自分とサウィンとは結婚することに決めたと知らせた。リエルは、その夜にニューヨークまで旅行をすると述べて、小さな旅行かばんに荷造りし、週の後半に子供を取り戻しに戻ってくると言った。リエルは、サウィンの車に乗って発った[5][6]

父親認知の聴聞が予定されていた11月22日(木曜日)に、リエルの姉妹がサウィンに会うと、サウィンは自分がリエルと結婚あるいは旅行の計画をたてたことを否定し、自分は何時間も前に彼女をウースターズ・ユニオン・ステーション(Worcester's Union Station)で降ろした、と述べた[7]。サウィンは警察に質問されて、リエルは父親認知のことでいつわって訴えたと認めたし、リエルはこの日の裁判所の手続きについて不安をあらわした、と言った。サウィンは、リエルがその夜、どこに旅行するつもりだったのか自分は知らない、リエルは自殺したかったのかもしれない、と言った[8]。サウィンの主張は、リエルが10月に友人らあてに書き送った手紙によって裏書きされ、リエルはそのなかで自殺をしたいという願望を表明した[9]

12月2日(日曜日)、リエルの弁護士は、サウィンにたいする父親認知の訴訟を取り下げるように彼に指示する、表向きはリエルのサインのある、電報を受け取った。警察はのちに、電報はうその住所を告げる発信者によってニュー・ヨーク・シティー内の公衆電話から打たれたことを知った。発信者の身元はついに決められなかった[10][11]

1935年に数人の証人が、自分たちは、失踪以降、何週間、何か月ものあいだにのリエルを見、あるいは話しかけたと主張したが、警察は、11月22日以降のリエルの目撃を確認することはできなかった[12][13][14]

捜査

捜査の初期に、警察は、リエルの失踪当日午前2時と4時との間に、ウースターの操車係と駅長が、駅の未掲載の電話番号への3つの通話を受けていたことを知った。電話をかけてきた者らは、うち1人はオックスフォードの電話交換手であると主張したが、リエルのいどころを突き止め、リエルに列車に乗り込ませないように要求した[15][16]。駅のその夜の捜査は、リエルのいどころを突き止めることはできなかった。その後の警察の捜査で、そういう通話はオックスフォード電話交換からかけられていないことがわかり、電話を掛けた者らの身元はけっして確認されなかった[17][18]

サウィンは捜査中、重要人物のままでいたし、警察はまた、リエルの失踪に関連していると考えたほかの数人に質問した。1935年前半に警察は、リエルと文通し、リエルの失踪のころに身元不明の連れととともにフロリダに旅行したコネチカット州パットナムの男性を捜査したが、警察はのちに事件とのそれ以上の関連を除外した[19]。8月に、警察は、リエルとアパートメントを共にしていたと主張する女性に質問したが、その証人はのちに精神病院に入院させられた[20][21]

マサチューセッツ州警察は、失踪後、何年も続いた広範な捜索をおこなった。警察は、リエルはオックスフォード共同墓地にひそかに埋葬されているかもしれないと考えて、1935年と1937年に数個の墓をあばいた[22]。1935年4月に、警察は、近くのパーガトリー・キャズム(Purgatory Chasm)の無数の池と地域をふくむマサチューセッツ州ウースター郡の地域の地上の捜査をリエルをもとめて実行した。事件の担当の刑事は、リエルの失踪の3年後に、自分は、リエルは生きていると考えていると述べた[23]

余波

1990年に、リエルの娘アルマ・コンロン(Alma Conlon)がヘンリー・サウィンをあいてどって父親認知の訴訟を起こし、母親の失踪後60年近く経ったのち警察の捜査をよみがえらせた[24][25]。 コンロンは遺言検認裁判官に、サウィンを自分の法律上の父親としてするように依頼したが、コンロンの事件は1993年に退けられた[26]

知名度

リエルの事件は1930年代のニュー・イングランドで広く知られた。1937年3月に、「エッタ・リエルの失踪」がニュー・ヨークのWORラジオの「“Mystery Stories”」番組の主題であった[27]。同年5月に、雑誌『Liberty』は事件にかんする長い記事を掲載した[28]。1948年のポール・ジーン・ウェルデン(Paula Jean Welden)のベニントン・カレッジ(Bennington College)からの失踪にかんする記事は、ニュー・イングランドのカレッジの女性の失踪の例として、1925年のアリス・コーベット(Alice Corbett)のスミス・カレッジ(Smith College)からの失踪とともに、リエルの事件を、引証した[29]

脚注

  1. ^ Alma H. Conlin vs.Henry A. Sawin, 37 Mass. (App. Ct. 545 October 25, 1994).
  2. ^ “Will These Mysterious Crimes Ever Be Solved: No. 1; What Happened to Etta Riel”. Liberty: 14. (May 22, 1934). 
  3. ^ Liberty, p. 16
  4. ^ Liberty p. 18
  5. ^ Parsons, Jeffrey (1935年2月12日). “Death Weighed by Etta Riel”. Daily Boston Globe 
  6. ^ Liberty, p. 15
  7. ^ Liberty, p. 15
  8. ^ Liberty, p. 15-16
  9. ^ Parsons, Jeffrey (1935年2月12日). “Death Weighed by Etta Riel”. Daily Boston Globe 
  10. ^ Liberty, p. 16
  11. ^ Parsons, Jeffrey (1935年2月14日). “More Police On Etta Riel Case”. Daily Boston Globe 
  12. ^ “Believes Girl is in Worcester”. Associated Press. The North Adams Transcript. (1935年2月16日) 
  13. ^ “Talked to Riel Girl says Worcester Man”. Associated Press. Daily Boston Globe. (1935年2月16日) 
  14. ^ “Still No Clews [sic] To Missing Girl”. Daily Boston Globe. (1935年2月17日) 
  15. ^ “Phone Calls Offer Clew [sic] in Riel Case”. Daily Boston Globe. (1935年3月2日) 
  16. ^ Liberty, p. 16
  17. ^ “Riel Investigators Believe Break Near”. Daily Boston Globe. (1935年3月4日) 
  18. ^ “Phone Calls Held Key to Mystery.”. Daily Boston Globe. (1935年3月3日) 
  19. ^ “Belief Missing Girl May Be in Florida”. Associated Press. Hartford Courant. (1935年2月22日) 
  20. ^ “Missing Etta Riel Reported in Weymouth”. Daily Boston Globe. (1935年8月5日) 
  21. ^ “Riel Girl 'Friend' Enters Hospital”. Daily Boston Globe. (1935年8月6日) 
  22. ^ “Will Open Grave to Seek Body of Missing Woman”. United Press. Nevada State Journal. (1935年2月17日) 
  23. ^ “Today on the Third Anniversary”. Associated Press. Burlington Free Press. (1937年11月23日) 
  24. ^ Conlin v. Sawin
  25. ^ “59 Years Later: Mom's Disappearance Still A Mystery”. Associated Press. Muncie Evening Press. (1993年3月8日) 
  26. ^ Donn, Jeff (1993年3月8日). “Daughter Still Haunted By Mother's Disappearance Nearly 60 Years Ago”. Associated Press 
  27. ^ “Radio Program Listing”. The Central New Jersey Home News. (1937年3月16日) 
  28. ^ Liberty, p. 14
  29. ^ “Paula Weldon Missing Two Years Ago Today”. North Adams Transcript. (1948年12月1日)