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[[1924年]]、[[大阪府]][[池田市]]で生まれる。[[1944年]]に大阪第二師範学校繰り上げ卒業後、[[土浦海軍航空隊]]にて[[特別攻撃隊]]の訓練を受けるが、出撃前に終戦を迎える。[[1946年]]から[[池田市立呉服小学校]]の[[教員]]となる。[[1951年]]に上京し、大田区立入新井第二小学校の美術教師となる。[[1964年]]に教員を辞して、[[パリ]]へ渡り、[[:en:Stanley William Hayter|スタンリー・ウィリアム・ヘイター]]の版画工房[[:fr:Atelier 17|アトリエ17]]へ入る。
[[1924年]]、[[大阪府]][[池田市]]で生まれる。[[1944年]]に大阪第二師範学校繰り上げ卒業後、[[土浦海軍航空隊]]にて[[特別攻撃隊]]の訓練を受けるが、出撃前に終戦を迎える。[[1946年]]から[[池田市立呉服小学校]]の[[教員]]となる。[[1951年]]に上京し、大田区立入新井第二小学校の美術教師となる。[[1964年]]に教員を辞して、[[パリ]]へ渡り、[[:en:Stanley William Hayter|スタンリー・ウィリアム・ヘイター]]の版画工房[[:fr:Atelier 17|アトリエ17]]へ入る。


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[[スカンジナビア]]諸国のアーティストが中心となっていたアトリエ・デュ・ノールに加わり、[[ノルウェー]]政府から奨学金を受ける<ref name="kenji-yoshida-obituary">[https://www.theguardian.com/world/2009/mar/16/kenji-yoshida-obituary] Lawrence Smith「Kenji Yoshida」『[[ガーディアン]]』2009年3月16日</ref>。[[1967年]]に[[:es:Apel·les Fenosa|アペル・レス・フェノーサ]]から彫刻を学び<ref name="kenji yoshida october">[http://www.octobergallery.co.uk/artists/yoshida/index.shtml]「Kenji Yoshida」『October Gallery』</ref>、[[1988年]]に亡くなるまで交友関係を保つことになる。[[1973年]]に上原寛子と[[結婚]]。[[1990年]]から3ヶ月間[[メキシコ]]に滞在し、マヤ・シリーズを制作する。[[2009年]]、病気のため帰国し、84歳で死去。パリの[[モンパルナス墓地]]に妻 寛子と共に眠る。<ref name="kenji-yoshida-obituary"/>


== 年譜 ==
== 年譜 ==
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*[[1957年]]『吉田堅治展』 村松画廊
*[[1957年]]『吉田堅治展』 村松画廊
*[[1964年]] 竹川画廊
*[[1964年]] 竹川画廊
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*[[1989年]] 『生命』 ロンドン、[[:en:October Gallery|October Gallery]]
*[[1989年]] 『生命』 ロンドン、[[:en:October Gallery|October Gallery]]
*[[1991年]] 『Infinite Light』 ロンドン、October Gallery
*[[1991年]] 『Infinite Light』 ロンドン、October Gallery
*[[1993年]] 『La Vie』 ロンドン、[[大英博物館]]<ref>「旬に聞け」『[[週刊朝日]]』 2001年11月23日号</ref>
*[[1993年]] 『La Vie』 ロンドン、[[大英博物館]]<ref>「旬に聞け」『[[週刊朝日]]』 2001年11月23日号</ref>
*[[1997年]] 『Yoshida Kenji EL ANTIGUO JAPON Y LO MAYA』 メキシコシティ、[[:es:Museo de Arte Moderno (México)|メキシコ近代美術館]]
*[[1997年]] 『Yoshida Kenji EL ANTIGUO JAPON Y LO MAYA』 メキシコシティ、[[:es:Museo de Arte Moderno (México)|メキシコ近代美術館]]
*[[1998年]] 『Yoshida Kenji EL ANTIGUO JAPON Y LO MAYA』 メリダ [[:es:Museo Fernando García Ponce - MACAY|ユカタン現代美術館]]<ref name="kenji yoshida october”/>
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*[[2000年]] 『LA VIE THE ACT OF LIVING』 ダブリン、[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライストチャーチ大聖堂]]
*[[2000年]] 『LA VIE THE ACT OF LIVING』 ダブリン、[[クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)|クライストチャーチ大聖堂]]
*[[2001年]] 『旅の途中で』 東京都、[[新宿パークタワー]]ホール
*[[2001年]] 『旅の途中で』 東京都、[[新宿パークタワー]]ホール

2018年9月29日 (土) 00:20時点における版

吉田 堅治
よしだ けんじ
ファイル:Yoshidaportrait.jpg
生誕 (1924-05-24) 1924年5月24日
大阪府池田市
死没 (2009-02-24) 2009年2月24日(84歳没)
東京都
国籍 日本の旗 日本
教育 大阪第二師範学校卒業
(現・大阪教育大学教育学部
著名な実績 画家
公式サイト [5]
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吉田 堅治(よしだ けんじ、1924年大正13年)5月24日 - 2009年平成21年)2月24日 は、日本画家芸術家大阪府池田市生まれ。

日本で小学校教員を務めたのちフランスに渡り、「生命」をテーマにした絵画を多く描いた[1][2]

来歴

1924年大阪府池田市で生まれる。1944年に大阪第二師範学校繰り上げ卒業後、土浦海軍航空隊にて特別攻撃隊の訓練を受けるが、出撃前に終戦を迎える。1946年から池田市立呉服小学校教員となる。1951年に上京し、大田区立入新井第二小学校の美術教師となる。1964年に教員を辞して、パリへ渡り、スタンリー・ウィリアム・ヘイターの版画工房アトリエ17へ入る。

スカンジナビア諸国のアーティストが中心となっていたアトリエ・デュ・ノールに加わり、ノルウェー政府から奨学金を受ける[3]1967年アペル・レス・フェノーサから彫刻を学び[4]1988年に亡くなるまで交友関係を保つことになる。1973年に上原寛子と結婚1990年から3ヶ月間メキシコに滞在し、マヤ・シリーズを制作する。2009年、病気のため帰国し、84歳で死去。パリのモンパルナス墓地に妻 寛子と共に眠る。[3]

年譜

主な個展

脚注

  1. ^ Charles Darwent「Kenji Yoshida: Artist whose work was shaped by his wartime experiences」『インデペンデント』2009年3月9日[1]
  2. ^ 「見もの 吉田堅治さん個展―生命―」『読売新聞』2003年12月13日
  3. ^ a b c [2] Lawrence Smith「Kenji Yoshida」『ガーディアン』2009年3月16日
  4. ^ a b c [3]「Kenji Yoshida」『October Gallery』
  5. ^ 阪上登志郎『冊子‐魂の画家 光の画家 吉田堅治伯』2010年、24-27頁
  6. ^ NHKクロニクル[4]
  7. ^ 「旬に聞け」『週刊朝日』 2001年11月23日号

参考資料

  • 阿部菜穂子「英カンタベリー大聖堂を飾った異色絵画 日本人画家の切なる思い」『サンデー毎日』、2003年11月9日号
  • 「CRITIQUE : KENJI YOSHIDA : ARTIST OF THE SOUL - AN INTRODUCTION」『CHIARSCURO MAGAZINE』[6]

外部リンク