「第二次ベララベラ海戦」の版間の差分
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|casualties2=駆逐艦1沈没<br />駆逐艦2大破<br />戦死64 |
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'''第二次ベララベラ海戦'''(だいにじベララベラかいせん、Battle of Vella Lavella)は、 |
'''第二次ベララベラ海戦'''(だいにじベララベラかいせん、Battle of Vella Lavella)は、[[1943年]](昭和18年)[[10月6日]]に[[ソロモン諸島|中部ソロモン諸島]]の[[ベララベラ島]]沖で発生した[[海戦]]である{{Sfn|写真太平洋戦6巻|1995|p=91}}。アメリカ軍側の呼称は'''ベララベラ海戦'''{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|p=197|ps=▽ベララベラ沖海戦}}{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=84-85|ps=▽ベララベラ海戦}}。 |
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== 概要 == |
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'''第二次ベララベラ海戦'''は、[[太平洋戦争]]中盤の[[1943年]](昭和18年)10月6日に、[[ニュージョージア諸島]]の[[ベララベラ島]]沖合で生起した海戦{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}。日本軍はベララベラ島からの撤収を企図して[[大発動艇]]や小型艦艇を派遣、これを第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐(旗艦「[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]」)指揮下の[[駆逐艦]]9隻(警戒隊6隻、輸送隊3隻)が支援する{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=150|ps=〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕}}。アメリカ軍は[[水雷戦隊]](駆逐艦6隻)で日本軍水上部隊を邀撃し、夜間水上戦闘に至った{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=381|ps=第二次ヴェラ・ラベラ海戦}}。 |
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日本側は駆逐艦[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]]が沈没し{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=93|ps=「夕雲(ゆうぐも)」}}、アメリカ側は駆逐艦1隻が沈没し2隻が大破した{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=381|ps=第二次ヴェラ・ラベラ海戦}}。日本軍の撤退作戦は成功し{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=371|ps=ソロモン駆逐艦戦}}、海戦は日本の勝利で終わった{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=84-85|ps=▽ベララベラ海戦}}{{Sfn|歴群19、水雷戦隊II|1998|p=149|ps=〈表4〉昭和18年、中・北部ソロモンの駆逐艦の海戦}}。 |
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==背景== |
==背景== |
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{{seealso|第一次ベララベラ海戦}} |
{{seealso|第一次ベララベラ海戦}} |
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8月15日にベララベラ島に上陸したアメリカ軍と、アメリカ軍と入れ替わりで増派された[[ニュージーランド軍]]は圧倒的な兵力で日本軍守備隊に圧力をかけ続け、9月に入ってから二手に分かれて攻勢に転じた<ref name="a">『戦史叢書96』304ページ</ref><ref name="b">ニミッツ、ポッター、169ページ</ref>。当時ベララベラ島にいた日本軍は、陸海軍および付近海域で遭難しベララベラ島に到達した艦船乗員など合わせて629名であり<ref name="a" /><ref name="c">『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.3</ref>、寡兵をもってニュージーランド軍と交戦し続けたものの<ref name="c" />、徐々に島の北西部に追い詰められていった |
8月15日にベララベラ島に上陸したアメリカ軍と、アメリカ軍と入れ替わりで増派された[[ニュージーランド軍]]は圧倒的な兵力で日本軍守備隊に圧力をかけ続け、9月に入ってから二手に分かれて攻勢に転じた<ref name="a">『戦史叢書96』304ページ</ref><ref name="b">ニミッツ、ポッター、169ページ</ref>。当時ベララベラ島にいた日本軍は、陸海軍および付近海域で遭難しベララベラ島に到達した艦船乗員など合わせて629名であり<ref name="a" /><ref name="c">『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.3</ref>、鶴屋好夫陸軍大尉の名前より「鶴屋部隊」と称していた{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=24}}。鶴屋部隊は寡兵をもってニュージーランド軍と交戦し続けたものの<ref name="c" />、徐々に島の北西部に追い詰められていった{{Sfn|写真太平洋戦6巻|1995|p=91}}。舟艇などによる補給輸送がことごとく妨害され、水上偵察機によってわずかに補給を受けているに過ぎず、その運命は時間の問題と考えられるようになっていった<ref name="a" />。 |
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9月28日には、[[第17軍 (日本軍)|第十七軍]]([[百武晴吉]]中将)と[[南東方面艦隊|南東方面部隊]](指揮官[[草鹿任一]]中将、南東方面艦隊司令長官)<ref>『戦史叢書96』386ページ</ref>から、決別とも解釈できる電文が送られた<ref name="a" /><ref>『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.20,21</ref>。そもそもベララベラ島守備隊は[[コロンバンガラ島]]守備隊のバックアップ的な存在であったが<ref name="d">『戦史叢書96』305ページ</ref>、コロンバンガラ島守備隊は[[ニュージョージア島の戦い|セ号作戦]]で撤退を完了し{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|pp=27-28|ps=戦況不利に重責を負う駆逐隊}}、その役割も終えることとなった<ref name="d" />。[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]]の撤退方針に対し、上級司令部の[[南東方面艦隊]](第十一航空艦隊)は作戦延期を指導、第八艦隊参謀長がラバウルに飛んで、「鶴屋部隊には、すでに撤退を命じてしまったので承認してほしい」と懇願した結果、鶴屋部隊の撤退許可がおりる<ref>[[#ソロモン海「セ」号作戦]]219頁</ref>。10月6日にはベララベラ島から[[ブイン (パプアニューギニア)|ブイン]]への撤収が急遽行われることとなった<ref name="d" />。 |
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==参加艦艇== |
==参加艦艇== |
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===日本海軍=== |
===日本海軍=== |
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*夜襲部隊:駆逐艦[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]](第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐座乗) 、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]] 、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]] 、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]] 、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]] 、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]] |
*夜襲部隊:駆逐艦[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]](第三水雷戦隊司令官[[伊集院松治]]大佐座乗){{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=211c-212|ps=部隊編成}} 、[[風雲 (駆逐艦)|風雲]] 、[[夕雲 (駆逐艦)|夕雲]] 、[[磯風 (陽炎型駆逐艦)|磯風]] 、[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]] 、[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]] |
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*輸送部隊:駆逐艦[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]、[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]、[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]、[[小発動艇|小発]]6隻<ref name="e">『戦史叢書96』306ページ</ref>、折畳浮舟30隻<ref name="e" /> |
*輸送部隊:駆逐艦[[文月 (睦月型駆逐艦)|文月]]、[[夕凪 (2代神風型駆逐艦)|夕凪]]、[[松風 (2代神風型駆逐艦)|松風]]、[[小発動艇|小発]]6隻<ref name="e">『戦史叢書96』306ページ</ref>、折畳浮舟30隻<ref name="e" /> |
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*収容部隊:[[第一号型駆潜特務艇#同型艇|第20号駆潜特務艇]]<ref name="e" />、第23号駆潜特務艇<ref name="e" />、第30号駆潜特務艇<ref name="e" />、艦載水雷艇3隻<ref name="e" />、[[大発動艇|大発]]1隻<ref name="e" /> |
*収容部隊:[[第一号型駆潜特務艇#同型艇|第20号駆潜特務艇]]<ref name="e" />、第23号駆潜特務艇<ref name="e" />、第30号駆潜特務艇<ref name="e" />、艦載水雷艇3隻<ref name="e" />、[[大発動艇|大発]]1隻<ref name="e" /> |
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==戦闘経過== |
==戦闘経過== |
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ソロモン諸島方面の日本海軍の艦艇は大多数が外南洋部隊(指揮官[[鮫島具重]]中将、第八艦隊司令長官)の指揮下にあり、その麾下に外南洋部隊増援部隊(指揮官[[伊集院松治]]大佐、第三水雷戦隊司令官)があった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=209-210|ps=戦場はソロモン}}。当時、伊集院の指揮下にあった艦隊型駆逐艦は、第二水雷戦隊や第十戦隊から外南洋部隊に臨時編入されていた「借りもの」であった{{Sfn|撃沈戦記|2013|pp=211a-212}}。作戦実施に際し、伊集院大佐は軽巡洋艦[[川内 (軽巡洋艦)|川内]]{{Sfn|写真太平洋戦6巻|1995|p=38|ps=(川内写真解説)}}から陽炎型駆逐艦[[秋雲 (駆逐艦)|秋雲]]に移乗し、秋雲に第三水雷戦隊の代将旗を掲げた{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=25}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=211b|ps=「秋雲」旗艦となる}}。 |
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10月5日、まず3時30分に輸送部隊が[[ラバウル]]を出撃し、続いて5時には夜襲部隊もラバウルを出撃する<ref>『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030106100, pp.26,28</ref>。収容部隊は5日夕刻にブインを出撃<ref>佐藤, 91ページ</ref>。輸送部隊と夜襲部隊は早々に偵察機の触接を受けるも、両部隊は[[ブーゲンビル島]]北方で合流<ref name="e" />。16時、輸送部隊と夜襲部隊からの時雨と五月雨は先行して収容部隊に合同しベララベラ島近海へ、夜襲部隊は偽航路を取ったり[[スコール]]の中に身を隠しながら遅れてベララベラ島近海へと向かう<ref name="e" />。ベララベラ島が近づくにつれ、時雨では「巡洋艦4隻、駆逐艦3隻」から成るアメリカ艦隊接近の連絡を受けた<ref>原, 118ページ</ref>。また、水上偵察機が、万代浦および先明崎と呼ばれた収容地点<ref>『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.19</ref>付近で[[照明弾]]を投下したところ、駆逐群二隊が行動中であるのを確認し、これを受けて伊集院大佐は輸送部隊に一時退避を命じる<ref name="e" />。一方、偵察機からの報告を受けた[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]](南太平洋部隊。[[ウィリアム・ハルゼー]]大将)では、迎撃のためウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊(以降ウォーカー隊とする)からの駆逐艦3隻をベララベラ島近海へと急行させた。その頃、ベララベラ島守備隊は万代浦および先明崎に集結し、ニュージーランド軍の砲撃に耐えつつ収容部隊の到着を待っていた<ref name="ee">『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.15</ref>。 |
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10月5日、まず3時30分に輸送部隊(第22駆逐隊司令[[金岡国三]]大佐)の駆逐艦3隻(文月、松風、夕凪)が[[ラバウル]]を出撃し<ref>『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030106100, pp.26,28</ref>、続いて5時には伊集院大佐指揮下の駆逐艦6隻(第10駆逐隊〈秋雲、風雲、夕雲〉、第17駆逐隊〈磯風〉{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=140}}、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉)もラバウルを出撃する{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=213}}{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=240}}。収容部隊は5日夕刻にブインを出撃した{{Sfn|写真太平洋戦6巻|1995|p=91}}。輸送部隊と夜襲部隊は早々に偵察機の触接を受けるも、両部隊は[[ブーゲンビル島]]北方で合流した<ref name="e" />{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=213}}。16時、輸送部隊と夜襲部隊からの第27駆逐隊(時雨、五月雨)は先行して収容部隊に合同しベララベラ島近海へ、夜襲部隊は偽航路を取ったり[[スコール]]の中に身を隠しながら遅れてベララベラ島近海へと向かう<ref name="e" />。夜襲部隊の陣形は、秋雲(旗艦)、磯風、風雲、夕雲の[[単縦陣]]であった{{Sfn|磯風、特年兵|2011|p=141|ps=第二次ベララベラ海戦図}}。 |
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20時31分、ウォーカー隊はレーダーで二つの目標を探知<ref name="e" />、4分後の20時35分には風雲が「巡洋艦3隻」を発見した<ref name="e" />。時雨と五月雨も20時40分には敵影を確認<ref name="e" />。旗艦の秋雲でもウォーカー隊を発見していたものの、第三水雷戦隊の先任参謀に「味方の間違いではないか」と問いただされた<ref name="g">『栄光の駆逐艦 秋雲』50ページ</ref>。秋雲駆逐艦長相馬正平中佐は、周囲からの情報と自らの目で確認した後、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間、ウォーカー隊からの先制攻撃を受けた<ref name="gg">『栄光の駆逐艦 秋雲』51ページ</ref>。ウォーカー隊は20時55分に砲撃を開始し、同時に魚雷14本を発射<ref name="e" /><ref name="eee">ニミッツ、ポッター, 175ページ</ref>。先制攻撃を受けた夜襲部隊は、わずか1分後に夕雲が魚雷を8本発射し、続いて面舵で右に針路をとって秋雲とともに砲撃を開始する<ref name="e" />。しかし間もなく夕雲はウォーカー隊からの集中砲火により火災を起こした<ref name="e" />。21時1分、夕雲からの魚雷はウォーカー隊に達し、シャヴァリアに命中する<ref name="e" />。シャヴァリアの後方にいたオバノンは被雷したシャヴァリアを避け切れず追突し、艦首を大破した<ref>佐藤, 92ページ</ref>。オバノンはシャヴァリアから離れた後、シャヴァリア乗員の救助作業に取り掛かる<ref name="gh">木俣, 366ページ</ref>。21時5分、夕雲に魚雷が命中し、これが止めとなって21時10分に沈没した<ref name="e" />。この頃には時雨と五月雨も戦場に到着し、五月雨は21時1分に、時雨は21時3分にそれぞれ魚雷を8本ずつ発射。続いて砲撃を開始し、三斉射発砲をした瞬間、先に発射した魚雷のうち1本がウォーカー隊の旗艦セルフリッジに命中する<ref name="h">『戦史叢書96』308ページ</ref><ref>原, 123ページ</ref>。セルフリッジは艦首が垂れ下がって10ノットの速力で戦場から退却していった<ref name="h" />。秋雲は磯風と風雲を率いて引き返し、距離約8,000メートルに彼方で停止中のシャヴァリアとオバノンに対して魚雷を発射したものの、命中しなかった<ref name="h" /><ref>木俣, 367ページ</ref>。その後、視界が不良となって21時39分に戦闘を打ち切って戦場から離脱<ref name="g" />。10月7日8時30分、夜襲部隊はラバウルに帰投した<ref>『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030106100, pp.28</ref>。第3艦隊は、偵察機からの報告によりウォーカー隊の3隻では少なすぎると考えており、[[ニュージョージア島]]向けの輸送船団を護衛していた第42駆逐群にも戦場に急行するよう命じていた<ref name="f" />。夕雲の大火災がよく見えていたほど戦場に接近していたが<ref name="gh" />、ついに戦闘には間に合わなかった。その代わり、瀕死のシャヴァリアをラ・ヴァレットの魚雷で処分し、大破したセルフリッジからウォーカー大佐をテイラーに移動させた<ref name="i">木俣, 368ページ</ref>。 |
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ベララベラ島が近づくにつれ、時雨では「巡洋艦4隻、駆逐艦3隻」から成るアメリカ艦隊接近の連絡を受けた<ref>原, 118ページ</ref>{{Sfn|海軍駆逐隊|2015|pp=75-76}}。また、第938航空隊の[[零式水上偵察機]]が、万代浦および先明崎と呼ばれた収容地点<ref>『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.19</ref>付近で[[照明弾]]を投下したところ、駆逐群二隊(巡洋艦4隻と駆逐艦3隻)が行動中であるのを確認して通報した{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=215}}。伊集院大佐は輸送部隊に一時退避を命じるが、速力の遅い収容部隊はもはや退避が間に合わず収容予定地点に直進させた{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=216}}。また第27駆逐隊(時雨、五月雨)にも第一夜襲部隊への合同を命じ、時雨(原大佐)は松風に船団護衛を依頼すると夜襲部隊と合流するため行動を開始した{{Sfn|海軍駆逐隊|2015|pp=75-76}}。 |
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一方、偵察機[[PBY (航空機)|PBYカタリナ飛行艇]]からの報告を受けた[[第3艦隊 (アメリカ軍)|第3艦隊]](南太平洋部隊。[[ウィリアム・ハルゼー]]大将)では、迎撃のためウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊(以降ウォーカー隊とする)からの駆逐艦3隻をベララベラ島近海へと急行させた{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=214-215|ps="東京急行"を阻止せよ}}。米軍の航空攻撃は悪天候のため実施されず、またウォーカー隊の駆逐艦3隻(セルフリッジ、シュバリエ、オバノン)と、増援の駆逐艦3隻(ラルフ・タルボット、テーラー、ラブレット)とは距離が開いていた{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|pp=28-29|ps=青い殺人者を抱いて}}。 |
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その頃、ベララベラ島守備隊は万代浦および先明崎に集結し、ニュージーランド軍の砲撃に耐えつつ収容部隊の到着を待っていた<ref name="ee">『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.15</ref>。 |
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20時31分、ウォーカー隊はレーダーで二つの目標を探知<ref name="e" />、4分後の20時35分には風雲が「巡洋艦3隻」を発見した<ref name="e" />。第27駆逐隊(時雨、五月雨)も20時40分には敵影を確認する<ref name="e" />。旗艦の秋雲でもウォーカー隊を発見していたものの、伊集院大佐(第三水雷戦隊司令官)は乗組員の報告を信用しなかったという{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=217}}。第三水雷戦隊の先任参謀は「味方の間違いではないか」と問いただした{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=31-32|ps=艦橋における緊張の一瞬}}<ref name="g">『栄光の駆逐艦 秋雲』50ページ</ref>。秋雲駆逐艦長相馬正平中佐は周囲からの情報と自らの目で確認した後、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間{{Sfn|駆逐艦物語|2016|p=33}}、ウォーカー隊からの先制攻撃を受けた{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=217}}<ref name="gg">『栄光の駆逐艦 秋雲』51ページ</ref>。ウォーカー隊は20時55分に砲撃を開始し、同時に魚雷14本を発射した{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=217}}<ref name="eee">ニミッツ、ポッター, 175ページ</ref>。 |
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先制攻撃を受けた夜襲部隊は、夕雲が魚雷を8本発射し、続いて面舵で右に針路をとって秋雲とともに砲撃を開始する{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=217}}。しかし間もなく夕雲はウォーカー隊からの集中砲火により火災を起こした<ref name="e" />。炎上した夕雲は、米艦隊からの絶好の目標になってしまった{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=217}}。21時1分、夕雲からの魚雷はウォーカー隊に達し、シャヴァリアに命中する<ref name="e" />。シャヴァリアの後方にいたオバノンは被雷したシャヴァリアを避け切れず追突し、艦首を大破した{{Sfn|写真太平洋戦6巻|1995|p=92}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=218}}。オバノンはシャヴァリアから離れた後、シャヴァリア乗員の救助作業に取り掛かる<ref name="gh">木俣, 366ページ</ref>。21時5分、夕雲に魚雷が命中し、これが止めとなって21時10分に沈没した<ref name="e" />。 |
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この頃には第27駆逐隊(時雨、五月雨)も戦場に到着し、21時1分前後に各艦魚雷8本を発射した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=242}}{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|pp=29-31|ps=丁字戦法の型くずれ}}。続いて砲撃を開始し、三斉射発砲をした瞬間、先に発射した魚雷のうち1本がウォーカー隊の旗艦セルフリッジに命中する<ref name="h">『戦史叢書96』308ページ</ref><ref>原, 123ページ</ref>。セルフリッジは艦首が垂れ下がって10ノットの速力で戦場から退却していった<ref name="h" />。秋雲は磯風と風雲を率いて引き返し、距離約8,000メートルに彼方で停止中のシャヴァリアとオバノンに対して魚雷を発射したものの、命中しなかった{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=220}}<ref>木俣, 367ページ</ref>。その後、視界が不良となって21時39分に戦闘を打ち切って戦場から離脱した<ref name="g" />。第27駆逐隊司令[[原為一]]大佐(時雨座乗)は「駆逐艦[[時雨 (白露型駆逐艦)|時雨]]に、もし[[レーダー|電探]]があればウォーカー部隊は三隻とも、ただでは済まさなかったであろうに」と回想している{{Sfn|海軍水雷戦隊|2016|p=36}}。 |
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10月7日8時30分、夜襲部隊はラバウルに帰投した<ref>『第三水雷戦隊戦時日誌』C08030106100, pp.28</ref>。 |
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日本側は魚雷48本を発射したが、命中したのは2本だけだった{{Sfn|駆逐艦入門|2006|p=381|ps=第二次ヴェラ・ラベラ海戦}}{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=220}}。 |
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第3艦隊は、偵察機からの報告によりウォーカー隊の3隻では少なすぎると考えており、[[ニュージョージア島]]向けの輸送船団を護衛していた第42駆逐群にも戦場に急行するよう命じていた<ref name="f" />。夕雲の大火災がよく見えていたほど戦場に接近していたが<ref name="gh" />、ついに戦闘には間に合わなかった{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=220}}。その代わり、瀕死のシャヴァリアをラ・ヴァレットの魚雷で処分し、大破したセルフリッジからウォーカー大佐をテイラーに移動させた<ref name="i">木俣, 368ページ</ref>。また[[レンドバ島]]より魚雷艇4隻が出動した{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=220}}。 |
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==海戦の後== |
==海戦の後== |
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秋雲と風雲、時雨と五月雨がそれぞれ発見したのは同じウォーカー隊であったが、海戦当時は前者が発見したのが巡洋艦群、後者が発見したのが駆逐艦群と考えられていた<ref name="e" /><ref name="g" />。一つの駆逐群を別々に攻撃した結果、戦果は「巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈、駆逐艦3隻撃沈」と判定された<ref>原, 125ページ</ref>。実際の戦果と大きくかけ離れているのは言うまでもない。戦果は[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](外南洋部隊)司令官[[鮫島具重]]中将から[[昭和天皇|天皇]]にも報告され、第 |
秋雲と風雲、時雨と五月雨がそれぞれ発見したのは同じウォーカー隊であったが、海戦当時は前者が発見したのが巡洋艦群、後者が発見したのが駆逐艦群と考えられていた<ref name="e" /><ref name="g" />。一つの駆逐群を別々に攻撃した結果、戦果は「本隊(秋雲等)により巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈、27駆(時雨、五月雨)により駆逐艦3隻撃沈」と判定された{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=221}}<ref>原, 125ページ</ref>。第27駆逐隊は「砲雷撃で轟沈1、雷撃で轟沈1、いずれも大型駆逐艦」と報告した{{Sfn|五月雨出撃す|2010|p=243}}。実際の戦果と大きくかけ離れているのは言うまでもない{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=221}}。戦果は[[第八艦隊 (日本海軍)|第八艦隊]](外南洋部隊)司令官[[鮫島具重]]中将から[[昭和天皇|天皇]]にも報告された{{Sfn|海軍駆逐隊|2015|p=80|ps=戦況、天聴に達す}}。鮫島は、第27駆逐隊司令[[原為一]]大佐に[[軍刀]]一振、時雨駆逐艦長山上亀三雄少佐と五月雨駆逐艦長杉原与四郎少佐には短刀一本を贈った{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=221}}<ref>原, 126ページ</ref>。 |
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夕雲の生存者は、一部は[[レンドバ島]]から |
夕雲の生存者は、一部は[[レンドバ島]]からやってきた[[魚雷艇]]に救助されたが、一人の夕雲乗員が艇上で乱闘を起こした末に見張り兵を殺害したため、復讐の意味で皆殺しにされた<ref>木俣, 368、369ページ</ref>。他方、機関部員を中心とする25名は途中、アメリカ軍が放置していった内火艇を分捕った<ref name="gg" /><ref name="k">木俣, 369ページ</ref>。やがて魚雷艇が接近して移乗するよう命じられる<ref name="k" />。夕雲生存者が拒否すると、アメリカ軍魚雷艇は夕雲生存者分の食糧と飲料水を内火艇の甲板に置いて去っていった<ref>[[#ソロモン海「セ」号作戦]]224頁</ref>。内火艇は1日半経ってからブインに到着し<ref name="gg" />、鮫島中将に「夕雲は行方不明、全滅と聞いたが敵のボートを分捕って帰るとはよくやった。御苦労」と賞賛された<ref name="k" />{{Sfn|神風電探戦記|2011|pp=222-223}}。 |
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[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]][[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]は後年、ウォーカー隊の敗因としてウォーカー大佐が雷撃を回避する運動を行わず、射撃効果を上げるために隊形と針路を維持し続けたことを挙げている<ref name="eee" />。 |
[[太平洋艦隊 (アメリカ海軍)|太平洋艦隊]]司令長官[[チェスター・ニミッツ]][[元帥 (アメリカ合衆国)|元帥]]は後年、ウォーカー隊の敗因としてウォーカー大佐が雷撃を回避する運動を行わず、射撃効果を上げるために隊形と針路を維持し続けたことを挙げている<ref name="eee" />。海戦の損害は、日本側は駆逐艦1(夕雲){{Sfn|山本ほか、秋月型|2015|ps=「夕雲(ゆうぐも)」}}沈没/アメリカ側駆逐艦1(シュバリエ)沈没と2隻(セルフリッジ、オバノン大破)で、日本軍は作戦目的(ベララベラ島からの撤収)を達成し{{Sfn|駆逐艦物語|2016|pp=84-85|ps=▽ベララベラ海戦}}、海戦に勝利した{{Sfn|撃沈戦記|2013|p=220}}{{Sfn|写真太平洋戦6巻|1995|p=93}}。 |
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== 脚注 == |
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== 参考 |
== 参考文献 == |
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*<!-- イノウエ2011 -->{{Cite book|和書|author=井上理二|authorlink=井上理二|year=2011|month=10|origyear=1999|title={{smaller|波濤の中の青春}} 駆逐艦磯風と三人の特年兵|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2709-2|ref={{SfnRef|磯風、特年兵|2011}}}} |
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*<!-- オオクマ2016-10 -->{{Cite book|和書|author=大熊安之助ほか|authorlink=|year=2016|month=10|title=海軍水雷戦隊 {{small|駆逐艦と魚雷と軽巡が織りなす大海戦の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1629-4|ref={{SfnRef|海軍水雷戦隊|2016}}}} |
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**(24-36頁){{small|当時二十七駆逐隊司令・海軍大佐}}原為一『闇夜を彩ったベララベラ沖の魚雷決戦 {{small|二次ベララベラ海戦=二十七駆逐隊の時雨、五月雨の肉薄雷撃と夕雲の最後}}』 |
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**(180-199頁){{small|元米海軍兵曹長・戦後米海軍報道班員}}ジョセフ・D・ハリントン『青い眼が見た九三式酸素魚雷奮戦記 {{small|姿なき暗殺者"酸素魚雷"に戦慄の日々を送った一米兵の海戦レポート}}』 |
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* 海軍水雷史刊行会(編纂)『海軍水雷史』海軍水雷史刊行会、1979年 |
* 海軍水雷史刊行会(編纂)『海軍水雷史』海軍水雷史刊行会、1979年 |
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* 駆逐艦秋雲会『栄光の駆逐艦 秋雲』駆逐艦秋雲会、1986年 |
* 駆逐艦秋雲会『栄光の駆逐艦 秋雲』駆逐艦秋雲会、1986年 |
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* 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年 |
*<!-- キマタ1986 -->木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年 |
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*<!-- キマタ2006 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|authorlink=|year=2006|month=07|title=駆逐艦入門 {{small|水雷戦の花形徹底研究}}|chapter=|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2217-0|ref={{SfnRef|駆逐艦入門|2006}}}} |
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*<!-- キマタ2013 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|coauthors=|year=2013|month=06|origyear=1988|title=撃沈戦記 {{small|海原に果てた日本艦船25隻の航跡}}|chapter=16.駆逐艦「夕雲」|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2786-3|ref={{SfnRef|撃沈戦記|2013}}}} |
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*<!--シガ2016-04 -->{{Cite book|和書|author=志賀博ほか|year=2016|month=04|title=駆逐艦物語 {{small|車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1615-7|ref={{SfnRef|駆逐艦物語|2016}}}} |
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**(23-35頁){{small|当時「秋雲」通信士兼航海士・海軍中尉}}立山喬『陽炎型駆逐艦「秋雲」ベララベラ沖海戦 {{small|果たして敵か味方か。司令官の一瞬の逡巡と十駆逐隊「夕雲」の沈没}}』 |
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**(63-90頁){{small|戦史研究家}}大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり {{small|太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情}}』 |
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*<!-- スドウ 2010 -->{{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|year=2010|month=01|origyear=1956|chapter=|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2630-9|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}} }} |
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*<!-- テラウチ2015-09 -->{{Cite book|和書|author=寺内正道ほか|authorlink=|year=2015|month=9|title=海軍駆逐隊 {{small|駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-47698-1601-0|ref={{SfnRef|海軍駆逐隊|2015}}}} |
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**(58-83頁){{small|当時二十七駆逐隊司令・海軍大佐}}原為一『二十七駆逐隊司令わがソロモン海の戦歴 {{small|旗艦時雨の艦上で指揮したベラ湾夜戦、二次ベララベラ海戦の実相}}』 |
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* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4 |
* E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4 |
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* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2 |
* C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/[[実松譲]]、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2 |
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* 佐藤和正「ソロモン作戦II」『写真・太平洋戦争(第6巻)』光人社NF文庫、1995年、ISBN 4-7698-2082-8 |
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* 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』(光人社、1999)114-120頁 |
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* [[原為一]]『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年、ISBN 978-4-309-24557-7<br /> 海戦時、第二十七駆逐隊司令として「時雨」に乗艦。 |
* [[原為一]]『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年、ISBN 978-4-309-24557-7<br /> 海戦時、第二十七駆逐隊司令として「時雨」に乗艦。 |
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*<!--マル1995-6-->{{Cite book|和書|edior=雑誌「丸」編集部|year=1995|month=5|chapter=佐藤和正「ソロモン方面作戦II」|title=写真 太平洋戦争<第六巻> {{small|ソロモン/ニューギニア作戦II/マーシャル/ギルバート作戦}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2082-8|ref={{SfnRef|写真太平洋戦争6巻|1995}}}} |
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*<!-- マル2011-7 -->{{Cite book|和書|author=「丸」編集部|year=2011|month=07|title={{small|駆逐艦戦記}} 駆逐艦「神風」電探戦記|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4-7698-2696-5|ref={{SfnRef|神風電探戦記|2011}}}} |
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**{{small|ソロモン海の死線を越えた二十七人の奇蹟の敵中漂流秘録}}及川幸介『地獄の海に記された「夕雲」奇蹟の生還記』 |
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*<!--ヤマモトヘイヤ2015-03 -->{{Cite book|和書|author=山本平弥ほか|coauthors=|year=2015||month=03|title=秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> {{small|戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌}}|publisher=潮書房光人社|isbn=978-4-7698-1584-6|ref={{SfnRef|山本ほか、秋月型|2015}}}} |
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**(220-229頁){{small|戦史研究家}}伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』 |
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*<!-- レキシグンゾウ1998-8 -->{{Cite book|和書|author=歴史群像編集部編|year=1998|month=8|chapter=|pages=|title=水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 {{small|究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡}}|series=歴史群像 太平洋戦史シリーズ|volume=第19巻|publisher=学習研究社|editor=|isbn=4-05-601918-5|ref={{SfnRef|歴群19、水雷戦隊II|1998}} }} |
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**(85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」 |
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**(143-158頁){{small|戦闘ドキュメント}} 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕 |
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== 関連項目 == |
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*[[鼠輸送]] |
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*[[蟻輸送]] |
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*[[第八艦隊 (日本海軍)]] |
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*[[南東方面艦隊]] |
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*[[ニュージョージア島の戦い]] |
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*[[コースト・ウォッチャーズ]] |
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2018年11月17日 (土) 13:51時点における版
第二次ベララベラ海戦 | |
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海戦で損傷したセルフリッジ(左)とオバノン。ヌメアにて | |
戦争:大東亜戦争 / 太平洋戦争 | |
年月日:1943年10月6~7日 | |
場所:ソロモン諸島、ベララベラ島沖 | |
結果:日本の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 |
指導者・指揮官 | |
伊集院松治大佐 | フランク・R・ウォーカー |
戦力 | |
駆逐艦9 補助艦艇20 |
駆逐艦6(うち3隻は海戦に間に合わず) |
損害 | |
駆逐艦1沈没 戦死138 |
駆逐艦1沈没 駆逐艦2大破 戦死64 |
第二次ベララベラ海戦(だいにじベララベラかいせん、Battle of Vella Lavella)は、1943年(昭和18年)10月6日に中部ソロモン諸島のベララベラ島沖で発生した海戦である[1]。アメリカ軍側の呼称はベララベラ海戦[2][3]。
概要
第二次ベララベラ海戦は、太平洋戦争中盤の1943年(昭和18年)10月6日に、ニュージョージア諸島のベララベラ島沖合で生起した海戦[4]。日本軍はベララベラ島からの撤収を企図して大発動艇や小型艦艇を派遣、これを第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐(旗艦「秋雲」)指揮下の駆逐艦9隻(警戒隊6隻、輸送隊3隻)が支援する[4]。アメリカ軍は水雷戦隊(駆逐艦6隻)で日本軍水上部隊を邀撃し、夜間水上戦闘に至った[5]。 日本側は駆逐艦夕雲が沈没し[6]、アメリカ側は駆逐艦1隻が沈没し2隻が大破した[5]。日本軍の撤退作戦は成功し[7]、海戦は日本の勝利で終わった[3][8]。
背景
8月15日にベララベラ島に上陸したアメリカ軍と、アメリカ軍と入れ替わりで増派されたニュージーランド軍は圧倒的な兵力で日本軍守備隊に圧力をかけ続け、9月に入ってから二手に分かれて攻勢に転じた[9][10]。当時ベララベラ島にいた日本軍は、陸海軍および付近海域で遭難しベララベラ島に到達した艦船乗員など合わせて629名であり[9][11]、鶴屋好夫陸軍大尉の名前より「鶴屋部隊」と称していた[12]。鶴屋部隊は寡兵をもってニュージーランド軍と交戦し続けたものの[11]、徐々に島の北西部に追い詰められていった[1]。舟艇などによる補給輸送がことごとく妨害され、水上偵察機によってわずかに補給を受けているに過ぎず、その運命は時間の問題と考えられるようになっていった[9]。 9月28日には、第十七軍(百武晴吉中将)と南東方面部隊(指揮官草鹿任一中将、南東方面艦隊司令長官)[13]から、決別とも解釈できる電文が送られた[9][14]。そもそもベララベラ島守備隊はコロンバンガラ島守備隊のバックアップ的な存在であったが[15]、コロンバンガラ島守備隊はセ号作戦で撤退を完了し[16]、その役割も終えることとなった[15]。第八艦隊の撤退方針に対し、上級司令部の南東方面艦隊(第十一航空艦隊)は作戦延期を指導、第八艦隊参謀長がラバウルに飛んで、「鶴屋部隊には、すでに撤退を命じてしまったので承認してほしい」と懇願した結果、鶴屋部隊の撤退許可がおりる[17]。10月6日にはベララベラ島からブインへの撤収が急遽行われることとなった[15]。
参加艦艇
日本海軍
- 夜襲部隊:駆逐艦秋雲(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐座乗)[18] 、風雲 、夕雲 、磯風 、時雨 、五月雨
- 輸送部隊:駆逐艦文月、夕凪、松風、小発6隻[19]、折畳浮舟30隻[19]
- 収容部隊:第20号駆潜特務艇[19]、第23号駆潜特務艇[19]、第30号駆潜特務艇[19]、艦載水雷艇3隻[19]、大発1隻[19]
アメリカ海軍
- 第4駆逐部隊(Destroyer squadron 4)[20][21]:駆逐艦セルフリッジ(フランク・R・ウォーカー大佐座乗)、シャヴァリア、オバノン
- 第42駆逐群(海戦に間に合わず)[20]:駆逐艦ラルフ・タルボット[20]、テイラー[20]、ラ・ヴァレット[20]
戦闘経過
ソロモン諸島方面の日本海軍の艦艇は大多数が外南洋部隊(指揮官鮫島具重中将、第八艦隊司令長官)の指揮下にあり、その麾下に外南洋部隊増援部隊(指揮官伊集院松治大佐、第三水雷戦隊司令官)があった[22]。当時、伊集院の指揮下にあった艦隊型駆逐艦は、第二水雷戦隊や第十戦隊から外南洋部隊に臨時編入されていた「借りもの」であった[23]。作戦実施に際し、伊集院大佐は軽巡洋艦川内[24]から陽炎型駆逐艦秋雲に移乗し、秋雲に第三水雷戦隊の代将旗を掲げた[25][26]。
10月5日、まず3時30分に輸送部隊(第22駆逐隊司令金岡国三大佐)の駆逐艦3隻(文月、松風、夕凪)がラバウルを出撃し[27]、続いて5時には伊集院大佐指揮下の駆逐艦6隻(第10駆逐隊〈秋雲、風雲、夕雲〉、第17駆逐隊〈磯風〉[28]、第27駆逐隊〈時雨、五月雨〉)もラバウルを出撃する[29][30]。収容部隊は5日夕刻にブインを出撃した[1]。輸送部隊と夜襲部隊は早々に偵察機の触接を受けるも、両部隊はブーゲンビル島北方で合流した[19][29]。16時、輸送部隊と夜襲部隊からの第27駆逐隊(時雨、五月雨)は先行して収容部隊に合同しベララベラ島近海へ、夜襲部隊は偽航路を取ったりスコールの中に身を隠しながら遅れてベララベラ島近海へと向かう[19]。夜襲部隊の陣形は、秋雲(旗艦)、磯風、風雲、夕雲の単縦陣であった[31]。
ベララベラ島が近づくにつれ、時雨では「巡洋艦4隻、駆逐艦3隻」から成るアメリカ艦隊接近の連絡を受けた[32][33]。また、第938航空隊の零式水上偵察機が、万代浦および先明崎と呼ばれた収容地点[34]付近で照明弾を投下したところ、駆逐群二隊(巡洋艦4隻と駆逐艦3隻)が行動中であるのを確認して通報した[35]。伊集院大佐は輸送部隊に一時退避を命じるが、速力の遅い収容部隊はもはや退避が間に合わず収容予定地点に直進させた[36]。また第27駆逐隊(時雨、五月雨)にも第一夜襲部隊への合同を命じ、時雨(原大佐)は松風に船団護衛を依頼すると夜襲部隊と合流するため行動を開始した[33]。
一方、偵察機PBYカタリナ飛行艇からの報告を受けた第3艦隊(南太平洋部隊。ウィリアム・ハルゼー大将)では、迎撃のためウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊(以降ウォーカー隊とする)からの駆逐艦3隻をベララベラ島近海へと急行させた[37]。米軍の航空攻撃は悪天候のため実施されず、またウォーカー隊の駆逐艦3隻(セルフリッジ、シュバリエ、オバノン)と、増援の駆逐艦3隻(ラルフ・タルボット、テーラー、ラブレット)とは距離が開いていた[38]。
その頃、ベララベラ島守備隊は万代浦および先明崎に集結し、ニュージーランド軍の砲撃に耐えつつ収容部隊の到着を待っていた[39]。 20時31分、ウォーカー隊はレーダーで二つの目標を探知[19]、4分後の20時35分には風雲が「巡洋艦3隻」を発見した[19]。第27駆逐隊(時雨、五月雨)も20時40分には敵影を確認する[19]。旗艦の秋雲でもウォーカー隊を発見していたものの、伊集院大佐(第三水雷戦隊司令官)は乗組員の報告を信用しなかったという[40]。第三水雷戦隊の先任参謀は「味方の間違いではないか」と問いただした[41][42]。秋雲駆逐艦長相馬正平中佐は周囲からの情報と自らの目で確認した後、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間[43]、ウォーカー隊からの先制攻撃を受けた[40][44]。ウォーカー隊は20時55分に砲撃を開始し、同時に魚雷14本を発射した[40][45]。 先制攻撃を受けた夜襲部隊は、夕雲が魚雷を8本発射し、続いて面舵で右に針路をとって秋雲とともに砲撃を開始する[40]。しかし間もなく夕雲はウォーカー隊からの集中砲火により火災を起こした[19]。炎上した夕雲は、米艦隊からの絶好の目標になってしまった[40]。21時1分、夕雲からの魚雷はウォーカー隊に達し、シャヴァリアに命中する[19]。シャヴァリアの後方にいたオバノンは被雷したシャヴァリアを避け切れず追突し、艦首を大破した[46][47]。オバノンはシャヴァリアから離れた後、シャヴァリア乗員の救助作業に取り掛かる[48]。21時5分、夕雲に魚雷が命中し、これが止めとなって21時10分に沈没した[19]。
この頃には第27駆逐隊(時雨、五月雨)も戦場に到着し、21時1分前後に各艦魚雷8本を発射した[49][50]。続いて砲撃を開始し、三斉射発砲をした瞬間、先に発射した魚雷のうち1本がウォーカー隊の旗艦セルフリッジに命中する[51][52]。セルフリッジは艦首が垂れ下がって10ノットの速力で戦場から退却していった[51]。秋雲は磯風と風雲を率いて引き返し、距離約8,000メートルに彼方で停止中のシャヴァリアとオバノンに対して魚雷を発射したものの、命中しなかった[53][54]。その後、視界が不良となって21時39分に戦闘を打ち切って戦場から離脱した[42]。第27駆逐隊司令原為一大佐(時雨座乗)は「駆逐艦時雨に、もし電探があればウォーカー部隊は三隻とも、ただでは済まさなかったであろうに」と回想している[55]。 10月7日8時30分、夜襲部隊はラバウルに帰投した[56]。 日本側は魚雷48本を発射したが、命中したのは2本だけだった[5][53]。
第3艦隊は、偵察機からの報告によりウォーカー隊の3隻では少なすぎると考えており、ニュージョージア島向けの輸送船団を護衛していた第42駆逐群にも戦場に急行するよう命じていた[20]。夕雲の大火災がよく見えていたほど戦場に接近していたが[48]、ついに戦闘には間に合わなかった[53]。その代わり、瀕死のシャヴァリアをラ・ヴァレットの魚雷で処分し、大破したセルフリッジからウォーカー大佐をテイラーに移動させた[57]。またレンドバ島より魚雷艇4隻が出動した[53]。
海戦が終わった直後の22時、収容部隊は万代浦に到着し[39]、23時50分から収容を開始[58]。三往復した後[58]、10月7日1時10分には万代浦を離れてブインに向かい、8時に帰投[58]。ベララベラ島守備隊はここで解散して、それぞれの原隊へと戻っていった[58][59]。
海戦の後
秋雲と風雲、時雨と五月雨がそれぞれ発見したのは同じウォーカー隊であったが、海戦当時は前者が発見したのが巡洋艦群、後者が発見したのが駆逐艦群と考えられていた[19][42]。一つの駆逐群を別々に攻撃した結果、戦果は「本隊(秋雲等)により巡洋艦または大型駆逐艦2隻撃沈、27駆(時雨、五月雨)により駆逐艦3隻撃沈」と判定された[60][61]。第27駆逐隊は「砲雷撃で轟沈1、雷撃で轟沈1、いずれも大型駆逐艦」と報告した[62]。実際の戦果と大きくかけ離れているのは言うまでもない[60]。戦果は第八艦隊(外南洋部隊)司令官鮫島具重中将から天皇にも報告された[63]。鮫島は、第27駆逐隊司令原為一大佐に軍刀一振、時雨駆逐艦長山上亀三雄少佐と五月雨駆逐艦長杉原与四郎少佐には短刀一本を贈った[60][64]。
夕雲の生存者は、一部はレンドバ島からやってきた魚雷艇に救助されたが、一人の夕雲乗員が艇上で乱闘を起こした末に見張り兵を殺害したため、復讐の意味で皆殺しにされた[65]。他方、機関部員を中心とする25名は途中、アメリカ軍が放置していった内火艇を分捕った[44][66]。やがて魚雷艇が接近して移乗するよう命じられる[66]。夕雲生存者が拒否すると、アメリカ軍魚雷艇は夕雲生存者分の食糧と飲料水を内火艇の甲板に置いて去っていった[67]。内火艇は1日半経ってからブインに到着し[44]、鮫島中将に「夕雲は行方不明、全滅と聞いたが敵のボートを分捕って帰るとはよくやった。御苦労」と賞賛された[66][68]。
太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年、ウォーカー隊の敗因としてウォーカー大佐が雷撃を回避する運動を行わず、射撃効果を上げるために隊形と針路を維持し続けたことを挙げている[45]。海戦の損害は、日本側は駆逐艦1(夕雲)[69]沈没/アメリカ側駆逐艦1(シュバリエ)沈没と2隻(セルフリッジ、オバノン大破)で、日本軍は作戦目的(ベララベラ島からの撤収)を達成し[3]、海戦に勝利した[53][70]。
脚注
- ^ a b c 写真太平洋戦6巻 1995, p. 91.
- ^ 海軍水雷戦隊 2016, p. 197▽ベララベラ沖海戦
- ^ a b c 駆逐艦物語 2016, pp. 84–85▽ベララベラ海戦
- ^ a b 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 150〔第二次ベラ・ラベラ海戦〕
- ^ a b c 駆逐艦入門 2006, p. 381第二次ヴェラ・ラベラ海戦
- ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 93「夕雲(ゆうぐも)」
- ^ 駆逐艦入門 2006, p. 371ソロモン駆逐艦戦
- ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 149〈表4〉昭和18年、中・北部ソロモンの駆逐艦の海戦
- ^ a b c d 『戦史叢書96』304ページ
- ^ ニミッツ、ポッター、169ページ
- ^ a b 『第一輸送隊戦闘詳報』C08030205400, pp.3
- ^ 駆逐艦物語 2016, p. 24.
- ^ 『戦史叢書96』386ページ
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- ^ 撃沈戦記 2013, pp. 211c-212部隊編成
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参考文献
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- (24-36頁)当時二十七駆逐隊司令・海軍大佐原為一『闇夜を彩ったベララベラ沖の魚雷決戦 {{{1}}}』
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- 志賀博ほか『駆逐艦物語 車引きを自称した駆逐艦乗りたちの心意気』潮書房光人社、2016年4月。ISBN 978-4-7698-1615-7。
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- (63-90頁)戦史研究家大浜啓一『日本の駆逐艦かく戦えり 太平洋戦争を第一線駆逐艦約一五〇隻が戦った海戦の実情』
- 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9。
- 寺内正道ほか『海軍駆逐隊 駆逐艦群の戦闘部隊編成と戦場の実相』潮書房光人社、2015年9月。ISBN 978-47698-1601-0。
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- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
- C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1992年、ISBN 4-7704-0757-2
- 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年、ISBN 978-4-309-24557-7
海戦時、第二十七駆逐隊司令として「時雨」に乗艦。 - 防衛研究所戦史室編『戦史叢書96 南東方面海軍作戦(3)ガ島撤収後』朝雲新聞社、1976年
- 「佐藤和正「ソロモン方面作戦II」」『写真 太平洋戦争<第六巻> ソロモン/ニューギニア作戦II/マーシャル/ギルバート作戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年5月。ISBN 4-7698-2082-8。
- 「丸」編集部『駆逐艦戦記 駆逐艦「神風」電探戦記』光人社、2011年7月。ISBN 978-4-7698-2696-5。
- ソロモン海の死線を越えた二十七人の奇蹟の敵中漂流秘録及川幸介『地獄の海に記された「夕雲」奇蹟の生還記』
- 山本平弥ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型> 戦時に竣工した最新鋭駆逐艦の実力と全貌』潮書房光人社、2015年3月。ISBN 978-4-7698-1584-6。
- (220-229頁)戦史研究家伊達久『夕雲型駆逐艦十九隻&島風の太平洋戦争』
- 歴史群像編集部編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡』 第19巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5。
- (85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
- (143-158頁)戦闘ドキュメント 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕
- 『第一輸送隊戦闘詳報第二号 自昭和十八年九月五日至昭和十八年十月七日「ベララベラ」島北岸ニ於ケル陸上戦闘』 第一輸送隊、C08030205400(『第一輸送隊戦闘詳報』)
- 『自昭和十八年十月一日至昭和十八年十月三十一日 第三水雷戦隊戦時日誌』 第三水雷戦隊司令部、C08030106100(『第三水雷戦隊戦時日誌』)