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「将門塚」の版間の差分

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== エピソード ==
== エピソード ==
[[築土神社]]や神田神社同様に、古くから[[江戸]]の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば[[祟り]]があるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に[[都市再開発]]として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣[[早速整爾]]の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、[[第二次世界大戦]]後に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が丸の内周辺の[[区画整理]]にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である<ref>[https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/030500208/030500001/?P=2&mds 大都市に潜む「怨霊伝説」を訪ねる
[[築土神社]]や神田神社同様に、古くから[[江戸]]の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば[[祟り]]があるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に[[都市再開発]]として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣[[早速整爾]]の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、[[第二次世界大戦]]後に[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]が丸の内周辺の[[区画整理]]にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である<ref>[https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/030500208/030500001/?P=2&mds 大都市に潜む「怨霊伝説」を訪ねる 首塚とクスノキと骨壺と]日経ビジネスオンライン</ref>。結果、首塚は[[バブル景気]]後も残ることとなり、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
首塚とクスノキと骨壺と]日経ビジネスオンライン</ref>。結果、首塚は[[バブル景気]]後も残ることとなり、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。


隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがあるが、そのような事実は特にない。
隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがあるが、そのような事実は特にない。

2018年8月29日 (水) 00:01時点における版

東京都千代田区大手町にある平将門の首塚

平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門を祀っている将門塚[1](まさかどづか、しょうもんづか)とも呼ぶ。東京都指定の旧跡である。

概要

伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされる。伝承地は数か所あり、いずれも平将門の首塚とされている。

その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外(北緯35度41分14.2秒 東経139度45分45.8秒三井物産本社ビル傍にある首塚である。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられている。

東京都千代田区にある将門塚の歴史

首塚の碑

この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。

首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり(後述)、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。

数十年にわたり、地元のボランティア団体が浄財を元に、周辺の清掃・整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。

エピソード

築土神社や神田神社同様に、古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に都市再開発として大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが丸の内周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である[2]。結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。

隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがあるが、そのような事実は特にない。

お笑い芸人爆笑問題太田光はブレイク前、この首塚にドロップキックをしたことがあり、そのせいでしばらくの間まったく仕事が来なかったという噂がある[3]

蛙の置物

首塚の境内には多数の蛙の置物が奉納されている。将門の首が京都から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、左遷になった会社員が元の会社に無事に戻ってこられるように、あるいは誘拐されたり行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、といった願いをかけて供えられたものである[4]若王子事件以来、目立つようになったという[5]

交通アクセス

東京メトロ都営地下鉄大手町駅C6a出入口からすぐ。

脚注

  1. ^ 安心お祓い済み!はとバス恒例「怪談バスツアー」体験してきたおたくま経済新聞公式サイト
  2. ^ 大都市に潜む「怨霊伝説」を訪ねる 首塚とクスノキと骨壺と日経ビジネスオンライン
  3. ^ 【聖地巡礼】将門首塚(上)都心に今も生きる伝説 - MSN産経ニュース 2008.1.31 ただし、所属事務所の社長で太田の妻・太田光代は「テレビ番組の企画で、太田が首塚に失礼なこと」をした事実は認めているが、伝説との関係は否定している(仕事が来なかった経緯は爆笑問題#芸歴を参照)。
  4. ^ 加門七海『平将門魔方陣』文庫版あとがき
  5. ^ 「産経抄」(産経新聞2015年1月23日)。

関連項目

外部リンク

座標: 北緯35度41分14.2秒 東経139度45分45.8秒 / 北緯35.687278度 東経139.762722度 / 35.687278; 139.762722