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{{otheruses|[[ダマスクス]]の金曜モスク|[[アレッポ]]のウマイヤ・モスク|アレッポの大モスク}} |
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{{Infobox religious building |
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{{Coord|33|30|43|N|36|18|24|E|region:SY_type:landmark|display=title}} |
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|building_name = ウマイヤ・モスク<br />Umayyad Mosque<br />جامع بني أمية الكبير |
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[[File:Courtyard2(js).jpg|thumb|240px|]] |
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|image = Umayyad Mosque, Damascus.jpg{{!}}border |
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'''ウマイヤド・モスク'''(Umayyad Mosque, Arabic: جامع بني أمية الكبير)とは、[[ウマイヤ朝]]第6代[[カリフ]]の[[ワリード1世]]によって705年([[ヒジュラ暦]]86年)に[[ダマスカス]]に建築された現存する世界最古の[[モスク]]であり、世界最大級のモスクのひとつでもある。世界遺産「[[古代都市ダマスカス]]」の一部である。 |
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|caption = {{Infobox mapframe|frame-width=300|zoom=13}} |
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|location = [[シリア]]・[[ダマスカス]] |
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|religious_affiliation = [[イスラム教]] |
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|region = [[レバント]] |
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|functional_status = 現行 |
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|architecture_type = [[モスク]] |
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|architecture_style = {{仮リンク|ウマイヤ建築|en|Umayyad architecture|label=ウマイヤ}} |
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|year_completed = 715年 |
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|minaret_height =253フィート |
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|materials = 石、大理石、タイル、モザイク |
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'''ウマイヤ・モスク'''({{lang-*-Latn|ar|Ğāmi' Banī ‘Umayya al-Kabīr}}, {{lang|ar-Latn|Ğāmi' ‘Umawī al-Kabīr}}, {{lang-en-short|Umayyad Mosque}})は、[[ダマスクス]]の[[古代都市ダマスカス|旧市街]]にある、世界で最も古い[[イスラーム教]]の[[モスク|礼拝所]]の一つ<ref name="Hitti2002">Hitti, 2002, p. 514.</ref><ref>Braswell, 1995, p. 26.</ref>。ダマスクスの金曜モスク(ジャーミイ)である。 |
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ダマスクスは[[エジプト文明|エジプト]]と[[メソポタミア文明|メソポタミア]]を繋ぐ通商路の途中にあって上古より都市が栄え、非常に古い時代から雷神{{ill2|ハダド|en|Hadad}}を祀る神殿があった。4世紀末に神殿があった聖所の上に[[洗礼者ヨハネ]]に奉献する[[キリスト教]]の[[バジリカ|教会]]が建てられた。ウマイヤ・モスクは、634年の{{ill2|634年のダマスクス攻囲戦|en|Siege of Damascus (634)|label=ムスリムによるダマスカス征服}}の後、当該洗礼者ヨハネ教会が改装されたものである。 |
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もとは[[キリスト教]]の洗礼者ヨハネ教会であったが、7世紀になってダマスカスが[[ムスリム]]の支配下に入り、10年の歳月を費やして敷地全体が[[モスク]]へと改装された。このため、通常のモスクとは違い[[ローマ建築]]・[[ビザンティン建築]]の様式が色濃く出ている。 |
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遅くとも6世紀には洗礼者ヨハネの首が当地にあるという伝説が流布しており、モスク建設中に実際に発見されたとされる。[[ムスリム]]の間には[[最後の審判|世界の終末の日]]における[[イエス・キリスト|救世主イエス]]の[[再臨]]はウマイヤ・モスクにて実現するという信仰がある。680年の[[カルバラー]]における[[フサインの殉教]]のあと、[[アフル・バイト|その一族]]の拘引先がこのモスクであったため、[[シーア派]]の信仰にも重要なモスクである。[[サラディン|サラーフッディーン・アイユービー]]の霊廟は、このモスクの北側の壁に付属した小さな庭の中にある。 |
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[[カアバ]]、[[預言者のモスク]]、[[岩のドーム]]に次ぐ[[イスラム教]]第4の聖地として、現在も巡礼者が絶えない場所である。また、内部には当初から[[洗礼者ヨハネ]]の墓があり、キリスト教徒にとっても重要な巡礼地のひとつである。2001年には[[ヨハネ・パウロ2世 (ローマ教皇)|ヨハネ・パウロ2世]]が訪れている。 |
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==歴史== |
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{{commons|Category:Umayyad Mosque}} |
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{{DEFAULTSORT:うまいやともすく}} |
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===先イスラーム時代=== |
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{{main|{{ill2|ダマスクスのユピテル神殿|en|Temple of Jupiter, Damascus}}}} |
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ウマイヤ・モスクが立地している場所は[[鉄器時代]]から何らかの聖所であった可能性がある。ダマスクスが[[アラム人]]の{{ill2|アラム人の都市国家ダマスクス|en|Aram-Damascus|label=都市国家連合}}の首都であった頃には、雷雨の神[[ハダド]]神を祀る大きな神殿があった。この時代の神殿の一部と見られる石が残されており、それにはアラム王{{ill2|ハザエル|en|Hazael}}治世下の日付がある({{ill2|ダマスクス国立博物館|en|National Museum of Damascus}}蔵)<ref>Burns, 2005, p.16.</ref>。雷神ハダドの神殿は街の中心的な役割を担い続けていたが、[[ローマ帝国]]が街を征服した紀元前64年以後、ハダドはローマ人の信仰する雷神[[ユピテル]]と同一視されるようになった<ref name="Burns40">Burns, 2005, p.40.</ref>。 ローマ人は神殿をユピテル神殿として再構成することにし、ダマスクス生まれの建築家[[ダマスカスのアポロドーロス|アポロドーロス]]に神殿の拡張を行わせた<ref>Calcani and Abdulkarim, 2003, p.28.</ref>。 |
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このローマ時代の神殿は、のちに[[皇帝礼拝|皇帝崇拝儀礼]]の中心になってしまったが、もともとは[[エルサレム]]のユダヤ教徒の神殿に対応するものになることが意識されていた<ref>Burns, 2005, p.65.</ref>。ローマ時代の前半を通じて、ダマスクスのユピテル神殿はしょっちゅう改修が行われた。また、そのたびに高位神官が富裕な市民から奉献を集め、改修後の儀式を行った<ref name="Burns62">Burns, 2005, p.62.</ref>。神殿の東門は、[[セプティミウス・セウェルス]]の在位年間(r. 193–211 CE)に拡張された<ref>Burns, 2005, p.72.</ref>。その後、紀元後4世紀ごろまでには、二重の壁が築かれる。外側の壁はその中に市場も包摂する広いエリアを町から画し、内側の壁はユピテルを祀る聖域本殿を外界から画した。大幅に拡張されたダマスクスのユピテル神殿は、ローマ帝国[[シリア属州]]の中で最も大きい神殿になった<ref>Bowersock and Brown, 2001, pp.47-48.</ref>。 |
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4世紀も終わりごろの391年になると、皇帝[[テオドシオス1世]](r. 379–395)がユピテル神殿を[[キリスト教]]の[[大聖堂|カテドラル]]に改装した。最もこの改装により直ちに洗礼者ヨハネへの奉献が行われたわけではなく、ダマスクスの司教座がここに置かれただけである<ref>Darke, 2010, p.72.</ref>。ダマスクスの司教座教会は、{{ill2|アンティオキアの大司教座|en|Patriarch of Antioch|lable=アンティオキアの大司教座}}の次席に位置づけられた<ref>Darke, 2010, p.72.</ref>。洗礼者ヨハネへの奉献が行われたのは6世紀、ヨハネの首がこの地に埋められているという伝説が生まれて以後のことになる<ref>Burns, 2005, p.88.</ref>。 |
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===ウマイヤ家のモスク=== |
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[[File:Umayyad Mosque night.jpg|thumb|left|夜のウマイヤ・モスク]] |
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634年に[[ハーリド・イブン・アル=ワリード|ハーリド・ブン・ワリード]]率いる{{ill2|正統カリフ軍|en|Rashidun army|label=アラブ・イスラーム教徒軍}}がダマスクスの街を包囲し、陥落させる({{ill2|634年のダマスクス攻囲戦|en|Siege of Damascus (634)}})。661年から[[ウマイヤ家]]が[[カリフ]]位を世襲で独占する慣行が始まる。ウマイヤ家はダマスクス(アラビア語でディマシュクと呼ばれた)をイスラーム帝国全土を支配するための首都に選んだ。ウマイヤ朝の6代目カリフ、[[ワリード1世]](在位705–715年)は、706年にビザンチン時代に建てられたキリスト教の聖堂の跡地にモスクを建てる計画を立てた<ref>Grafman and Rosen-Ayalon, 1999, p.7.</ref>。これに先立って、イスラーム教徒のための礼拝所、ムサッラ({{transl|ar|musalla}})が、すでにキリスト教徒が使うカテドラル(聖堂)の南東部に建てられてはいた。ワリード・ブン・アブドゥルマリクは自ら工事を監督し、ムサッラを含むカテドラルのほとんどを一度壊すことを指示した。新しく建設されたモスクは、カテドラルのレイアウトに連関しないものになった。キリスト教会であったときは矩形で仕切られた聖域内の中心にカテドラルが設けられていたのに対し、モスクへの改築後の主たる礼拝空間は、南壁に面する位置に設けられることになった。キリスト教会のアーケードとそれを支える柱は、一旦取り外された後に再配置された。改築後の建物は、金曜日に市民が集会を開くための公共の施設となるように設計された。キリスト教徒は移転に反対したため、ワリードは、移転する代わりに、ダマスクスの征服時に接収したキリスト教会のすべてをキリスト教徒に返還するよう命じた。モスクの建物はワリードが没した直後の西暦715年、次代カリフの{{ill2|スライマーン・ブン・アブドゥルマリク|en|Sulayman ibn Abd al-Malik}}(在位715–717)の時代に完成した。<ref name="Flood2"/><ref>Rudolff, 2006, p.177.</ref><ref name="Kamiya">{{cite web |title=Umayyad Mosque in Damascus, Syria |author=Takeo Kamiya |work=Eurasia News |publisher= |date=2004 |url=http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/32_damascus/dam_eng.htm |accessdate=31 December 2015}}</ref> |
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10世紀の歴史家[[イブン・ファキーフ・ハマダーニー]]によると、改築プロジェクトには60万から100万[[ディナール|ディーナール金貨]]が費やされ、総計12000人の労働者の出身地は、西は[[マグリブ]]から東は[[インド]]までに及び、ペルシア人もいればギリシア人や[[コプト派キリスト教|コプト教徒]]の職人もいたという<ref name="Flood2">Flood, 2001, p.2.</ref><ref>Wolff, 2007, p.57.</ref>。また、ビザンツ帝国の工芸職人が雇われたという(後期ローマ様式で風景や建物を描いた彼らの制作したモザイクは21世紀現在でも残っている)<ref>Rosenwein, Barbara H. [https://books.google.com/books?id=ii_UAgAAQBAJ&lpg=PA56&dq=Damascus%20mosque%20byzantine&pg=PA56#v=onepage&q&f=false A short history of the Middle Ages.] University of Toronto Press, 2014. p. 56</ref><ref>Kleiner, Fred. [https://books.google.com/books?id=3c4EAAAAQBAJ&lpg=PA264&dq=Damascus%20mosque%20byzantine&pg=PA264#v=onepage&q&f=false Gardner's Art through the Ages, Vol. I] Cengage Learning, 2013. p. 264</ref>。イブン・ファキーフはこの記載に続けて「モスクを建てている期間のあるとき、労働者らは、地下の洞窟のようになっている礼拝所を発見した。中に入った彼らは、そこで[[洗礼者ヨハネ|ヤフヤー・ブン・ザカリヤー]](洗礼者ヨハネ)の首が納められた箱を見つけた。報せを聞き検分したワリード1世は、まだ内装が大理石で覆われる前のモスクを支える柱のいずれかの下に首を埋め戻すように命じた。」といった内容のことを書いている<ref>le Strange, 1890, pp. [https://archive.org/stream/palestineundermo00lestuoft#page/233/mode/1up p.233]–[https://archive.org/stream/palestineundermo00lestuoft#page/234/mode/1up p.234]</ref>。 |
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[[File:Dome of the Clocks, Umayyad Mosque.jpg|thumb|right|「時のドーム」は780年の建設]] |
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===アッバース朝、ファーティマ朝の時代=== |
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750年の[[アッバース革命|ウマイヤ家の支配を終わらせた反乱]]に続いてアッバース家が権力の中枢を握り、首都はバグダードに移った。アッバース朝はダマスクスに対して軍事・商業上必要な関心を払う以上のことはしなかったため、ウマイヤ・モスクは財政難に苦しみ、8世紀から10世紀の間は目立った増築の記録がない<ref name="Flood124-6"/>。当時アッバース朝は、ダマスクスにあるウマイヤ朝の遺物を組織的に破壊し、その文化的遺産を除去していったが、ウマイヤ・モスクについてはとりわけ重要な[[イスラームの大征服]]の象徴であるとみなして手をつけなかった<ref name="Burns131-2"/>。ダマスクスの太守、{{ill2|ファドル・ブン・サーリフ・ブン・アリー|en|}}は、780年にモスクの東側のエリアに「時のドーム」({{Rtl-lang|ar|قبةالساعة}}, クッバ・サーア、「時」とは[[最後の審判]]のときを意味する)を建て<ref>Rudolff, 2006, p.162.</ref>、その9年後にはモスクに集まった財宝を納めるための「宝のドーム」(Qubbat al-Khazna, クッバ・ハズナ)を建てはじめた<ref name="Burns131-2">Burns, 2005, pp.131–132.</ref>。9世紀の地理学者{{ill2|シャムスッディーン・ムカッダスィー|ar|شمس الدين المقدسي}}によれば、モスクの北側のエリアに建つ「花嫁の[[ミナレット]]」({{Rtl-lang|ar|مئذنة العروس}}, マゥザナ・アラウス)は、カリフ・マアムーン(在位813-833年)が治めていた頃の831年に、アッバース朝により立てられた<ref name="Flood124-6"/><ref name="Burns131-2"/>。マアムーンはミナレットを立てる際、モスクの中にあったウマイヤ家を讃える碑文を除去したり内容を差し替えたりしたという<ref name="Flood124-6">Flood, 2001, pp.124–126. Some information used in the article is provided by the footnotes of this source.</ref>。 |
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[[File:Umayyad Mosque-Dome of the Treasury211099.jpg|thumb|left|「宝のドーム」は789年の建設]] |
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<!-- 10世紀か11世紀ごろには、モスクの南壁に開いたジヤーダ門(''Bāb al-Ziyāda'')に、機械仕掛けの大きな時計が設置されていたが、12世紀にはその機能を停止したようである<ref>Flood, 2001, p.121.</ref> 要検証。-->。10世紀始めにはシャーム地方([[歴史的シリア]])におけるアッバース家カリフの支配が崩壊し始め、以後、数十年に渡ってアッバース家カリフを名目上の主君とする自立的な政権がシャーム地方を支配する。970年には[[シーア派]]を奉じるエジプトの[[ファーティマ朝]]がダマスクスを得た。この時代のダマスクスの統治者によるウマイヤ・モスクの改修は、ほとんど記録されてない。その一方で、ウマイヤ・モスクの威信は多くの[[スンニー派]][[ウラマー]]をダマスクスに惹き付け、ファーティマ朝の宗教的権威からある程度独立した地位を彼らに与えもしたので、ダマスクスはこの時代の[[スンニー派]][[ウラマー]]の知的生産活動の中心になった<ref>Burns, 2005, p.139.</ref>。ウマイヤ・モスクの北側には[[ベルベル人]]を主体としたファーティマ朝軍の駐屯地があったが、1069年にダマスクスの人々が反乱を起こし、駐屯地を襲った。その結果、モスク北側の壁を中心とした広範なブロックが破壊された<ref>Burns, 2005, p.140.</ref>。 |
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===セルジューク朝、アイユーブ朝の時代=== |
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スンニー派王朝であった[[セルジューク・トルコ]]は1078年にダマスクスを手に入れ、アッバース朝カリフの名目的な支配を回復した。セルジューク王[[トゥトゥシュ]](在位1079年-1095年)は1069年に破壊されたモスクの補修を始めた<ref name="Burns142"/>。1082年に宰相、{{ill2|アブー・ナスル・アフマド・ブン・ファドル|en|Abu Nasr Ahmad ibn Fadl}}は、モスクの中心になるドーム(クッバ)をより壮麗なかたちに補修せしめた<ref>Flood, 1997, p.73.</ref>。ドームを支える2本の柱が強化され、北側の[[ファサード]]の内側にあったウマイヤ朝時代のモザイクがまっさらに補修された。21世紀現在、モスク北側に存在する{{ill2|リワーク (建築)|en|Riwaq (arcade)|label=リワーク}}([[ポルチコ|柱列廊]]の一種)は、1089年に再建されたものである<ref name="Burns142">Burns, 2005, pp.141–142.</ref>。ダマスクスの統治をセルジューク朝から委ねられた[[アタベグ]]の一人、{{ill2|トグテキン|en|Toghtekin}}(在位1104-1128年)は、1110年にモスクの北壁を補修し、壁に設けた出入り口2箇所の扉の上方に設置した銘板に、自らの名前を刻み込ませた<ref>Burns, 2005, pp.148–149</ref>。1113年に[[モースル]]を治めるアタベグ、[[シャラフッディーン・マウドゥード]](在位1109-1113年)がウマイヤ・モスクの中で暗殺された<ref>Burns, 2005, p.147.</ref>。12世紀中葉になるとダマスクスは[[十字軍国家]]との間の戦争が激しくなった。ダマスクスの防衛と[[エルサレム]]の奪還を諸国のムスリムに呼びかける使者は必ずウマイヤ・モスクに立ち寄った。{{ill2|イブン・アサーキル|en|Ibn 'Asakir}}をはじめとしたウマイヤ・モスクの導師([[イマーム]])は[[ジハード]]を説き、実際に1148年に十字軍がダマスクスに進軍した際は町の人々が集まってイマームの説教に耳を傾けた。ウマイヤ・モスクに集まった町の人々の抵抗にあい、十字軍は町の占領を最終的に諦めた<ref>Burns, 2005, p.157.</ref>。 |
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{{quote box |
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|quote=ダマスクスには世界に比類なきモスクがある。その均整美、建築の確かさ、高いドームの安全さ、建築要素の配置の見事さは、世界のどこにもないものである。琺瑯びきタイルと研磨した大理石を使った豪華なモザイク装飾は、まったく賛嘆すべきものである。 |
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|quoted=1 |
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|width = 40% |
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|align = right |
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|source=[[イドリースィー]], 1154年<ref>Rudolff, 2006, p.175.</ref>}} |
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1154年からダマスクスは[[ヌールッディーン・ザンギー]]の支配下に入り、ヌールッディーンの個人的命令によりウマイヤ・モスクの東門(バーブ・ジャイルーン)の外側に「ジャイルーンの水時計」という新たな記念碑的時計が建てられた<ref>Flood, 2001, p.114.</ref>。水時計の設計者はムハンマド・サアーティー(Muhammad al-Sa'āti)という建築家である。水時計は1167年に一度焼失したのち、13世紀に入ってから、サアーティーの息子、リドワーンの手により再建され、14世紀までは存在したようである<ref>Flood, 2001, pp.117–118.</ref>。シチリアの地理学者[[イドリースィー]]は1154年にウマイヤ・モスクを訪れた<ref name="Burns131-2"/>。 |
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ダマスクスの新しい統治者となった[[アイユーブ朝]]は、街にいくつかの宗教施設を新設したが、ウマイヤ・モスクは街の信仰生活の中心としての地位を保った。当時イスラーム世界を旅して回った[[イブン・ジュバイル]]は、ウマイヤ・モスクに複数の異なる[[ザーウィヤ]]([[クルアーン]]学習のための道場)が敷設されているさまを旅行記に書いている。1173年にモスクの北壁が再度出火により損傷したので、[[スルターン]]・[[サラディン|サラーフッディーン・アイユービー]](在位1174-1193年)はこれを修復した<ref>Burns, 2005, pp. 176–177</ref>。「花嫁のミナレット」も1069年の火事で焼失していたため<ref name="Burns131-2"/>、スルターンは北壁の修復と同時に「花嫁のミナレット」も補修した<ref>Burns, 2005, pp. 176–177</ref>。その後、アイユーブ朝の内紛でダマスクスは大きな損害をこうむり、1245年にはモスク東側に立っていた「預言者イーサーのミナレット」が倒れた。当時ダマスクスの[[アミール]]は{{ill2|サーリフ・イスマーイール・ブン・アーディル|en|As-Salih Ismail, Emir of Damascus|label=マリク・サーリフ・イスマーイール・ブン・アーディル}}であったが、これを[[サーリフ|マリク・サーリフ・アイユーブ]]が攻めた。「預言者イーサーのミナレット」はこのとき行われたダマスクスの包囲戦で倒れ<ref>Burns, 2005, p. 187</ref>、後年、再建されたものの装飾はあまり多くなされなかった<ref>Burns, 2005, p. 189</ref>。サラーフッディーンはウマイヤ・モスクの周辺に埋葬され、彼の後継者たちの多くもこれに倣った<ref>Burns, 2005, p. 190</ref>。 |
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===マムルーク朝の時代=== |
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[[File:Minaret of Qayt Bey, Umayyad Mosque.jpg|thumb|right|upright|カーイトバーイのミナレットは、[[ブルジー・マムルーク朝]]の[[スルターン]]・[[アシュラフ・カーイトバーイ|カーイトベイ]]の命により1488年に建設された]] |
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アイユーブ朝の勢力下にあったダマスクスの町は、1260年から、十字軍国家と同盟を結んだ[[キト・ブカ]]率いるモンゴル勢の支配下に入った。占領を指揮した{{ill2|アンティオキア王ボエモン6世|en|Bohemond VI of Antioch}}は、ウマイヤ・モスクで[[カトリック]]式の[[ミサ]]を執り行うよう命じた<ref>Zaimeche, 2005, p.22.</ref>。ダマスクスは1260年中に、[[クトゥズ]]や[[バイバルス]]率いるエジプトの[[マムルーク]]軍人勢力により奪還された。1270年にはスルターンになったバイバルスがウマイヤ・モスクの大規模修理を命じ、大理石やモザイク、金箔が補填されることになった。{{ill2|イッズッディーン・ムハンマド・ブン・シャッダード|en|Izz al-Din ibn Shaddad|label=イブン・シャッダード}}のバイバルスの伝記によると、修理には2万[[ディーナール]]の費用がかかったという。修復されたモザイクの中でひときわ大きい「[[バラダ川|バラダー川]]のパネル」は、34.5×7.3m の大きさがあり、モスク西側の柱列廊を飾る<ref name=Walker36-37>Walker, 2004, p.36-37.</ref>。バイバルスの事業の主要な目的は、モスクを装飾するモザイクの補修にあり、補修されたモザイクには[[マムルーク朝建築]]の影響が色濃く反映された<ref name="Flood67">Flood, 1997, p.67.</ref>。 |
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1285年に当時を代表する[[ウラマー]]の一人、[[イブン・タイミーヤ]]がウマイヤ・モスクで聖典『[[クルアーン]]』の解釈を講義し始める。1300年には[[イルハン朝]]の[[ガザン・ハン]]率いるモンゴル軍がダマスクスを陥れた。イブン・タイミーヤはダマスクス市民に「[[ジハード]]」、すなわち、各人が分を尽くして抵抗すべきことを説いた<ref>Zaimeche, 2005, p.17.</ref>。マムルーク朝の[[カラーウーン]]が街を奪還したが、エジプト軍がダマスクスに突入する際、モンゴル軍はウマイヤ・モスクに[[カタパルト (投石機)|投石機]]を配備して応戦しようとした。エジプト軍が{{ill2|ダマスクス城|en|Citadel of Damascus}}の周りに火矢を放って投石機を燃やし、モンゴル軍の試みは失敗した<ref>Winter and Levanoni, 2004, p.33.</ref>。 |
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マムルーク朝のシリア太守、{{ill2|タンキーズ|en|Tankiz}}は1326年から1328年にかけて、ウマイヤ・モスクの修復を実行した。この修復で[[ミフラーブ]]のモザイクが元通りにされたほか、堂内がすべて大理石のタイルで覆われるようになった。1328年の大改修をタンキーズに命じたのはスルターンの[[ナースィル・ムハンマド]]である。スルターンは、[[キブラ]]の方角にあたる南壁が不安定であったので、これを取り除いて立て直すこととしたほか、ズィヤーダ門をもっと東の位置に再配置した<ref name=Walker36-37/>。ところが、このときに大改修を受けた建築や造作の多くが、1339年の火事で損傷した<ref name="Flood67"/>。天文学者の[[イブン・シャーティル]]がウマイヤ・モスクで活動したのもこの時代である。イブン・シャーティルは1332年からウマイヤ・モスクの[[ムワッキト]]兼[[ムアッズィン]]として働き、1376年に亡くなるまでその職にあった<ref>Charette, 2003, p.16.</ref>。イブン・シャーティルは1371年にモスク北側のミナレットに大きな日時計を設置した<ref>Selin, 1997, p.413.</ref>。なお、1392年にイーサーのミナレットが火事で焼け落ちた<ref>Brinner, 1963, p. 155.</ref>。 |
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1400年に[[ティムール]]がダマスクスを包囲し、3月17日には町に火を放つ命令を下した。ウマイヤ・モスクはこのときの戦火によりひどく損傷した。[[イブン・ハルドゥーン]]が伝えるところによると東のミナレットが破壊により瓦礫と化し、中央のクッバが崩落した<ref>Ibn Khaldun; Fischel, 1952, p.97.</ref>。[[バフリー・マムルーク朝]]ほどウマイヤ・モスクの保守、修理、補修に意を注いだ王朝はほかにない。[[イスラーム建築]]の専門家、Finbarr B. Flood は、同王朝がこのモスクに「強迫観念症的関心」を持っていたと表現する<ref>Flood, 1997, p.72.</ref>。1488年にバフリー・マムルーク朝のスルターン・[[アシュラフ・カーイトバーイ|カーイトベイ]]はウマイヤ・モスクの南西端に新しくミナレットを建てさせた<ref>Ring, Salkin, La Boda, p.208.</ref>。 |
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===オスマン朝の時代=== |
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[[File:Book of Wonders folio 36b cropped.jpg|thumbnail|right|14世紀後半の写本『驚異の書』に描かれたウマイヤ・モスク]] |
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1516年に[[セリム1世]]が率いる[[オスマン帝国]]軍はエジプトのマムルーク朝とシャーム地方北部の[[マルジュ・ダービクの戦い|マルジュ・ダービクで戦い]]、これに勝利してダマスクスを得た。ウマイヤ・モスクにおいて、セリム1世の名前とともに執り行われる[[金曜礼拝]]の第1回目は、スルターン自身が出座した(金曜礼拝における説教は時の為政者の名前に言及し、イスラーム共同体の指導者が誰なのかを街のコミュニティで確認する意味合いがある)<ref>Van Leeuwen, p.95.</ref><ref>Finkel, p.109.</ref>。オスマン帝国は[[ワクフ]]と呼ばれる寄進制度を、支配地の地元住民の心を中央の権威に惹きつけるために利用する。ウマイヤ・モスクに設定されたワクフはダマスクスの街で最大規模になり、596人を雇用した。ワクフの監督官のポストは帝国中枢から派遣される官僚のものであったが、宗教がらみの役職はほとんどが地元の[[ウラマー]]たちのためにとっておかれた<ref>Kafescioǧlu, 1999, p.78.</ref>。ワクフ財には課税されるのが通例であるが、ウマイヤ・モスクに設定されたワクフには課税がなされなかった<ref>Van Leeuwen, p.112.</ref>。1518年からダマスクス総督とウマイヤ・モスク・ワクフ監督官に任命された{{ill2|ジャーンビルディー・ガザーリー|en|Janbirdi al-Ghazali}}は街全体の再建を計画し、その一環としてモスクの修理と再装飾を命じた<ref>Van Leeuwen, p.141.</ref>。 |
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1661年になると、ウマイヤ・モスクでは、著名なスーフィーの一人、{{ill2|アブドゥルガニー・ナーブルスィー|en|Abd al-Ghani al-Nabulsi}}が多くの弟子を導き始めた<ref>Dumper and Stanley, p.123.</ref>。 |
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1893年にウマイヤ・モスクで火災が発生し、広い面積のモザイクと大理石が大きく損傷した<ref>{{cite web |url=https://www.wsj.com/articles/SB10001424052748703571704575340833854939358 |title=A Glittering Crossroads |author=Christian C. Sahner|date=17 July 2010 |work= |publisher=[[The Wall Street Journal]] |accessdate=27 February 2011}}</ref>。火は礼拝用の大広間の内装にも燃え広がり、中央クッバが焼け落ちた。オスマン帝国はモスクの修復を開始したが、修復作業中にも火事が起きた。工事の人足が吸っていた[[水煙草]]の火の不始末が原因だった。オスマン帝国はウマイヤ・モスクの元来の構造を最大限生かしながら、最後まで補修工事をやり遂げた<ref>Darke, p.90.</ref>。 |
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ウマイヤ・モスクの図書室には「クッバ・ハズナ蔵書」が非常に昔からあったが<ref>{{Citation |publisher = Garland Pub. |isbn = 0824057872 |publication-place = New York |chapter =Islamic Libraries to 1920 |author=M. Lesley Wilkins |url = https://openlibrary.org/books/OL1397830M/Encyclopedia_of_library_history |title = Encyclopedia of library history |publication-date = 1994 |id = 0824057872 }}</ref>、1899年にその大部分がドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に譲渡され、残された少数の蔵書がダマスクスの帝国アーカイヴに移された<ref>{{Citation |publisher = Fitzroy Dearborn Publishers |isbn = 1579582443 |publication-place = Chicago |chapter =Middle Eastern Libraries |author=Christof Galli |url = https://openlibrary.org/books/OL3623623M/International_dictionary_of_library_histories |title = International Dictionary of Library Histories |publication-date = 2001 |id = 1579582443 }}</ref>。 |
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===現代=== |
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[[File:Great Mosque Damascus, north side, Francis Bedford 1862.jpg|thumbnail|right|1862年に撮影された中庭の北側]] |
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ウマイヤ・モスクは、フランス委任統治領シリア時代の1929年から1954年にかけて大規模補修が行われ、シリア共和国の時代の1963年にも一度、大規模補修が行われた<ref>Darke, p.91.</ref>。1980年代から1990年代にかけて、[[ハーフィズ・アサド]]はモスクの大規模改装を命じたが[[ユネスコ]]から批判を受けた<ref>Cooke, p.12.</ref>。ウマイヤ・モスクは世界の歴史・文化的観点からはどうであれ、シリアにおいてはさまざまな象徴的意味合いを持つ建物であり、その象徴性を時の政権が利用する方向に補修や改修が行われるのが常である<ref>Rudolff, 2006, p.194.</ref>。2001年には[[ローマ・カトリック教会]]の[[法王]][[ヨハネ・パウロ2世]]がウマイヤ・モスクを訪れた。名目上は洗礼者ヨハネの聖遺物への参拝が目的とされたが「ローマ・カトリック教会の法王が歴史上始めてイスラーム教のモスクを訪れた」ことに象徴的意義を含ませることを意図した訪問であった<ref>{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/1315190.stm | work=BBC News | title=Inside the Umayyad mosque | date=2001-05-06 | accessdate=2010-05-26}}</ref>。2011年3月15日に[[シリア内戦]]に関連した大規模な民主化要求デモがウマイヤ・モスクで行われたが、政府軍がすぐさま鎮圧し、金曜礼拝の妨げになるからという理由でデモ隊を排除した<ref>[http://english.aljazeera.net/news/middleeast/2011/03/20113151834383782.html Protesters stage rare demo in Syria]. ''[[Al-Jazeera English]]''. 2011-03-15. [[Al-Jazeera]].</ref><ref>[http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-12938756 Syria unrest: New protests erupt across country]. ''[[BBC News]]''. 2011-04-01.</ref>。 |
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==建築== |
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===中庭と聖域=== |
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[[File:Flickr - jemasmith - Umayyad Mosque, Damascus, Detail..jpg|thumb|ウマイヤ・モスクにあるレリーフ。蔓草模様と棕櫚模様を伴う[[アラベスク]]。]] |
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ウマイヤ・モスクは幅156メートル、奥行き97メートルの長方形の敷地を持ち、建築複合体の北エリアには「{{ill2|サフン|en|sahn}}」と呼ばれる[[イスラーム建築]]に特徴的な[[中庭]]を有する。一方で南エリアには「{{ill2|ハラム (聖域)|en|Haram (site)|label=ハラム}}」と呼ばれる禁域が配置される。広大なサフンは4重の壁に囲まれ、石で舗装されている。舗装面は本来、高さが均一であったが、モスクの長い補修と増築の歴史の末に段差が発生するようになっていたところ、近年の補修によりウマイヤ朝時代の高さに再現された。サフンの周りは「{{ill2|リワーク (アーケード)|en|Riwaq (arcade)|label=リワーク}}」と呼ばれる[[アーケード]]で囲まれている。ウマイヤ・モスクのリワークは{{ill2|1759年にレヴァントで発生した地震|en|Near East earthquakes of 1759|label=1759年の地震}}で一度全壊している。<ref name="Archnet">[http://archnet.org/library/sites/one-site.jsp?site_id=7161 Umayyad Mosque Profile]. Archnet Digitial Library.</ref> |
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ハラムは、いずれも[[メッカ]]の方角「[[キブラ]]」と平行する方向に走る3重のリワークにより外界と隔たれる。リワークはいずれも上下2層構造で、コリントス型円柱により持ち上げられた下層のアーチ1つあたり、2つのアーチが上層に配置される。このパターンは上述したサフンのリワークと同じである。3重リワークは、キブラと直交する方向に走る、ハラムで最大のリワークと交差する。このリワークは中央クッバの[[翼廊]]であり11個のアーチで構成され、モスクの[[ミフラーブ]](キブラを示す[[壁龕]])や[[ミンバル]]([[ムフティー]]が説教する説教壇)が配置されている<ref name="Archnet"/>。ハラム全体の広さは南北136メートル、東西37メートルである<ref name="Grafman8">Grafman and Ayalon, 1999, p.8.</ref>。 |
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ミフラーブは4箇所にあるが、主ミフラーブはおおむね、モスク南壁の中点にある。副ミフラーブのうち東側にあるものは「[[サハーバ]]のミフラーブ」と呼ばれる。9世紀の学者、{{ill2|ムーサー・ブン・シャーキル|en|Mūsā ibn Shākir}}によると、サハーバのミフラーブはウマイヤ・モスクが建設された当初からこの位置にあり、イスラームの歴史の中で3番目に古いミフラーブである<ref name="Grafman8"/>。 |
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===穹窿=== |
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礼拝用の大広間の天井に配置されたウマイヤ・モスクで最大のクッバ([[ドーム]]、穹窿)は、外から見ると鷲の頭に見え、大広間の東西の裾が鷲の広げた羽のように見えるので、「鷲のクッバ」(Qubbat an-Nisr)と呼ばれている<ref>Darke, p.94.</ref>。「鷲のクッバ」は元来、木製であったが、1893年の火事で焼け落ちた後は石造になった<ref>Darke, p.94.</ref>。高さは36メートルあり、八角形の基部の上にドーム構造体が乗る構成である。アーチ状の窓が2つある基部は、大広間から伸びる円柱(リワークの一部)により支えられている<ref name="Archnet"/>。 |
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===尖塔=== |
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[[File:Minaret of the Bride, Umayyad Mosque 01.jpg|thumb|left|upright|「花嫁のミナレット」はウマイヤ・モスクで最初に建てられたミナレット]] |
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ウマイヤ・モスクの宗教複合は、3基の[[ミナレット]]を有する。モスク北壁に位置する「花嫁のミナレット」(''Madhanat al-Arus'')は、正確な建築年代は不明であるものの、当モスクで最も古くに建てられたものである<ref name="Burns131-2"/>。花嫁のミナレットの下層部は、9世紀、アッバース朝の時代に建てられたという説が有力である<ref name="Burns131-2"/><ref name="Darke92"/>。ウマイヤ朝時代に建てられた可能性も完全に否定はできないが、モスク北壁がワリード1世の最初の構想に含まれていたことを示す証拠が存在せず、アッバース朝時代の985年に花嫁のミナレットを訪れたムカッダスィーの地理書には、これが「最近建てられたものである」という記載がある<ref name="Burns131-2"/>。花嫁のミナレットの上層部は1174年に建てられた<ref name="Burns131-2"/>。花嫁のミナレットには螺旋状に設置された160段の石の階段があり、[[ムアッジン]]はこれを使って街の人々へ[[アザーン]](礼拝の呼びかけ)を朗誦するための場所に上った<ref name="AAA">American architect and architecture, 1894, p.58.</ref>。 |
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[[File:Minaret of Jesus, Omayyad Mosque.jpg|thumb|right|upright|預言者イーサーのミナレットはウマイヤ・モスクで最も高いミナレットである。]] |
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花嫁のミナレットは鉛で葺いた屋根が設置されている部分を境に、上下二層に分かれる。下層の主塔部は古く、方形をしていて、四方に側廊を有する<ref name="AAA"/>。 主塔部は大型の石材より新しい上層の尖塔部は化粧石で建てられている。主塔部は屋根近くに、馬蹄形アーチにより構成された明かり取り用の開口部が複数ある。隣接する2つの馬蹄形アーチの間、各アーチを支える部分には略立方体の柱頭飾が置かれている。これら開口部の下には馬蹄形アーチより小型の湾曲した張り出しがあり、開口部の[[持ち送り積み]]を可能にしている<ref>Rivoira, 1918, p.92.</ref>。「花嫁のミナレット」の名は、このミナレットの屋根を葺くのに使用した鉛を調達した商人の娘が、当時のシャーム地方の総督と結婚したというダマスクスに伝わる伝説に基づく。花嫁のミナレットには14世紀の[[イブン・シャーティル]]が設計した日時計が取り付けられている。ただし現在の日時計は18世紀に制作されたレプリカである<ref name="Darke92">Darke, p.92.</ref>。 |
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ウマイヤ・モスクの宗教複合の南東角に位置する「預言者イーサーのミナレット」は、高さが約77メートルあり、3基のミナレットの中で最も高い<ref>Palestine Exploration Fund, p.292.</ref><ref name="Mannheim91"/>。預言者イーサーのミナレットの原型となる塔の建設はアッバース朝時代の9世紀にまで遡るとする史料が複数存在するが<ref name="Darke92"/>、ウマイヤ朝時代には既にあったとする史料もある。今ある預言者イーサーのミナレットの主構造体はアイユーブ朝時代の1247年、尖塔部はオスマン帝国時代に建設された<ref name="Mannheim91"/>。主構造体のプランは四角形であるが、尖塔部分は八角形、上に行くほど次第に細くなり、先端に三日月の飾られている。壁で閉じた2列のリワーク(柱列廊)が主構造体に接続し、壁のない、同じく2列のリワークが尖塔部分に接続する<ref name="AAA"/>。ムスリムの信じる終末論では、審判のその日に預言者イーサーが反救世主に立ち向かうため天国から地上に降り立つ。イーサーはこのミナレットを目印に地上に降りてくるというのが地元ダマスクスの伝承であり、このミナレットの名称のいわれである<ref name="Mannheim91"/>。この伝承と名称の由来は14世紀には既に定着しており、{{ill2|イブン・カスィール・ディマシュキー|en|Ibn Kathir}}が著書でそのことを書いている<ref>Kamal al-Din, 2002, p.102.</ref>。 |
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「西のミナレット」(マザナトル・ガルビーヤ)は、「カーイトベイのミナレット」と呼ばれることもあり、マムルーク朝のスルターン・カーイトベイが1488年に建設した<ref name="Darke92"/>。西のミナレットには、マムルーク朝期に典型的なイスラーム期エジプト建築の影響がよく見てとれる<ref name="Mannheim91">Mannheim, 2001, p.91.</ref>。西のミナレットは八角柱形状をしており、3列の柱廊の突き当たりに建てられている<ref name="AAA"/>。西のミナレットとイーサーのミナレットは、一般的には古代ローマ帝国の時代に建てられた塔(''temenos'')の基礎の上に建設されたものと理解されているが、ローマ時代にはこれらのミナレットが建つ場所に神殿が存在しなかったため、この通説は学術的には疑わしい<ref name="Mannheim91"/>。 |
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===ウマイヤ・モスクが与えた文化的影響=== |
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最初期のモスク建築の一つであるウマイヤ・モスクは、ウマイヤ家を想起させるようなものこそ取り除かれてはいるが、それでも、8世紀始めごろの建築当初の構造と特徴が21世紀現在でもおおむね保たれた希少な建築例である。ウマイヤ・モスクは、その建設以来、シリア地方のみならず全世界的に、金曜礼拝モスク(ジャーミイ)の模範例とされてきた。美術史学者のFinnbar Barry Floodは、「ダマスクスの大モスクの建設は、ムスリムのヘゲモニーが確立されたことを街の景観に不可逆的に刻み込んだのみならず、以後の歴史においてシリア風モスクに「モスク建築の決定版」のような地位を与えることにもなった」と述べている<ref>Rudolff, 2006, p.214.</ref>。ウマイヤ・モスクの[[グラウンド・デザイン|全体構想]]は、世界中の大モスクのプロトタイプになっており、例えば、[[カイロ]]では{{ill2|アズハル・モスク|en|Al-Azhar Mosque}}と{{ill2|ザーヒル・バイバルス・モスク|en|Mosque of al-Zahir Baybars}}に模倣されている。スペインでは[[メスキータ|コルドバの大モスク(聖マリア大聖堂)]]、トルコでは{{ill2|ブルサの金曜モスク|en|Grand Mosque of Bursa}}と[[セリミエ・モスク]]の全体構想にウマイヤ・モスクからの影響を確認できる<ref>Rudolff, 2006, pp.214-215.</ref>。 |
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==信仰== |
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[[File:Shrine of John the Baptist, Great Umayyid Mosque, Damascus.jpg|thumb|right|[[洗礼者聖ヨハネ]]の首が納められているほこら]] |
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[[File:UmayyadMosque02.jpg|thumb|160px|right|[[フサイン・ブン・アリー|フサイン]]の首が埋められている場所を示すプレート]] |
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ウマイヤ・モスクは、680年の[[カルバラーの惨劇]]ののち、[[預言者ムハンマドの一族]]に属する婦人や幼子たちが、イラク中央部から歩いて行かされた終着地であるため、シーア派、スンナ派、双方にとって信仰の上で重要な意味を持つ場所となっている<ref>{{cite book |title=Nafasul Mahmoom |last=Qummi |first=Shaykh Abbas |year=2005 |publisher=Ansariyan Publications |location=Qum |page=362}}</ref>。ウマイヤ・モスクに連行された彼女らは、当地でさらに60年間囚われの身になった<ref>{{cite book |title=Nafasul Mahmoom |page=368}}</ref>。 |
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以下は、ウマイヤ・モスクの中にある重要な建築の一覧である。 |
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'''西側''' |
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* バーブ・サーアト(Bāb as-Sā‘at)と呼ばれる門。 – カルバラーから連行された囚人が、モスク内に入る前に72時間この場所で立たされたといういわれのある門<ref name="gate">{{cite book |title=Nafasul Mahmoom |page=367}}</ref>。この間にヤズィード1世は、ダマスクスの街と宮殿を豪華に見せようと取り繕っていた<ref name="gate"/>。 |
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'''南翼(主礼拝所)''' |
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* 洗礼者聖ヨハネ(ムスリムには預言者ヤフヤーの名で知られる)のほこら。 - スユーティーによると、[[天地創造]]以来、天と地はたった2人の人のためにしか、泣いたことがないという。その2人とは、ヤフヤーとフサインである<ref name="yahya">Tafseer Ibn Katheer, vol.9, p.163, published in Egypt. Tafseer Durre Manthur Vol.6, p.30-31.</ref>。 |
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* 白い[[ミンバル]]。- [[アリー・ブン・フサイン]]がヤズィードの開いた法廷で弁護を行った場所<ref>{{cite book |title=Nafasul Mahmoom |page=381}}</ref>。 |
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* ミンバル前の床の高いところ。 - ヤズィードの前に引き出された婦人たちが立った場所。 |
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* 木製のバルコニー。- 法廷でヤズィードが座ったところ。 |
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'''東側''' |
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* ガラス張りのミフラーブ - カルバラー以後、囚人になったアリーが、その後礼拝を行った場所。 |
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* 壁に埋め込まれた金属製の立方体 - フサインの首が晒された場所。 |
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* 金属製の檻 - カルバラーで殺害された殉教者の首が置かれた場所。 |
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{{wide image|Umayyad Mosquee panoramic.jpg|900px|ウマイヤ・モスクの中庭}} |
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==出典== |
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{{Reflist|colwidth=20em}} |
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==参考文献== |
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{{refbegin|2|indent=yes}} |
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:{{Citation|title=American architect and architecture|publisher=J. R. Osgood & Co|year=1894|url=https://books.google.com/books?id=tuMxAQAAIAAJ&pg=PA58&dq=roof+minaret+bride#v=onepage&q=roof%20minaret%20bride&f=false}}. |
|||
:{{Cite book|title=Interpreting late antiquity: essays on the postclassical world |
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|first1=Glen Warren|last1=Bowersock|first2=Peter Lamont|last2=Brown|publisher=Harvard University Press|url=https://books.google.com/books?id=qrnDF_BuCvgC&pg=PA193&dq=Bowersock+Brown#v=onepage&q&f=false|year=2001|isbn=0-674-00598-8}} |
|||
:{{Citation|title=Damascus: A History|first1=Ross|last1=Burns|publisher=Routledge|year=2005|url=https://books.google.com/?id=1_bQTrpf62cC&dq=damascus|isbn=0-415-27105-3|location=London}}. |
|||
:{{Cite book|title=Apollodorus of Damascus and Trajan's Column: from tradition to project |
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|first1=Giuliana|last1=Calcani|first2=Maamoun |last2=Abdulkarim|publisher=L'Erma di Bretschneider|url=https://books.google.com/books?id=wuT0eAOeX5wC&pg=PA28&dq=Jupiter+temple+Damascus#v=onepage&q=Jupiter%20temple%20Damascus&f=false|year=2003|isbn=88-8265-233-5}} |
|||
:{{Cite book|title=Cities of the Middle East and North Africa: A Historical Encyclopedia|first1=Michael|last1=Dumper|first2=Bruce E.|last2=Stanley|publisher=ABC-CLIO|url=https://books.google.com/books?id=3SapTk5iGDkC&pg=PA122&dq=Umayyad+Mosque+Ottoman#v=onepage&q=Umayyad%20Mosque%20Ottoman&f=false|year=2007|isbn=1-57607-919-8}} |
|||
:{{Citation|title=Mathematical instrumentation in fourteenth-century Egypt and Syria: the illustrated treatise of Najm al-Dīn al-Mīṣrī|first1=François|last1=Charette|publisher=BRILL|year=2003|isbn= 978-90-04-13015-9|url=https://books.google.com/books?id=dgQNMNJe6B4C&dq=Ibn+al-Shatir+umayyad}} |
|||
:{{Citation|title=Osman's dream: the story of the Ottoman Empire, 1300-1923|first1=Caroline|last1=Finkel|publisher=Basic Books|year=2005|url=https://books.google.com/books?id=9cTHyUQoTyUC&dq=Umayyad+Mosque+Ottoman+1516|isbn=0-465-02396-7}}. |
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:{{cite book|first=Finbarr Barry|last=Flood|title=The Great Mosque of Damascus: studies on the makings of an Umayyad visual culture|url=https://books.google.com/books?id=r5f8kxIyykQC&dq=Umayyad+Mosque|year=2001|publisher=BRILL|isbn=90-04-11638-9|location=Boston}} |
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:{{cite journal|last=Flood|first=Finbarr Barry|year=1997|title=Umayyad Survivals and Mamluk Revivals: Qalawunid Architecture and the Great Mosque of Damascus|journal=Muqarnas|publisher=BRILL|volume=14|pages=57–79|location=Boston|doi=10.2307/1523236}} |
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:{{cite journal|last1=Grafman|first1=Rafi |first2=Myriam|last2=Rosen-Ayalon|year=1999|title=The Two Great Syrian Umayyad Mosques: Jerusalem and Damascus|journal=Muqarnas|publisher=BRILL|volume=16|pages=1–15|location=Boston|doi=10.2307/1523262}} |
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:{{cite book|first=Phillip K.|last=Hitti|authorlink=Philip Khuri Hitti|title=History of Syria: Including Lebanon and Palestine|url=https://books.google.com/books?id=hDQqzz-tLgUC&pg=PA514|date=October 2002|publisher=Gorgias Press LLC|isbn=978-1-931956-60-4|location=Piscataway, NJ}} |
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:{{Citation|title=Palestine Under the Moslems: A Description of Syria and the Holy Land from A.D. 650 to 1500|url=https://archive.org/details/palestineundermo00lestuoft|first1=Guy|last1=le Strange|year=1890|publisher=Committee of the [[Palestine Exploration Fund]]}} ([[Ibn Jubayr]]: [https://archive.org/stream/palestineundermo00lestuoft#page/240/mode/1up p.240] ff) |
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:{{cite book|last1=Ibn Khaldūn|last2=Fischel|first2=Walter Joseph|title=Ibn Khaldūn and Tamerlane: their historic meeting in Damascus, 1401 a.d. (803 a. h.) A study based on Arabic manuscripts of Ibn Khaldūn's "Autobiography"|url=https://books.google.com/books?id=PB9tAAAAMAAJ&q=inauthor:%22Ibn+Khald%C5%ABn%22&dq=inauthor:%22Ibn+Khald%C5%ABn%22|year= 1952 |publisher=University of California Press}} |
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:{{cite journal|last=Kafescioǧlu|first=Çiǧdem|year=1999|title="In The Image of Rūm": Ottoman Architectural Patronage in Sixteenth-Century Aleppo and Damascus|journal=Muqarnas|publisher=BRILL|volume=16|pages=70–96|doi=10.2307/1523266}} |
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:{{cite book|last1=Kamal al-Din|last2=[[Ibn Kathir]]|first1=Nuha|title=The Islamic view of Jesus|url=https://books.google.com/books?id=dA2FnCiKtDAC&pg=PA102&dq=Minaret+Jesus+Umayyad#v=onepage&q=Minaret%20Jesus%20Umayyad&f=false|year=2002|publisher=Islamic Books|isbn=977-6005-08-X}} |
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:{{Citation|title=Encyclopaedia of the history of science, technology, and medicine in non-western cultures|url=https://books.google.com/books?id=raKRY3KQspsC&dq=Ibn+al-Shatir+umayyad+sundial|editor1-first=Helaine|editor1-last=Selin|editor-link=Helaine Selin|publisher=Springer |year=1997|isbn= 978-0-7923-4066-9}}. |
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:{{cite journal|last=Walker|first=Bethany J.|date=Mar 2004|title=Commemorating the Sacred Spaces of the Past: The Mamluks and the Umayyad Mosque at Damascus|journal=Near Eastern Archaeology|publisher=The American Schools of Oriental Research|volume=67|issue=1|pages=26–39|doi=10.2307/4149989}} |
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:{{cite book|first=Michael|last=Winter|last2=Levanoni|first2=Amalia|title=The Mamluks in Egyptian and Syrian politics and society|url=https://books.google.com/books?id=NBBMJJTEoKMC&dq=Mamluk+Umayyad+Mosque+Levanoni|year=2004|publisher=BRILL|isbn=90-04-13286-4}} |
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:{{Citation|title=Waqfs and urban structures: the case of Ottoman Damascus|first1=Richard|last1=Van Leeuwen|publisher=BRILL|year=1999|url=https://books.google.com/books?id=2K8dGsd2KCsC&pg=PA95&dq=Umayyad+Mosque+Ottoman#v=onepage&q=Umayyad%20Mosque%20Ottoman&f=false|isbn=90-04-11299-5}} |
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==関連項目== |
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==外部リンク== |
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*[https://online.wsj.com/article/NA_WSJ_PUB:SB10001424052748703571704575340833854939358.html Christian Sahner, "A Glistening Crossroads," The Wall Street Journal, 17 July 2010] |
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*[http://www.manar-al-athar.ox.ac.uk/dams/pages/search.php?search=!collection541 For freely downloadable, high-resolution photographs of the Umayyad Mosque (for teaching, research, cultural heritage work, and publication) by archaeologists, visit Manar al-Athar] |
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2018年8月27日 (月) 10:47時点における版
ウマイヤ・モスク Umayyad Mosque جامع بني أمية الكبير | |
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基本情報 | |
所在地 | シリア・ダマスカス |
座標 | 北緯33度30分43秒 東経36度18分24秒 / 北緯33.511944度 東経36.306667度座標: 北緯33度30分43秒 東経36度18分24秒 / 北緯33.511944度 東経36.306667度 |
宗教 | イスラム教 |
地域 | レバント |
現況 | 現行 |
建設 | |
形式 | モスク |
様式 | ウマイヤ |
完成 | 715年 |
建築物 | |
ミナレット数 | 3 |
ミナレット高 | 253フィート |
資材 | 石、大理石、タイル、モザイク |
ウマイヤ・モスク(アラビア語ラテン翻字: Ğāmi' Banī ‘Umayya al-Kabīr, Ğāmi' ‘Umawī al-Kabīr, 英: Umayyad Mosque)は、ダマスクスの旧市街にある、世界で最も古いイスラーム教の礼拝所の一つ[1][2]。ダマスクスの金曜モスク(ジャーミイ)である。
ダマスクスはエジプトとメソポタミアを繋ぐ通商路の途中にあって上古より都市が栄え、非常に古い時代から雷神ハダドを祀る神殿があった。4世紀末に神殿があった聖所の上に洗礼者ヨハネに奉献するキリスト教の教会が建てられた。ウマイヤ・モスクは、634年のムスリムによるダマスカス征服の後、当該洗礼者ヨハネ教会が改装されたものである。
遅くとも6世紀には洗礼者ヨハネの首が当地にあるという伝説が流布しており、モスク建設中に実際に発見されたとされる。ムスリムの間には世界の終末の日における救世主イエスの再臨はウマイヤ・モスクにて実現するという信仰がある。680年のカルバラーにおけるフサインの殉教のあと、その一族の拘引先がこのモスクであったため、シーア派の信仰にも重要なモスクである。サラーフッディーン・アイユービーの霊廟は、このモスクの北側の壁に付属した小さな庭の中にある。
歴史
先イスラーム時代
ウマイヤ・モスクが立地している場所は鉄器時代から何らかの聖所であった可能性がある。ダマスクスがアラム人の都市国家連合の首都であった頃には、雷雨の神ハダド神を祀る大きな神殿があった。この時代の神殿の一部と見られる石が残されており、それにはアラム王ハザエル治世下の日付がある(ダマスクス国立博物館蔵)[3]。雷神ハダドの神殿は街の中心的な役割を担い続けていたが、ローマ帝国が街を征服した紀元前64年以後、ハダドはローマ人の信仰する雷神ユピテルと同一視されるようになった[4]。 ローマ人は神殿をユピテル神殿として再構成することにし、ダマスクス生まれの建築家アポロドーロスに神殿の拡張を行わせた[5]。
このローマ時代の神殿は、のちに皇帝崇拝儀礼の中心になってしまったが、もともとはエルサレムのユダヤ教徒の神殿に対応するものになることが意識されていた[6]。ローマ時代の前半を通じて、ダマスクスのユピテル神殿はしょっちゅう改修が行われた。また、そのたびに高位神官が富裕な市民から奉献を集め、改修後の儀式を行った[7]。神殿の東門は、セプティミウス・セウェルスの在位年間(r. 193–211 CE)に拡張された[8]。その後、紀元後4世紀ごろまでには、二重の壁が築かれる。外側の壁はその中に市場も包摂する広いエリアを町から画し、内側の壁はユピテルを祀る聖域本殿を外界から画した。大幅に拡張されたダマスクスのユピテル神殿は、ローマ帝国シリア属州の中で最も大きい神殿になった[9]。
4世紀も終わりごろの391年になると、皇帝テオドシオス1世(r. 379–395)がユピテル神殿をキリスト教のカテドラルに改装した。最もこの改装により直ちに洗礼者ヨハネへの奉献が行われたわけではなく、ダマスクスの司教座がここに置かれただけである[10]。ダマスクスの司教座教会は、アンティオキアの大司教座の次席に位置づけられた[11]。洗礼者ヨハネへの奉献が行われたのは6世紀、ヨハネの首がこの地に埋められているという伝説が生まれて以後のことになる[12]。
ウマイヤ家のモスク
634年にハーリド・ブン・ワリード率いるアラブ・イスラーム教徒軍がダマスクスの街を包囲し、陥落させる(634年のダマスクス攻囲戦)。661年からウマイヤ家がカリフ位を世襲で独占する慣行が始まる。ウマイヤ家はダマスクス(アラビア語でディマシュクと呼ばれた)をイスラーム帝国全土を支配するための首都に選んだ。ウマイヤ朝の6代目カリフ、ワリード1世(在位705–715年)は、706年にビザンチン時代に建てられたキリスト教の聖堂の跡地にモスクを建てる計画を立てた[13]。これに先立って、イスラーム教徒のための礼拝所、ムサッラ(musalla)が、すでにキリスト教徒が使うカテドラル(聖堂)の南東部に建てられてはいた。ワリード・ブン・アブドゥルマリクは自ら工事を監督し、ムサッラを含むカテドラルのほとんどを一度壊すことを指示した。新しく建設されたモスクは、カテドラルのレイアウトに連関しないものになった。キリスト教会であったときは矩形で仕切られた聖域内の中心にカテドラルが設けられていたのに対し、モスクへの改築後の主たる礼拝空間は、南壁に面する位置に設けられることになった。キリスト教会のアーケードとそれを支える柱は、一旦取り外された後に再配置された。改築後の建物は、金曜日に市民が集会を開くための公共の施設となるように設計された。キリスト教徒は移転に反対したため、ワリードは、移転する代わりに、ダマスクスの征服時に接収したキリスト教会のすべてをキリスト教徒に返還するよう命じた。モスクの建物はワリードが没した直後の西暦715年、次代カリフのスライマーン・ブン・アブドゥルマリク(在位715–717)の時代に完成した。[14][15][16]
10世紀の歴史家イブン・ファキーフ・ハマダーニーによると、改築プロジェクトには60万から100万ディーナール金貨が費やされ、総計12000人の労働者の出身地は、西はマグリブから東はインドまでに及び、ペルシア人もいればギリシア人やコプト教徒の職人もいたという[14][17]。また、ビザンツ帝国の工芸職人が雇われたという(後期ローマ様式で風景や建物を描いた彼らの制作したモザイクは21世紀現在でも残っている)[18][19]。イブン・ファキーフはこの記載に続けて「モスクを建てている期間のあるとき、労働者らは、地下の洞窟のようになっている礼拝所を発見した。中に入った彼らは、そこでヤフヤー・ブン・ザカリヤー(洗礼者ヨハネ)の首が納められた箱を見つけた。報せを聞き検分したワリード1世は、まだ内装が大理石で覆われる前のモスクを支える柱のいずれかの下に首を埋め戻すように命じた。」といった内容のことを書いている[20]。
アッバース朝、ファーティマ朝の時代
750年のウマイヤ家の支配を終わらせた反乱に続いてアッバース家が権力の中枢を握り、首都はバグダードに移った。アッバース朝はダマスクスに対して軍事・商業上必要な関心を払う以上のことはしなかったため、ウマイヤ・モスクは財政難に苦しみ、8世紀から10世紀の間は目立った増築の記録がない[21]。当時アッバース朝は、ダマスクスにあるウマイヤ朝の遺物を組織的に破壊し、その文化的遺産を除去していったが、ウマイヤ・モスクについてはとりわけ重要なイスラームの大征服の象徴であるとみなして手をつけなかった[22]。ダマスクスの太守、ファドル・ブン・サーリフ・ブン・アリーは、780年にモスクの東側のエリアに「時のドーム」(قبةالساعة, クッバ・サーア、「時」とは最後の審判のときを意味する)を建て[23]、その9年後にはモスクに集まった財宝を納めるための「宝のドーム」(Qubbat al-Khazna, クッバ・ハズナ)を建てはじめた[22]。9世紀の地理学者シャムスッディーン・ムカッダスィーによれば、モスクの北側のエリアに建つ「花嫁のミナレット」(مئذنة العروس, マゥザナ・アラウス)は、カリフ・マアムーン(在位813-833年)が治めていた頃の831年に、アッバース朝により立てられた[21][22]。マアムーンはミナレットを立てる際、モスクの中にあったウマイヤ家を讃える碑文を除去したり内容を差し替えたりしたという[21]。
。10世紀始めにはシャーム地方(歴史的シリア)におけるアッバース家カリフの支配が崩壊し始め、以後、数十年に渡ってアッバース家カリフを名目上の主君とする自立的な政権がシャーム地方を支配する。970年にはシーア派を奉じるエジプトのファーティマ朝がダマスクスを得た。この時代のダマスクスの統治者によるウマイヤ・モスクの改修は、ほとんど記録されてない。その一方で、ウマイヤ・モスクの威信は多くのスンニー派ウラマーをダマスクスに惹き付け、ファーティマ朝の宗教的権威からある程度独立した地位を彼らに与えもしたので、ダマスクスはこの時代のスンニー派ウラマーの知的生産活動の中心になった[24]。ウマイヤ・モスクの北側にはベルベル人を主体としたファーティマ朝軍の駐屯地があったが、1069年にダマスクスの人々が反乱を起こし、駐屯地を襲った。その結果、モスク北側の壁を中心とした広範なブロックが破壊された[25]。
セルジューク朝、アイユーブ朝の時代
スンニー派王朝であったセルジューク・トルコは1078年にダマスクスを手に入れ、アッバース朝カリフの名目的な支配を回復した。セルジューク王トゥトゥシュ(在位1079年-1095年)は1069年に破壊されたモスクの補修を始めた[26]。1082年に宰相、アブー・ナスル・アフマド・ブン・ファドルは、モスクの中心になるドーム(クッバ)をより壮麗なかたちに補修せしめた[27]。ドームを支える2本の柱が強化され、北側のファサードの内側にあったウマイヤ朝時代のモザイクがまっさらに補修された。21世紀現在、モスク北側に存在するリワーク(柱列廊の一種)は、1089年に再建されたものである[26]。ダマスクスの統治をセルジューク朝から委ねられたアタベグの一人、トグテキン(在位1104-1128年)は、1110年にモスクの北壁を補修し、壁に設けた出入り口2箇所の扉の上方に設置した銘板に、自らの名前を刻み込ませた[28]。1113年にモースルを治めるアタベグ、シャラフッディーン・マウドゥード(在位1109-1113年)がウマイヤ・モスクの中で暗殺された[29]。12世紀中葉になるとダマスクスは十字軍国家との間の戦争が激しくなった。ダマスクスの防衛とエルサレムの奪還を諸国のムスリムに呼びかける使者は必ずウマイヤ・モスクに立ち寄った。イブン・アサーキルをはじめとしたウマイヤ・モスクの導師(イマーム)はジハードを説き、実際に1148年に十字軍がダマスクスに進軍した際は町の人々が集まってイマームの説教に耳を傾けた。ウマイヤ・モスクに集まった町の人々の抵抗にあい、十字軍は町の占領を最終的に諦めた[30]。
1154年からダマスクスはヌールッディーン・ザンギーの支配下に入り、ヌールッディーンの個人的命令によりウマイヤ・モスクの東門(バーブ・ジャイルーン)の外側に「ジャイルーンの水時計」という新たな記念碑的時計が建てられた[32]。水時計の設計者はムハンマド・サアーティー(Muhammad al-Sa'āti)という建築家である。水時計は1167年に一度焼失したのち、13世紀に入ってから、サアーティーの息子、リドワーンの手により再建され、14世紀までは存在したようである[33]。シチリアの地理学者イドリースィーは1154年にウマイヤ・モスクを訪れた[22]。
ダマスクスの新しい統治者となったアイユーブ朝は、街にいくつかの宗教施設を新設したが、ウマイヤ・モスクは街の信仰生活の中心としての地位を保った。当時イスラーム世界を旅して回ったイブン・ジュバイルは、ウマイヤ・モスクに複数の異なるザーウィヤ(クルアーン学習のための道場)が敷設されているさまを旅行記に書いている。1173年にモスクの北壁が再度出火により損傷したので、スルターン・サラーフッディーン・アイユービー(在位1174-1193年)はこれを修復した[34]。「花嫁のミナレット」も1069年の火事で焼失していたため[22]、スルターンは北壁の修復と同時に「花嫁のミナレット」も補修した[35]。その後、アイユーブ朝の内紛でダマスクスは大きな損害をこうむり、1245年にはモスク東側に立っていた「預言者イーサーのミナレット」が倒れた。当時ダマスクスのアミールはマリク・サーリフ・イスマーイール・ブン・アーディルであったが、これをマリク・サーリフ・アイユーブが攻めた。「預言者イーサーのミナレット」はこのとき行われたダマスクスの包囲戦で倒れ[36]、後年、再建されたものの装飾はあまり多くなされなかった[37]。サラーフッディーンはウマイヤ・モスクの周辺に埋葬され、彼の後継者たちの多くもこれに倣った[38]。
マムルーク朝の時代
アイユーブ朝の勢力下にあったダマスクスの町は、1260年から、十字軍国家と同盟を結んだキト・ブカ率いるモンゴル勢の支配下に入った。占領を指揮したアンティオキア王ボエモン6世は、ウマイヤ・モスクでカトリック式のミサを執り行うよう命じた[39]。ダマスクスは1260年中に、クトゥズやバイバルス率いるエジプトのマムルーク軍人勢力により奪還された。1270年にはスルターンになったバイバルスがウマイヤ・モスクの大規模修理を命じ、大理石やモザイク、金箔が補填されることになった。イブン・シャッダードのバイバルスの伝記によると、修理には2万ディーナールの費用がかかったという。修復されたモザイクの中でひときわ大きい「バラダー川のパネル」は、34.5×7.3m の大きさがあり、モスク西側の柱列廊を飾る[40]。バイバルスの事業の主要な目的は、モスクを装飾するモザイクの補修にあり、補修されたモザイクにはマムルーク朝建築の影響が色濃く反映された[41]。
1285年に当時を代表するウラマーの一人、イブン・タイミーヤがウマイヤ・モスクで聖典『クルアーン』の解釈を講義し始める。1300年にはイルハン朝のガザン・ハン率いるモンゴル軍がダマスクスを陥れた。イブン・タイミーヤはダマスクス市民に「ジハード」、すなわち、各人が分を尽くして抵抗すべきことを説いた[42]。マムルーク朝のカラーウーンが街を奪還したが、エジプト軍がダマスクスに突入する際、モンゴル軍はウマイヤ・モスクに投石機を配備して応戦しようとした。エジプト軍がダマスクス城の周りに火矢を放って投石機を燃やし、モンゴル軍の試みは失敗した[43]。
マムルーク朝のシリア太守、タンキーズは1326年から1328年にかけて、ウマイヤ・モスクの修復を実行した。この修復でミフラーブのモザイクが元通りにされたほか、堂内がすべて大理石のタイルで覆われるようになった。1328年の大改修をタンキーズに命じたのはスルターンのナースィル・ムハンマドである。スルターンは、キブラの方角にあたる南壁が不安定であったので、これを取り除いて立て直すこととしたほか、ズィヤーダ門をもっと東の位置に再配置した[40]。ところが、このときに大改修を受けた建築や造作の多くが、1339年の火事で損傷した[41]。天文学者のイブン・シャーティルがウマイヤ・モスクで活動したのもこの時代である。イブン・シャーティルは1332年からウマイヤ・モスクのムワッキト兼ムアッズィンとして働き、1376年に亡くなるまでその職にあった[44]。イブン・シャーティルは1371年にモスク北側のミナレットに大きな日時計を設置した[45]。なお、1392年にイーサーのミナレットが火事で焼け落ちた[46]。
1400年にティムールがダマスクスを包囲し、3月17日には町に火を放つ命令を下した。ウマイヤ・モスクはこのときの戦火によりひどく損傷した。イブン・ハルドゥーンが伝えるところによると東のミナレットが破壊により瓦礫と化し、中央のクッバが崩落した[47]。バフリー・マムルーク朝ほどウマイヤ・モスクの保守、修理、補修に意を注いだ王朝はほかにない。イスラーム建築の専門家、Finbarr B. Flood は、同王朝がこのモスクに「強迫観念症的関心」を持っていたと表現する[48]。1488年にバフリー・マムルーク朝のスルターン・カーイトベイはウマイヤ・モスクの南西端に新しくミナレットを建てさせた[49]。
オスマン朝の時代
1516年にセリム1世が率いるオスマン帝国軍はエジプトのマムルーク朝とシャーム地方北部のマルジュ・ダービクで戦い、これに勝利してダマスクスを得た。ウマイヤ・モスクにおいて、セリム1世の名前とともに執り行われる金曜礼拝の第1回目は、スルターン自身が出座した(金曜礼拝における説教は時の為政者の名前に言及し、イスラーム共同体の指導者が誰なのかを街のコミュニティで確認する意味合いがある)[50][51]。オスマン帝国はワクフと呼ばれる寄進制度を、支配地の地元住民の心を中央の権威に惹きつけるために利用する。ウマイヤ・モスクに設定されたワクフはダマスクスの街で最大規模になり、596人を雇用した。ワクフの監督官のポストは帝国中枢から派遣される官僚のものであったが、宗教がらみの役職はほとんどが地元のウラマーたちのためにとっておかれた[52]。ワクフ財には課税されるのが通例であるが、ウマイヤ・モスクに設定されたワクフには課税がなされなかった[53]。1518年からダマスクス総督とウマイヤ・モスク・ワクフ監督官に任命されたジャーンビルディー・ガザーリーは街全体の再建を計画し、その一環としてモスクの修理と再装飾を命じた[54]。
1661年になると、ウマイヤ・モスクでは、著名なスーフィーの一人、アブドゥルガニー・ナーブルスィーが多くの弟子を導き始めた[55]。
1893年にウマイヤ・モスクで火災が発生し、広い面積のモザイクと大理石が大きく損傷した[56]。火は礼拝用の大広間の内装にも燃え広がり、中央クッバが焼け落ちた。オスマン帝国はモスクの修復を開始したが、修復作業中にも火事が起きた。工事の人足が吸っていた水煙草の火の不始末が原因だった。オスマン帝国はウマイヤ・モスクの元来の構造を最大限生かしながら、最後まで補修工事をやり遂げた[57]。
ウマイヤ・モスクの図書室には「クッバ・ハズナ蔵書」が非常に昔からあったが[58]、1899年にその大部分がドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に譲渡され、残された少数の蔵書がダマスクスの帝国アーカイヴに移された[59]。
現代
ウマイヤ・モスクは、フランス委任統治領シリア時代の1929年から1954年にかけて大規模補修が行われ、シリア共和国の時代の1963年にも一度、大規模補修が行われた[60]。1980年代から1990年代にかけて、ハーフィズ・アサドはモスクの大規模改装を命じたがユネスコから批判を受けた[61]。ウマイヤ・モスクは世界の歴史・文化的観点からはどうであれ、シリアにおいてはさまざまな象徴的意味合いを持つ建物であり、その象徴性を時の政権が利用する方向に補修や改修が行われるのが常である[62]。2001年にはローマ・カトリック教会の法王ヨハネ・パウロ2世がウマイヤ・モスクを訪れた。名目上は洗礼者ヨハネの聖遺物への参拝が目的とされたが「ローマ・カトリック教会の法王が歴史上始めてイスラーム教のモスクを訪れた」ことに象徴的意義を含ませることを意図した訪問であった[63]。2011年3月15日にシリア内戦に関連した大規模な民主化要求デモがウマイヤ・モスクで行われたが、政府軍がすぐさま鎮圧し、金曜礼拝の妨げになるからという理由でデモ隊を排除した[64][65]。
建築
中庭と聖域
ウマイヤ・モスクは幅156メートル、奥行き97メートルの長方形の敷地を持ち、建築複合体の北エリアには「サフン」と呼ばれるイスラーム建築に特徴的な中庭を有する。一方で南エリアには「ハラム」と呼ばれる禁域が配置される。広大なサフンは4重の壁に囲まれ、石で舗装されている。舗装面は本来、高さが均一であったが、モスクの長い補修と増築の歴史の末に段差が発生するようになっていたところ、近年の補修によりウマイヤ朝時代の高さに再現された。サフンの周りは「リワーク」と呼ばれるアーケードで囲まれている。ウマイヤ・モスクのリワークは1759年の地震で一度全壊している。[66]
ハラムは、いずれもメッカの方角「キブラ」と平行する方向に走る3重のリワークにより外界と隔たれる。リワークはいずれも上下2層構造で、コリントス型円柱により持ち上げられた下層のアーチ1つあたり、2つのアーチが上層に配置される。このパターンは上述したサフンのリワークと同じである。3重リワークは、キブラと直交する方向に走る、ハラムで最大のリワークと交差する。このリワークは中央クッバの翼廊であり11個のアーチで構成され、モスクのミフラーブ(キブラを示す壁龕)やミンバル(ムフティーが説教する説教壇)が配置されている[66]。ハラム全体の広さは南北136メートル、東西37メートルである[67]。
ミフラーブは4箇所にあるが、主ミフラーブはおおむね、モスク南壁の中点にある。副ミフラーブのうち東側にあるものは「サハーバのミフラーブ」と呼ばれる。9世紀の学者、ムーサー・ブン・シャーキルによると、サハーバのミフラーブはウマイヤ・モスクが建設された当初からこの位置にあり、イスラームの歴史の中で3番目に古いミフラーブである[67]。
穹窿
礼拝用の大広間の天井に配置されたウマイヤ・モスクで最大のクッバ(ドーム、穹窿)は、外から見ると鷲の頭に見え、大広間の東西の裾が鷲の広げた羽のように見えるので、「鷲のクッバ」(Qubbat an-Nisr)と呼ばれている[68]。「鷲のクッバ」は元来、木製であったが、1893年の火事で焼け落ちた後は石造になった[69]。高さは36メートルあり、八角形の基部の上にドーム構造体が乗る構成である。アーチ状の窓が2つある基部は、大広間から伸びる円柱(リワークの一部)により支えられている[66]。
尖塔
ウマイヤ・モスクの宗教複合は、3基のミナレットを有する。モスク北壁に位置する「花嫁のミナレット」(Madhanat al-Arus)は、正確な建築年代は不明であるものの、当モスクで最も古くに建てられたものである[22]。花嫁のミナレットの下層部は、9世紀、アッバース朝の時代に建てられたという説が有力である[22][70]。ウマイヤ朝時代に建てられた可能性も完全に否定はできないが、モスク北壁がワリード1世の最初の構想に含まれていたことを示す証拠が存在せず、アッバース朝時代の985年に花嫁のミナレットを訪れたムカッダスィーの地理書には、これが「最近建てられたものである」という記載がある[22]。花嫁のミナレットの上層部は1174年に建てられた[22]。花嫁のミナレットには螺旋状に設置された160段の石の階段があり、ムアッジンはこれを使って街の人々へアザーン(礼拝の呼びかけ)を朗誦するための場所に上った[71]。
花嫁のミナレットは鉛で葺いた屋根が設置されている部分を境に、上下二層に分かれる。下層の主塔部は古く、方形をしていて、四方に側廊を有する[71]。 主塔部は大型の石材より新しい上層の尖塔部は化粧石で建てられている。主塔部は屋根近くに、馬蹄形アーチにより構成された明かり取り用の開口部が複数ある。隣接する2つの馬蹄形アーチの間、各アーチを支える部分には略立方体の柱頭飾が置かれている。これら開口部の下には馬蹄形アーチより小型の湾曲した張り出しがあり、開口部の持ち送り積みを可能にしている[72]。「花嫁のミナレット」の名は、このミナレットの屋根を葺くのに使用した鉛を調達した商人の娘が、当時のシャーム地方の総督と結婚したというダマスクスに伝わる伝説に基づく。花嫁のミナレットには14世紀のイブン・シャーティルが設計した日時計が取り付けられている。ただし現在の日時計は18世紀に制作されたレプリカである[70]。
ウマイヤ・モスクの宗教複合の南東角に位置する「預言者イーサーのミナレット」は、高さが約77メートルあり、3基のミナレットの中で最も高い[73][74]。預言者イーサーのミナレットの原型となる塔の建設はアッバース朝時代の9世紀にまで遡るとする史料が複数存在するが[70]、ウマイヤ朝時代には既にあったとする史料もある。今ある預言者イーサーのミナレットの主構造体はアイユーブ朝時代の1247年、尖塔部はオスマン帝国時代に建設された[74]。主構造体のプランは四角形であるが、尖塔部分は八角形、上に行くほど次第に細くなり、先端に三日月の飾られている。壁で閉じた2列のリワーク(柱列廊)が主構造体に接続し、壁のない、同じく2列のリワークが尖塔部分に接続する[71]。ムスリムの信じる終末論では、審判のその日に預言者イーサーが反救世主に立ち向かうため天国から地上に降り立つ。イーサーはこのミナレットを目印に地上に降りてくるというのが地元ダマスクスの伝承であり、このミナレットの名称のいわれである[74]。この伝承と名称の由来は14世紀には既に定着しており、イブン・カスィール・ディマシュキーが著書でそのことを書いている[75]。
「西のミナレット」(マザナトル・ガルビーヤ)は、「カーイトベイのミナレット」と呼ばれることもあり、マムルーク朝のスルターン・カーイトベイが1488年に建設した[70]。西のミナレットには、マムルーク朝期に典型的なイスラーム期エジプト建築の影響がよく見てとれる[74]。西のミナレットは八角柱形状をしており、3列の柱廊の突き当たりに建てられている[71]。西のミナレットとイーサーのミナレットは、一般的には古代ローマ帝国の時代に建てられた塔(temenos)の基礎の上に建設されたものと理解されているが、ローマ時代にはこれらのミナレットが建つ場所に神殿が存在しなかったため、この通説は学術的には疑わしい[74]。
ウマイヤ・モスクが与えた文化的影響
最初期のモスク建築の一つであるウマイヤ・モスクは、ウマイヤ家を想起させるようなものこそ取り除かれてはいるが、それでも、8世紀始めごろの建築当初の構造と特徴が21世紀現在でもおおむね保たれた希少な建築例である。ウマイヤ・モスクは、その建設以来、シリア地方のみならず全世界的に、金曜礼拝モスク(ジャーミイ)の模範例とされてきた。美術史学者のFinnbar Barry Floodは、「ダマスクスの大モスクの建設は、ムスリムのヘゲモニーが確立されたことを街の景観に不可逆的に刻み込んだのみならず、以後の歴史においてシリア風モスクに「モスク建築の決定版」のような地位を与えることにもなった」と述べている[76]。ウマイヤ・モスクの全体構想は、世界中の大モスクのプロトタイプになっており、例えば、カイロではアズハル・モスクとザーヒル・バイバルス・モスクに模倣されている。スペインではコルドバの大モスク(聖マリア大聖堂)、トルコではブルサの金曜モスクとセリミエ・モスクの全体構想にウマイヤ・モスクからの影響を確認できる[77]。
信仰
ウマイヤ・モスクは、680年のカルバラーの惨劇ののち、預言者ムハンマドの一族に属する婦人や幼子たちが、イラク中央部から歩いて行かされた終着地であるため、シーア派、スンナ派、双方にとって信仰の上で重要な意味を持つ場所となっている[78]。ウマイヤ・モスクに連行された彼女らは、当地でさらに60年間囚われの身になった[79]。
以下は、ウマイヤ・モスクの中にある重要な建築の一覧である。
西側
- バーブ・サーアト(Bāb as-Sā‘at)と呼ばれる門。 – カルバラーから連行された囚人が、モスク内に入る前に72時間この場所で立たされたといういわれのある門[80]。この間にヤズィード1世は、ダマスクスの街と宮殿を豪華に見せようと取り繕っていた[80]。
南翼(主礼拝所)
- 洗礼者聖ヨハネ(ムスリムには預言者ヤフヤーの名で知られる)のほこら。 - スユーティーによると、天地創造以来、天と地はたった2人の人のためにしか、泣いたことがないという。その2人とは、ヤフヤーとフサインである[81]。
- 白いミンバル。- アリー・ブン・フサインがヤズィードの開いた法廷で弁護を行った場所[82]。
- ミンバル前の床の高いところ。 - ヤズィードの前に引き出された婦人たちが立った場所。
- 木製のバルコニー。- 法廷でヤズィードが座ったところ。
東側
- ガラス張りのミフラーブ - カルバラー以後、囚人になったアリーが、その後礼拝を行った場所。
- 壁に埋め込まれた金属製の立方体 - フサインの首が晒された場所。
- 金属製の檻 - カルバラーで殺害された殉教者の首が置かれた場所。
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