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'''山本 又五郎'''(やまもと またごろう)(辻村又五郎改め/辻村は出身地)は、初代、戦国時代の[[1580年]](天正年間頃)から第17代1960年(昭和35年)死去まで[[新潟県]][[村上市]]に籍を置いた「禁裏諸司[[https://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E7%A6%81%E8%A3%8F%E5%BE%A1%E6%89%80%E5%BE%A1%E5%AE%9A%E7%9B%AE]]真継大和守[[https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/syozou/takemurake.pdf]]」支配の鋳物師[[https://www.city.ritto.lg.jp/hakubutsukan/sub36.htm]](栗東歴史民俗博物館 「諸国出職明細鑑」)の名跡である。 幕末期の1848~1855年(嘉永年中に村上藩主から江戸の召されて大砲2門を製作し、その功により禁裏参内し1867年(慶応3年7月)第13代山本又五郎は大監物兼大和守斉藤宿弥」から「御[[綸旨]](ごりんじ)」を受けている。
'''山本 又五郎'''(やまもと またごろう)(辻村又五郎改め/辻村は出身地)は、初代、戦国時代の[[1580年]](天正年間頃)から第17代1960年(昭和35年)死去まで[[新潟県]][[村上市]]に籍を置いた「禁裏諸司[[禁裏御所御定目]]真継大和守[https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/syozou/takemurake.pdf]」支配の鋳物師[https://www.city.ritto.lg.jp/hakubutsukan/sub36.htm](栗東歴史民俗博物館 「諸国出職明細鑑」)の名跡である。 幕末期の1848~1855年(嘉永年中に村上藩主から江戸の召されて大砲2門を製作し、その功により禁裏参内し1867年(慶応3年7月)第13代山本又五郎は大監物兼大和守斉藤宿弥」から「御[[綸旨]](ごりんじ)」を受けている。
 (参考)1854年((嘉永6年)[[黒船来航]]、1858([[安政の大獄]] 天皇は[[孝明天皇]]・[[明治天皇]]また[[徳川家茂]]・[[徳川慶喜]])」
 (参考)1854年((嘉永6年)[[黒船来航]]、1858([[安政の大獄]] 天皇は[[孝明天皇]]・[[明治天皇]]また[[徳川家茂]]・[[徳川慶喜]])」
鋳造物には、初代が(1586年)天正14年に鋳造した「[[鰐口]]」や、第15代の「銅製饕餮(とうてつ)文花瓶」がある。また一族の中には1911年(明治44年)に竣工した[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の装飾品製作に参画したり、[[新潟県立近代美術館]]に作品が所蔵されているもがある。それらの親族についても説明する。
鋳造物には、初代が(1586年)天正14年に鋳造した「[[鰐口]]」や、第15代の「銅製饕餮(とうてつ)文花瓶」がある。また一族の中には1911年(明治44年)に竣工した[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の装飾品製作に参画したり、[[新潟県立近代美術館]]に作品が所蔵されているもがある。それらの親族についても説明する。
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1596年(慶長20年)には二代目山本清兵衛が稲留流鉄砲術[[稲富祐直|(稲富祐直]])の印可状を受けた。
1596年(慶長20年)には二代目山本清兵衛が稲留流鉄砲術[[稲富祐直|(稲富祐直]])の印可状を受けた。


1618年([[元和]]4年)に堀直竒(ほりなおより)[[https://ja-two.iwiki.icu/wiki/%E5%A0%80%E7%9B%B4%E5%AF%84]]が[[村上城]]に転封されるにあたり、山本家も現在の[[村上市]]長井町に移住したと言われている<ref>第十八代山本・双六提供資料(斉藤茂吉(歌人とは別人)調べ){{Full citation needed|date=2018年5月}}</ref>。
1618年([[元和]]4年)に堀直竒(ほりなおより)[[堀直寄]]が[[村上城]]に転封されるにあたり、山本家も現在の[[村上市]]長井町に移住したと言われている<ref>第十八代山本・双六提供資料(斉藤茂吉(歌人とは別人)調べ){{Full citation needed|date=2018年5月}}</ref>。


[[村上大祭]]ー[[おしゃぎり]]は村上の名工「有磯周斎」によって製作されたものであるが、上町のおしゃぎりは、又五郎の家の祭りの際に「大[[梵鐘]]」を乗せた車を引かせていた名残である。(大梵鐘には山本又五郎が1633年[[寛永10年]]に鋳金した羽黒山大権現の銘がある。)また、長井町の鐘、塩町の鐘も又五郎が鋳物したもので、年月と銘が刻鋳され代々引き継がれ鋳鐘されている。(鐘の鋳方は鋳物師の技術の継承で、町々で音色が違う。鋳方、調合を替えて、鋳鐘したものと伝えられている。)(出典「村上大祭-おしゃぎり巡行」「昔のことせ!」大場喜代司著 村上商工会議所ニュースより)
[[村上大祭]]ー[[おしゃぎり]]は村上の名工「有磯周斎」によって製作されたものであるが、上町のおしゃぎりは、又五郎の家の祭りの際に「大[[梵鐘]]」を乗せた車を引かせていた名残である。(大梵鐘には山本又五郎が1633年[[寛永10年]]に鋳金した羽黒山大権現の銘がある。)また、長井町の鐘、塩町の鐘も又五郎が鋳物したもので、年月と銘が刻鋳され代々引き継がれ鋳鐘されている。(鐘の鋳方は鋳物師の技術の継承で、町々で音色が違う。鋳方、調合を替えて、鋳鐘したものと伝えられている。)(出典「村上大祭-おしゃぎり巡行」「昔のことせ!」大場喜代司著 村上商工会議所ニュースより)
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なお、山本家の代々の菩提寺は村上市羽黒町の體真山(たいしんざん) 満福寺[[https://www.sake3.com/jisha/98]]にある。満福寺には「山本家」が昭和12年に再建した墓碑があるが、鋳物でできた「球形の墓碑」底部を獅子が囲み、威風を漂わせている。(代々の又五郎の歴代履歴は満福寺の過去帳によるもの)
なお、山本家の代々の菩提寺は村上市羽黒町の體真山(たいしんざん) 満福寺[https://www.sake3.com/jisha/98]にある。満福寺には「山本家」が昭和12年に再建した墓碑があるが、鋳物でできた「球形の墓碑」底部を獅子が囲み、威風を漂わせている。(代々の又五郎の歴代履歴は満福寺の過去帳によるもの)
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=== 第13代 ===
=== 第13代 ===
本名は輝員(てるかず)(作銘)愎斎1873(明治6年9月12日)
本名は輝員(てるかず)(作銘)愎斎1873(明治6年9月12日)
1824(文政7歳次甲申年2月)聴松山(ちょうしょうざん)浄国寺[[https://www.sake3.com/jisha/77]]の第18代住職から「鰐口」を贈られる。
1824(文政7歳次甲申年2月)聴松山(ちょうしょうざん)浄国寺[https://www.sake3.com/jisha/77]の第18代住職から「鰐口」を贈られる。
[[File:Jyoukokuji_souhujyou.jpg|浄国事から山本又五郎に贈られた証文|300px]] 1844年(天保15年)新潟に呼ばれ午砲を鋳る。また大砲を鋳る見積書を出す。(嘉永の銘)1848年(嘉永6年)に苗字帯刀合印を許された。 1849年(嘉永7年)には藩主の[[内藤信思]]から江戸に召され、大砲二門を鋳建てた。1866年(慶応2年)禁裏へ炉籠を納める。1867年([[慶応]]3年)、越後鋳物師の惣代として禁裏に参内している。
[[File:Jyoukokuji_souhujyou.jpg|浄国事から山本又五郎に贈られた証文|300px]] 1844年(天保15年)新潟に呼ばれ午砲を鋳る。また大砲を鋳る見積書を出す。(嘉永の銘)1848年(嘉永6年)に苗字帯刀合印を許された。 1849年(嘉永7年)には藩主の[[内藤信思]]から江戸に召され、大砲二門を鋳建てた。1866年(慶応2年)禁裏へ炉籠を納める。1867年([[慶応]]3年)、越後鋳物師の惣代として禁裏に参内している。


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:1586年([[天正]]4年)製作。約30㎝(経六寸三分)約1.9㎏(重量五百匁)。「義興有立願之旨建御堂掛之 天正十四年弐月吉日 山本又五郎」の刻銘がある。
:1586年([[天正]]4年)製作。約30㎝(経六寸三分)約1.9㎏(重量五百匁)。「義興有立願之旨建御堂掛之 天正十四年弐月吉日 山本又五郎」の刻銘がある。
:元来は、[[大宝寺義興]]が病気平癒祈願の一環として建立した神社仏閣の一つである田町(現・村上市長井町)の弁天堂に掛けられていた。(その義興とは庄内大浦城(現鶴岡市大山)の城主であった武藤義興、東禅寺氏は武藤の一族で(現酒田市)東禅寺城の城主であった人で最上義光につき武藤氏を亡ぼした人である。)〔1〕
:元来は、[[大宝寺義興]]が病気平癒祈願の一環として建立した神社仏閣の一つである田町(現・村上市長井町)の弁天堂に掛けられていた。(その義興とは庄内大浦城(現鶴岡市大山)の城主であった武藤義興、東禅寺氏は武藤の一族で(現酒田市)東禅寺城の城主であった人で最上義光につき武藤氏を亡ぼした人である。)〔1〕
:1819年(文政14年)に御堂が大破して取り壊すこととなり、御堂とともに今の浄国寺[[https://yaokami.jp/1156371/]]に預けられた。浄国寺の第18代住職が第13代又五郎に贈り、以降は前記の預託まで山本家で所蔵された。
:1819年(文政14年)に御堂が大破して取り壊すこととなり、御堂とともに今の浄国寺[https://yaokami.jp/1156371/]に預けられた。浄国寺の第18代住職が第13代又五郎に贈り、以降は前記の預託まで山本家で所蔵された。


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2018年6月29日 (金) 00:01時点における版

山本 又五郎(やまもと またごろう)(辻村又五郎改め/辻村は出身地)は、初代、戦国時代の1580年(天正年間頃)から第17代1960年(昭和35年)死去まで新潟県村上市に籍を置いた「禁裏諸司禁裏御所御定目真継大和守[1]」支配の鋳物師[2](栗東歴史民俗博物館 「諸国出職明細鑑」)の名跡である。 幕末期の1848~1855年(嘉永年中に村上藩主から江戸の召されて大砲2門を製作し、その功により禁裏参内し1867年(慶応3年7月)第13代山本又五郎は大監物兼大和守斉藤宿弥」から「御綸旨(ごりんじ)」を受けている。  (参考)1854年((嘉永6年)黒船来航、1858(安政の大獄 天皇は孝明天皇明治天皇また徳川家茂徳川慶喜)」 鋳造物には、初代が(1586年)天正14年に鋳造した「鰐口」や、第15代の「銅製饕餮(とうてつ)文花瓶」がある。また一族の中には1911年(明治44年)に竣工した日本橋の装飾品製作に参画したり、新潟県立近代美術館に作品が所蔵されているもがある。それらの親族についても説明する。

鰐口 全景
鰐口 又五郎 義興 全景

 

御綸旨(慶長3年)

 


山本家の来歴

山本家は近江国栗太郡辻村(現・滋賀県栗東市)の出身で、その来往は室町時代といわれているが明瞭ではない[1]

祖先は山本清兵衛と称し、1175年(安元年中)又次郎清澄の時に越後国に移転、関谷、山本なる地に移転した。その後、城資国(城資永の父)の乱(じょうすけくにの乱)[2]、越後平氏に参加し平民となり、一族は塔城山下の塔城村天神岡に移転した。

1596年(慶長20年)には二代目山本清兵衛が稲留流鉄砲術(稲富祐直)の印可状を受けた。

1618年(元和4年)に堀直竒(ほりなおより)堀直寄村上城に転封されるにあたり、山本家も現在の村上市長井町に移住したと言われている[2]

村上大祭おしゃぎりは村上の名工「有磯周斎」によって製作されたものであるが、上町のおしゃぎりは、又五郎の家の祭りの際に「大梵鐘」を乗せた車を引かせていた名残である。(大梵鐘には山本又五郎が1633年寛永10年に鋳金した羽黒山大権現の銘がある。)また、長井町の鐘、塩町の鐘も又五郎が鋳物したもので、年月と銘が刻鋳され代々引き継がれ鋳鐘されている。(鐘の鋳方は鋳物師の技術の継承で、町々で音色が違う。鋳方、調合を替えて、鋳鐘したものと伝えられている。)(出典「村上大祭-おしゃぎり巡行」「昔のことせ!」大場喜代司著 村上商工会議所ニュースより)

  

なお、山本家の代々の菩提寺は村上市羽黒町の體真山(たいしんざん) 満福寺[3]にある。満福寺には「山本家」が昭和12年に再建した墓碑があるが、鋳物でできた「球形の墓碑」底部を獅子が囲み、威風を漂わせている。(代々の又五郎の歴代履歴は満福寺の過去帳によるもの)

また、同寺には山本一栄、山本自爐らの多くの遺作が残されている。(後述)

歴代

初代

又五郎。(1570年)元亀,近江国辻村に住。天正14年鋳造の鰐口。(1618年)元和長井町に移る。(出典「八紘」大正14年より)

第2代

1615年(慶長20年)砲術皆伝

第3代から第6代までは不詳

第7代

本名は平太郎 作銘(平太郎輝光)1694(元禄7年11月没)

第8代

本名は又五郎 作銘(又五郎輝光)1702年(元禄15年8月11日没)

吉祥寺の雲版を鋳金した。1700年(元禄13年)村上町又五郎作と刻鋳されていた。(出典 *新潟県史蹟名勝天然紀記物調査報告書第十二集 昭和19年3月発行  村上郷土史より)

第9代

本名は又五郎 作銘(輝利)1756(宝暦6年6月13日没)

安養寺の梵鐘を鋳造した。1741年(元文庚申年)施主渡辺三左衛門善水、渡辺儀右エ門葛延、作者冶工猪爪徳兵衛丞邦弘、冶工山本又五郎輝利 (出典 *新潟県史蹟名勝天然紀記物調査報告書第十二集 昭和19年3月発行  村上郷土史、関川村史より)

第10代

本名は又五郎 作銘(輝屋)1766(明和3年7月23日没)

光徳寺の半鐘を鋳造した。1772年(安永7年)旧藩主内藤家菩提寺 安永七戌天大檀那黄鐘大吉祥常照山光徳寺15世擁誉代 越後村上山本又五郎作 最明寺の半鐘を鋳造した。1788年(天明8年)村上住冶工山本又五郎輝屋ノ作と刻鋳されていた。 弘明寺の梵鐘を鋳造した。1790年(寛政2年)山本又五郎作と刻鋳されていた。 安養寺の雲版を鋳造した。1780年(安永9年)施主渡辺儀右エ門、作者山本又五郎輝屋(出典 *新潟県史蹟名勝天然紀記物調査報告書第十二集 昭和19年3月発行  村上郷土史、関川村史より)

第11代

本名は又五郎 作銘(輝義)1787(天明7年6月7日没)

第12代

本名は又五郎 作銘(輝正)1823(文政6年7月14日没) 当代より村上藩の庄屋を務めた。

第13代

本名は輝員(てるかず)(作銘)愎斎1873(明治6年9月12日) 1824(文政7歳次甲申年2月)聴松山(ちょうしょうざん)浄国寺[4]の第18代住職から「鰐口」を贈られる。 浄国事から山本又五郎に贈られた証文 1844年(天保15年)新潟に呼ばれ午砲を鋳る。また大砲を鋳る見積書を出す。(嘉永の銘)1848年(嘉永6年)に苗字帯刀合印を許された。 1849年(嘉永7年)には藩主の内藤信思から江戸に召され、大砲二門を鋳建てた。1866年(慶応2年)禁裏へ炉籠を納める。1867年(慶応3年)、越後鋳物師の惣代として禁裏に参内している。

桂岩寺の雲版を鋳造した。1826年(文政9年)村上住辻村又五郎輝員作有志寄附と刻鋳されていた。(出典 新潟県史蹟名勝天然紀記物調査報告書第十二集 昭和19年3月発行   村上郷土史、関川村史より) 

第14代

本名は政利、(作銘)一栄 1825年~1905(天保5年 - 明治38年6月16日没)。 

本伝寺の鰐口(小)を鋳造 1831(天保13年)辻村又五郎作と刻鋳されていた。(出典 *新潟県史蹟名勝天然紀記物調査報告書第十二集 昭和19年3月発行  村上郷土史より)鰐口(大)もあるが年月不明

香積寺の梵鐘を鋳造 1831(天保13年)村上住冶工辻村又五郎藤原輝貞之作と刻鋳されていた。

満願寺の梵鐘を鋳造。1861(文久3年)11世秀邦代施主惣旦中村上住山本又五郎政利作と刻鋳されていた。(出典 新潟県史蹟名勝天然紀記物調査報告書第十二集 昭和19年3月発行  村上郷土史より)

第15代

本名は直太郎、(作銘)正壽1857年(安政4年) -1891年(明治24年)34歳。

1890年の第3回内国勧業博覧会第二部(美術)第四類(美術工業)に「銅製饕餮文花瓶」

(径54.5高さ78.7)を出品し、宮内省が購入した(現・宮内庁三の丸尚蔵館所蔵)。

以下の写真は、上記の花瓶とは異なる、同人が作成した「大花瓶」および「書」である。

 

遠州流花道東都始祖 景松齊から入門誓杖を受けている。(銘 山本氏 景隣)

第16代

本名は椿平、(作銘)大椿(だいちん)1870年生(明治3年)~1945年(昭和20年4月9日没))

1893年(明治26年)に山本又五郎を家督相続。 

1906年(明治39年)に、浅草寺の宝篋印塔を補鋳した。

1918年(大正7年)に「鰐口」を東京国立博物館に預託した。

  

第17代

本名は光次(こうじ)、(作銘)光路 1894年(明治27年)- 1960年]]没(昭和35年7月21日没)。 1945年(昭和20年)の第17代山本又五郎を家督相続。 1935年(昭和10年)東京鋳金会第二十五回展覧会で鋳銅鶉置物で銅賞牌を受賞。審査員「香取秀眞」 山本又五郎は長男山本双六(そうろく)に1960年(昭和35年)に受け継がれた。(参考文献提供者)

光路 絵画

  

現存の名所保存の作品

東京国立博物館の所蔵される初代の作品

鰐口
東京国立博物館預託(1918年(大正7年)、第16代(大椿)より)
1586年(天正4年)製作。約30㎝(経六寸三分)約1.9㎏(重量五百匁)。「義興有立願之旨建御堂掛之 天正十四年弐月吉日 山本又五郎」の刻銘がある。
元来は、大宝寺義興が病気平癒祈願の一環として建立した神社仏閣の一つである田町(現・村上市長井町)の弁天堂に掛けられていた。(その義興とは庄内大浦城(現鶴岡市大山)の城主であった武藤義興、東禅寺氏は武藤の一族で(現酒田市)東禅寺城の城主であった人で最上義光につき武藤氏を亡ぼした人である。)〔1〕
1819年(文政14年)に御堂が大破して取り壊すこととなり、御堂とともに今の浄国寺[5]に預けられた。浄国寺の第18代住職が第13代又五郎に贈り、以降は前記の預託まで山本家で所蔵された。

宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵されている第15代の作品

銅製饕餮文花瓶
前記の通り、1890年(明治23年)の内国勧業博覧会への出展品である。古代中国の青銅器にみられる饕餮(とうてつ)文を胴部中央に配した花瓶。肩には細かな渦文とそれよりもやや大きい円形の龍文などで埋め尽くされている。また、肩には獏と思われる獣形の突起状のひれが6箇所にある。鋳物師としては大型鋳造の伝統を受け継ぎながら、古銅器の学習効果を取り込んだ、早世した作者の意欲作である。高台の畳付には「大日本帝國新潟県岩船郡冶工山本正壽造」の刻銘がある[3]

(宮内庁所有のため、写真は未添付)

浅草寺に残された宝篋印塔の補鋳 第16代の作品

宝篋印塔は、浅草寺本堂のすぐ横に設置されている、宝篋印陀羅尼経を収めた塔。塔裏面に「此塔宝暦中建後遭大震倒唯存断礎頃信徒謀損修之擬明治三十七八年(日露戦争)役戦病死者及有像諸錬諸霊菩提資糧云 明治三十九年十二月 浅草寺現薫大僧正亮延 山本又五郎補」に刻銘がある

 村上市羽黒町 體真山(たいしんざん)満福寺に残された作品 

観音像の頭部
満福寺 観音像 頭部
雲版
満福寺 雲版
山本自爐 絵画「天女」  
満福寺 絵画 山本自爐作「天女」(冨士美茶園から寄贈されたもの)










親族

又五郎を名乗らないが、その係累で業績を残した人物。

山本貞次 本名(貞治)

15代の長男 1885年(明治18年) - 没年不詳。戸籍上では、1891年(明治24年)に6歳で山本又五郎を家督相続するも1893年(明治26年)8歳で家督相続を解除し、15代正壽の弟である大椿が家督を相続して16代となった。

東京の日本橋を装飾する麒麟および獅子像の鋳造を分担し、『開橋記念日本橋志 後編』(東京印刷、1912年)の「第三章 獅子と麒麟」に

適確なる職工とを有する欺業者として、岡崎雪聲、野上龍起、香取秀眞、平塚駒次郎、佐藤政五郎、山本貞次、高橋凌雲等の工場を使用し、各其徒弟職工を分属し、適当部分の工作に従事せん事を依嘱したものである。 — 『開橋記念日本橋志 後編』164頁

  「岡崎雪聲香取秀真

開橋記念日本橋志
日本橋 徳川慶喜公筆
















山本杜六(とろく)または(べい)本名(八十八)(やそはち)

15代の次男 1887年(明治20年)-1971年(昭和46年没)。貞次とともに日本橋の再築に関与した。17代(山本光路)とともに「又五郎家の略歴」を記載し残している。 東京で鋳物作品を残す、戦時中は村上市に疎開、その後、戦後は七宝を製作また、東京工芸高校で教鞭にあたった。出典(せきかわ]歴史とみちの館「横山正三と山本又五郎展」)


杜六の茶托

山本自爐 本名(二郎)

16代の次男で17代の弟1897年(明治31年)- 1954年(昭和29年)。鋳金を15代より学び、更に篆刻家の梨岡素岳に就く。香取正彦によると、1930年(昭和5年)に香取の父(香取秀真)らによって発足した工芸家グループ「七日会」のメンバーであった[4]。1934年(昭和9年)に商工大臣賞を受賞する。日展の特選作家となり、日本美術協会審査員に選ばれた。晩年は瀬波温泉に居住した。

伝統を踏まえた上で、モダニズムの感覚を取り入れた作品を多く生み出した。村上城址の土と瀬波の砂を使用するのが秘伝といわれた[5]。作品は新潟県立近代美術館に所蔵されている。

自爐 絵画

脚注

  1. ^ 村上市(編)『村上市史 通史編2』村上市、1999年、p.423(「近世 八章 三節 手工業と職人」)
  2. ^ 第十八代山本・双六提供資料(斉藤茂吉(歌人とは別人)調べ)[要文献特定詳細情報]
  3. ^ 宮内庁三の丸尚蔵館企画展示『古典再生ー作家たちの挑戦』図版解説、2016年、p.19(「東洋の美、新たなる挑戦」)
  4. ^ 香取正彦『鋳師の春秋』日本経済新聞社、1987年、[要ページ番号]
  5. ^ せきかわ歴史とみちの館『企画展 横山正三と山本又五郎展』図録 p.10

参考文献

  • 『開橋記念日本橋志 後編』東京印刷、1912年
  • 香取正彦『鋳師の春秋』日本経済新聞社、1987年、p.59(「金工家として独立」独立)
  • せきかわ]歴史とみちの館「横山正三と山本又五郎展」
  • 村上市(編)『村上市史 通史編2』村上市、1999年、p.423(「近世 八章 三節 手工業と職人」)
  • 村上市(編)『村上市史 資料編9』村上市、1992年、p.723(「近現代六 教育文化人物編 や行」)(東京都 第18代山本双六提供資料)

   同上              p.77~92 戦争に応召した梵鐘

  • 村上郷土史 村上本町教育会 昭和6年
  • 新潟県史蹟名勝天然紀記物調査報告書第十二集 昭和19年3月発行   
  • 宮内庁三の丸尚蔵館展覧会「古典再生ー作家たちの挑戦」図録(2016年)
  • 浅草寺宝篋印塔裏面碑(1906年)
  • 「八紘」(1925)大正14年九月八日号より作図
  • 「村上大祭-おしゃぎり巡行」「昔のことせ!」大場喜代司著 村上商工会議所ニュースより
  • 栗東歴史民俗博物館 「諸国出職明細鑑」
  • シリーズ藩物語 村上藩 2008年1月20日 第一版 著者 大場喜代司 発行所 ㈱現代書館
  • 関川村史 通史編 平成4年2月29日 編集 関川村村史編纂委員会 第1節第2章激動の昭和時代 p.790~793