「富士高砂酒造」の版間の差分
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[[近江商人]]である山中正吉が天保元年(1830年)に[[大宮町 (静岡県)|大宮町]](現・富士宮市)で興したことから始まる蔵元である<ref name="takasago1">{{PDFlink|[http://nnrc.e47.jp/140318-2.pdf (富士高砂酒造の蔵の歴史 |
[[近江商人]]である山中正吉が天保元年(1830年)に[[大宮町 (静岡県)|大宮町]](現・富士宮市)で興したことから始まる蔵元である<ref name="takasago1">{{PDFlink|[http://nnrc.e47.jp/140318-2.pdf (富士高砂酒造の蔵の歴史 近江商人と丁稚制度について)]}}</ref><ref>天保2年([[1831年]])とも</ref>。名を山中正吉商店と言い、屋号は「中屋」であった<ref name="takasago1" />。山中正吉はそれ以前にも[[文政|文政年間]]に天間村(現・[[富士市]])にて酒造業を始めるが失敗し、店舗を閉鎖している<ref name="takasago1" />。東海道を行商中に[[吉原宿]]にて助けた病人が能登杜氏であり、意気投合し天間に創業したという言い伝えがある<ref name="takasago2">{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/88/6/88_6_462/_pdf/-char/ja (山中宣三、「山中正吉商店」、『日本醸造協会誌88巻6号)]}}</ref>。それ以来能登杜氏との関係は続き、山中正吉商店は能登杜氏によって受け継がれていた。現在はそれを受け継いだ地元の杜氏が活躍している。高砂酒造の建築でも薬師蔵と弐号蔵は古く、百数十年以上前の建築が残されている<ref name="takasago2" />。 |
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近江商人と丁稚制度について)]}}</ref><ref>天保2年([[1831年]])とも</ref>。名を山中正吉商店と言い、屋号は「中屋」であった<ref name="takasago1" />。山中正吉はそれ以前にも[[文政|文政年間]]に天間村(現・[[富士市]])にて酒造業を始めるが失敗し、店舗を閉鎖している<ref name="takasago1" />。東海道を行商中に[[吉原宿]]にて助けた病人が能登杜氏であり、意気投合し天間に創業したという言い伝えがある<ref name="takasago2">{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1988/88/6/88_6_462/_pdf/-char/ja (山中宣三、「山中正吉商店」、『日本醸造協会誌88巻6号)]}}</ref>。それ以来能登杜氏との関係は続き、山中正吉商店は能登杜氏によって受け継がれていた。現在はそれを受け継いだ地元の杜氏が活躍している。高砂酒造の建築でも薬師蔵と弐号蔵は古く、百数十年以上前の建築が残されている<ref name="takasago2" />。 |
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=== 二代目以降 === |
=== 二代目以降 === |
2018年5月29日 (火) 00:13時点における版
種類 | 株式会社 |
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略称 | 富士高砂酒造 |
本社所在地 |
日本 〒418-0055 静岡県富士宮市宝町9-25 |
設立 | 天保元年(1830年) |
業種 | 食料品 |
法人番号 | 8080101012111 |
事業内容 | 酒類・味噌・醤油・食酢製造及び販売 |
代表者 | 取締役社長 山岸逸人 |
資本金 | 6,000万円 |
従業員数 | 17 |
関係する人物 | 山中正吉(創業者) |
外部リンク | http://www.fuji-takasago.com/ |
富士高砂酒造株式会社(ふじたかさごしゅぞう)は、静岡県富士宮市の清酒製造業者である。富士山の伏流水が敷地より湧き出し、この超軟水である伏流水を使った酒造りをしている。
歴史
山中正吉商店
近江商人である山中正吉が天保元年(1830年)に大宮町(現・富士宮市)で興したことから始まる蔵元である[1][2]。名を山中正吉商店と言い、屋号は「中屋」であった[1]。山中正吉はそれ以前にも文政年間に天間村(現・富士市)にて酒造業を始めるが失敗し、店舗を閉鎖している[1]。東海道を行商中に吉原宿にて助けた病人が能登杜氏であり、意気投合し天間に創業したという言い伝えがある[3]。それ以来能登杜氏との関係は続き、山中正吉商店は能登杜氏によって受け継がれていた。現在はそれを受け継いだ地元の杜氏が活躍している。高砂酒造の建築でも薬師蔵と弐号蔵は古く、百数十年以上前の建築が残されている[3]。
二代目以降
二代目正吉は明治26年(1893年)に同町阿幸地欠畑に欠畑酒店を創業し、サイダー・ラムネの飲料部を設けたという[1]。二代目の時代に廃仏毀釈から逃れた富士山の下山仏を祀るようになったといい、その菩薩立像は現在も高砂酒造の薬師蔵にて保管されている。薬師蔵は元は壱号蔵と呼ばれていたが、菩薩立像が祀られていたことから薬師蔵と呼ぶようになった[3]。この菩薩立像は薬師堂にあったと伝わるもので、銘文から享保4年(1719年)に江戸神田の鋳物師により制作され奉納されたものであることが分かっている。高砂酒造には菩薩像五体の他に薬師如来三躯が祀られている[4]。
六代目・七代目正吉の平成9年(1997年)に富士高砂酒造(株)となった。また同県掛川市横須賀の山中酒造は、昭和4年(1929年)に山中正吉商店から分家し独立した蔵元である[5]。