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「ジェンダーフリー」の版間の差分

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'''ジェンダーフリー'''(gender-free)とは、「社会的文化的性差からの自由」を目指す考え方であり、事実上日本でしか使われない用語となっている。「社会的文化的性差である(とされ[[ジェンダー]]にとらわれず、個々人それぞれが自分らしく個人としての資質に基づいて果たすべき役割を自己決定出来るようにしようという考え方運動である」推進側は捉える。その思想の背景には[[フェミニズム]]が介在しており、フェミニズム運動の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論運動が展開されることが多い。ただしフェミニストのすべてがジェンダーフリー推進派ではな、フェミニストではないジェンダーフリー支持者もる。
'''ジェンダーフリー'''(gender-free)とは、「社会的文化的性差からの自由」を目指す考え方である。


社会的文化的性差である[[ジェンダー]]にとらわれず、個々人それぞれが自分らしく個人としての資質に基づいて果たすべき役割を自己決定出来るようにしようという考え方運動とされる。その思想の背景には[[フェミニズム]]が介在しており、フェミニズム運動の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論運動が展開されることが多い。ただしフェミニストのすべてがジェンダーフリー賛同であるわけではない。また、フェミニストではないジェンダーフリー支持者も存在する。
日本で行われている「ジェンダーフリー」運動の考え方は、実際には、英語圏でいう「ジェンダー・イクォリティ」に近いものということができる。<br/>
「gender-free」という言葉自体はアメリカのフェミニスト教育学者、バーバラ・ヒューストンが用いたとされているが、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリーよりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」という'''批判的な文脈で使った言葉'''である。すなわち、日本において「社会的文化的性差からの自由」運動に「ジェンダーフリー」という用語が用いられるようになったのは、もともとは'''誤用'''によるものだったとされる。


日本で行われているジェンダーフリー運動の考え方は、実際には、英語圏でいう「ジェンダー・イクォリティ」「[[ジェンダー・バイアス・フリー]]」に近いものということができる。「gender-free」という言葉自体はアメリカのフェミニスト教育学者、バーバラ・ヒューストンが用いたとされているが、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリーよりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」という批判的な文脈で使った言葉である。すなわち、日本において「社会的文化的性差からの自由」運動に「ジェンダーフリー」という用語が用いられるようになったのは、もともとは誤用によるものだったとされる。
ジェンダーフリーには定義や考え方について様々な捉え方があり、推進派の論者でも、その主張には多少の違いがある。また、「ジェンダーフリーは性差を否定し、男女の相違を認めないもの」とする批判も存在する。

ジェンダーフリーには定義や考え方について様々な捉え方があり、賛同派の論者でも、その主張には多少の違いがある。
また、「ジェンダーフリーは性差を否定し、男女の相違を認めないもの」とする批判も存在する。


== ジェンダーフリー運動とそれをめぐる状況 ==
== ジェンダーフリー運動とそれをめぐる状況 ==


英語の"gender"は、一般に生物学的な性の概念を含むが、日本の上では、「ジェンダー」とは生物学的な性差ではなく文化的・社会的文脈における「男」そして「女」の役割やイメージのことだとされている。
英語の"gender"は、一般に生物学的な性の概念を含むが、ジェンダーフリーというが用いられる文脈では、「ジェンダー」とは文化的・社会的文脈における「男」そして「女」の役割やイメージに限定した意味で用いられている。
ジェンダーフリーとは和製英語で、欧米における「[[ジェンダー・バイアス・フリー]]」に相当する。この表現の方が性に関する社会的・文化的偏見を除去する姿勢がより明白である。


ジェンダーフリーは本来、欧米の自由主義的な運動の一部に起源を持ち、個人の選択の自由を社会制度として確立するための運動だと主張する人がいる。性に対する関心の深さから主にフェミニズムによって担われているが、近年では男性に対する文化的圧力を問題とする「[[男性学]]」「[[メンズリブ]]」などの活動もジェンダーフリーの一環として考えられる。また[[クィア]]と呼ばれる、同性愛など性的マイノリティーに属する層も大きな担い手である。
ジェンダーフリーは本来、欧米の自由主義的な運動の一部に起源を持ち、個人の選択の自由を社会制度として確立するための運動だと主張する人がいる。性に対する関心の深さから主にフェミニズムによって担われているが、近年では男性に対する文化的圧力を問題とする「[[男性学]]」「[[メンズリブ]]」などの活動もジェンダーフリーの一環として考えられる。また[[クィア]]と呼ばれる、同性愛など性的マイノリティーに属する層も大きな担い手である。
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:<span style="font-size:smaller;">'''※''' なお、「ジェンダーフリー」という用語について山口智美は</span>
:<span style="font-size:smaller;">'''※''' なお、「ジェンダーフリー」という用語について山口智美は</span>
:<span style="font-size:smaller;">「ジェンダー・フリー」という言葉は、行政主導で生み出され広められた。まず、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが論文で「ジェンダー・フリー」を批判した。それを誤読して、東京女性財団の刊行物が、「ジェンダー・フリー」を積極的に擁護する意味で紹介した。後、他の学者たちも意図的か誤読かはわからないが、その誤解をそのまま引いて、「ジェンダー・フリー」について解説した論文を出版し続けてきた。</span>
:<span style="font-size:smaller;">「ジェンダー・フリー」という言葉は、行政主導で生み出され広められた。まず、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが論文で「ジェンダー・フリー」を批判した。それを誤読して、東京女性財団の刊行物が、「ジェンダー・フリー」を積極的に擁護する意味で紹介した。後、他の学者たちも意図的か誤読かはわからないが、その誤解をそのまま引いて、「ジェンダー・フリー」について解説した論文を出版し続けてきた。</span>
:<span style="font-size:smaller;">と述べている([http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree2.htm 『ジェンダー・フリー』をめぐる混乱の根源] を参照)。</span>
:<span style="font-size:smaller;">と述べている([<a href="http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree2.htm" target="_blank" title="Add Link" style="text-decoration: none">http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree2.htm</a><AddLink-Mark> 『ジェンダー・フリー』をめぐる混乱の根源] を参照)。</span>


また、[[上野千鶴子]]など一部のフェミニストに、定義に曖昧な部分がある「ジェンダーフリー」という言葉を使用するとフェミニズム運動の展開に不利になることもあるので使用しないほうがよい(現実に上野自身は使用していない、とする)、と主張する向きも見られる([http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm 「ジェンダーフリー概念」から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係] を参照)。
また、[[上野千鶴子]]など一部のフェミニストに、定義に曖昧な部分がある「ジェンダーフリー」という言葉を使用するとフェミニズム運動の展開に不利になることもあるので使用しないほうがよい(現実に上野自身は使用していない、とする)、と主張する向きも見られる([<a href="http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm" target="_blank" title="Add Link" style="text-decoration: none">http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm</a><AddLink-Mark> 「ジェンダーフリー概念」から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係] を参照)。


日本政府の内閣府男女共同参画局はジェンダーフリーについて『一部に、画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で「ジェンダー・フリー」という用語を使用している人がいますが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではありません』と説明している(内閣府・男女共同参画関連用語集より引用)<!--一次情報の出展を明示し内容を正確に引用しました-->。この意味での「ジェンダーフリー」という用語は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも、[[日本]]政府でも、[[国際連合|国連]]でも、公式に使われていない。なお、「(生物学的な意味での)男女を区別せず処遇する」と言う意味でのgender-freeは、英米軍の公式用語として使用されているし、「(生物学的な)ジェンダー(性)にかかわらない(語彙など)」という意味では使われているので「英語にない完全な和製英語」という言い方も正しくない。2003年2月27日の予算委員会第一分科会における官房長官の答弁として、「ジェンダーフリーという言葉はいかなる場合でも使ってはいけないということではない」「誤解を招くような、そういうおそれがあるので政府として公式に使っていない」「使用する際に、例えば地方公共団体とか関係機関において用語を適切に定義して、それが誤解なく理解されるようにする、これが大事だ」との見解を示しているが(国会議事録検索システムより引用)、その後、男女共同参画局メーリングリストで「定義を示して使用するのは差し支えない」と局長が見解を示すなど、行政も混乱していると言える。<!--「通達が出された」とは、何に対する誰のどのような通達ですか?←日本政府が地方自治体や公的教育機関に、です ←その通達があいまいだった点への国会質問に対して答弁が出ています。-->
日本政府の内閣府男女共同参画局はジェンダーフリーについて『一部に、画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で「ジェンダー・フリー」という用語を使用している人がいますが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではありません』と説明している(内閣府・男女共同参画関連用語集より引用)<!--一次情報の出展を明示し内容を正確に引用しました-->。この意味での「ジェンダーフリー」という用語は、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でも、[[日本]]政府でも、[[国際連合|国連]]でも、公式に使われていない。なお、「(生物学的な意味での)男女を区別せず処遇する」と言う意味でのgender-freeは、英米軍の公式用語として使用されているし、「(生物学的な)ジェンダー(性)にかかわらない(語彙など)」という意味では使われているので「英語にない完全な和製英語」という言い方も正しくない。2003年2月27日の予算委員会第一分科会における官房長官の答弁として、「ジェンダーフリーという言葉はいかなる場合でも使ってはいけないということではない」「誤解を招くような、そういうおそれがあるので政府として公式に使っていない」「使用する際に、例えば地方公共団体とか関係機関において用語を適切に定義して、それが誤解なく理解されるようにする、これが大事だ」との見解を示しているが(国会議事録検索システムより引用)、その後、男女共同参画局メーリングリストで「定義を示して使用するのは差し支えない」と局長が見解を示すなど、行政も混乱していると言える。<!--「通達が出された」とは、何に対する誰のどのような通達ですか?←日本政府が地方自治体や公的教育機関に、です ←その通達があいまいだった点への国会質問に対して答弁が出ています。-->
この様に政府や自治体は一部の過激な論調を抑えるようにはしているが、福井県の男女共同参画関連施設において、政府の男女共同参画方針に相応しくない書籍を閲覧室から書庫に移した際、フェミニストから言論弾圧との苦情が殺到した事例もあり、政府や自治体が思うように男女共同参画政策を動かせない実態もある。
この様に政府や自治体は一部の過激な論調を抑えるようにはしているが、福井県の男女共同参画関連施設において、政府の男女共同参画方針に相応しくない書籍を閲覧室から書庫に移した際、フェミニストから言論弾圧との苦情が殺到した事例もあり、政府や自治体が思うように男女共同参画政策を動かせない実態もある。
<br/>東京都では、男女の違いを否定するという意味でのジェンダーフリーが、都教育委員会の男女平等の見解と異なることから、ジェンダーフリーという言葉を用いないように文書で通達している。また、国分寺市の講演にフェミニストである上野千鶴子を招くことを見送った事例がある。
<br/>東京都では、男女の違いを否定するという意味でのジェンダーフリーが、都教育委員会の男女平等の見解と異なることから、ジェンダーフリーという言葉を用いないように文書で通達している。また、国分寺市の講演にフェミニストである上野千鶴子を招くことを見送った事例がある。



なお、アメリカでは、パット・タンジェントをはじめとするテレバンジェリストと言われる保守派のテレビ宣教師達が、男女の役割分担を尊重し、子供は家庭で母親が育てるべきであると説いている。また[[世界教授アカデミー]]という任意団体が伝統的性文化への回帰を広く呼びかけている。[[世界教授アカデミー]]は[[統一教会]]との強固な資本関係を持つ。
なお、アメリカでは、パット・タンジェントをはじめとするテレバンジェリストと言われる保守派のテレビ宣教師達が、男女の役割分担を尊重し、子供は家庭で母親が育てるべきであると説いている。また[[世界教授アカデミー]]という任意団体が伝統的性文化への回帰を広く呼びかけている。[[世界教授アカデミー]]は[[統一教会]]との強固な資本関係を持つ。


ジェンダーフリーを批判する一派にカルト宗教が係わっていることで問題はかえって複雑化しており、批判側にカルトが係わっていることを喧伝することで、ジェンダーフリーという和製思想を守ろうという言動ジェンダフリー保派に多く観察される。
ジェンダーフリー批判派は、ジェンダーフリーを批判する一派にカルト宗教が係わっていることで問題はかえって複雑化していると考えている。賛同側から、批判側にカルトが係わっていることを批判されることで、ジェンダーフリーが守ることに繋がると考えている。


== ジェンダーフリーをめぐる論争 ==
== ジェンダーフリーをめぐる論争 ==


ジェンダーフリー運動については、推進派と反対派の間でさまざまな論争が行われている。
ジェンダーフリー運動については、賛同派と反対派の間でさまざまな論争が行われている。


ジェンダーフリーの考え方のひとつにある「[[性差別]]が起こるのは社会的・文化的性差(日本語の上での「ジェンダー」)があるからである」と捉える考え方は[[フェミニズム]]運動と重なる部分が大きい。推進派の一部には、性差・差異そのものを否定・相対化する過激な論者(主として、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなどの論者)もおり、この考え方にもとづき、性の区別の意識をなくそうという方向の教育も実際に行われている。
ジェンダーフリーの考え方のひとつにある「[[性差別]]が起こるのは社会的・文化的性差(日本語の上での「ジェンダー」)があるからである」と捉える考え方は[[フェミニズム]]運動と重なる部分が大きい。賛同派の一部には、性差・差異そのものを否定・相対化する過激な論者(主として、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなどの論者)もおり、この考え方にもとづき、性の区別の意識をなくそうという方向の教育も実際に行われている。


例えば、古くからいつまでも泣いている男の子を「男らしくない」とか、「~かしら」「~なの」「~わ」などの[[女性語]]を用いる男性を疎んじる風潮が一般的な傍ら、「俺」「僕」「お前」「食う」「うまい」「メシ(飯)」などの[[男性語]]を用いたり、大股を広げて歩く、腕あぐらをかく、長ズボンばかり穿いているといった女子の立ち居振る舞いを「女らしくない」というのさえ、時代にそぐわなくなってきているという極論まで一部で出ている
例えば、古くからいつまでも泣いている男の子を「男らしくない」とか、「~かしら」「~なの」「~わ」などの[[女性語]]を用いる男性を疎んじる風潮が一般的な傍ら、「俺」「僕」「お前」「食う」「うまい」「メシ(飯)」などの[[男性語]]を用いたり、大股を広げて歩く、腕あぐらをかく、長ズボンばかり穿いているといった女子の立ち居振る舞いを「女らしくない」というのさえ、時代にそぐわなくなってきているという極論まで一部で出ている
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しかし、社会的・文化的な性差とされる日本語の「ジェンダー」(英語の"gender"は生物学的性を含む)は、その社会の文化に強く結びついているため、それを全て画一的に排しようとするのは無理があるし、おそらく不可能である。また、推進側でも思想的方向性が統一されているわけではなく、上記のような理論には問題があるとの指摘をする者もいる。すなわち、性差を考慮しなくなること、否定すること=ジェンダーレスでは、構造的、生物的性差が隠蔽され、それがセクハラなどと結びつく可能性があるという主張である。(すなわち現存の性差を全て社会的所産と規定する[[構築主義]]の考え方を純粋に突き詰めれば、例えば男女別に分けてある公衆トイレや公衆浴場の区分、空港などで男性の係官が女性の身体検査をしない規定でさえ性差別であるとする議論に行き着いてしまう。この場合、不利益を蒙るのは男女どちらの側であるかは明白であろう) このような指摘をした推進側の論者は、ジェンダーフリーとは、画一的に生物学的な男女の性差までも否定しようとする考えではなく、男女の性差を個々の個体差(肯定的な「男らしさ・女らしさ」、否定的な「男らしくなさ・女らしくなさ」「男臭さ・女臭さ」)などの評価ではなく、個性としての「自分らしさ」として評価することに還元する運動である、としている。
しかし、社会的・文化的な性差とされる日本語の「ジェンダー」(英語の"gender"は生物学的性を含む)は、その社会の文化に強く結びついているため、それを全て画一的に排しようとするのは無理があるし、おそらく不可能である。また、推進側でも思想的方向性が統一されているわけではなく、上記のような理論には問題があるとの指摘をする者もいる。すなわち、性差を考慮しなくなること、否定すること=ジェンダーレスでは、構造的、生物的性差が隠蔽され、それがセクハラなどと結びつく可能性があるという主張である。(すなわち現存の性差を全て社会的所産と規定する[[構築主義]]の考え方を純粋に突き詰めれば、例えば男女別に分けてある公衆トイレや公衆浴場の区分、空港などで男性の係官が女性の身体検査をしない規定でさえ性差別であるとする議論に行き着いてしまう。この場合、不利益を蒙るのは男女どちらの側であるかは明白であろう) このような指摘をした推進側の論者は、ジェンダーフリーとは、画一的に生物学的な男女の性差までも否定しようとする考えではなく、男女の性差を個々の個体差(肯定的な「男らしさ・女らしさ」、否定的な「男らしくなさ・女らしくなさ」「男臭さ・女臭さ」)などの評価ではなく、個性としての「自分らしさ」として評価することに還元する運動である、としている。


これに対して反対派は、果たして個性・自分らしさという評価が可能なのかという指摘や、性差否定を目指さなくても結果として男女の中性化を招くのではないかという指摘をしている。さらに、推進派の中には性差・差異そのものを否定する過激な論者も存在する点を取り上げて、このような論者を含む運動は「家族および社会の崩壊につながりかねない」との批判も行っている。その例として、「『おはロック』の歌詞がジェンダーフリーに反する」「『桃太郎』のストーリーをイデオロギーによって改変」「挿絵で母親がエプロンをしていることは問題」といった、行きすぎともいえるジェンダーフリー教育が一部で行なわれていることを挙げている。
これに対して反対派は、果たして個性・自分らしさという評価が可能なのかという指摘や、性差否定を目指さなくても結果として男女の中性化を招くのではないかという指摘をしている。さらに、賛同派の中には性差・差異そのものを否定する過激な論者も存在する点を取り上げて、このような論者を含む運動は「家族および社会の崩壊につながりかねない」との批判も行っている。その例として、「『おはロック』の歌詞がジェンダーフリーに反する」「『桃太郎』のストーリーをイデオロギーによって改変」「挿絵で母親がエプロンをしていることは問題」といった、行きすぎともいえるジェンダーフリー教育が一部で行なわれていることを挙げている。


[[石原慎太郎]]東京都知事は、[[都議会]]定例会において、「最近、教育の現場をはじめさまざまな場面で、男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」、「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、[[ひな祭り]]や[[こいのぼり]]といった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」、「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たないのは自明の理だ」と強調し、ジェンダーフリー教育を[[公人]]の立場で公式に批判した。
[[石原慎太郎]]東京都知事は、[[都議会]]定例会において、「最近、教育の現場をはじめさまざまな場面で、男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」、「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、[[ひな祭り]]や[[こいのぼり]]といった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」、「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たないのは自明の理だ」と強調し、ジェンダーフリー教育を[[公人]]の立場で公式に批判した。


推進派側はこれを「少数による一部の運動をジェンダーフリーそのものであるかのようにミスリードするもの」と弁解したが、その後も推進派内で粛正がはかられることはなく、いまだ、過激な(とされる)教育が行われているのが実状である。
賛同派側はこれを「少数による一部の運動をジェンダーフリーそのものであるかのようにミスリードするもの」と弁解したが、その後も賛同派内で粛正がはかられることはなく、いまだ、過激な(とされる)教育が行われているのが実状である。


<!-- ジェンダーフリー運動に対する反発が多いことについては、次のような分析もある。-->
<!-- ジェンダーフリー運動に対する反発が多いことについては、次のような分析もある。-->
ジェンダーフリー運動が始まってから数年経ち、数多くの批判が行われるようになってきたが、これは、ジェンダーフリーの理論の直接的な問題点のみならず、推進派側が硬直した態度、好戦的な態度をとることによって、自ら敵を作っているからではないかという指摘もある。特に地方公共団体主催で行われた過去のジェンダーフリー公聴会では、会場から出た批判的な声を全て「クレーム」「バックラッシュ」として聞くに値しないかのような対応をしたことが一部報道された。中にはクレーム対応係を設けていたケースまである。こういった強引とも思える手法が明るみに出るにつれ、ますます反対派を勢いづかせることになったとも言われる。
ジェンダーフリー運動が始まってから数年経ち、数多くの批判が行われるようになってきたが、これは、ジェンダーフリーの理論の直接的な問題点のみならず、賛同派側が硬直した態度、好戦的な態度をとることによって、自ら敵を作っているからではないかという指摘もある。特に地方公共団体主催で行われた過去のジェンダーフリー公聴会では、会場から出た批判的な声を全て「クレーム」「バックラッシュ」として聞くに値しないかのような対応をしたことが一部報道された。中にはクレーム対応係を設けていたケースまである。こういった強引とも思える手法が明るみに出るにつれ、ますます反対派を勢いづかせることになったとも言われる。
<!-- フェミニストは拙速な差別是正を目指すあまり、安易な逆差別を推進し、反発を招いている。「男女」という表現を「女男」という表現にするなど、非本質的な部分に固執するあまり(「男女」が差別なら「女男」も差別と見なせるので矛盾しており、こうした矛盾がジェンダーフリーの理念に賛成している人まで敵にまわし始めているとの指摘もある)、必要以上に反感を買っている。-->
<!-- フェミニストは拙速な差別是正を目指すあまり、安易な逆差別を推進し、反発を招いている。「男女」という表現を「女男」という表現にするなど、非本質的な部分に固執するあまり(「男女」が差別なら「女男」も差別と見なせるので矛盾しており、こうした矛盾がジェンダーフリーの理念に賛成している人まで敵にまわし始めているとの指摘もある)、必要以上に反感を買っている。-->
いくらフェミニストが「正しい」とする理念を掲げても、社会には多様な価値観、感情を持った人達がおり、それらの人達と折り合いをつけながら徐々に是正していくことが必要であるのに、フェミニストは<!-- 怒りや憎しみという負の感情から逆差別に走りがちであり、 -->上記のような言動をとることも多く、これに対する反発から、フェミニズムのあら捜しをする勢力の拡大につながっているとも考えられる。
いくらフェミニストが「正しい」とする理念を掲げても、社会には多様な価値観、感情を持った人達がおり、それらの人達と折り合いをつけながら徐々に是正していくことが必要であるのに、フェミニストは<!-- 怒りや憎しみという負の感情から逆差別に走りがちであり、 -->上記のような言動をとることも多く、これに対する反発から、フェミニズムのあら捜しをする勢力の拡大につながっているとも考えられる。
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だが近年、ジョン・マネーの研究は間違いであったことが明らかになった([[デイヴィッド・ライマー]]の項を参照)。これにより、ジェンダーフリーの学術的な正当性は否定されたとの指摘を、反対派は行った。
だが近年、ジョン・マネーの研究は間違いであったことが明らかになった([[デイヴィッド・ライマー]]の項を参照)。これにより、ジェンダーフリーの学術的な正当性は否定されたとの指摘を、反対派は行った。


上記の事実が明らかになった後、推進派は、「すでにジェンダーフリー思想は様々な多岐にわたる分野の研究成果から成立しており古い学説に依拠するような時代は大昔に過ぎ去っている」とした(関連、[[文化相対主義]]、[[社会的構築主義]])が、実際には、ジョン・マネーが唱えた説は近年に出版されたフェミニズムの書物などにも記されている。それゆえ、「推進派は自らが依拠していた説をご都合主義的に翻した」との批判も受けることになった。
上記の事実が明らかになった後、賛同派は、「すでにジェンダーフリー思想は様々な多岐にわたる分野の研究成果から成立しており古い学説に依拠するような時代は大昔に過ぎ去っている」とした(関連、[[文化相対主義]]、[[社会的構築主義]])が、実際には、ジョン・マネーが唱えた説は近年に出版されたフェミニズムの書物などにも記されている。それゆえ、「賛同派は自らが依拠していた説をご都合主義的に翻した」との批判も受けることになった。


しかし、性差が後天的な要因でのみ決定されるという説が否定された一方で、これまで保守派の一部がジェンダーフリーを批判するために援用してきた脳神経学や遺伝子学などの分野において、男女の脳は従来言われていたほどの差はないのではないか、という傾向の主張もあり、ジェンダーフリー推進側は、このような主張にも注目すべきだとしている(最近の脳神経学の研究をわかりやすく紹介している本としては、田中富久子『脳の進化学 ――男女の脳はなぜ違うのか』など)。
しかし、性差が後天的な要因でのみ決定されるという説が否定された一方で、これまで保守派の一部がジェンダーフリーを批判するために援用してきた脳神経学や遺伝子学などの分野において、男女の脳は従来言われていたほどの差はないのではないか、という傾向の主張もあり、ジェンダーフリー推進側は、このような主張にも注目すべきだとしている(最近の脳神経学の研究をわかりやすく紹介している本としては、田中富久子『脳の進化学 ――男女の脳はなぜ違うのか』など)。
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
以下のリンクには、ジェンダーフリーに批判的な立場のものが含まれている。<!--左の断り書きを付け加えることには、「解説のページ以外を外部リンクに加えることは不適当」という意見を否定する意図はありません。-->
<!--なお、ジェンダーフリーについての解説のページ以外は不適当と考えられる-->
<!--なお、ジェンダーフリーについての解説のページ以外は不適当と考えられる-->
* [http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html ジェンダーフリーとは ](成城トランスカレッジ.com)
* [http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html ジェンダーフリーとは ](成城トランスカレッジ.com)

2006年8月1日 (火) 15:40時点における版

ジェンダーフリー(gender-free)とは、「社会的文化的性差からの自由」を目指す考え方である。

社会的文化的性差であるジェンダーにとらわれず、個々人それぞれが自分らしく個人としての資質に基づいて果たすべき役割を自己決定出来るようにしようという考え方・運動とされる。その思想の背景にはフェミニズムが介在しており、フェミニズム運動の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論・運動が展開されることが多い。ただし、フェミニストのすべてがジェンダーフリー賛同派であるわけではない。また、フェミニストではないジェンダーフリー支持者も存在する。

日本で行われているジェンダーフリー運動の考え方は、実際には、英語圏でいう「ジェンダー・イクォリティ」「ジェンダー・バイアス・フリー」に近いものということができる。「gender-free」という言葉自体は、アメリカのフェミニスト教育学者、バーバラ・ヒューストンが用いたとされているが、ヒューストンはこの言葉を「ジェンダーの存在を意識しない」という意味で使用しており、かつ、「ジェンダーフリーよりも、ジェンダーに起因する差別や格差に敏感な視点を常に持って教育を進めるべきだ」という批判的な文脈で使った言葉である。すなわち、日本において「社会的文化的性差からの自由」運動に「ジェンダーフリー」という用語が用いられるようになったのは、もともとは誤用によるものだったとされる。

ジェンダーフリーには定義や考え方について様々な捉え方があり、賛同派の論者でも、その主張には多少の違いがある。 また、「ジェンダーフリーは性差を否定し、男女の相違を認めないもの」とする批判も存在する。

ジェンダーフリー運動とそれをめぐる状況 

英語の"gender"は、一般に生物学的な性の概念を含むが、ジェンダーフリーという語が用いられる文脈では、「ジェンダー」とは文化的・社会的文脈における「男」そして「女」の役割やイメージに限定した意味で用いられている。

ジェンダーフリーは本来、欧米の自由主義的な運動の一部に起源を持ち、個人の選択の自由を社会制度として確立するための運動だと主張する人がいる。性に対する関心の深さから主にフェミニズムによって担われているが、近年では男性に対する文化的圧力を問題とする「男性学」「メンズリブ」などの活動もジェンダーフリーの一環として考えられる。またクィアと呼ばれる、同性愛など性的マイノリティーに属する層も大きな担い手である。 これら本来の「ジェンダーフリー」の意味から離れ、独自の政治的意味を付加する層も一部存在する。

参考文献 : http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html

あるジェンダーフリー運動ではフェミニズム運動の一環として、あるいはその考え方を中心にした文脈で理論、運動が展開されたため、この運動において用いられる「ジェンダー」の概念は、人文系の学問において一般的に用いられる中立的・客観的意味での「社会的文化的性差」とは異なっていることがある。

一部フェミニズムでは、日本語の「ジェンダー」は、男性と女性を平等で相互補完的に位置づけているものではなく、「男が上で女は下」「男が支配し女が従う」といった、非対称の関係として機能している、と捉えている。「ジェンダー」は男女の支配従属の関係を維持するための装置であり、また、ジェンダーを根底から規定し、女性を差別的状況におく社会的仕組みの中心をなすのが、性別役割分業であるとしている。その意味において、身体的性の概念を含む英語の"gender"とは意味が異なる。
すなわち、こういったジェンダーフリー運動における「ジェンダー」は、中立的な概念・用語ではなく、性別役割分業を階級構造であると見なし、また、これを解消すべきという意図が含まれている、政治的な概念・用語となっている。

つまり、こういったジェンダーフリー運動の目的は、女性のみが育児や家事を担う場合が多いことは差別構造であるので、この解消を目指すべきである、というものとなる。

参考文献 : 国立女性教育会館 女性学・ジェンダー研究会 編著『女性学教育/学習ハンドブック ジェンダー・フリーな社会をめざして〔新版〕』

また、この運動においては、「社会に男女の区別や性差の意識があるために役割分業も発生するから、男女を分ける制度をなくしてしまおう」という考え方のもとに、男女の差異そのものを否定・相対化してしまおうという主張をする者もいる。

この政策では、制度面の改革と評価面の改革という二面性が存在する。
たとえば、学校教育運動であるジェンダーフリー教育としては、以下のような特徴が挙げられる。
制度面では、男女に分けない共通性として、科目の共通性(男子も家庭科を必修にする等)、衣服・教材の共通性(体操服を両性共通のデザインにする等)、呼称の共通性(両性とも「さん」付けに統一する等)、呼び順の共通性(男女混合名簿等)など、各制度における両性の共通化を推し進める。
また、評価面では、ジェンダーステレオタイプによるバイアス(と推進側が考えるもの)を解消し、生活指導面(泣く男子は叱るのに、泣く女子は叱らない等の区別はしない)、進路指導面(女子が理系に進むことに消極的になるような誘導はしない)、固定的な役割分担を定めない(常に男子が学級委員、女子が副学級委員等と固定化しない、運動部のマネージャーを女子のみに限定しない)など、「個々の個性」に基づいた評価・進路指導の方針を進める、などである。
また、学校教育方面以外にも、育児教育や職業選択などでジェンダーフリー運動が展開されている。

この運動については、フェミニズムの活動家だけではなく、性差を否定的にとらえる男性による運動(メンズリブ運動)の活動家にも賛同者がいる。

これに対して批判側からは、性別は生物学的要素を多分に含むものであるから体格、出身、門地、民族その他の要素と同一に取り扱えない、差別ではない性差による区別は否定されるべきでない、といった批判が多くなされている。最近では社会生物学脳科学それに精神分析の立場から、両性を画一的に混同すべきではないと批判する言説も現れているが、その多くは専門的主流とはなっていない。

英語圏では、「ジェンダーフリー」という用語は用いられているが主流ではなく、「ジェンダー・エクイティ」や「ジェンダー・イクォリティ」が、日本の「ジェンダーフリー」と同じような「社会的文化的性差からの解放」を指すものとして、より多く用いられている。ただし、日本以外では、「あらゆる場面において男女の区別を解体すると、女性を対象にして保護や優遇措置を求めるフェミニズム運動にとって不利である」ことが早くから指摘されており、これを踏まえ、男女の区別を画一的に解体せずに、「ジェンダー・エクイティ」「ジェンダー・イクォリティ」運動を進めるべきであるというフェミニストも見られる。

なお、「ジェンダーフリー」という用語について山口智美は
「ジェンダー・フリー」という言葉は、行政主導で生み出され広められた。まず、アメリカの教育学者バーバラ・ヒューストンが論文で「ジェンダー・フリー」を批判した。それを誤読して、東京女性財団の刊行物が、「ジェンダー・フリー」を積極的に擁護する意味で紹介した。後、他の学者たちも意図的か誤読かはわからないが、その誤解をそのまま引いて、「ジェンダー・フリー」について解説した論文を出版し続けてきた。
と述べている([<a href="http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree2.htm" target="_blank" title="Add Link" style="text-decoration: none">http://home.uchicago.edu/%7Etomomiy/articlesj/gfree2.htm</a><AddLink-Mark> 『ジェンダー・フリー』をめぐる混乱の根源] を参照)。

また、上野千鶴子など一部のフェミニストに、定義に曖昧な部分がある「ジェンダーフリー」という言葉を使用するとフェミニズム運動の展開に不利になることもあるので使用しないほうがよい(現実に上野自身は使用していない、とする)、と主張する向きも見られる([<a href="http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm" target="_blank" title="Add Link" style="text-decoration: none">http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm</a><AddLink-Mark> 「ジェンダーフリー概念」から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係] を参照)。

日本政府の内閣府男女共同参画局はジェンダーフリーについて『一部に、画一的に男女の違いを無くし人間の中性化を目指すという意味で「ジェンダー・フリー」という用語を使用している人がいますが、男女共同参画社会はこのようなことを目指すものではありません』と説明している(内閣府・男女共同参画関連用語集より引用)。この意味での「ジェンダーフリー」という用語は、アメリカでも、日本政府でも、国連でも、公式に使われていない。なお、「(生物学的な意味での)男女を区別せず処遇する」と言う意味でのgender-freeは、英米軍の公式用語として使用されているし、「(生物学的な)ジェンダー(性)にかかわらない(語彙など)」という意味では使われているので「英語にない完全な和製英語」という言い方も正しくない。2003年2月27日の予算委員会第一分科会における官房長官の答弁として、「ジェンダーフリーという言葉はいかなる場合でも使ってはいけないということではない」「誤解を招くような、そういうおそれがあるので政府として公式に使っていない」「使用する際に、例えば地方公共団体とか関係機関において用語を適切に定義して、それが誤解なく理解されるようにする、これが大事だ」との見解を示しているが(国会議事録検索システムより引用)、その後、男女共同参画局メーリングリストで「定義を示して使用するのは差し支えない」と局長が見解を示すなど、行政も混乱していると言える。 この様に政府や自治体は一部の過激な論調を抑えるようにはしているが、福井県の男女共同参画関連施設において、政府の男女共同参画方針に相応しくない書籍を閲覧室から書庫に移した際、フェミニストから言論弾圧との苦情が殺到した事例もあり、政府や自治体が思うように男女共同参画政策を動かせない実態もある。
東京都では、男女の違いを否定するという意味でのジェンダーフリーが、都教育委員会の男女平等の見解と異なることから、ジェンダーフリーという言葉を用いないように文書で通達している。また、国分寺市の講演にフェミニストである上野千鶴子を招くことを見送った事例がある。

なお、アメリカでは、パット・タンジェントをはじめとするテレバンジェリストと言われる保守派のテレビ宣教師達が、男女の役割分担を尊重し、子供は家庭で母親が育てるべきであると説いている。また世界教授アカデミーという任意団体が伝統的性文化への回帰を広く呼びかけている。世界教授アカデミー統一教会との強固な資本関係を持つ。

ジェンダーフリー批判派は、ジェンダーフリーを批判する一派にカルト宗教が係わっていることで、問題はかえって複雑化していると考えている。賛同側から、批判側にカルトが係わっていることを批判されることで、ジェンダーフリーが守られることに繋がると考えている。

ジェンダーフリーをめぐる論争

ジェンダーフリー運動については、賛同派と反対派の間でさまざまな論争が行われている。

ジェンダーフリーの考え方のひとつにある「性差別が起こるのは社会的・文化的性差(日本語の上での「ジェンダー」)があるからである」と捉える考え方はフェミニズム運動と重なる部分が大きい。賛同派の一部には、性差・差異そのものを否定・相対化する過激な論者(主として、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、ポストモダン・フェミニズムなどの論者)もおり、この考え方にもとづき、性の区別の意識をなくそうという方向の教育も実際に行われている。

例えば、古くからいつまでも泣いている男の子を「男らしくない」とか、「~かしら」「~なの」「~わ」などの女性語を用いる男性を疎んじる風潮が一般的な傍ら、「俺」「僕」「お前」「食う」「うまい」「メシ(飯)」などの男性語を用いたり、大股を広げて歩く、腕あぐらをかく、長ズボンばかり穿いているといった女子の立ち居振る舞いを「女らしくない」というのさえ、時代にそぐわなくなってきているという極論まで一部で出ている

しかし、社会的・文化的な性差とされる日本語の「ジェンダー」(英語の"gender"は生物学的性を含む)は、その社会の文化に強く結びついているため、それを全て画一的に排しようとするのは無理があるし、おそらく不可能である。また、推進側でも思想的方向性が統一されているわけではなく、上記のような理論には問題があるとの指摘をする者もいる。すなわち、性差を考慮しなくなること、否定すること=ジェンダーレスでは、構造的、生物的性差が隠蔽され、それがセクハラなどと結びつく可能性があるという主張である。(すなわち現存の性差を全て社会的所産と規定する構築主義の考え方を純粋に突き詰めれば、例えば男女別に分けてある公衆トイレや公衆浴場の区分、空港などで男性の係官が女性の身体検査をしない規定でさえ性差別であるとする議論に行き着いてしまう。この場合、不利益を蒙るのは男女どちらの側であるかは明白であろう) このような指摘をした推進側の論者は、ジェンダーフリーとは、画一的に生物学的な男女の性差までも否定しようとする考えではなく、男女の性差を個々の個体差(肯定的な「男らしさ・女らしさ」、否定的な「男らしくなさ・女らしくなさ」「男臭さ・女臭さ」)などの評価ではなく、個性としての「自分らしさ」として評価することに還元する運動である、としている。

これに対して反対派は、果たして個性・自分らしさという評価が可能なのかという指摘や、性差否定を目指さなくても結果として男女の中性化を招くのではないかという指摘をしている。さらに、賛同派の中には性差・差異そのものを否定する過激な論者も存在する点を取り上げて、このような論者を含む運動は「家族および社会の崩壊につながりかねない」との批判も行っている。その例として、「『おはロック』の歌詞がジェンダーフリーに反する」「『桃太郎』のストーリーをイデオロギーによって改変」「挿絵で母親がエプロンをしていることは問題」といった、行きすぎともいえるジェンダーフリー教育が一部で行なわれていることを挙げている。

石原慎太郎東京都知事は、都議会定例会において、「最近、教育の現場をはじめさまざまな場面で、男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」、「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」、「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たないのは自明の理だ」と強調し、ジェンダーフリー教育を公人の立場で公式に批判した。

賛同派側はこれを「少数による一部の運動をジェンダーフリーそのものであるかのようにミスリードするもの」と弁解したが、その後も賛同派内で粛正がはかられることはなく、いまだ、過激な(とされる)教育が行われているのが実状である。

ジェンダーフリー運動が始まってから数年経ち、数多くの批判が行われるようになってきたが、これは、ジェンダーフリーの理論の直接的な問題点のみならず、賛同派側が硬直した態度、好戦的な態度をとることによって、自ら敵を作っているからではないかという指摘もある。特に地方公共団体主催で行われた過去のジェンダーフリー公聴会では、会場から出た批判的な声を全て「クレーム」「バックラッシュ」として聞くに値しないかのような対応をしたことが一部報道された。中にはクレーム対応係を設けていたケースまである。こういった強引とも思える手法が明るみに出るにつれ、ますます反対派を勢いづかせることになったとも言われる。 いくらフェミニストが「正しい」とする理念を掲げても、社会には多様な価値観、感情を持った人達がおり、それらの人達と折り合いをつけながら徐々に是正していくことが必要であるのに、フェミニストは上記のような言動をとることも多く、これに対する反発から、フェミニズムのあら捜しをする勢力の拡大につながっているとも考えられる。

産業界においては、男性のみ、あるいは女性のみが専有すると思われていた職業が両性に解放されたり、有能な女性が「機会の平等」によって社会進出すること、必要に応じて男性が育児休暇をとるなどの点において、女性の人材活用などの面で新自由主義と一部で重なるためもあり、保守派もそれほど批判的ではない。だが、「これまで、あるいは現在も不利な立場にある女性に対して、有利な環境や快適に過ごせる環境を整えることで、女性の社会進出を促進させる」という考え方にもとづき、各企業の入社試験・昇進や公務員試験等で女性を優先的に採用させようとするアファーマティブ・アクション、ポジティブ・アクションのような積極的施策を求める動きもあるが、こちらについては「結果平等である」「悪平等である」「共産主義的である」といった保守派からの反発が強い。同様に、アファーマティブアクションを義務づける法律が、かつてアメリカで制定されたが、米最高裁で違憲とされ、この法律は廃止された。

また、この思想に基づいて、日本国憲法が保障する「表現の自由」を侵す危険性がある検閲めいた行為や条例、本来自由国家において行なわれてはならない私的な場までの干渉・介入を許す条例が推進、あるいは制定され、上記と同じように保守派を中心に批判の声があがっている。推進側は「表現の自由を規制することはない」としているが、現実に条例は存在・制定され、論点のかみ合いが取れず、混乱が生じている。

ジェンダーフリーの実践例等

ジェンダーフリーの実践として次のような例があると言われている。しかし、男女共学化などは必ずしもジェンダーフリーの意図をもって行われているとは限らない。

【 教育現場 】

以前より日本教職員組合などは、「男の子だけの通過儀礼を廃止せよ」といった、ジェンダーフリーにつながる主張を行ってきた。さらに、女性の社会進出が進むにつれ、学校教育はより細かいジェンダーバイアスの撤廃を指摘されるようになった。そして男女共同参画基本法の制定により、一つの教育運動となったものである。

具体的な事例としては、以下のような事が教育現場で行われていると言われる。

  • クラス名簿を男女混合にする。
  • 男女の呼称を「さん」に統一する。
  • 「男女」の名詞を「女男」に変える。
  • スカートは最も「女らしい」服装なので、制服からスカートを廃止しようとした。
  • 女子の体操着ブルマー廃止と同時に、男子の短パンも廃止し、男女兼用のハーフパンツとする。(しかし、何故か男子にのみ強制されている丸刈りは未だに九州の一部公立中学校では廃止されていない。これは極めて深刻な男性差別である。)また、かつてはトレーニングウェアの色を男子は深緑、女子はエンジとしていたが、男女共用の青や(黄緑青緑)、(青紫赤紫)などどちらにも相応しい色に切り替えた。
  • 運動会の競技を男女混合にする。
  • ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。
  • 小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。
  • 男女別学の公立高校を共学にする。(大学では、女子大学はあるのに、男子大学はない。極めて深刻な男性差別である。)
  • 高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。
  • 黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。

【 団体等の活動 】

教育行政や団体の運動としては、次のような事例が挙げられる。

  • 日本教職員組合は2005年3月に発刊した「日教組政策制度要求と提言」の政策提言62において、国への政策提言として、男女平等教育のための基本方針の策定、学校における男女平等教育推進のための教職員への研究の実施、性別役割分業に基づく記述や挿し絵をなくすために教科書の検定にジェンダーの視点を入れることなどを提案している。また、活動のひとつとして「毎年2月をメディア・チェック月間と位置づけ、社会の中や自分の中にある「固定的なジェンダー意識」に気付き、問題化し、放送機関や関係機関に対し要請行動を行なって」いると述べている。
  • 日本女性学習財団発行の冊子『新子育て支援 未来を育てる基本のき』において、「無意識のうちに、子どもたちに『女らしさ』や『男らしさ』を押しつけるような子育てをしていませんか? ふり返ってみましょう」との言葉とともに、
「ひな祭り」や「鯉のぼり」といった伝統行事
女の子に「さくら」「美咲」「優花」という愛らしい名前をつけたり、男の子に「翔太」「翼」「大輝」というスケールの大きい名前をつけること
出産祝いで、女児にピンクの産着、男児に水色の産着を贈ること
などが、ジェンダーフリーに反する例として挙げられた。
冊子の記述について、「ひな祭り」や「鯉のぼり」のような伝統行事を否定するなどいきすぎであるとの指摘がなされたが、これに対して日本女性学会は、2003年3月の学会ニュースにて、これらの伝統行事に含まれていた「男は強く元気に/女は優しく美しく」と、「性別と人のありかたを結びつけるシンボリズム」は今日では適切でないとし、5月5日がこどもの日であるようにひなまつりも性別によらない祝いにするのが良い、との回答を行った。
  • 2003年に福岡市で開かれた女性フォーラムにおいて、昔話の「桃太郎」を「桃子」に変更した劇を上演。
  • 第156回国会において、社会民主党・市民連合の議員が、財界の出資による「全寮制男子校」設置の構想を批判したうえで、「今後、性別に特化した学校を設立することは、「男女共同参画」と矛盾するのではないか」等の質問を行った。にも関わらず、女子大学があって男子大学がないことに言及しないことは不公平である。
なお、これについて政府は、男女の共学については教育上尊重されるべきものであるが、すべての学校における男女の共学を一律に強制する趣旨のものではない、との見解を示している(参考:衆議院質問答弁・第156回常会質問23)。
  • 「ジェンダーチェック」を行い、ジェンダーフリーを"理解"していないと「化石」と認定される。


ジェンダーフリーの思想的背景

日本でジェンダーフリーという政治運動が起こった背景について、推進側は、女性の社会進出(賃金労働者化)が進み、男女観も多様化した中で、従来の男らしさ・女らしさというステレオタイプによる評価基準を不合理に感じたり窮屈に感じる人が増えてきたためとしている。 女性の高学歴化が進むに従い、「男性並の権利や生活」を求める女性も出てきた。しかし性差や「らしさの壁」に遮られ、男性と同等には扱われないことに気づき、男女の区別を廃止してしまう(ジェンダーフリー)ことに解決の道を見出した、といったものである。

そのため「男女共同参画社会基本法」が作られ、同法が一部のフェミニストたちに「ジェンダーフリーを推進するもの」だと認識されたことが、この運動が広がった要因のひとつだと考えられている。

本来はジェンダーフリーが「社会的・文化的に作られた性差(日本語の「ジェンダー」)からの離脱の自由」を認める風潮を目指すはずが、「社会的・文化的に作られた性差(日本語の「ジェンダー」)そのものが悪であり、無くす必要がある」にいつしか摩り替わった。それがフェミニストが画策した男女共同参画政策に連動した、教育現場でのジェンダーフリー教育で明らかになるにつれて、保守派のみでなく一般層の反発も受けることになった。 また、日本の代表的フェミニストの1人である上野千鶴子が著書『ジェンダー・フリーは止まらない』(松香堂)にも収録された2001年4月15日、NPO法人フィティ・ネット設立記念フォーラムでの講演にて、一個人が私的な思想信条の範疇で「女は嫁に行くのが一番だ、と私は信じています」と述べる行為すらも、「ドイツではヒットラーを支援するような発言をすると犯罪を構成します。(中略)人種に関しては許されないことが、なぜ女に関しては言ってもいいのでしょうか。それが「思想信条の自由」のもとに許していいのか、と思います。」と聴衆に訴えかけ、思想信条の自由を奪うべきとの立場からジェンダーフリーを説いた事実もあり、ジェンダーフリー批判が必ずしも誤解や中傷の類とは言えない側面も多分にある。

ジェンダーフリーの理論的・思想的背景については、ラディカル・フェミニストの江原由美子によれば社会主義のイデオロギーから来ているという(『フェミニズムの名著50』)。歴史的にみるとジェンダーフリーの発祥はフランスの社会主義者シャルル・フーリエの理論、フーリエによって提唱された「ファランステール」という生活集団に見られる(『フェミニズムの歴史』)。また旧ソ連ではアレンクサンドラ・コロンタイが同じような政策(家族廃止、家事労働の共同化等)を打ち出した。しかし、この政策は失敗に終わり1934年には旧ソ連政府も根本的見直しをすることになった(ニコラス・S・ティマシェフ「ロシアにおける家族廃止の試み」)。ジェンダーフリーと社会・共産主義の結びつきについては、安藤紀典「マルクス主義の女性解放論」が詳しい。

ただし現在のジェンダーフリー運動は、直接的には第二波フェミニズムを源としているという見方がされている。社会的文化的に形成された性差(ジェンダー)から解放されるべきだというジェンダーフリー運動の理論的背景は、社会主義・共産主義から直接繋がっているというよりも、フランスの哲学者シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』に代表される実存主義フェミニズムや、マルクス主義を女性運動の理論的根拠に採り入れたフェミニズム理論(ラディカル・フェミニストのシュラミス・ファイアストーンによる「妊娠・出産によって性の階級制度が生み出され、女性への抑圧となる構造は解消されるべきだ」という主張など)が大きく影響しているといえよう。これは、男女を権力関係と見なす傾向や、女性の「性と生殖に関する権利」などが主張される点に良く現れている。

しかし、にも関わらず、日本のジェンダーフリー運動は、アメリカ、ヨーロッパ、共産主義国のフェミニズム運動とは異なる部分も多い。それはジェンダーフリーという語が日本固有であること、さらにジェンダーフリーが問題にするジェンダーは「日本文化におけるジェンダー」であることに起因していると言えるだろう。

ジェンダーフリーにおける生物学的問題

ジェンダーフリーの論者は、ジェンダーフリーを正当化する理論として、社会的性差、ジェンダーは後天的な要因が大きく関わって決定されるという説を主張している。文化人類学者マーガレット・ミードの研究、さらに性科学者ジョン・マネーの研究をその根拠付けに参照する著者も存在した。また、生物学的性差とは独立に後天的要因のみによって決定されるという急進的な主張をするフェミニストも存在した。

だが近年、ジョン・マネーの研究は間違いであったことが明らかになった(デイヴィッド・ライマーの項を参照)。これにより、ジェンダーフリーの学術的な正当性は否定されたとの指摘を、反対派は行った。

上記の事実が明らかになった後、賛同派は、「すでにジェンダーフリー思想は様々な多岐にわたる分野の研究成果から成立しており古い学説に依拠するような時代は大昔に過ぎ去っている」とした(関連、文化相対主義社会的構築主義)が、実際には、ジョン・マネーが唱えた説は近年に出版されたフェミニズムの書物などにも記されている。それゆえ、「賛同派は自らが依拠していた説をご都合主義的に翻した」との批判も受けることになった。

しかし、性差が後天的な要因でのみ決定されるという説が否定された一方で、これまで保守派の一部がジェンダーフリーを批判するために援用してきた脳神経学や遺伝子学などの分野において、男女の脳は従来言われていたほどの差はないのではないか、という傾向の主張もあり、ジェンダーフリー推進側は、このような主張にも注目すべきだとしている(最近の脳神経学の研究をわかりやすく紹介している本としては、田中富久子『脳の進化学 ――男女の脳はなぜ違うのか』など)。

関連項目

外部リンク

以下のリンクには、ジェンダーフリーに批判的な立場のものが含まれている。