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「晋平郡」の版間の差分

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| 『宋書』巻九十七・東夷百済国伝 || 百濟國,本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣<ref>{{Wikisourcelang|zh|宋書/卷97}}</ref>。</br>
| 『宋書』巻九十七・東夷百済国伝 || 百濟國,本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣<ref>{{Wikisourcelang|zh|宋書/卷97}}</ref>。<br />
百済国はもと高句麗とともに遼東郡の郡庁のある襄平(現在の中国の遼陽地方)の東一千余里のところにあった。その後高句麗はほぼ遼東郡を支配し、百済は遼西郡をほぼ支配した。このとき百済が根拠地としたところは晋平郡の晋平県である{{Sfn|井上|1972|p=85}}。
百済国はもと高句麗とともに遼東郡の郡庁のある襄平(現在の中国の遼陽地方)の東一千余里のところにあった。その後高句麗はほぼ遼東郡を支配し、百済は遼西郡をほぼ支配した。このとき百済が根拠地としたところは晋平郡の晋平県である{{Sfn|井上|1972|p=85}}。
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| 『南斉書』巻五十八・列伝第三十九 || 魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木幹那率衆襲擊虜軍,大破之<ref>{{Wikisourcelang|zh|南齊書/卷58#東夷}}</ref>。</br>
| 『南斉書』巻五十八・列伝第三十九 || 魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木幹那率衆襲擊虜軍,大破之<ref>{{Wikisourcelang|zh|南齊書/卷58#東夷}}</ref>。<br />
魏は騎兵数十万人を動員して百済を攻撃し、その国境の中に攻めこんだ。東城王は沙法名、賛首流、解礼昆、木干那などを送って魏の大軍を大破した<ref>{{Harvnb|水野|2007|p=63}}</ref>。
魏は騎兵数十万人を動員して百済を攻撃し、その国境の中に攻めこんだ。東城王は沙法名、賛首流、解礼昆、木干那などを送って魏の大軍を大破した<ref>{{Harvnb|水野|2007|p=63}}</ref>。
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| 『梁書』巻五十四列伝四十八諸夷・東夷諸戎・百済|| 百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡<ref>{{Wikisourcelang|zh|梁書/卷54#東夷諸戎}}</ref>。</br>
| 『梁書』巻五十四列伝四十八諸夷・東夷諸戎・百済|| 百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡<ref>{{Wikisourcelang|zh|梁書/卷54#東夷諸戎}}</ref>。<br />
百済が遼西・晋平の二つの郡を占め、百済郡を設置した<ref>{{Harvnb|水野|2007|p=66}}</ref>。
百済が遼西・晋平の二つの郡を占め、百済郡を設置した<ref>{{Harvnb|水野|2007|p=66}}</ref>。
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2018年2月11日 (日) 01:22時点における版

晋平郡(しんへい-ぐん)は、『宋書』『梁書』『南斉書』などの中国南朝系史書に登場する中国遼西にあったという百済の領土である。西百済ともいう[1]

中国南朝史書の記述

中国南朝史書の記述
出典 本文
『宋書』巻九十七・東夷百済国伝 百濟國,本與高驪俱在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣[2]

百済国はもと高句麗とともに遼東郡の郡庁のある襄平(現在の中国の遼陽地方)の東一千余里のところにあった。その後高句麗はほぼ遼東郡を支配し、百済は遼西郡をほぼ支配した。このとき百済が根拠地としたところは晋平郡の晋平県である[3]

『南斉書』巻五十八・列伝第三十九 魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名、贊首流、解禮昆、木幹那率衆襲擊虜軍,大破之[4]

魏は騎兵数十万人を動員して百済を攻撃し、その国境の中に攻めこんだ。東城王は沙法名、賛首流、解礼昆、木干那などを送って魏の大軍を大破した[5]

『梁書』巻五十四列伝四十八諸夷・東夷諸戎・百済 百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡[6]

百済が遼西・晋平の二つの郡を占め、百済郡を設置した[7]

概略

『南斉書』の記述から、百済は朝鮮南部に位置していたから、北魏が百済を攻撃するためには渡海するか高句麗領を通過せねばならず、しかし北魏が敵対していた高句麗領を通過するのは困難であり、そして騎兵は渡海することが出来ず、北魏が百済を攻撃したのなら中国大陸に百済領が存在したという解釈することもでき[8]、『宋書』東夷百済国伝には、百済が晋平郡を自らの根拠下におき、『梁書』には、百済が東晋時代に遼西郡と晋平郡の二郡を領有、百済郡としたとあり[3]、百済領が中国大陸に存在したと解釈することも可能な記述がある[9]。しかし、実際に遼西を支配していた北朝系史書には関連記録が全く見られず、朝鮮史書『三国史記』『三国遺事』にも百済領が中国大陸に存在したという記述はいっさい出てこない[10]

日本や中国の学界では、晋平郡の存在は「懐疑的[11]」、否定的な見解が主流であり[12]北燕の敗残兵による百済侵入や北魏の百済進攻が起こった時期に遼西に百済の領土が安定的に成立・存続する余地があるはずがなく[13]井上秀雄によると、日本の研究者は、晋平郡記事を「頭から誤伝」として斥け、「この記事をまったく取りあげ」ないという[12]井上秀雄は、「南朝では高句麗に対抗するものとして百済を高く評価している。高句麗が北朝と結んでいるのを牽制する意味でも、百済の遼西郡侵略を誇張して取りあげる必要があった」と指摘している[12]

韓国の学界においても一般的には百済の遼西進出については否定的な見方が大勢だが[14]、近年もなお百済の遼西進出を事実とする説は提起されている[15]1981年大韓民国教育部長官安浩相朝鮮語: 안호상1檀君は実在の人物2檀君の領土は中国北京まで存在した3王倹城は中国遼寧省にあった4漢四郡中国北京にあった5百済は3世紀から7世紀にかけて、北京から上海に至る中国東岸を統治した6新羅の最初の領土は東部満州で、統一新羅国境は北京にあった7百済が日本文化を築いたという「国史教科書の内容是正要求に関する請願書」を国会に提出したことがあり[16][17]、韓国の高校『国史』教科書では、1990年までは百済が遼西を攻撃したと記述していたが、1990年以降は「百済は水軍を増強させて中国の遼西地方へ進出し、さらに山西地方と日本にまで進出する活発な対外活動を行った」と進出と記述、図解している[18]

韓国政府東北アジア歴史財団のヨン研究員は、高等『国史』が百済が中国の遼西・山東地方と日本の九州地方に進出したという記述は事実関係に問題が多いとして、「百済の九州地方進出は日本書紀神功記と七支刀銘文を根拠としているように見えるのに、これらの解釈は多くの問題点がある」「問題が多い日本書紀にそのまま従ったら、日本の百済進出であって百済の日本進出にならない。史料を利用する時、恣意的解釈は排除しなければならない」と批判、百済の遼西進出と百済郡設置も多くの問題があるとして、中国前秦代に起きた事件が南朝の『宋書』『梁書』には出ながら北朝の『魏書』にはないこと、百済が高句麗と絶えず戦争を繰り返していた当時の情況を考慮すれば、百済軍が敵対していた高句麗の領土を通過することは困難であり、騎兵は渡海することができないため水軍だけで遼西を攻略しなければならないが、水軍だけで遼西を攻略したとは考えにくいとしている。ヨン委員は「中国史書にある、とそのまま信じたら、倭国戦で記録された百済と新羅が倭を大国として仕えた、という内容もそのまま信じるしかない」「朝鮮半島内部の発展過程など多様な側面を考慮して、史料の意味を把握する必要がある」と批判している[19]

宮脇淳子は「トンデモ学説」であり[1]、百済が中国に領土を領有していたという主張が依拠する史書は、南斉南朝であり、南朝史書の北朝北魏に関する記述は伝聞程度でしかなく、『宋書』にはまだ列伝に百済国があるが、『南斉書』に至っては「蛮、東南夷」の僅か数頁に、高句麗も百済も加羅も押し込めてあり、この程度の情報量を元ネタにして書かれた記述など信用できない、と評している[20]宮脇淳子は、当時は人々の国家への所属意識が低く、現在と比較して人々の移動は自由であり、朝鮮半島及び周辺には様々な国の人々が混在しており、中国と朝鮮は一つの経済圏として交易していたから、遼西地域に百済人が住み着いてコミュニティが形成されていても不自然ではなく、だからといってそれが百済領だと解釈するなら誤りであり、ロサンゼルスコリアンタウンが韓国領だと主張しているようなものと指摘している[20]

水野俊平は、中国史書の記録だけを見るなら百済が中国に領土を領有していたことは確実であると考えがちであるが、「事はそう簡単ではない」として、百済が遼西を領有していたとされる時期は、中国史書の記録から3世紀後半から5世紀前半に推定されるが、この時期は前燕前秦後燕南燕北魏などが遼西をめぐり角逐していた時期であり、五胡十六国南北朝の混乱期であっても、百済が割り込んで領有化する余力が有るとは考えられないこと[21]、 晋平郡関連記事は、百済と親密な関係にあった南朝史書にのみ見られ、北朝史書にはまったく見られず、さらに朝鮮史書『三国史記』『三国遺事』、実際に遼西を支配していた北魏『魏書』にも百済が遼西に進出したという記録は見られず、百済軍と北魏軍が衝突したとする『南斉書』の記録も、当事者の北魏『魏書』には存在しないことから[22]、「学界では懐疑的」「歴史学界では広く認められているとは言いがたい」「学界では百済が中国大陸に領土を保有していたという主張は主流を占めているとは言いがたく」として[23][24][25]、百済と親密な関係にある南朝史書が百済の主張する通りに記載したという指摘とともに、『宋書』には、順帝倭王に「使持節・都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」の官爵号を与えたと記録されているが、これをもって倭が朝鮮を領有していた証拠とはならず、南朝史書に見られる晋平郡関連記事もそれと同じことを考える必要がある、と指摘している[26]

脚注

  1. ^ a b 宮脇淳子韓流時代劇と朝鮮史の真実扶桑社、2013年8月8日、28頁。ISBN 978-4594068745https://books.google.com/books?id=1_UkDwAAQBAJ&pg=PT28&lpg=PT28&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  2. ^
  3. ^ a b 井上 1972, p. 85.
  4. ^
  5. ^ 水野 2007, p. 63
  6. ^
  7. ^ 水野 2007, p. 66
  8. ^ 水野 2007, p. 64
  9. ^ 水野 2007, p. 64
  10. ^ 水野 2007, p. 64
  11. ^ 水野 2007, p. 65
  12. ^ a b c 井上 1972, p. 86.
  13. ^ p10『日本古代の伝承と東アジア』佐伯有清先生古稀記念会、吉川弘文館、1995年3月、ISBN 978-4642022835
  14. ^ 유원재, 〈"백제 략유(略有)요서" 기사의 분석〉, 《백제사의 이해》, 학연문화사, 1991 (ユウォンジェ、「"百済略有遼西" 記事の分析」、『百済史の理解』、ハギョン文化社、1991)
  15. ^ 강종훈, 〈4세기 백제의 遼西 지역 진출과 그 배경〉, 《한국고대사연구》30, 한국고대사학회, 2003 (カンジョンフン、「4世紀百済の遼西地域進出とその背景」、『韓国古代史研究』30、韓国古代史学会、2003)
  16. ^ 尹種栄『国史教科書の波動』ヘアン、1999年、p22
  17. ^ 金 2012, p. 33
  18. ^ 水野 2007, p. 69
  19. ^ “<"국사교과서 임나일본부설 근거될 수도">”. 聯合ニュース. (2007年11月16日). オリジナルの2008年3月31日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20080331185908/http://www.yonhapnews.co.kr/bulletin/2007/11/16/0200000000AKR20071116185000005.HTML 
  20. ^ a b 宮脇淳子韓流時代劇と朝鮮史の真実扶桑社、2013年8月8日、29頁。ISBN 978-4594068745https://books.google.com/books?id=1_UkDwAAQBAJ&pg=PT29&lpg=PT29&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false 
  21. ^ 水野 2007, p. 66
  22. ^ 水野 2007, p. 67
  23. ^ 水野 2007, p. 65
  24. ^ 水野 2007, p. 74
  25. ^ 水野 2007, p. 68
  26. ^ 水野 2007, p. 67

参考文献