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'''猪谷 千春'''(いがや ちはる、[[1931年]][[5月20日]] - )は、[[日本]]の[[アルペンスキー]]選手、実業家。日本人初の冬季五輪メダリスト。
'''猪谷 千春'''(いがや ちはる、[[1931年]][[5月20日]] - )は、[[日本]]の[[アルペンスキー]]選手、実業家。日本人初の[[冬季オリンピック]]メダリスト(2018年3月現在、日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリスト)。引退後は[[AIG損害保険|AIU保険会社]]で実業家として活躍しつつ、[[国際オリンピック委員会]](IOC)副会長など、オリンピック・スポーツ関連団体での要職を歴任した


[[File:Chiharu Igaya 1940.jpg|thumb|upright=1.2|丸木橋を渡るトレーニングを行う猪谷千春(1940年)]]
== 人物概要 ==
[[File:Chiharu Igaya 1951.jpg|thumb|upright=1.2|猪谷千春(1951年)]]
[[File:Chiharu Igaya 1951.jpg|thumb|upright=1.2|猪谷千春(1951年)]]
[[File:Chiharu Igaya 1952.jpg|thumb|upright=1.2|猪谷千春(1952年)]]
[[File:Chiharu Igaya 1952.jpg|thumb|upright=1.2|猪谷千春(1952年)]]
[[1956年]]の[[コルティナダンペッツォオリンピック]]でスキー男子回転で2位になり、[[日本人]]としてはじめて[[冬季オリンピック|冬季五輪]]メダリストとなった。その後、[[国際オリンピック委員会]](IOC)委員となり、理事及び2009年まで副会長を務めた。[[日本オリンピック委員会]](JOC)でも理事を務め、[[日本オリンピアンズ協会]]でも副会長を務めている。


== 略歴 ==
また、実業家としても活躍し、現在[[AIU保険会社]]名誉会長である。


=== 少年時代 ===
[[北海道]][[国後郡]][[泊村 (北海道根室振興局)|泊村]]出身。元妻の晶子は[[ベースボール・マガジン社]]を創設した[[池田恒雄]]の娘。[[ハフィントン・ポスト]]日本版勤務の[[猪谷千香]]は娘。
猪谷は、1931年5月20日、日本スキー界の草分けといわれる[[猪谷六合雄]]と、日本初の女性ジャンパーといわれる猪谷定子の長男として、[[北海道]]・[[国後島]]で生まれた。1934年、猪谷が2歳の頃から、両親は猪谷にスキーを教え始めた<ref name=":0">{{Cite web|url=https://www.ssf.or.jp/Portals/0/history/pdf/story_06.pdf|title=第6回 日本人初の冬季五輪メダル 猪谷千春|accessdate=2018-02-20|format=pdf|work=スポーツ 歴史の検証 - オリンピアンかく語りき|publisher=笹川スポーツ財団}}</ref>。


猪谷一家はより良い雪質の練習場所を求め、国後島を後にし、[[群馬県]][[勢多郡]][[富士見村 (群馬県)|富士見村]]、[[長野県]][[乗鞍岳|乗鞍山麓]]、[[青森県]][[浅虫温泉|浅虫]]、[[長野県]][[志賀高原]]と住まいを転々とした<ref name=":0" /><ref name=":1">{{Cite news|title=冬のオリンピックこぼれ話 - “スキー一家”努力の「銀」【1956年 コルティナダンペッツォ】|newspaper=読売新聞|date=2017-12-28|url=http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2018/feature/20171228-OYT8T50002.html|accessdate=2018-02-19}}</ref>。
2011年6月23日、[[日本体育大学]]より、名誉博士号(IOC委員、副会長など歴任、後進の指導などに尽力により)を授与される。授与は、5人目である。


この間、父・六合雄は猪谷に対し、厳しく礼儀作法を躾け、学業にも力を入れさせるとともに、スキーの英才教育を施した<ref name=":0" /><ref name=":2">{{Cite news|title=五輪と私 - 冬季大会 日本人初メダル|newspaper=読売新聞|date=2015-03-01|url=http://www.yomiuri.co.jp/local/tochigi/feature/CO005276/20150301-OYTAT50010.html|accessdate=2018-02-19}}</ref>。そのトレーニングは厳しく、休日は朝から夕方まで練習をさせ、平衡感覚を鍛えるために丸木の一本橋を渡り続ける、原木に乗って山の斜面を滑り降りるなどのトレーニングも行い、また雪のないシーズンでも、「柴刈り、割りなど何でもさせ」「直径1尺(約30センチ)もある立木を切り倒したり、6里(約24キロ)の山道を10貫(約38キロ)の薪をしょって登る」ことなどもさせて体を鍛えた<ref name=":1" /><ref name=":2" />。加えて、「(小学校に入ると)スキーヤーは目が大せつだと本と目の距り(距離)、頭の位置など毎日採点表につけ」「両腕の力を平均させるため、お箸を交互に使ったりした」など日常生活の中にもスキーのトレーニングが取り込まれていた<ref name=":1" />。猪谷はこの当時の厳しいトレーニングについて、[[1952年オスロオリンピック|オスロオリンピック]]初出場時のインタビューで「生まれ変わったら、スキーをやろうとは思わない」と述懐し<ref name=":1" />、著書でも少年時代は練習が厳しすぎ良い思い出がないと振り返っている<ref name=":3">{{Cite web|url=http://www.oaj.jp/interview/03_igaya/|title=第3回 猪谷千春さんインタビュー 【1:少年時代】子供時代としつけの大切さ|accessdate=2018-02-19|work=選手インタビュー|publisher=日本オリンピアンズ協会}}</ref>。
== 略歴 ==
* 1931年5月20日 日本スキー界の草分け・[[猪谷六合雄]]の長男として、[[北海道]]・[[国後島]]で生まれる
* 1934年 - [[猪谷六合雄]]によるスキーの英才教育をうける
* 1935年9月2日 国後島を離れる
* 1936年4月 父の地元である[[群馬県]][[勢多郡]][[富士見村 (群馬県)|富士見村]]に転居。富士見村立富士見小学校箕輪分校に入学
* 1938年12月 乗鞍の番所に転居、鈴蘭競技大会に出場し、大人に混じって8歳ながら入賞
* 1939年 大町大会(参加制限14歳以上)に特別参加し実質優勝
* 1943年 神宮大会に小学5年生で特別参加、優勝者のタイムを6秒も上回る
* 1948年 第26回長野国体で圧勝、第6回オスロ冬季五輪代表に決定
* 1952年 [[オスロオリンピック]]に出場、11位に終わる。
当時の[[AIU保険会社]]の創始者の[[コーネリアス・バンダー・スター]]が「このまま日本に居たら入賞も出来ない。アメリカに来れば君はメダルを取ることが出来るだろう。お金を出すからアメリカに来ないか。」と申し出る。
* 1953年 コーネリアス・バンダー・スターの支援でアメリカ・[[ダートマス大学]]に留学
* 1956年 アメリカ在住で[[コルティナダンペッツォオリンピック]]に出場。スキー男子[[回転 (スキー)|回転]]で、金メダリストの[[トニー・ザイラー]]([[オーストリア]])に次ぐ2位入賞、[[銀メダル]]を獲得した。
* 1957年 ダートマス大学卒業
* 1958年 [[バート・ガスタイン]](オーストリア)での[[アルペンスキー世界選手権|世界選手権]]に出場、回転で銅メダル獲得、[[大回転]]でも6位入賞を果たす。
* 1982年 国際オリンピック委員会委員に選出。
* 1985年 最初の妻と離婚、池田晶子と再婚<ref>「皇太子ご一家を指導したスキーの英雄、猪谷千春氏。往年の「回転」を思わせる電撃離婚・再婚劇」『週刊朝日』1985年3月29日号</ref>。
* 2012年 オリンピック・オーダー銀章を受章。
* 2017年 [[名誉都民]]<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2017/08/25/05_01.html 平成29年度名誉都民候補者]東京都生活文化局 報道発表資料 2017年08月25日</ref>


しかし、このような厳しいトレーニングが功を奏し、1943年、11歳の時に前走者として出場した神宮大会(現在の全日本スキー選手権)では優勝者より6秒早いタイムでゴール、「神童」と呼ばれるようになる<ref name=":2" />。1948年に長野県で開催された[[国民体育大会冬季大会スキー競技会アルペンスキー・ジャイアントスラローム|国民体育大会]]でも優勝し<ref>{{Cite web|url=http://www.japan-sports.or.jp/Portals/0/images/archives/01_kokutai.pdf|title=国民体育大会 【第1回(1946)~第65回(2010)】|accessdate=2018-02-19|format=pdf|publisher=日本体育協会}}</ref>、オスロオリンピック代表に決定した。
== 日本冬季五輪初のメダル ==
[[ファイル:Stig Sollander, Tony Sailer and Chiharu Chick Igaya 1956.jpg|thumb|upright=1.2|コルティナダンペッツォオリンピック表彰式で: Stig Sollander、トニー・ザイラー、猪谷千春]]
父・六合雄の指導でスキーを始め、[[1956年]]に開かれた[[コルティナダンペッツォオリンピック]]男子回転競技で[[日本]]の[[冬季オリンピック]]史上初の銀メダルを受賞。この事は後年自らの自伝を元に製作されたアニメーション映画「[[栄光へのシュプール]]」に描かれた。父・六合雄は千春のために山小屋の管理人や営林署勤務などをして日本全国雪を求めた。


=== オスロオリンピック出場 ===
テクニックは千島時代に覚えたもので、この時すでに千春に教えるものはなかったと後に六合雄は著書に記している。
オスロオリンピックを約2ヶ月後に控えた1951年12月当時、猪谷は銀座[[ミズノ|ミズノスポーツ]]支配人の田島一男の元に下宿し、[[東京都立大泉高等学校・附属中学校|都立大泉高校]]に通学していた。参考書を買いに行った帰りに銀座ミズノスポーツに立ち寄った猪谷を、田島はたまたまその時来店していた顧客{{仮リンク|コーネリアス・バンダー・スター|en|Cornelius Vander Starr}}に引き合わせた。スターは猪谷がオスロオリンピック日本代表でありながら、練習環境を得られず東京にとどまっていることに驚き、猪谷と、同じくアルペンスキー競技での日本代表となっていた[[水上久]]とを、[[オーストリア]]の[[サンクト・アントン・アム・アールベルク|サンクト・アントン]]のスキー場にポケットマネーで派遣し、練習を行わせた<ref name=":0" /><ref name=":2" />。また、猪谷らが欧州の選手らのものに比べて性能の劣る単材のスキー板を使っていたため、スターは欧州の選手らが使用している合板のスキー板を、これもポケットマネーで買い与えた<ref name=":0" />。
* [[日本の冬季オリンピック銀メダル]]


1952年2月のオスロオリンピックでは、猪谷は[[滑降]]・[[回転 (スキー)|回転]]・[[大回転]]に出場。黒いユニフォームを好んで着用していた猪谷は、マスメディアに「ブラック・キャット」と呼ばれていた<ref name=":2" />。回転競技では、旗門にスキーを引っ掛け、コースをはみ出してしまうミスがあり、結果は11位に終わった<ref name=":0" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/oslo-1952/alpine-skiing/slalom-men|title=Oslo 1952 - Alpine Skiing - Slalom Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>。滑降では24位<ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/oslo-1952/alpine-skiing/downhill-men|title=Oslo 1952 - Alpine Skiing - Downhill Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>、大回転では20位であった<ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/oslo-1952/alpine-skiing/giant-slalom-men|title=Oslo 1952 - Alpine Skiing - Giant Slalom Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>。しかし猪谷は、自分と父・六合雄が独自に研究していた体重移動のやり方が、欧州の強豪選手らのやり方と同じであったことに気づき、技術面では日本も欧州も大差がないはずと自信を持ち<ref name=":0" /><ref name=":2" />、4年後の[[1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピック|コルチナ・ダンペッツォオリンピック]]でのメダル獲得を次なる目標に定めた<ref name=":4">{{Cite web|url=http://www.oaj.jp/interview/03_igaya/002.html|title=第3回 猪谷千春さんインタビュー【2:3度のオリンピック ~ 何のために戦う?】|accessdate=2018-02-20|work=選手インタビュー|publisher=日本オリンピアンズ協会}}</ref>。
== AIU保険会社での活動 ==
親代わりだった[[コーネリアス・バンダー・スター]]の会社、[[AIU保険会社]]を手伝う事になる。


=== コルチナ・ダンペッツォオリンピック出場 ===
1959年にAIU保険会社に入社し、日本支社長、AIU日本法人の会長などを経て現在名誉会長。
オスロオリンピック後、猪谷はスターから全米アルペン競技選手権に招待され、2位に入賞する<ref name=":0" />。猪谷はその後日本に戻り[[立教大学]]に入学していたが<ref name=":0" />、1953年、スターの支援により、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ダートマス大学]]に留学し、勉学に励む傍ら、より良い環境でスキーの練習を続けることとなった<ref name=":2" />。


ダートマス大学では、期末試験で全教科の平均点が60点を超えていなければ課外活動に参加できないというペナルティがあった<ref name=":2" />。そのため猪谷は、筋力トレーニングをしながら教科書を読んだり、スキーのコースを覚える記憶力を高めるため、ノートを取らずに授業を受け夜に講義内容を書き出すトレーニングを行ったりと、勉学とトレーニングを両立する様々な方法を考え出した<ref name=":2" /><ref name=":4" />。その結果、猪谷は、[[スイス]]の[[アーデルボーデン]]で開催されたワールドカップにおいて、回転競技で金メダルを獲得するなど、欧州の大会でも実力を発揮し、注目を集める選手となった<ref>{{Cite web|url=http://www.ski-japan.or.jp/3758/|title=連載13 記録に見る日本のスキー競技史|accessdate=2018-02-20|date=2008-10-15|publisher=全日本スキー連盟}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://weltcup-adelboden.ch/en/Infos/History|title=SO MUCH HISTORY: MORE THAN HALF A CENTURY OF SKI RACING IN ADELBODEN!|accessdate=2018-02-20|publisher=Audi FIS Ski World Cup Adelboden}}</ref>。
== IOC委員として ==
[[1982年]]から[[国際オリンピック委員会]](IOC)委員となり、理事を2回にわたり経験([[1987年]] - [[1991年]]と[[1996年]] - [[2000年]])。[[長野オリンピック]]の招致活動から開催に至るまでを支えた。


猪谷はダートマス大学留学中、日本での競技大会などに参加できなかったため、[[全日本スキー連盟]]からは日本代表入りを疑問視する声もあったものの、関係者の尽力によりコルチナ・ダンペッツォオリンピック日本代表に選ばれることができた<ref name=":4" />。猪谷は滑降、回転、大回転に出場、滑降では失格となったが<ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/cortina-d-ampezzo-1956/alpine-skiing/downhill-men|title=Cortina d'Ampezzo 1956 - Alpine Skiing - Downhill Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>、大回転では12位<ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/cortina-d-ampezzo-1956/alpine-skiing/giant-slalom-men|title=Cortina d'Ampezzo 1956 - Alpine Skiing - Giant Slalom Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>、そして回転では銀メダルを獲得した<ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/cortina-d-ampezzo-1956/alpine-skiing/slalom-men|title=Cortina d'Ampezzo 1956 - Alpine Skiing - Slalom Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>。このメダルは冬季オリンピックで日本代表選手が獲得した初めてのメダルであるとともに、欧州以外からの出場選手がアルペンスキー競技で獲得した初めてのメダルともなった<ref name=":4" />。
[[2005年]][[シンガポール]]で開かれたIOC総会で副会長に当選。


[[ファイル:Stig Sollander, Tony Sailer and Chiharu Chick Igaya 1956.jpg|thumb|upright=1.2|コルチナダンペッツォオリンピック表彰式でのStig Sollander、[[トニー・ザイラー]]、猪谷千春]]
2006年のトリノオリンピックでは、副会長として現地入り。男子回転の表彰式でプレゼンターを務めた。この際、日本の[[皆川賢太郎]]が大健闘。終盤まで3位につけ、日本人で唯一のアルペン競技メダリストである猪谷の手での同胞へのメダル授与が実現するかと思われたが、最終競技者が皆川を上回ったためこれは実現しなかった。しかし[[湯浅直樹]]も7位に入ったため日本アルペン史上初となったオリンピック同一種目の複数入賞を見届けることとなった。


=== スコーバレーオリンピック出場 ===
2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し、名誉委員に就任<ref>[https://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKG0054_V20C11A6000000/ 竹田氏がIOC委員就任へ ロゲ会長が見通し語る]日本経済新聞</ref>。
1957年、猪谷はダートマス大学を卒業する<ref>{{Cite web|url=https://www.triathlon.org/hall_of_fame/profiles/inductees/chiharu_igaya_jpn|title=TU Hall of Fame Inductee - Chiharu Igaya|accessdate=2018-02-20|publisher=International Triathlon Union}}</ref>。その後も猪谷は競技を続け、1958年に[[オーストリア]]の[[バート・ガスタイン]]で開催された[[アルペンスキー世界選手権]]では、回転で銅メダル獲得<ref>{{Cite web|url=https://data.fis-ski.com/dynamic/results.html?sector=AL&raceid=13918|title=Bad Gastein (AUT) - FIS World Ski Championships - Men's Slalom|accessdate=2018-02-20|publisher=FIS-Ski}}</ref>、大回転で6位入賞<ref>{{Cite web|url=https://data.fis-ski.com/dynamic/results.html?sector=AL&raceid=13919|title=Bad Gastein (AUT) - FIS World Ski Championships - Men's Giant Slalom|accessdate=2018-02-20|publisher=FIS-Ski}}</ref>、複合で4位入賞<ref>{{Cite web|url=https://data.fis-ski.com/dynamic/results.html?sector=AL&raceid=13920|title=Bad Gastein (AUT) - FIS World Ski Championships - Men's Combined|accessdate=2018-02-20|publisher=FIS-Ski}}</ref>という成績を残した。


猪谷はその後の1959年、[[アメリカン・インターナショナル・グループ|American International Underwriters(AIU)]]に入社し、スキー競技からは引退することを決意した<ref name=":0" />。しかし周囲の強い勧めもあり、また金メダルを獲得していないという心残りから、猪谷は競技人生の最後に1960年の[[1960年スコーバレーオリンピック|スコーバレーオリンピック]]に出場することとした<ref name=":0" /><ref name=":4" />。金メダルを獲得すべく普段よりも大胆なレース運びをしたことが裏目に出た形となり、自分のペースを崩してしまったが<ref name=":0" /><ref name=":4" />、滑降で34位<ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/squaw-valley-1960/alpine-skiing/downhill-men|title=Squaw Valley 1960 - Alpine Skiing - Downhill Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>、回転で12位<ref name=":0" />、大回転で23位<ref>{{Cite web|url=https://www.olympic.org/squaw-valley-1960/alpine-skiing/giant-slalom-men|title=Squaw Valley 1960 - Alpine Skiing - Giant Slalom Men|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>という成績を残した。
== スポーツ団体幹部として ==
1994年発足された[[日本トライアスロン連合]]の初代会長に就任し、15年に渡り同職を務めた後、名誉会長に就任<ref>[http://www.jtu.or.jp/jtu/gaiyou.html JTUの概要と歴史]</ref>。


=== 実業家への転身 ===
1996年より、[[国際トライアスロン連合]]副会長に就任し、2008年に名誉委員に就任。2015年に、世界トライアスロン殿堂ライフ部門入りを果たす<ref>[https://www.tri-x.jp/22597 猪谷千春JTU名誉会長が2015年度世界トライアスロン殿堂入り]TRI-X</ref>。
猪谷はAIUの[[ニューヨーク]]本社で2年間の研修を受けた後、1961年、AIU日本支社の傷害保険部初代部長に就任した<ref name=":5">{{Cite web|url=http://www.oaj.jp/interview/03_igaya/003.html|title=【3:第二の人生 ~ アメリカンホーム保険社長に】ビジネスでもトップになる|accessdate=2018-02-20|work=選手インタビュー|publisher=日本オリンピアンズ協会}}</ref>。猪谷はビジネスの世界に進むにあたり、45歳までにどこかの社長になることを目標としており<ref name=":0" />、AIUに入社したのは、[[学閥]]や[[天下り]]などの影響のない外資系企業であれば、その目標を叶えやすいと考えたためであった<ref name=":5" />。


当時、日本の消費者の間では[[損害保険|傷害保険]]という概念自体が浸透しておらず、また戦前に加入していた保険が[[第二次世界大戦]]の終戦とともに無価値になったという記憶もまだ新しかったため、AIUの商品は消費者に簡単には受け入れられなかった。猪谷は、消費者の間にあるアメリカ文化への憧れを利用し、AIUがアメリカの会社であることを強調してみたり、逆にAIUのマニュアルの修正や日本固有の商品開発といった、日本の消費者に合わせるためのローカライズに力を入れてみたりと、様々な営業活動を行い、AIUの商品の普及に努めた。こうした活動が評価され、1978年、猪谷は47歳で、AIUグループの会社である[[アメリカンホーム保険会社]]の社長に就任する<ref name=":5" />。
2012年8月より、東京都スキー連盟会長に就任<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/12/17/kiji/K20111217002260540.html アルペンスキー五輪銀メダリスト…猪谷氏が東京都連盟会長に]</ref>。2014年9月、日本障害者スキー連盟会長に就任<ref>[http://www.sajd.com/wp-content/uploads/2014/10/20141003-jasd-briefing.pdf (特非)日本障害者スキー連盟 新役員体制 発足]</ref>。


=== スポーツ振興の世界へ ===
== アニメ映画 ==
* 『栄光へのシュプール 猪谷千春物語』(1997年)
同名のアニメ絵本が同じ年に[[岩波書店]]から出版されている


== 著作 ==
==== IOCでの活動 ====
1980年、猪谷は、当時[[国際オリンピック委員会|国際オリンピック委員会(IOC)]]委員を務めていた[[竹田恒徳|竹田恆徳]]より、自らの後任としてIOC委員を務めてほしいという打診を受ける。アメリカンホーム保険会社社長として多忙を極めていた猪谷はこの打診を辞退するが、竹田からの熱心な説得に折れ、委員就任を承諾、1982年にIOC委員に就任した<ref name=":0" />。IOC委員業務の負荷を理由に、猪谷がアメリカンホーム保険会社を退職したいと申し出たところ、AIUグループは猪谷の事情に配慮し、猪谷を退職させるのではなく、グループの別会社に異動させた<ref name=":0" />。
* 『近代スキー 初歩からアルペンまで』日本経済新聞社 1959
* 『近代スキー 基礎と応用』日本経済新聞社 1959
* 『パラレルへの近道』猪谷六合雄共著 日刊スポーツ新聞社 1959
* 『わが人生のシュプール』ベースボール・マガジン社 1994
* 『IOC―オリンピックを動かす巨大組織―』[[新潮社]]、[[2013年]] ISBN 978-4-10-333491-0


委員としては1994年の冬季オリンピック準備のための研究・評価委員会、第12回[[オリンピックコングレス]]準備委員会など多数の委員会の委員を歴任した<ref name=":6">{{Cite web|url=https://www.olympic.org/mr-chiharu-igaya|title=Mr. Chiharu Igaya|accessdate=2018-02-20|publisher=IOC}}</ref>。開催地候補都市の評価を行う評価委員会は、猪谷の尽力により設立されたものである<ref name=":5" />。1987年から1991年までと1996年から2000年までは理事を務め<ref name=":6" /><ref name=":11" />、ドーピング問題への対応などに力を入れる<ref name=":12">{{Cite web|url=http://www.bs-j.co.jp/rirekisyo/25.html|title=日経スペシャル 私の履歴書 猪谷千春|accessdate=2018-02-20|publisher=BS JAPAN}}</ref>。2005年から2009年まではIOC副会長を務めた<ref name=":6" /><ref name=":11">{{Cite web|url=http://www.oaj.jp/interview/03_igaya/004.html|title=【4:第三の人生 ~ IOC副会長として】コスモポリタン:国籍を超えて|accessdate=2018-02-20|work=選手インタビュー|publisher=日本オリンピアンズ協会}}</ref>。2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し<ref>{{Cite news|title=竹田氏がIOC委員就任へ ロゲ会長が見通し語る|newspaper=日本経済新聞|date=2011-06-25|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKG0054_V20C11A6000000/|accessdate=2018-02-20}}[https://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKG0054_V20C11A6000000/ 竹田氏がIOC委員就任へ ロゲ会長が見通し語る]日本経済新聞</ref>、2012年から名誉委員に就任<ref name=":6" />、同年、それまでの功績を讃えオリンピック・オーダー銀章を受章する<ref name=":6" /><ref>{{Cite web|url=https://www.joc.or.jp/about/order/|title=オリンピック・オーダー|accessdate=2018-02-20|publisher=JOC}}</ref>。
==注==

{{Reflist}}
この間、1998年の[[1998年長野オリンピック|長野オリンピック]]の招致のため、30カ国以上のIOC委員を訪問するなど奔走し、招致を成功させる。2020年の[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]招致についても、規則の変更によりIOC委員訪問は認められなくなっていたものの、100カ国以上のIOC委員に架電するなど惜しみない協力を行い、招致成功の一助となった<ref name=":12" />。

==== JOCでの活動 ====
JOCでは2005年から2013年まで理事を務め<ref>{{Cite web|url=https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=1057|title=平成17・18年度 新役員決定|accessdate=2018-02-20|date=2005-03-24|publisher=JOC}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=2805|title=新たに8選手が入校!「平成25年度JOCエリートアカデミー入校式」レポート|accessdate=2018-02-20|date=2013-04-10|publisher=JOC}}</ref>、2014年から名誉委員<ref>{{Cite web|url=https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=5607|title=「日本オリンピック委員会25周年の集い」を開催、関係者ら150名が参加|accessdate=2018-02-20|date=2014-08-12|publisher=JOC}}</ref>。

==== その他スポーツ団体での活動 ====
1993年から日本オリンピック・アカデミーの会長を18年間務めた<ref>{{Cite web|url=http://olympic-academy.jp/about-joa/presidential-greeting/|title=会長のごあいさつ|accessdate=2018-02-20|publisher=日本オリンピック・アカデミー}}</ref>。

1994年に発足した[[日本トライアスロン連合]]の初代会長に就任し、15年に渡り同職を務めた後、名誉会長に就任<ref name=":7">{{Cite web|url=http://www.jtu.or.jp/jtu/gaiyou.html|title=公益社団法人日本トライアスロン連合(JTU)の概要・歴史|accessdate=2018-02-20|publisher=日本トライアスロン連合}}</ref>。

1996年より、[[国際トライアスロン連合]]副会長に就任し、2008年に名誉委員に就任<ref>{{Cite web|url=https://www.triathlon.org/about/honorary_members|title=Honorary Members|accessdate=2018-02-20|publisher=International Triathlon Union}}</ref>。2015年に、世界トライアスロン殿堂ライフ部門入りを果たす<ref name=":8">{{Cite web|url=https://www.triathlon.org/hall_of_fame/inductees_2015|title=ITU Hall of Fame Inductees 2015|accessdate=2018-02-20|publisher=International Triathlon Union}}</ref>。

2003年の[[日本オリンピアンズ協会]]発足時より副会長を務める<ref>{{Cite web|url=https://www.joc.or.jp/news/detail.html?id=1465|title=9月5日「日本オリンピアンズ協会(OAJ)」発足|accessdate=2018-02-20|date=2003-09-08|publisher=JOC}}</ref>。

2012年8月より東京都スキー連盟会長を務め<ref name=":9">{{Cite news|title=アルペンスキー五輪銀メダリスト…猪谷氏が東京都連盟会長に|newspaper=Sponichi Annex|date=2011-12-17|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2011/12/17/kiji/K20111217002260540.html|accessdate=2018-02-20}}</ref>、その後名誉会長に就任<ref>{{Cite web|url=http://www.ski-instructors-tokyo.jp/|title=NPO法人東京都スキー指導者協会創立50周年を迎える|accessdate=2018-02-20|publisher=東京都スキー指導者協会}}</ref>。2014年9月、[[日本障害者スキー連盟]]会長に就任<ref name=":10">{{Cite web|url=http://www.sajd.com/wp-content/uploads/2014/10/20141003-jasd-briefing.pdf|title=(特非)日本障害者スキー連盟 新役員体制 発足|accessdate=2018-02-20|date=2014-10-03|publisher=日本障害者スキー連盟}}</ref>。

2014年より[[東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会]]顧問就任<ref>{{Cite web|url=https://tokyo2020.org/jp/organising-committee/structure/advisory-meeting/|title=顧問会議|accessdate=2018-02-20|publisher=公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会}}</ref>。

== 競技スタイル ==
第二次世界大戦直後の日本には、外国のスキー技術の情報が伝わってきていなかったため、猪谷は父・六合雄と共に、独自にスピードの出る滑り方を研究していた。例えば、ターンの際の体重移動について、当時日本では曲がる側の足に体重をかけ、上体も曲がる側に捻るようにするのが定石とされていたが、猪谷はその体重移動ではスキー板の後部にずれが生じることを発見した。猪谷はそのようなずれによる遅れを防止するため、敢えて、曲がる側と逆側の足に体重をかけ、上体も曲がる側には捻らず逆側に残したままにしておく方法を開発した。オスロオリンピックに出場した猪谷は、欧州の強豪選手らも同じ体重移動を行っていることを発見し、自分たちの研究に誤りはなかったと自信を持つに至っている<ref name=":0" />。

その後もターン技術を磨き、コルチナダンペッツォオリンピック出場の頃には、世界トップクラスのターン技術を有していると称されるに至る<ref>{{Cite web|url=https://www.jiji.com/jc/pyeongchang2018?s=special&id=winterolymedalist0045|title=歴代メダリスト - 猪谷 千春(1956年 コルチナ・ダンペッツォ 銀)|accessdate=2018-02-20|publisher=時事通信社}}</ref>。このようなターン技術の高さから、回転競技を得意としており、アーデルボーデンでのワールドカップ金メダル、コルチナダンペッツォオリンピック銀メダル、バート・ガスタインでの世界選手権銅メダルの他にも、1954年に[[コロラド州]][[アスペン (コロラド州)|アスペン]]での全米大会で優勝<ref>{{Cite news|title=Dartmouth skier wins Roch trophy at Aspen|newspaper=The Deseret News|date=1954-03-15|url=https://news.google.com/newspapers?id=wolaAAAAIBAJ&sjid=9UkDAAAAIBAJ&pg=6921%2C2368719|accessdate=2018-02-20|page=4B}}</ref>、1955年から1957年までNCAA Skiing Championshipsの回転競技部門を三連覇<ref>{{Cite web|url=http://fs.ncaa.org/Docs/stats/skiing_champs_records/2012-13/2012-13_ski_rec.pdf|title=Skiing - NATIONAL COLLEGIATE MEN’S AND WOMEN’S|accessdate=2018-02-20|format=pdf|publisher=National Collegiate Athlete Association}}</ref>するなどの功績を残している。
== 年表 ==
* 1931年 北海道・国後島で生まれる
* 1948年 第26回長野国体で圧勝、第6回オスロ冬季五輪代表に決定
* 1952年 オスロオリンピックに出場、回転で11位
* 1953年 コーネリアス・バンダー・スターの支援でアメリカ・ダートマス大学に留学
* 1956年 アメリカ在住でコルチナ・ダンペッツォオリンピックに出場。回転で銀メダルを獲得
* 1957年 ダートマス大学卒業
* 1958年 バート・ガスタインでの世界選手権に出場、回転で銅メダル獲得、大回転でも6位入賞
* 1959年 AIU入社
* 1960年 スコーバレーオリンピック出場、回転で12位
* 1978年 アメリカンホーム保険会社社長就任
* 1982年 IOC委員就任
* 1988年 [[紫綬褒章]]受章<ref>{{Cite press release|title=別紙 平成29年度名誉都民候補者|publisher=東京都生活文化局|date=2017-08-25|url=http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2017/08/25/05_01.html|accessdate=2018-02-20}}</ref>
* 2005年 IOC副会長
* 2011年 [[日本体育大学]]名誉博士号授与<ref>{{Cite web|url=https://www.nittai.ac.jp/topics/event/2010624_6235.html|title=猪谷 千春氏 日本体育大学名誉博士称号授与式・記念講演会|accessdate=2018-02-20|publisher=日本体育大学}}</ref>
* 2012年 IOC委員退任、オリンピック・オーダー銀章受章
* 2017年 [[名誉都民]]顕彰<ref>{{Cite press release|title=平成29年度東京都名誉都民顕彰式及び東京都功労者表彰式について|publisher=東京都政策企画局・生活文化局|date=2017-09-20|url=http://www.metro.tokyo.jp/tosei/hodohappyo/press/2017/09/20/17.html|accessdate=2018-02-20}}</ref>、[[山ノ内町]]名誉町民顕彰、志賀高原歴史記念館に猪谷千春コーナーが開設される<ref>{{Cite web|url=http://www.shigakogen.co.jp/highlight/history|title=高原歴史記念館&猪谷千春記念コーナー|accessdate=2018-02-24|publisher=志賀高原リゾート開発株式会社}}</ref>

== 著作など ==
=== 著作 ===
==== 書籍 ====
* 『近代スキー 初歩からアルペンまで』(1959年、[[日本経済新聞社]])
* 『近代スキー 基礎と応用』(1959年、日本経済新聞社)
* 『パラレルへの近道』猪谷六合雄共著(1959年、[[日刊スポーツ新聞社]])
* 『わが人生のシュプール』(1994年、[[ベースボール・マガジン社]])
* 『IOC―オリンピックを動かす巨大組織―』(2013年、[[新潮社]])
==== 論文 ====
* 「体育・スポーツに期待する(今後の社会と体育・スポーツの振興<特集>)」『文部時報』(通号 1306) pp.4-7, 文部省.
* 「過去にこだわらず,きょうを生きる(心を語る)」『通産ジャーナル』28(5) pp.82-88, 通商産業大臣官房報道室.
他多数
=== 猪谷を取り上げた作品 ===
==== 書籍 ====
* 和田登、こさかしげる(1992)『スキーに生きる―猪谷六合雄と千春の長い旅』([[ほるぷ出版]])
* 和田登(1997)『栄光へのシュプール 猪谷千春物語』([[岩崎書店]])
==== アニメーション ====
* [[虫プロダクション]](1997)『栄光へのシュプール 猪谷千春物語』

== 関連項目 ==
* [[1952年オスロオリンピックの日本選手団]]
* [[1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックの日本選手団|1956年コルチナ・ダンペッツォオリンピックの日本選手団]]
* [[1960年スコーバレーオリンピックの日本選手団]]
* [[日本の冬季オリンピック銀メダル]]
* [[国際オリンピック委員会]]、[[国際オリンピック委員会委員一覧]]

==脚注==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2018年3月7日 (水) 00:32時点における版

猪谷 千春
猪谷千春(1956年)
名前
カタカナ イガヤ チハル
ラテン文字 IGAYA, Chiharu
基本情報
国籍 日本の旗 日本
種目 アルペンスキー
生年月日 (1931-05-20) 1931年5月20日(93歳)
生誕地 北海道国後島
獲得メダル
アルペンスキー
日本の旗 日本
オリンピック
1956 コルチナ・ダンペッツォ 男子回転
世界選手権
1958 バート・ガスタイン 男子回転

猪谷 千春(いがや ちはる、1931年5月20日 - )は、日本アルペンスキー選手、実業家。日本人初の冬季オリンピックメダリスト(2018年3月現在、日本人唯一の冬季オリンピックアルペンスキーメダリスト)。引退後はAIU保険会社で実業家として活躍しつつ、国際オリンピック委員会(IOC)副会長など、オリンピック・スポーツ関連団体での要職を歴任した。

丸木橋を渡るトレーニングを行う猪谷千春(1940年)
猪谷千春(1951年)
猪谷千春(1952年)

略歴

少年時代

猪谷は、1931年5月20日、日本スキー界の草分けといわれる猪谷六合雄と、日本初の女性ジャンパーといわれる猪谷定子の長男として、北海道国後島で生まれた。1934年、猪谷が2歳の頃から、両親は猪谷にスキーを教え始めた[1]

猪谷一家はより良い雪質の練習場所を求め、国後島を後にし、群馬県勢多郡富士見村長野県乗鞍山麓青森県浅虫長野県志賀高原と住まいを転々とした[1][2]

この間、父・六合雄は猪谷に対し、厳しく礼儀作法を躾け、学業にも力を入れさせるとともに、スキーの英才教育を施した[1][3]。そのトレーニングは厳しく、休日は朝から夕方まで練習をさせ、平衡感覚を鍛えるために丸木の一本橋を渡り続ける、原木に乗って山の斜面を滑り降りるなどのトレーニングも行い、また雪のないシーズンでも、「柴刈り、割りなど何でもさせ」「直径1尺(約30センチ)もある立木を切り倒したり、6里(約24キロ)の山道を10貫(約38キロ)の薪をしょって登る」ことなどもさせて体を鍛えた[2][3]。加えて、「(小学校に入ると)スキーヤーは目が大せつだと本と目の距り(距離)、頭の位置など毎日採点表につけ」「両腕の力を平均させるため、お箸を交互に使ったりした」など日常生活の中にもスキーのトレーニングが取り込まれていた[2]。猪谷はこの当時の厳しいトレーニングについて、オスロオリンピック初出場時のインタビューで「生まれ変わったら、スキーをやろうとは思わない」と述懐し[2]、著書でも少年時代は練習が厳しすぎ良い思い出がないと振り返っている[4]

しかし、このような厳しいトレーニングが功を奏し、1943年、11歳の時に前走者として出場した神宮大会(現在の全日本スキー選手権)では優勝者より6秒早いタイムでゴール、「神童」と呼ばれるようになる[3]。1948年に長野県で開催された国民体育大会でも優勝し[5]、オスロオリンピック代表に決定した。

オスロオリンピック出場

オスロオリンピックを約2ヶ月後に控えた1951年12月当時、猪谷は銀座ミズノスポーツ支配人の田島一男の元に下宿し、都立大泉高校に通学していた。参考書を買いに行った帰りに銀座ミズノスポーツに立ち寄った猪谷を、田島はたまたまその時来店していた顧客コーネリアス・バンダー・スター英語版に引き合わせた。スターは猪谷がオスロオリンピック日本代表でありながら、練習環境を得られず東京にとどまっていることに驚き、猪谷と、同じくアルペンスキー競技での日本代表となっていた水上久とを、オーストリアサンクト・アントンのスキー場にポケットマネーで派遣し、練習を行わせた[1][3]。また、猪谷らが欧州の選手らのものに比べて性能の劣る単材のスキー板を使っていたため、スターは欧州の選手らが使用している合板のスキー板を、これもポケットマネーで買い与えた[1]

1952年2月のオスロオリンピックでは、猪谷は滑降回転大回転に出場。黒いユニフォームを好んで着用していた猪谷は、マスメディアに「ブラック・キャット」と呼ばれていた[3]。回転競技では、旗門にスキーを引っ掛け、コースをはみ出してしまうミスがあり、結果は11位に終わった[1][3][6]。滑降では24位[7]、大回転では20位であった[8]。しかし猪谷は、自分と父・六合雄が独自に研究していた体重移動のやり方が、欧州の強豪選手らのやり方と同じであったことに気づき、技術面では日本も欧州も大差がないはずと自信を持ち[1][3]、4年後のコルチナ・ダンペッツォオリンピックでのメダル獲得を次なる目標に定めた[9]

コルチナ・ダンペッツォオリンピック出場

オスロオリンピック後、猪谷はスターから全米アルペン競技選手権に招待され、2位に入賞する[1]。猪谷はその後日本に戻り立教大学に入学していたが[1]、1953年、スターの支援により、アメリカダートマス大学に留学し、勉学に励む傍ら、より良い環境でスキーの練習を続けることとなった[3]

ダートマス大学では、期末試験で全教科の平均点が60点を超えていなければ課外活動に参加できないというペナルティがあった[3]。そのため猪谷は、筋力トレーニングをしながら教科書を読んだり、スキーのコースを覚える記憶力を高めるため、ノートを取らずに授業を受け夜に講義内容を書き出すトレーニングを行ったりと、勉学とトレーニングを両立する様々な方法を考え出した[3][9]。その結果、猪谷は、スイスアーデルボーデンで開催されたワールドカップにおいて、回転競技で金メダルを獲得するなど、欧州の大会でも実力を発揮し、注目を集める選手となった[10][11]

猪谷はダートマス大学留学中、日本での競技大会などに参加できなかったため、全日本スキー連盟からは日本代表入りを疑問視する声もあったものの、関係者の尽力によりコルチナ・ダンペッツォオリンピック日本代表に選ばれることができた[9]。猪谷は滑降、回転、大回転に出場、滑降では失格となったが[12]、大回転では12位[13]、そして回転では銀メダルを獲得した[14]。このメダルは冬季オリンピックで日本代表選手が獲得した初めてのメダルであるとともに、欧州以外からの出場選手がアルペンスキー競技で獲得した初めてのメダルともなった[9]

コルチナダンペッツォオリンピック表彰式でのStig Sollander、トニー・ザイラー、猪谷千春

スコーバレーオリンピック出場

1957年、猪谷はダートマス大学を卒業する[15]。その後も猪谷は競技を続け、1958年にオーストリアバート・ガスタインで開催されたアルペンスキー世界選手権では、回転で銅メダル獲得[16]、大回転で6位入賞[17]、複合で4位入賞[18]という成績を残した。

猪谷はその後の1959年、American International Underwriters(AIU)に入社し、スキー競技からは引退することを決意した[1]。しかし周囲の強い勧めもあり、また金メダルを獲得していないという心残りから、猪谷は競技人生の最後に1960年のスコーバレーオリンピックに出場することとした[1][9]。金メダルを獲得すべく普段よりも大胆なレース運びをしたことが裏目に出た形となり、自分のペースを崩してしまったが[1][9]、滑降で34位[19]、回転で12位[1]、大回転で23位[20]という成績を残した。

実業家への転身

猪谷はAIUのニューヨーク本社で2年間の研修を受けた後、1961年、AIU日本支社の傷害保険部初代部長に就任した[21]。猪谷はビジネスの世界に進むにあたり、45歳までにどこかの社長になることを目標としており[1]、AIUに入社したのは、学閥天下りなどの影響のない外資系企業であれば、その目標を叶えやすいと考えたためであった[21]

当時、日本の消費者の間では傷害保険という概念自体が浸透しておらず、また戦前に加入していた保険が第二次世界大戦の終戦とともに無価値になったという記憶もまだ新しかったため、AIUの商品は消費者に簡単には受け入れられなかった。猪谷は、消費者の間にあるアメリカ文化への憧れを利用し、AIUがアメリカの会社であることを強調してみたり、逆にAIUのマニュアルの修正や日本固有の商品開発といった、日本の消費者に合わせるためのローカライズに力を入れてみたりと、様々な営業活動を行い、AIUの商品の普及に努めた。こうした活動が評価され、1978年、猪谷は47歳で、AIUグループの会社であるアメリカンホーム保険会社の社長に就任する[21]

スポーツ振興の世界へ

IOCでの活動

1980年、猪谷は、当時国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めていた竹田恆徳より、自らの後任としてIOC委員を務めてほしいという打診を受ける。アメリカンホーム保険会社社長として多忙を極めていた猪谷はこの打診を辞退するが、竹田からの熱心な説得に折れ、委員就任を承諾、1982年にIOC委員に就任した[1]。IOC委員業務の負荷を理由に、猪谷がアメリカンホーム保険会社を退職したいと申し出たところ、AIUグループは猪谷の事情に配慮し、猪谷を退職させるのではなく、グループの別会社に異動させた[1]

委員としては1994年の冬季オリンピック準備のための研究・評価委員会、第12回オリンピックコングレス準備委員会など多数の委員会の委員を歴任した[22]。開催地候補都市の評価を行う評価委員会は、猪谷の尽力により設立されたものである[21]。1987年から1991年までと1996年から2000年までは理事を務め[22][23]、ドーピング問題への対応などに力を入れる[24]。2005年から2009年まではIOC副会長を務めた[22][23]。2011年12月、80歳定年制によりIOC委員を退任し[25]、2012年から名誉委員に就任[22]、同年、それまでの功績を讃えオリンピック・オーダー銀章を受章する[22][26]

この間、1998年の長野オリンピックの招致のため、30カ国以上のIOC委員を訪問するなど奔走し、招致を成功させる。2020年の東京オリンピック招致についても、規則の変更によりIOC委員訪問は認められなくなっていたものの、100カ国以上のIOC委員に架電するなど惜しみない協力を行い、招致成功の一助となった[24]

JOCでの活動

JOCでは2005年から2013年まで理事を務め[27][28]、2014年から名誉委員[29]

その他スポーツ団体での活動

1993年から日本オリンピック・アカデミーの会長を18年間務めた[30]

1994年に発足した日本トライアスロン連合の初代会長に就任し、15年に渡り同職を務めた後、名誉会長に就任[31]

1996年より、国際トライアスロン連合副会長に就任し、2008年に名誉委員に就任[32]。2015年に、世界トライアスロン殿堂ライフ部門入りを果たす[33]

2003年の日本オリンピアンズ協会発足時より副会長を務める[34]

2012年8月より東京都スキー連盟会長を務め[35]、その後名誉会長に就任[36]。2014年9月、日本障害者スキー連盟会長に就任[37]

2014年より東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会顧問就任[38]

競技スタイル

第二次世界大戦直後の日本には、外国のスキー技術の情報が伝わってきていなかったため、猪谷は父・六合雄と共に、独自にスピードの出る滑り方を研究していた。例えば、ターンの際の体重移動について、当時日本では曲がる側の足に体重をかけ、上体も曲がる側に捻るようにするのが定石とされていたが、猪谷はその体重移動ではスキー板の後部にずれが生じることを発見した。猪谷はそのようなずれによる遅れを防止するため、敢えて、曲がる側と逆側の足に体重をかけ、上体も曲がる側には捻らず逆側に残したままにしておく方法を開発した。オスロオリンピックに出場した猪谷は、欧州の強豪選手らも同じ体重移動を行っていることを発見し、自分たちの研究に誤りはなかったと自信を持つに至っている[1]

その後もターン技術を磨き、コルチナダンペッツォオリンピック出場の頃には、世界トップクラスのターン技術を有していると称されるに至る[39]。このようなターン技術の高さから、回転競技を得意としており、アーデルボーデンでのワールドカップ金メダル、コルチナダンペッツォオリンピック銀メダル、バート・ガスタインでの世界選手権銅メダルの他にも、1954年にコロラド州アスペンでの全米大会で優勝[40]、1955年から1957年までNCAA Skiing Championshipsの回転競技部門を三連覇[41]するなどの功績を残している。

年表

  • 1931年 北海道・国後島で生まれる
  • 1948年 第26回長野国体で圧勝、第6回オスロ冬季五輪代表に決定
  • 1952年 オスロオリンピックに出場、回転で11位
  • 1953年 コーネリアス・バンダー・スターの支援でアメリカ・ダートマス大学に留学
  • 1956年 アメリカ在住でコルチナ・ダンペッツォオリンピックに出場。回転で銀メダルを獲得
  • 1957年 ダートマス大学卒業
  • 1958年 バート・ガスタインでの世界選手権に出場、回転で銅メダル獲得、大回転でも6位入賞
  • 1959年 AIU入社
  • 1960年 スコーバレーオリンピック出場、回転で12位
  • 1978年 アメリカンホーム保険会社社長就任
  • 1982年 IOC委員就任
  • 1988年 紫綬褒章受章[42]
  • 2005年 IOC副会長
  • 2011年 日本体育大学名誉博士号授与[43]
  • 2012年 IOC委員退任、オリンピック・オーダー銀章受章
  • 2017年 名誉都民顕彰[44]山ノ内町名誉町民顕彰、志賀高原歴史記念館に猪谷千春コーナーが開設される[45]

著作など

著作

書籍

論文

  • 「体育・スポーツに期待する(今後の社会と体育・スポーツの振興<特集>)」『文部時報』(通号 1306) pp.4-7, 文部省.
  • 「過去にこだわらず,きょうを生きる(心を語る)」『通産ジャーナル』28(5) pp.82-88, 通商産業大臣官房報道室.

他多数

猪谷を取り上げた作品

書籍

  • 和田登、こさかしげる(1992)『スキーに生きる―猪谷六合雄と千春の長い旅』(ほるぷ出版
  • 和田登(1997)『栄光へのシュプール 猪谷千春物語』(岩崎書店

アニメーション

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 第6回 日本人初の冬季五輪メダル 猪谷千春” (pdf). スポーツ 歴史の検証 - オリンピアンかく語りき. 笹川スポーツ財団. 2018年2月20日閲覧。
  2. ^ a b c d “冬のオリンピックこぼれ話 - “スキー一家”努力の「銀」【1956年 コルティナダンペッツォ】”. 読売新聞. (2017年12月28日). http://www.yomiuri.co.jp/olympic/2018/feature/20171228-OYT8T50002.html 2018年2月19日閲覧。 
  3. ^ a b c d e f g h i j “五輪と私 - 冬季大会 日本人初メダル”. 読売新聞. (2015年3月1日). http://www.yomiuri.co.jp/local/tochigi/feature/CO005276/20150301-OYTAT50010.html 2018年2月19日閲覧。 
  4. ^ 第3回 猪谷千春さんインタビュー 【1:少年時代】子供時代としつけの大切さ”. 選手インタビュー. 日本オリンピアンズ協会. 2018年2月19日閲覧。
  5. ^ 国民体育大会 【第1回(1946)~第65回(2010)】” (pdf). 日本体育協会. 2018年2月19日閲覧。
  6. ^ Oslo 1952 - Alpine Skiing - Slalom Men”. IOC. 2018年2月20日閲覧。
  7. ^ Oslo 1952 - Alpine Skiing - Downhill Men”. IOC. 2018年2月20日閲覧。
  8. ^ Oslo 1952 - Alpine Skiing - Giant Slalom Men”. IOC. 2018年2月20日閲覧。
  9. ^ a b c d e f 第3回 猪谷千春さんインタビュー【2:3度のオリンピック ~ 何のために戦う?】”. 選手インタビュー. 日本オリンピアンズ協会. 2018年2月20日閲覧。
  10. ^ 連載13 記録に見る日本のスキー競技史”. 全日本スキー連盟 (2008年10月15日). 2018年2月20日閲覧。
  11. ^ SO MUCH HISTORY: MORE THAN HALF A CENTURY OF SKI RACING IN ADELBODEN!”. Audi FIS Ski World Cup Adelboden. 2018年2月20日閲覧。
  12. ^ Cortina d'Ampezzo 1956 - Alpine Skiing - Downhill Men”. IOC. 2018年2月20日閲覧。
  13. ^ Cortina d'Ampezzo 1956 - Alpine Skiing - Giant Slalom Men”. IOC. 2018年2月20日閲覧。
  14. ^ Cortina d'Ampezzo 1956 - Alpine Skiing - Slalom Men”. IOC. 2018年2月20日閲覧。
  15. ^ TU Hall of Fame Inductee - Chiharu Igaya”. International Triathlon Union. 2018年2月20日閲覧。
  16. ^ Bad Gastein (AUT) - FIS World Ski Championships - Men's Slalom”. FIS-Ski. 2018年2月20日閲覧。
  17. ^ Bad Gastein (AUT) - FIS World Ski Championships - Men's Giant Slalom”. FIS-Ski. 2018年2月20日閲覧。
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外部リンク