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*[https://kotobank.jp/word/%E7%BE%A9%E8%B3%A2-1068942 義賢とは - コトバンク] |
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2017年11月2日 (木) 12:00時点における版
義賢(ぎけん、応永6年(1399年[1]) - 応仁2年閏10月2日[2](1468年[1]11月16日))は、室町時代の真言宗の僧[2]。将軍足利義満の弟、足利満詮の子[1]。三宝院満済の下で得度し[2]、三宝院門跡[3]・醍醐寺座主・准三后・東寺長者を歴任した。三宝院義賢(さんぼういん ぎけん)としても知られる。通称は後遍智院准后[2]。70歳没[2]。
なお、義賢が門跡だった三宝院は創建当初から貴種が住持する院家であり、同門に政深、義覚、政紹が得度していた[3]。三宝院満済からは拠点だった金剛輪院を道場として伝法灌頂を受けており、『「前大僧正満済授義賢阿闍梨灌頂印信印明案」『醍』二六函二七号、「新要録」金剛輪院篇』として現存している[4]。
脚注
参考文献
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “義賢 ぎけん”. コトバンク. 2017年11月2日閲覧。
- 藤井雅子 (2016年3月20日). “三宝院門跡と門徒 ─主に室町時代を中心に─” (PDF). 日本女子大学. 2017年11月2日閲覧。