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⚫ | 業による報いを'''業果'''や'''業報'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。業によって報いを受けることを'''業感'''といい、業による[[苦 (仏教)|苦]]である報いを'''業苦'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />{{efn|業とその苦である報いのことを業苦という場合もある<ref name="総合仏教大辞典363" />。}}。[[過去世]]に造った業を'''宿業'''または'''前業'''といい、宿業による災いを'''業厄'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。宿業による脱れることのできない重い[[病気]]を'''業病'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを'''自業自得'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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=== 概説(仏教) === |
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業は意志・形成作用(行、サンカーラ)とも同一視され、良き意志・良き行為を持つことが勧められる。そして、より究極的には、煩悩を滅し、善悪を乗り越えることで、一切の業を作らないことが理想とされる。 |
業は意志・形成作用(行、サンカーラ)とも同一視され、良き意志・良き行為を持つことが勧められる{{要出典|date=2017年10月16日 (月) 02:16 (UTC)|title=}}。そして、より究極的には、煩悩を滅し、善悪を乗り越えることで、一切の業を作らないことが理想とされる{{要出典|date=2017年10月16日 (月) 02:16 (UTC)|title=}}。 |
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=== 業 |
==== 業の異名と関連語 ==== |
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⚫ | 業による報いを'''業果'''や'''業報'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。業によって報いを受けることを'''業感'''といい、業による[[苦 (仏教)|苦]]である報いを'''業苦'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />{{efn|業とその苦である報いのことを業苦という場合もある<ref name="総合仏教大辞典363" />。}}。[[過去世]]に造った業を'''宿業'''または'''前業'''といい、宿業による災いを'''業厄'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。宿業による脱れることのできない重い[[病気]]を'''業病'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを'''自業自得'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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=== 分類 === |
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==== 三業 ==== |
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業は一般に、身・語・意の三業に分けられる<ref name="総合仏教大辞典363" />。[[説一切有部]]の解釈によれば、「これこれのことをなそう」と意志したのが意業であり、その意志を[[体|身体]]的[[行動]]にあらわしたのが身業、[[言語]]的表現にあらわしたのが語業(口業)である<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
業は一般に、身・語・意の'''三業'''に分けられる<ref name="総合仏教大辞典363" />。[[説一切有部]]の解釈によれば、「これこれのことをなそう」と意志したのが意業であり、その意志を[[体|身体]]的[[行動]]にあらわしたのが身業、[[言語]]的表現にあらわしたのが語業(口業)である<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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*身業{{要出典範囲|(しんごう、kāya-kamma) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}} |
*身業{{要出典範囲|(しんごう、kāya-kamma) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}} |
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*口業(くごう{{要出典範囲|、vacī-kamma) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}} |
*口業(くごう{{要出典範囲|、vacī-kamma) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}} |
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==== 思業と思已業 ==== |
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業は、意志の活動である思業と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう)との2つに分けられる<ref name="総合仏教大辞典363" />。思業は[[#三業|意業]]であり、思已業は[[#三業|身業]]と[[#三業|語業]]である<ref name="総合仏教大辞典363" />。仏教では心を造作せしめる働きとして、思考する行為が先に来ると考える{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。 |
業は、意志の活動である'''思業'''と、思業が終わってからなされる'''思已業'''(しいごう)との2つに分けられる<ref name="総合仏教大辞典363" />。思業は[[#三業|意業]]であり、思已業は[[#三業|身業]]と[[#三業|語業]]である<ref name="総合仏教大辞典363" />。仏教では心を造作せしめる働きとして、思考する行為が先に来ると考える{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。 |
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==== 表業と無表業 ==== |
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説一切有部は、身業と語業には表と無表とがあるとし、これらは表業と無表業ともいわれる<ref name="総合仏教大辞典363" />。表業とは、外に表現されて他人に示すことができるものであり、無表業は他人に示すことのできないものである<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
説一切有部は、身業と語業には表と無表とがあるとし、これらは'''表業'''と'''無表業'''ともいわれる<ref name="総合仏教大辞典363" />。表業とは、外に表現されて他人に示すことができるものであり、無表業は他人に示すことのできないものである<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業 (vaag-vijJapti-karman) という{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業・語無表業という{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。 |
意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業 (vaag-vijJapti-karman) という{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業・語無表業という{{要出典|date=2017年10月15日 (日) 13:13 (UTC)|title=}}。 |
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==== 引業と満業 ==== |
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総体としての一生の果報を引く業を引業(牽引業、総報業、引因とも)という<ref name="総合仏教大辞典363" />。これは[[人間界]]とか[[畜生|畜生界]]などに生まれさせる強い力のある業のことを指す<ref name="総合仏教大辞典363" />。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて[[個体]]を完成させる業を満業という<ref name="総合仏教大辞典363" />。引業と満業の2つを'''総別二業'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
総体としての一生の果報を引く業を'''引業'''(牽引業、総報業、引因とも)という<ref name="総合仏教大辞典363" />。これは[[人間界]]とか[[畜生|畜生界]]などに生まれさせる強い力のある業のことを指す<ref name="総合仏教大辞典363" />。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて[[個体]]を完成させる業を'''満業'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。引業と満業の2つを'''総別二業'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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==== 共業と不共業 ==== |
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{{Redirect|共業|協力して働くこと|協働}} |
{{Redirect|共業|協力して働くこと|協働}} |
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山河大地([[器世間]])のような、多くの[[生物]]に共通する果報をひきおこす業を共業(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を不共業(ふぐうごう)という<ref name="総合仏教大辞典363" />。[[無著]]「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない<ref>[http://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/33/1/33_1_1/_article/-char/ja/ 干潟龍祥「業(ごう)の社会性-共業(ぐうごう)-について」]</ref>。 |
山河大地([[器世間]])のような、多くの[[生物]]に共通する果報をひきおこす業を'''共業'''(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を'''不共業'''(ふぐうごう)という<ref name="総合仏教大辞典363" />。[[無著]]「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない<ref>[http://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/33/1/33_1_1/_article/-char/ja/ 干潟龍祥「業(ごう)の社会性-共業(ぐうごう)-について」]</ref>。 |
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==== 三性業 ==== |
==== 三性業 ==== |
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善心によって起こる'''善業'''(安穏業)と、悪心によって起こる'''不善業'''(悪業、不安穏業とも)と、善悪のいずれでもない無記心によって起こる'''無記業'''の3つがあり、この3つを'''三性業'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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==== 三時業 ==== |
==== 三時業 ==== |
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業によって果報を受ける時期に異なりがあるので、業を下記の3つに分ける<ref name="総合仏教大辞典363" />。この3つを'''三時業'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。三時業の各々は、この世で造った業の報いを受ける時期がそれぞれ異なる<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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業によって果報(むくい)を受ける時期に異なりがある。 |
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* 順現法受業 |
* 順現業(順現法受業{{要出典範囲|、じゅんげんぽうじゅごう、dRSTa-dharma-vedaniiyaM karma|date=2017年10月16日 (月) 02:16 (UTC)|title=}}) - この世で造った業の報いを、この世で受ける<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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* 順生業(順次生受業{{要出典範囲|、じゅんじしょうじゅごう、upapadya-vedaniiyaM karma|date=2017年10月16日 (月) 02:16 (UTC)|title=}}) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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三時業は報いを受ける時期が定まっているので'''定業'''といい、報いを受ける時期が定まらないものを不定業(順不定業{{要出典範囲|、{{lang-sa-short|aniyataavedaniiyaM karma}}|date=2017年10月16日 (月) 02:16 (UTC)|title=}})という<ref name="総合仏教大辞典363" />。三時業に不定業を加えて'''四業'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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=== 業因と業果との関係 === |
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説一切有部は、業そのものは[[三世]]に[[実在]]するとし、業が現在あるときにはそれが[[因縁|因]]となっていかなる未来の果を引くかが決定し、業が過去に落ちていってから果に力を与えて果を現在に引き出すとする<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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経量部は、業は瞬間に滅び去るとするが、その業は果を生じる[[種子 (唯識)|種子]](しゅうじ)を[[識]]の上にうえつけ、その種子が果をひきおこすことになるとする<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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=== 業道 === |
=== 業道 === |
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業がそこにおいてはたらくよりどころとなるもの、あるいは、[[衆生|有情]]を苦楽の果報に導く通路となるものを'''業道'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />{{efn|[[経量部]]や[[大乗仏教]]では、身・語を動初(どうほつ)する思(意志)の[[種子 (唯識)|種子]](しゅうじ)のことを指して業道という場合もある<ref name="総合仏教大辞典363" />。}}。業道には十善業道と十悪業道の2つがある<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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業とは心の造作であるから、その造作が具体的に働いてゆくところを業道という。すなわち、思という心の造作は[[貪欲]]とか[[瞋恚]](しんい)とかいうものによって、具体的に働くから、このような思を具体的に働かしめるものを業の道、業道というのである。その業道について十不善業道、十善業道を説いている。この中、十不善業道 (daZaakuZalakarma-pathaa) とは殺生・偸盗・邪淫の身体的なもの、妄語・綺語・悪口・両舌の言語的なもの、貪欲・瞋恚・邪見の心的なものの十種の不善をいうのである。思はこのような十種の不善を業道として働くわけである。十善業道については、十不善業道から反顕してしるべきである。 |
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=== 仏典や宗派ごとの扱い === |
=== 仏典や宗派ごとの扱い === |
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==== 阿毘達磨 ==== |
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[[阿毘達磨]]では、[[十二支縁起]]の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている<ref name="総合仏教大辞典363" />。これを'''業有'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
[[阿毘達磨]]では、[[十二因縁|十二支縁起]]の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている<ref name="総合仏教大辞典363" />。これを'''業有'''という<ref name="総合仏教大辞典363" />。 |
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==== 浄土教 ==== |
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2017年10月16日 (月) 02:17時点における版
業(ごう、梵: कर्मन् karman[注釈 1])とは、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語[1]。仏教およびインドの多くの宗教の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる[1][2]。業は果報の対義語だが、業の果報そのものを業という場合もある[2]。
概説
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業そのものは、善悪に応じて果報を生じ、死によっても失われず、輪廻転生に伴って、アートマンに代々伝えられると考えられた。アートマンを認めない無我の立場をとる思想では、心の流れ(心相続)に付随するものとされた。中国、日本の思想にも影響を与える。『ウパニシャッド』にもその思想は現れ、のちに一種の運命論となった。
仏教以前
釈迦が成道する以前から、従来のバラモン教に所属しない、様々な自由思想家たちがあらわれていた。かれらは高度な瞑想技術を持っており、瞑想によって得られた体験から、様々な思想哲学を生み出し、業、輪廻、宿命、解脱、認識論などの思想が体系化されていった。この中に業の思想も含まれていた。
バラモン教
業はインドにおいて、古い時代から重要視された。ヴェーダ時代からウパニシャッド時代にかけて輪廻思想と結びついて展開し、紀元前10世紀から4世紀位までの間にしだいに固定化してきた。
善をなすものは善生をうけ、悪をなすものは悪生をうくべし。浄行によって浄たるべく。汚れたる行によって、汚れをうくべし
— 『百道梵書』 (Zatapathaa-braahmana)
善人は天国に至って妙楽をうくれども、悪人は奈落に到って諸の苦患をうく。死後、霊魂は秤にかけられ、善悪の業をはかられ、それに応じて賞罰せられる
このような倫理的な力として理解されてきた業がやがて何か業というものとして実体視されるようになる。
あたかも金細工人が一つの黄金の小部分を資料とし、さらに新しくかつ美しい他の形像を造るように、この我も身体と無明とを脱して、新しく美しい他の形像を造る。それは、あるいは祖先であり、あるいは乾闥婆(けんだつば)であり、あるいは諸神であり、生生であり、梵天であり、もしくは他の有情である。……人は言動するによって、いろいろの地位をうる。そのように言動によって未来の生をうる。まことに善業の人は善となり、悪業の人は悪となり、福業によって福人となり、罪業によって罪人となる。故に、世の人はいう。人は欲よりなる。欲にしたがって意志を形成し、意志の向かうところにしたがって業を実現する。その業にしたがって、その相応する結果がある
— 『ブリハド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド』
インドでは業は輪廻転生の思想とセットとして展開する。この輪廻と密着する業の思想は、因果論として決定論や宿命論のような立場で理解される。それによって人々は強く業説に反発し、決定的な厭世の圧力からのがれようとした。それが釈迦と同時代の哲学者として知られた六師外道と仏教側に呼ばれる人々であった。
ある人は、霊魂と肉体とを相即するものと考え、肉体の滅びる事実から、霊魂もまた滅びるとして無因無業の主張をなし、また他の人は霊魂と肉体とを別であるとし、しかも両者ともに永遠不滅の実在と考え、そのような立場から、造るものも、造られるものもないと、全く業を認めないと主張した。
なおバラモン教における輪廻思想の発生を、従来考えられているよりも後の時代であるとする見解もある。例えば上座仏教では、釈迦在世時に存在したバラモン経典を、三つのヴェーダまでしか認めておらず[注釈 2]、釈迦以前のバラモン教に輪廻思想は存在しなかったとする。もちろん、当時の自由思想家たちが輪廻思想を説いていたことは明白であるが、彼らはバラモン教徒ではなかったことに注意すべきである。
ジャイナ教
仏教
概説(仏教)
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業は意志・形成作用(行、サンカーラ)とも同一視され、良き意志・良き行為を持つことが勧められる[要出典]。そして、より究極的には、煩悩を滅し、善悪を乗り越えることで、一切の業を作らないことが理想とされる[要出典]。
業の異名と関連語
業は果報(報い、果熟)を生じる因となるので、業のことを業因や因業ともいう[1][注釈 3]。
業による報いを業果や業報という[1]。業によって報いを受けることを業感といい、業による苦である報いを業苦という[1][注釈 4]。過去世に造った業を宿業または前業といい、宿業による災いを業厄という[1]。宿業による脱れることのできない重い病気を業病という[1]。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを自業自得という[1]。
分類
仏教における業は、様々に分類される。
三業
業は一般に、身・語・意の三業に分けられる[1]。説一切有部の解釈によれば、「これこれのことをなそう」と意志したのが意業であり、その意志を身体的行動にあらわしたのが身業、言語的表現にあらわしたのが語業(口業)である[1]。
- 身業(しんごう、kāya-kamma) - 身体の上に現る総ての動作・所作のこと。悪業では偸盗・邪淫・殺生(ちゅうとう・じゃいん・せっしょう)など。[要出典]
- 口業(くごう、vacī-kamma) - 語業ともいう。口の作業、すなわち言語をいう。悪業では妄語・両舌・悪口・綺語(もうご・りょうぜつ=二枚舌・あっく・きご=飾った言葉)など。[要出典]
- 意業(いごう、mano-kamma) - 意識・心のはたらきで起こすこと。悪業では貪欲・瞋恚・邪見(とんよく・しんい・じゃけん)など。[要出典]
三業としてはたらくものの本体が何であるかについては諸説があり、説一切有部では意業の本体を思(意志)とし、身業と語業の本体を色法であるとする[1]。経量部や大乗仏教は、三業すべての本体を思(意志)であるとする[1]。
思業と思已業
業は、意志の活動である思業と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう)との2つに分けられる[1]。思業は意業であり、思已業は身業と語業である[1]。仏教では心を造作せしめる働きとして、思考する行為が先に来ると考える[要出典]。
表業と無表業
説一切有部は、身業と語業には表と無表とがあるとし、これらは表業と無表業ともいわれる[1]。表業とは、外に表現されて他人に示すことができるものであり、無表業は他人に示すことのできないものである[1]。
意業は心の働いてゆくすがたであるから、他にむかってこれを表示することはできないが、身業と語業は具体的な表現となって現われる[要出典]。この具体的に表現されて働く身業を身表業(しんひょうごう、kaaya-vijJapti-karman)といい、語業を語表業 (vaag-vijJapti-karman) という[要出典]。このように具体的に表面に現われた身語の二業は、刹那的なものでなく、余勢を残すから、身語二業の表業が残す余勢で、後に果をひく原因となるようなもの、それを身無表業・語無表業という[要出典]。
身業と意業のそれぞれの表業と無表業に意業を加えて五業という[1]。
引業と満業
総体としての一生の果報を引く業を引業(牽引業、総報業、引因とも)という[1]。これは人間界とか畜生界などに生まれさせる強い力のある業のことを指す[1]。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて個体を完成させる業を満業という[1]。引業と満業の2つを総別二業という[1]。
共業と不共業
山河大地(器世間)のような、多くの生物に共通する果報をひきおこす業を共業(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を不共業(ふぐうごう)という[1]。無著「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない[3]。
三性業
善心によって起こる善業(安穏業)と、悪心によって起こる不善業(悪業、不安穏業とも)と、善悪のいずれでもない無記心によって起こる無記業の3つがあり、この3つを三性業という[1]。
三時業
業によって果報を受ける時期に異なりがあるので、業を下記の3つに分ける[1]。この3つを三時業という[1]。三時業の各々は、この世で造った業の報いを受ける時期がそれぞれ異なる[1]。
- 順現業(順現法受業、じゅんげんぽうじゅごう、dRSTa-dharma-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、この世で受ける[1]。
- 順生業(順次生受業、じゅんじしょうじゅごう、upapadya-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける[1]。
- 順後業(順後次受業、じゅんごじじゅごう、aparaparyaaya-vedaniiyaM karma[要出典]) - この世で造った業の報いを、第三回目以降の世で受ける[1]。
三時業は報いを受ける時期が定まっているので定業といい、報いを受ける時期が定まらないものを不定業(順不定業、梵: aniyataavedaniiyaM karma[要出典])という[1]。三時業に不定業を加えて四業という[1]。
業因と業果との関係
善悪の業を造ると、それによって楽や苦の報い(果報、果熟)が生じることを、業因によって業果が生じるという[1][注釈 5]。この業因と業果との関係について諸説がある[1]。
説一切有部は、業そのものは三世に実在するとし、業が現在あるときにはそれが因となっていかなる未来の果を引くかが決定し、業が過去に落ちていってから果に力を与えて果を現在に引き出すとする[1]。
経量部は、業は瞬間に滅び去るとするが、その業は果を生じる種子(しゅうじ)を識の上にうえつけ、その種子が果をひきおこすことになるとする[1]。
業道
業がそこにおいてはたらくよりどころとなるもの、あるいは、有情を苦楽の果報に導く通路となるものを業道という[1][注釈 6]。業道には十善業道と十悪業道の2つがある[1]。
仏典や宗派ごとの扱い
増支部経典
釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去ないし未来ないし現在の応供等正覚者は、業論者、業果論者、精進論者であった」と言ったといわれるように、カルマ(業)論の主張者であった。しかし、業を物質的なものであると考えたニガンタ・ナータプッタとは異なり、心のエネルギーとして、物質的形態をとらないものとして考えた。[要出典]
比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。
(Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi)[4]
— 『増支部経典』 (Aṅguttara-Nikāya) Nibbedhika suttaṃ
阿毘達磨
阿毘達磨では、十二支縁起の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている[1]。これを業有という[1]。
浄土教
一般に、念仏して阿弥陀仏の浄土に往生しようと願うことを浄業という[1]。
密教
密教においては、身密・口密・意密の三密により仏の微妙(みみょう)なる働きを思惟し修行する。
西洋近代における業(カルマ)
近代神智学やカルデシズモなどの一部の心霊主義、ニューエイジ、一部の新宗教では転生が信じられ、繰り返される人生の環境を統括するものとして、インド思想を取り入れ「カルマの法則」が提唱された[要出典]。人の思ったり行ったりする行為はすべて宇宙に影響を及ぼし、やがてその結果を刈り取るという考えで、「作用反作用の法則」「原因と結果の法則」などとも呼ばれる[5][6]。キリスト教の『新約聖書』「ガラテヤ人への手紙」の「蒔いたように刈り取るべし(蒔いたからには刈らねばならない)」と同じ意味と考えられることもある[6]。カルマは負債にたとえられることもあり、過去生(前世)の負債を支払って霊的に向上し、転生を繰り返して最終的にカルマを清算することが目指される。カルマを減らす方法は、善行、ヨーガ、霊的知識の習得など様々に主張される[要出典]。
脚注
注釈
- ^ 原語の karman は、サンスクリットの動詞の「クリ」(kR) の現在分詞である「カルマット」(karmat) より転じてカルマンとなった名詞であり[要出典]、羯磨(かつま)と音写する[1]。
- ^ 原始仏典である阿含経典(二カーヤ)において、ウパニシャッドは言及すらされておらず、まったく存在していなかったと考えるからである。登場するヴェーダも三つまでである[要出典]。
- ^ ただし、業因には、煩悩などの「業を起こさせる原因」という意味もあり、因業には「因と業」すなわち「主因と助縁」という意味もある[1]。
- ^ 業とその苦である報いのことを業苦という場合もある[1]。
- ^ 非善非悪の無記業は業果を引く力がない[1]。
- ^ 経量部や大乗仏教では、身・語を動初(どうほつ)する思(意志)の種子(しゅうじ)のことを指して業道という場合もある[1]。
出典
関連項目
参考文献
- 総合仏教大辞典編集委員会(編)、1988、『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月。
- 新村出(編)、1986、『広辞苑』第三版、岩波書店、1986年10月。