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「桑江朝幸」の版間の差分

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{{政治家
'''桑江 朝幸'''(くわえ ちょうこう、[[1918年]]([[大正]]7年)[[2月3日]] - [[1993年]]([[平成]]5年))は、[[沖縄県]]出身の[[政治家]]、[[社会運動家]]。[[琉球政府]][[立法院]][[議員]]、第2代[[沖縄市|沖縄]][[市町村長|市長]]を務めたほか、[[市町村軍用土地委員会連合会]]初代会長として[[島ぐるみ闘争]]を展開した。
|人名 = 桑江 朝幸
|各国語表記 = くわえ ちょうこう
|画像 = File:Choko Kuwae.jpg
|画像説明 =
|国略称 = {{JPN}}
|生年月日 = [[1918年]][[2月3日]]
|出生地 = [[沖縄県]][[中頭郡]]越来村
|没年月日 = {{没年月日と年齢|1918|2|3|1993|12|16}}
|死没地 = [[沖縄県]][[沖縄市]]
|出身校 = [[沖縄県立農林学校]]
|所属政党 =
|親族(政治家) = [[桑江朝千夫]](子)
|国旗 =
|職名 = 越来村議会議員
|当選回数 = 1
|就任日 = [[1948年]]
|退任日 = [[1950年]]
|職名2 = 立法院議員
|当選回数2 = 4
|就任日2 = [[1960年]]
|退任日2 = [[1972年]]
|職名3 = [[沖縄市|沖縄市長]]
|当選回数3 = 3
|就任日3 = [[1978年]]
|退任日3 = [[1990年]]
}}
'''桑江 朝幸'''(くわえ ちょうこう、[[1918年]]([[大正]]7年)[[2月3日]]<ref name=全国>『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、451頁。</ref> - [[1993年]]([[平成]]5年)[[12月16日]]{{R|全国}})は、[[琉球政府]]・[[沖縄県]]の[[政治家]]である。[[軍用地]]主の団体である市町村土地特別委員連合会(現:沖縄県軍用地等地主会連合会、通称:土地連)の初代会長となった。1978年から1990年まで[[沖縄市]]の市長を務めた。1989年に[[泡瀬干潟]]の埋め立て事業を含む東部海浜開発計画市案を発表する<ref>沖縄市「2015年沖縄市市勢要覧」(平成27年4月1日)</ref>。2014年から沖縄市長を務める[[桑江朝千夫]]の父である。


[[琉球列島米国民政府]](略称:USCAR)については、「アメリカ民政府」と記述する。また肩書、施設名、その他名称について、当時のもので表記する。
[[2014年]](平成26年)より沖縄市長を務める[[桑江朝千夫]]は息子。


==生涯==
== 来歴 ==
===戦前===
=== 生い立ち ===
1918年(大正7年)に沖縄県[[中頭郡]]越来村(現:[[沖縄市]])に生まれる{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=16}}。父親は、[[大宜味村]]出身の大工(大宜味大工)であった{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=16}}。
[[1918年]](大正7年)[[沖縄県]][[中頭郡]][[コザ市|越来村]](現在の沖縄市)に生まれる。父朝三、母カマドの長男。[[尚清王]]の血を引く名族だったが、[[琉球処分]]で没落し、生活は貧しかった。[[1935年]] (昭和10年)[[嘉手納町|嘉手納]]の [[沖縄県立北部農林高等学校|沖縄県立農林学校]]を卒業。小禄の蚕業試験場技術員養成所に入り、国立熊本養蚕試験所などを経て中井蚕種製造所に就職。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社17ページ</ref>


小学校卒業後、両親が学費が出せないとの理由から中学校進学を諦め{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=17}}、[[沖縄県立農林学校]](現:[[沖縄県立北部農林高等学校]])に進んだ{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=17}}。1936年(昭和11年)、同校を卒業した。卒業後、那覇小禄の蚕業試験場技術員養成所{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=17}}、国立熊本蚕業試験所{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=17}}、長野県松本市の蚕業試験所練習生を経て{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=17}}、中井蚕種製造所に就職した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=18}}。
[[1938年]] (昭和13年) [[大日本帝国陸軍|陸軍]][[近衛歩兵第3連隊]]に入隊し、兵器修理を行う技術兵となる。伍長となり南支(中国南部)、[[サイゴン]]、[[プノンペン]]に派遣される。サイゴンで修理中の銃が暴発して負傷、帰国。東京の[[板橋兵器廠]]に勤務。[[1944年]](昭和19年)、許嫁の節子と結婚。[[1945年]]3月、板橋兵器廠が空襲を受け、埼玉県日勝村に兵器を移し、寺の庫裏に寓居。6月、[[ラジオ]]で沖縄の玉砕をラジオで聞く。[[8月15日]]玉音放送を聞く。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社18ー33ページ</ref>


===終戦===
=== 軍隊生活 ===
[[1938年]](昭和13年)、徴兵検査に合格し、[[近衛歩兵第3連隊]]に入営した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=18}}。1940年(昭和15年)近衛捜索連隊に転属となる{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=19}}。[[日中戦争]]により、[[広東省]][[中山市|中山県]]に派兵された部隊に加わることになった{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=20}}。
終戦で、管理していた兵器は米軍に引き渡す。その後[[東部憲兵隊]]に転属。その憲兵隊も解散、[[復員省]]浦和支部に転勤。
人員整理の対象になり、養蚕の技術を生かし、[[片倉製糸]]に就職する。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社33ー37ページ</ref>
東京で開かれた[[沖縄人連盟]]の総会で、後の同志・[[山城善光]]に出会う。沖縄人連盟埼玉県支部副支部長となり、南米などから引き上げて来た沖縄県民の帰還運動に取り組む。[[埼玉県]][[知事]]に直談判する一幕もあった。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社39ー44ページ</ref>


広東省での作戦終了後、[[仏印進駐]]に動員された部隊に従い、サイゴン(現在の[[ホーチミン市]])に上陸した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=20}}。部隊はサイゴンから[[プノンペン]]、[[タケオ]]と移動する{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=22}}。ここで銃の暴発事故により左手に重傷を負い、[[相武台陸軍病院|相模原陸軍病院]]に移送された{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=23}}。
===政治へ===
[[1946年]]、[[11月]]いっぱいで片倉製糸を退職し、[[名古屋|名古屋市]]の引揚者収容所で三週間、船待ちをして、12月、ようやく沖縄に帰ることが出来た。しかし期待していたとは裏側に米軍は横暴に振りまい、民主主義は存在しなかった。[[1947年]][[4月]] 、役場の依頼で越来村に青年会を組織する。先に帰琉していた山城善光と再会し、意気投合。山城、上原信夫とともに公職選挙を求める署名活動を行う。[[1947年]][[5月]]には[[知念村]]で開かれた政治集会・沖縄建設懇談会に参加し、言論・集会の自由を訴える。この動きが沖縄における政党結成の機運を高める。翌[[6月]] 、占領下沖縄最初の[[政党]]・[[沖縄民主同盟]]の結成に参画し、総務部長となる。
[[1948年]][[2月]] に初めて行われた市町村会議員選挙では[[越来村]][[村会議員]]に当選。しかし沖縄民主同盟の機関紙『自由沖縄』で民政府、琉球政府を批判したところ、山城善光とともに逮捕され、23日間、[[知念警察署]]に留置される。<ref> 山城善光『沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火』[[琉球新報]]1982.04.21</ref><ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』276ページ</ref>


退院後、近衛師団兵器部板橋倉庫の勤務となる{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=25}}。1944年(昭和19年)、沖縄での許嫁と結婚し{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=26}}、[[東京都]][[世田谷区]]に家を借りた{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=26}}。
===土地連合会===
{{See also|島ぐるみ闘争}}
[[1949年]]、[[軍用地]]料支払い要求運動を始める。[[1950年]]3月、[[コザ市]]で第一回軍用地地主大会を開催。[[1951年]][[8月]]には自費で軍用地使用料の支払いを求める[[新聞広告]]を[[沖縄タイムス]]に掲載。[[11月29日]]には「全島軍用地住民部落代表者会」の開催を沖縄タイムスで呼びかける。


1945年(昭和20年)、本土空襲激化のため、妻を疎開させる{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=30}}。また板橋倉庫も空襲被害にあい、残った物資を[[埼玉県]][[南埼玉郡]][[日勝村]](現:[[白岡市]])などへ疎開することが決定した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=30}}。桑江もその作業に従事した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=30}}。
[[1953年]][[6月15日]]、大工廻朝盛[[越来村|越来]][[市町村長|村長]]の誘いで[[立法院]]土地問題懇談会に出席したところ、その席で「市町村土地特別委員連合会」(土地連)が発足し、会長に就任。自転車で駆け回り事務局を立ち上げる。[[1952年]]から[[1953年]]にかけて地料支払いと土地収用法の布令が相次いで出されており、天久、安謝、銘苅の土地収用、西原、小禄、読谷でも軍用地接収が行われ、対応に追われた。
[[1953年]][[8月]]、立法院特別土地委員会、軍任命の土地委員会、市町村軍用土地委員会連合会の三者協議会が開かれ、軍用地への適正地料を要求する。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社62ー72ページ</ref>
米軍は'''布告第26号'''を出した。その内容は
# 米軍が引き続き土地を使用することについては暗黙の契約が成立している。
# 土地を[[占有登記]]する。
# 地代は[[供託]]する。
# 地主は不服があれば訴願できる。訴願の審理は米国土地収用委員会で行う
というものだった。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社70ページ</ref>
これに対し、土地連は次の対応で合意した。
# 地主全員、地料の75%を受け取り、全員が訴願する。
# 訴願費用については琉球政府に助成を求める <ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社71ページ</ref>
三者協議会で協議の結果、訴願の費用は、琉球政府の補助金、および、市町村の負担金でまかない、地主はこれを負担しないという形で合意し、訴願を行った。その結果、地主の98%が訴願し、適正賃借料も軍の提示額の4ー13倍要求された。さらに地主代表をアメリカ本国に派遣し、要請書を大統領、議会、国務長官あてに要請書を提出する準備にかかった。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社72ー74ページ</ref>


=== 終戦直後 ===
===軍用地代「一括払い」===
8月15日の[[玉音放送]]は、部隊の宿舎となっていた埼玉県日勝村の寺院の境内で聞いた{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=33}}。その後、部隊は解散し、軍籍を離れて、[[埼玉県]][[浦和市]](現:[[さいたま市]])の復員省浦和支部勤務となった{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=34}}。しかし、年末には復員省の整理縮小の対象となり{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=37}}、[[大宮市]]にあった[[片倉工業]]の臨時職員に採用される{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=37}}{{efn|片倉工業は、当時蚕業を大宮製糸場で行っており、桑江が若年のときに学んだ蚕業の経験を買われたものであった}}。
[[1954年]]4月、米軍のブラムリー主席民政官は、軍用地の所有権は地主に残し、その無期限使用料を全額一括払いすると米議会に提出する方針を明らかにする。これに対し、土地連は、
# 軍用地の一括買い上げと、永久使用に反対。
# 使用料は地主の要求額とし、使用料は毎年払う。契約は一定期間で更新する。
# 損害賠償を要求する。
# 未開放地は開放し、新たな土地収用には反対する
と決定。これを[[立法院]]各派、軍用地特別委員会に要請した。<ref>桑江朝幸『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』沖縄タイムス社74ページ</ref>
*[[1955年]]
** [[5月]] - 軍用地問題渡米折衝団に専任され、渡米。
** 6月 - 米下院軍事委員会で沖縄の軍用地問題について証言する。
*[[1956年]]夏 - 島ぐるみ闘争を展開する。
*[[1966年]] - 土地連会長辞任。
*[[1978年]] - 第2代沖縄市長に当選。
*[[1993年]]12月 - 死去<ref>[https://www.okinawa-tochiren.jp/wp-content/uploads/kuwae_merged.pdf 初代土地連会長 桑江朝幸](PDF)</ref>。


その一方で、東京や埼玉で沖縄人連盟の活動に参加し、海外からの沖縄出身者の引揚者の対応活動を行った{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=41}}。このころ、やはり沖縄出身の山城善光と知り合う{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=40}}。
==著書==
*『民族の血は燃えて 異民族支配下の闘争裏面史』新星図書、1972年
*『桑江朝幸のあゆみ 写真で見る』桑江朝幸写真集刊行会、1990年
*『土がある明日がある 桑江朝幸回顧録』[[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]、1991年


==脚注==
=== 帰郷 ===
[[1946年]](昭和21年)12月、名古屋港からの船で沖縄へ戻る{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=49}}。越来村に戻り、越来村青年会を組織化する{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=53}}。また山城善光とともに沖縄民主同盟の結党に参加する{{sfn|沖縄大百科事典 上|1983|p=586}}。
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


1948年、越来村議会議員選挙に立候補し、当選する{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=58}}。民主同盟の機関誌である『自由沖縄新聞』を発刊し、民政府批判を掲載する。8月20日、山城善光と共に逮捕され、23日間知念警察署に留置される{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=276}}。
{{Japan-politician-stub}}

{{デフォルトソート:くわえ ちようこう}}
=== 土地連初代会長 ===
[[Category:各群島・民政府時代の政治家]]
1950年、群島議会議員選挙に立候補するが、落選する{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=147}}。

1951年8月、桑江は自費で沖縄タイムスに意見広告を掲載した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=62}}{{sfn|土地連のあゆみ 創立三十年史 通史編|1989|p=49}}。内容は、軍用地の使用料の支払い等をアメリカ軍民政府や群島政府に陳情するための署名呼びかけを行うものであった{{sfn|土地連のあゆみ 創立三十年史 通史編|1989|p=49}}{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=63}}。さらに、11月、軍用地所有者の代表者会議を開くための告知広告を出した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=63}}。

1953年、大宜味村の村長であった大工廻朝盛などの意向で[[立法院]]土地委員の議員との懇談会に出席し{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=66}}、沖縄市町村軍用地等地主連合会(現:沖縄県軍用地等地主会連合会、以後「土地連」と記述)の発足が決まり、桑江が会長に推され、初代会長の座についた{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=66}}。

1954年、アイゼンハワー大統領は年頭一般教書演説で「沖縄のアメリカ軍基地を無期限に使用する」と発言した。さらに3月18日、沖縄タイムスが「米軍当局は沖縄で45,000エーカー(約20,000ha)の土地を購入し、3,500家族の住民を八重山に移住させるための資金を獲得するだろう」というワシントン電の情報を報道した{{sfn|平良、戦後沖縄と米軍基地|2012|p=105}}。この買い上げ計画に対して[[琉球政府]][[行政主席]]であった[[比嘉秀平]]は賛意を表明した{{sfn|平良、戦後沖縄と米軍基地|2012|p=105}}。

これに対して、土地連は買い取り計画反対を打ち出した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=74}}。琉球政府は軍用地問題の解決を図るため、ワシントンに施設団を送りアメリカ本国と直接折衝をすることになった。使節団は行政主席の比嘉秀平を団長とし、立法院議員からは大山朝常、そして土地連の会長であった桑江も加わった{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=78}}。

使節団帰国後、アメリカ軍は軍用地の接収を行うと通知してきた{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=84}}。桑江は土地連会長として断固反対の立場ととった{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=84}}。

第2次渡米使節団を派遣し、軍用地問題解決のためにアメリカ本国政府と再び直接折衝をすることになった。代表は当間。桑江も土地連会長として使節団に加わった。使節団は1958年6月10日、那覇を出発した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=127}}。

=== 立法院議員時代 ===
1956年、第3回立法院議員選挙に民主同盟の推薦を受け立候補するが、落選となる{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=62}}。1960年、第5回立法院議員選挙で初当選する{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=146}}、沖縄自由民主党の党組織委員長に就任する。1962年、立法院議員に再選。1965年、立法院議員に3選。

1966年10月7日、アメリカ上院は、アメリカ政府が沖縄に講話前補償として2,104万ドルを支払う法案を可決した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=142}}。

講話前補償支払い成立を受けて、土地連会長を辞任。1968年、立法院議員に4選を果たし、本土復帰を迎えた。

=== 本土復帰後の国政進出 ===
沖縄が本土に復帰後、桑江は衆議院議員への立候補を決め、準備に入る。[[1972年]]、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]の公認候補として[[第33回衆議院議員総選挙]][[沖縄県全県区]]から立候補するが落選{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=204}}。[[1976年]]の[[第34回衆議院議員総選挙]]でも沖縄県全県区から立候補するが落選する{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=204}}。

=== 沖縄市長時代 ===
1978年、衆議院議員に3回目の立候補準備を進めていたが、自由民主党の沖縄県連の説得を受け、沖縄市長選挙への立候補することになった{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=206}}。元コザ市長であった大山朝常の支持も取り付けて、再選を目指していた現職の町田宗徳を破り、保守系として初の沖縄市長に当選した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=206}}{{efn|大山朝常は、1974年の沖縄市長選挙では町田宗徳を支持し、これを受けて町田は市長の座についた。}}。

しかし、市議会は桑江支持の保守系議員は過半数割れで少数与党{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=217}}、加えて市職員労働組合が桑江の即時辞任を要求して対決姿勢を鮮明にした{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=217}}。労使協議を重ね、1981年10月に労使共に争訟案件を全て取り下げることで合意した{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=228}}。

1982年4月、沖縄市長選で再選。1986年5月、3選。

1987年3月、[[泡瀬干潟]]の埋め立てを含む「東部海浜地区埋立構想」を策定する<ref>{{Cite web|和書|title=これまでの経緯 {{!}} 東部海浜開発事業について {{!}} 東部海浜開発計画 {{!}} 沖縄市の情報 {{!}} 沖縄市役所|url=https://www.city.okinawa.okinawa.jp/about/707/757|website=www.city.okinawa.okinawa.jp|accessdate=2021-02-20}}</ref>。西側に[[嘉手納飛行場|嘉手納基地]]、北側に[[嘉手納弾薬庫地区|嘉手納弾薬庫]]に土地を切り詰められているため、市としての開発空間を泡瀬海岸の拡張に求め、当初は239.5haの広大な埋め立て計画であり、以後、市内外で大きな議論を生むこととなった。

1990年、4選目を目指して沖縄市長選挙に立候補したが革新派の推薦を受けた[[新川秀清]]に敗れた。桑江は3期12年間、沖縄市の市長を務めたが、市長時代の主な業績は、[[第42回国民体育大会]](海邦国体)の秋季メイン会場の誘致、沖縄市役所総合庁舎の建設{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|pp=252}}、[[沖縄職業能力開発大学校]]の誘致である{{efn|大学の誘致は多方面に実施した。[[東海大学]]の野球部監督であった[[原貢]]を通じて東海大学海洋学科のキャンパス誘致を行ったが、失敗に終わったと自伝で回想している{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=62}}{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=254}}。}}。

== 人物 ==
=== 土地への信仰 ===
自伝の「あとがき」に土地を所有していることの重要性について、以下のように述べている。自伝のタイトルも「土がある明日がある」としている。

{{Quotation|
土は命あるものすべての糧である。この小さい島沖縄で、土地を失えば生きる糧を失うに等しい。暖かい沖縄では、土地さえあれば植えること無く生活を営むことができ、大地をしっかり踏みしめて前進すれば目指すかなたに到達する。
(中略)
戦前の資産家が土地を売ってしまって、今、路頭に迷っている人がいるかと思うと、三反百姓といわれ細々と暮らしていた人が三反歩の小さい土地を持っていたおかげで、今は悠々と余生を送っている例は私の周辺でも数多くある。まさしく「土あれば万物そこに生存し、明日を目指してそこに栄える」である。|桑江朝幸|土がある明日がある{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=300}}}}
<!-- 「植えること無く」は「飢えること無く」の誤変換? -->

=== 大山朝常との関係 ===
コザ市長を務めた[[大山朝常]]とは、同じ越来村の生まれで、沖縄県立農林学校を卒業し、その後、近衛師団に入営しているところまで経歴が一致している。桑江の自伝によれば、大山とは越来村の村会議員の時に誰を議長にするかという問題から軋轢がうまれ{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=59}}、1950年の群島議会選挙で「桑江が立候補しなければ、大山先生が当選できたのに」と大山支持者から批判され{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=62}}、大山と抜き差しならぬ関係になったと述べている{{sfn|桑江、土がある明日がある|1991|p=62}}。

1974年に、沖縄市への合併を期にコザ市長を退任した大山朝常は、後任として町田宗徳を支持していた{{sfn|藤崎、基地の街コザに生きて(下)|1980|p=298}}。しかし、町田の市政運営が放漫財政を招き、また[[中城湾]]の港湾設備開発に積極的でないという理由から、1978年の選挙で桑江支持にまわった{{sfn|藤崎、基地の街コザに生きて(下)|1980|p=299}}。

=== アメリカ民政府との関係 ===
桑江は、しばしばアメリカ民政府に対して、コザ市行政について進言や要請を行っていたことが公文書から明らかになっている{{sfn|山崎、戦後沖縄における米軍統治の実態と地方政治の形成に関する政治地理学的研究|2007|pp=13-14}}。桑江と対立関係にあり、コザ市長の座にあった大山に対してアメリカ民政府渉外局には大山の「反米」言動を報告する文書がいくつかあり、大山の言動を監視していた{{sfn|山崎、大山コザ市政と琉球列島米国民政府|2001|p=123}}。このような状況から、アメリカ民政府も保守系の有力政治家として桑江の立場を配慮していたと考えられる{{sfn|山崎、戦後沖縄における米軍統治の実態と地方政治の形成に関する政治地理学的研究|2007|pp=13-14}}。例えば、桑江はある[[Aサイン]]業者が反米的人物であると指摘し、Aサインを取り上げるように要請を行い、アメリカ民政府渉外局も陸軍参謀に対して、Aサイン取り消しを提言していた{{sfn|山崎、戦後沖縄における米軍統治の実態と地方政治の形成に関する政治地理学的研究|2007|pp=13-14}}。

== スキャンダル ==
=== 軍用地問題 ===
1954年に、アメリカ軍の基地の地代について地主から買い取る計画が明るみに出た。このとき琉球政府は、使節団を派遣し、アメリカ政府と直接折衝を行うことになった。使節団は「全員地代一括支払い反対」で統一されていたと桑江の自伝や土地連の公式文書では示されているが、大山はこれを否定しており、「自分以外は賛成であった」としている{{sfn|大山、沖縄独立宣言|1997|p=145}}。1956年3月に[[第3回立法院議員総選挙]]が行われた。この選挙には桑江も立候補していたが、大山は、桑江が「地代一括払い」について賛成したことを暴露した{{sfn|新崎、戦後沖縄史|1976|p=134}}。この選挙で大山は、有力な対立候補であった琉球民主党の桑江を破り当選している。

=== 議員買収疑惑 ===
立法院議員時代、[[沖縄時報]]に桑江朝幸と名の入った封筒に5ドルが入っている写真が掲載され、議員買収と報じられた{{sfn|沖縄 土着と解放|1969|p=34}}。桑江は名誉毀損で裁判に訴えた{{sfn|沖縄 土着と解放|1969|p=34}}。また沖縄時報側の主張によれば、桑江がアメリカ民政府の高等弁務官に、この写真を撮影した奄美群島出身者の記者を強制送還せよと依頼したとしている{{sfn|沖縄 土着と解放|1969|p=34}}。

== 著書 ==
* {{Cite book|和書|title=民族の血は燃えて : 異民族支配下の闘争裏面史|publisher=新星図書|date=1972-10-10|id={{NDLJP|12188338}}}}
* 『沖縄の戦後はまだ終らない』 沖縄政治経済研究所 1973
* 『土がある明日がある』 沖縄タイムス社 1991
* 『沖縄育ちの心のうた旅のうた』 1993 (自費出版)

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author = 桑江朝幸|date = 1991|title = 土がある明日がある|publisher=沖縄タイムス社|ncid=BN07318568|ref = {{Harvid|桑江、土がある明日がある|1991}} }}
* {{Cite book|和書|author = 新崎 盛暉|date = 1976|title = 戦後沖縄史|publisher=日本評論社|ncid=BN00940635|ref = {{Harvid|新崎、戦後沖縄史|1976}} }}
* {{Cite book|和書|author = 石田郁夫|date = 1969|title = 沖縄 土着と解放|publisher=合同出版|page=34|ncid=BN07816645| ref={{Harvid|沖縄 土着と解放|1969}} }}
* {{Cite book|和書|editor=沖繩大百科事典刊行事務局|title=沖縄大百科事典 上|publisher=沖縄タイムス社|date=1983-05-30|ncid=BN00422696|id={{NDLJP|12193837}}|ref = {{Harvid|沖縄大百科事典 上|1983}} }}
* {{Cite book|和書|editor=土地連三十周年記念誌編集委員会|date = 1989|title = 土地連のあゆみ 創立三十年史 通史編|publisher=沖縄県軍用地等地主会連合会|ncid=BN05624053|ref = {{Harvid|土地連のあゆみ 創立三十年史 通史編|1989}} }}
* {{Cite journal|和書|author = 藤崎 康夫|authorlink = 藤崎康夫|date = 1980-08|title = 基地の街コザに生きて--"市長"大山朝常の回想|journal = 中央公論|volume = 95|issue = 10|pages = 282-297|publisher = 中央公論新社|issn = 0529-6838|ref = {{Harvid|藤崎、基地の街コザに生きて(上)|1980}} }}
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* {{Cite book|和書|author = 佐藤 俊一 |date = 2012|title = 日本地方自治の群像|volume = 3|publisher=成文堂|isbn=978-4-7923-3307-2|ref = {{Harvid|佐藤、日本地方自治の群像|2012}} }}
* {{Cite book|和書|author = 山崎 孝史|date =2001|title = 大山コザ市政と琉球列島米国民政府−地域社会軍事化の一局面− |publisher= 大阪市立大学人権問題研究会|ncid=AA11571246|ref = {{Harvid|山崎、大山コザ市政と琉球列島米国民政府|2001}} }}
* {{Cite book|和書|author = 山崎 孝史|date =2007|title = 戦後沖縄における米軍統治の実態と地方政治の形成に関する政治地理学的研究|publisher= 大阪市立大学大学院文学研究科地理学教室|ncid=BA81889667|ref = {{Harvid|山崎、戦後沖縄における米軍統治の実態と地方政治の形成に関する政治地理学的研究|2007}} }}

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桑江 朝幸
くわえ ちょうこう
生年月日 1918年2月3日
出生地 沖縄県中頭郡越来村
没年月日 (1993-12-16) 1993年12月16日(75歳没)
死没地 沖縄県沖縄市
出身校 沖縄県立農林学校
親族 桑江朝千夫(子)

越来村議会議員
当選回数 1
在任期間 1948年 - 1950年

立法院議員
当選回数 4
在任期間 1960年 - 1972年

当選回数 3
在任期間 1978年 - 1990年
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桑江 朝幸(くわえ ちょうこう、1918年大正7年)2月3日[1] - 1993年平成5年)12月16日[1])は、琉球政府沖縄県政治家である。軍用地主の団体である市町村土地特別委員連合会(現:沖縄県軍用地等地主会連合会、通称:土地連)の初代会長となった。1978年から1990年まで沖縄市の市長を務めた。1989年に泡瀬干潟の埋め立て事業を含む東部海浜開発計画市案を発表する[2]。2014年から沖縄市長を務める桑江朝千夫の父である。

琉球列島米国民政府(略称:USCAR)については、「アメリカ民政府」と記述する。また肩書、施設名、その他名称について、当時のもので表記する。

来歴

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生い立ち

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1918年(大正7年)に沖縄県中頭郡越来村(現:沖縄市)に生まれる[3]。父親は、大宜味村出身の大工(大宜味大工)であった[3]

小学校卒業後、両親が学費が出せないとの理由から中学校進学を諦め[4]沖縄県立農林学校(現:沖縄県立北部農林高等学校)に進んだ[4]。1936年(昭和11年)、同校を卒業した。卒業後、那覇小禄の蚕業試験場技術員養成所[4]、国立熊本蚕業試験所[4]、長野県松本市の蚕業試験所練習生を経て[4]、中井蚕種製造所に就職した[5]

軍隊生活

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1938年(昭和13年)、徴兵検査に合格し、近衛歩兵第3連隊に入営した[5]。1940年(昭和15年)近衛捜索連隊に転属となる[6]日中戦争により、広東省中山県に派兵された部隊に加わることになった[7]

広東省での作戦終了後、仏印進駐に動員された部隊に従い、サイゴン(現在のホーチミン市)に上陸した[7]。部隊はサイゴンからプノンペンタケオと移動する[8]。ここで銃の暴発事故により左手に重傷を負い、相模原陸軍病院に移送された[9]

退院後、近衛師団兵器部板橋倉庫の勤務となる[10]。1944年(昭和19年)、沖縄での許嫁と結婚し[11]東京都世田谷区に家を借りた[11]

1945年(昭和20年)、本土空襲激化のため、妻を疎開させる[12]。また板橋倉庫も空襲被害にあい、残った物資を埼玉県南埼玉郡日勝村(現:白岡市)などへ疎開することが決定した[12]。桑江もその作業に従事した[12]

終戦直後

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8月15日の玉音放送は、部隊の宿舎となっていた埼玉県日勝村の寺院の境内で聞いた[13]。その後、部隊は解散し、軍籍を離れて、埼玉県浦和市(現:さいたま市)の復員省浦和支部勤務となった[14]。しかし、年末には復員省の整理縮小の対象となり[15]大宮市にあった片倉工業の臨時職員に採用される[15][注釈 1]

その一方で、東京や埼玉で沖縄人連盟の活動に参加し、海外からの沖縄出身者の引揚者の対応活動を行った[16]。このころ、やはり沖縄出身の山城善光と知り合う[17]

帰郷

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1946年(昭和21年)12月、名古屋港からの船で沖縄へ戻る[18]。越来村に戻り、越来村青年会を組織化する[19]。また山城善光とともに沖縄民主同盟の結党に参加する[20]

1948年、越来村議会議員選挙に立候補し、当選する[21]。民主同盟の機関誌である『自由沖縄新聞』を発刊し、民政府批判を掲載する。8月20日、山城善光と共に逮捕され、23日間知念警察署に留置される[22]

土地連初代会長

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1950年、群島議会議員選挙に立候補するが、落選する[23]

1951年8月、桑江は自費で沖縄タイムスに意見広告を掲載した[24][25]。内容は、軍用地の使用料の支払い等をアメリカ軍民政府や群島政府に陳情するための署名呼びかけを行うものであった[25][26]。さらに、11月、軍用地所有者の代表者会議を開くための告知広告を出した[26]

1953年、大宜味村の村長であった大工廻朝盛などの意向で立法院土地委員の議員との懇談会に出席し[27]、沖縄市町村軍用地等地主連合会(現:沖縄県軍用地等地主会連合会、以後「土地連」と記述)の発足が決まり、桑江が会長に推され、初代会長の座についた[27]

1954年、アイゼンハワー大統領は年頭一般教書演説で「沖縄のアメリカ軍基地を無期限に使用する」と発言した。さらに3月18日、沖縄タイムスが「米軍当局は沖縄で45,000エーカー(約20,000ha)の土地を購入し、3,500家族の住民を八重山に移住させるための資金を獲得するだろう」というワシントン電の情報を報道した[28]。この買い上げ計画に対して琉球政府行政主席であった比嘉秀平は賛意を表明した[28]

これに対して、土地連は買い取り計画反対を打ち出した[29]。琉球政府は軍用地問題の解決を図るため、ワシントンに施設団を送りアメリカ本国と直接折衝をすることになった。使節団は行政主席の比嘉秀平を団長とし、立法院議員からは大山朝常、そして土地連の会長であった桑江も加わった[30]

使節団帰国後、アメリカ軍は軍用地の接収を行うと通知してきた[31]。桑江は土地連会長として断固反対の立場ととった[31]

第2次渡米使節団を派遣し、軍用地問題解決のためにアメリカ本国政府と再び直接折衝をすることになった。代表は当間。桑江も土地連会長として使節団に加わった。使節団は1958年6月10日、那覇を出発した[32]

立法院議員時代

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1956年、第3回立法院議員選挙に民主同盟の推薦を受け立候補するが、落選となる[24]。1960年、第5回立法院議員選挙で初当選する[33]、沖縄自由民主党の党組織委員長に就任する。1962年、立法院議員に再選。1965年、立法院議員に3選。

1966年10月7日、アメリカ上院は、アメリカ政府が沖縄に講話前補償として2,104万ドルを支払う法案を可決した[34]

講話前補償支払い成立を受けて、土地連会長を辞任。1968年、立法院議員に4選を果たし、本土復帰を迎えた。

本土復帰後の国政進出

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沖縄が本土に復帰後、桑江は衆議院議員への立候補を決め、準備に入る。1972年自由民主党の公認候補として第33回衆議院議員総選挙沖縄県全県区から立候補するが落選[35]1976年第34回衆議院議員総選挙でも沖縄県全県区から立候補するが落選する[35]

沖縄市長時代

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1978年、衆議院議員に3回目の立候補準備を進めていたが、自由民主党の沖縄県連の説得を受け、沖縄市長選挙への立候補することになった[36]。元コザ市長であった大山朝常の支持も取り付けて、再選を目指していた現職の町田宗徳を破り、保守系として初の沖縄市長に当選した[36][注釈 2]

しかし、市議会は桑江支持の保守系議員は過半数割れで少数与党[37]、加えて市職員労働組合が桑江の即時辞任を要求して対決姿勢を鮮明にした[37]。労使協議を重ね、1981年10月に労使共に争訟案件を全て取り下げることで合意した[38]

1982年4月、沖縄市長選で再選。1986年5月、3選。

1987年3月、泡瀬干潟の埋め立てを含む「東部海浜地区埋立構想」を策定する[39]。西側に嘉手納基地、北側に嘉手納弾薬庫に土地を切り詰められているため、市としての開発空間を泡瀬海岸の拡張に求め、当初は239.5haの広大な埋め立て計画であり、以後、市内外で大きな議論を生むこととなった。

1990年、4選目を目指して沖縄市長選挙に立候補したが革新派の推薦を受けた新川秀清に敗れた。桑江は3期12年間、沖縄市の市長を務めたが、市長時代の主な業績は、第42回国民体育大会(海邦国体)の秋季メイン会場の誘致、沖縄市役所総合庁舎の建設[40]沖縄職業能力開発大学校の誘致である[注釈 3]

人物

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土地への信仰

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自伝の「あとがき」に土地を所有していることの重要性について、以下のように述べている。自伝のタイトルも「土がある明日がある」としている。

土は命あるものすべての糧である。この小さい島沖縄で、土地を失えば生きる糧を失うに等しい。暖かい沖縄では、土地さえあれば植えること無く生活を営むことができ、大地をしっかり踏みしめて前進すれば目指すかなたに到達する。 (中略)

戦前の資産家が土地を売ってしまって、今、路頭に迷っている人がいるかと思うと、三反百姓といわれ細々と暮らしていた人が三反歩の小さい土地を持っていたおかげで、今は悠々と余生を送っている例は私の周辺でも数多くある。まさしく「土あれば万物そこに生存し、明日を目指してそこに栄える」である。 — 桑江朝幸、土がある明日がある[42]

大山朝常との関係

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コザ市長を務めた大山朝常とは、同じ越来村の生まれで、沖縄県立農林学校を卒業し、その後、近衛師団に入営しているところまで経歴が一致している。桑江の自伝によれば、大山とは越来村の村会議員の時に誰を議長にするかという問題から軋轢がうまれ[43]、1950年の群島議会選挙で「桑江が立候補しなければ、大山先生が当選できたのに」と大山支持者から批判され[24]、大山と抜き差しならぬ関係になったと述べている[24]

1974年に、沖縄市への合併を期にコザ市長を退任した大山朝常は、後任として町田宗徳を支持していた[44]。しかし、町田の市政運営が放漫財政を招き、また中城湾の港湾設備開発に積極的でないという理由から、1978年の選挙で桑江支持にまわった[45]

アメリカ民政府との関係

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桑江は、しばしばアメリカ民政府に対して、コザ市行政について進言や要請を行っていたことが公文書から明らかになっている[46]。桑江と対立関係にあり、コザ市長の座にあった大山に対してアメリカ民政府渉外局には大山の「反米」言動を報告する文書がいくつかあり、大山の言動を監視していた[47]。このような状況から、アメリカ民政府も保守系の有力政治家として桑江の立場を配慮していたと考えられる[46]。例えば、桑江はあるAサイン業者が反米的人物であると指摘し、Aサインを取り上げるように要請を行い、アメリカ民政府渉外局も陸軍参謀に対して、Aサイン取り消しを提言していた[46]

スキャンダル

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軍用地問題

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1954年に、アメリカ軍の基地の地代について地主から買い取る計画が明るみに出た。このとき琉球政府は、使節団を派遣し、アメリカ政府と直接折衝を行うことになった。使節団は「全員地代一括支払い反対」で統一されていたと桑江の自伝や土地連の公式文書では示されているが、大山はこれを否定しており、「自分以外は賛成であった」としている[48]。1956年3月に第3回立法院議員総選挙が行われた。この選挙には桑江も立候補していたが、大山は、桑江が「地代一括払い」について賛成したことを暴露した[49]。この選挙で大山は、有力な対立候補であった琉球民主党の桑江を破り当選している。

議員買収疑惑

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立法院議員時代、沖縄時報に桑江朝幸と名の入った封筒に5ドルが入っている写真が掲載され、議員買収と報じられた[50]。桑江は名誉毀損で裁判に訴えた[50]。また沖縄時報側の主張によれば、桑江がアメリカ民政府の高等弁務官に、この写真を撮影した奄美群島出身者の記者を強制送還せよと依頼したとしている[50]

著書

[編集]
  • 『民族の血は燃えて : 異民族支配下の闘争裏面史』新星図書、1972年10月10日。NDLJP:12188338 
  • 『沖縄の戦後はまだ終らない』 沖縄政治経済研究所 1973
  • 『土がある明日がある』 沖縄タイムス社 1991
  • 『沖縄育ちの心のうた旅のうた』 1993 (自費出版)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 片倉工業は、当時蚕業を大宮製糸場で行っており、桑江が若年のときに学んだ蚕業の経験を買われたものであった
  2. ^ 大山朝常は、1974年の沖縄市長選挙では町田宗徳を支持し、これを受けて町田は市長の座についた。
  3. ^ 大学の誘致は多方面に実施した。東海大学の野球部監督であった原貢を通じて東海大学海洋学科のキャンパス誘致を行ったが、失敗に終わったと自伝で回想している[24][41]

出典

[編集]
  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、451頁。
  2. ^ 沖縄市「2015年沖縄市市勢要覧」(平成27年4月1日)
  3. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 16.
  4. ^ a b c d e 桑江、土がある明日がある 1991, p. 17.
  5. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 18.
  6. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 19.
  7. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 20.
  8. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 22.
  9. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 23.
  10. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 25.
  11. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 26.
  12. ^ a b c 桑江、土がある明日がある 1991, p. 30.
  13. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 33.
  14. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 34.
  15. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 37.
  16. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 41.
  17. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 40.
  18. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 49.
  19. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 53.
  20. ^ 沖縄大百科事典 上 1983, p. 586.
  21. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 58.
  22. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 276.
  23. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 147.
  24. ^ a b c d e 桑江、土がある明日がある 1991, p. 62.
  25. ^ a b 土地連のあゆみ 創立三十年史 通史編 1989, p. 49.
  26. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 63.
  27. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 66.
  28. ^ a b 平良、戦後沖縄と米軍基地 2012, p. 105.
  29. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 74.
  30. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 78.
  31. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 84.
  32. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 127.
  33. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 146.
  34. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 142.
  35. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 204.
  36. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 206.
  37. ^ a b 桑江、土がある明日がある 1991, p. 217.
  38. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 228.
  39. ^ これまでの経緯 | 東部海浜開発事業について | 東部海浜開発計画 | 沖縄市の情報 | 沖縄市役所”. www.city.okinawa.okinawa.jp. 2021年2月20日閲覧。
  40. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, pp. 252.
  41. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 254.
  42. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 300.
  43. ^ 桑江、土がある明日がある 1991, p. 59.
  44. ^ 藤崎、基地の街コザに生きて(下) 1980, p. 298.
  45. ^ 藤崎、基地の街コザに生きて(下) 1980, p. 299.
  46. ^ a b c 山崎、戦後沖縄における米軍統治の実態と地方政治の形成に関する政治地理学的研究 2007, pp. 13–14.
  47. ^ 山崎、大山コザ市政と琉球列島米国民政府 2001, p. 123.
  48. ^ 大山、沖縄独立宣言 1997, p. 145.
  49. ^ 新崎、戦後沖縄史 1976, p. 134.
  50. ^ a b c 沖縄 土着と解放 1969, p. 34.

参考文献

[編集]
  • 桑江朝幸『土がある明日がある』沖縄タイムス社、1991年。 NCID BN07318568 
  • 新崎 盛暉『戦後沖縄史』日本評論社、1976年。 NCID BN00940635 
  • 石田郁夫『沖縄 土着と解放』合同出版、1969年、34頁。 NCID BN07816645 
  • 沖繩大百科事典刊行事務局 編『沖縄大百科事典 上』沖縄タイムス社、1983年5月30日。 NCID BN00422696NDLJP:12193837 
  • 土地連三十周年記念誌編集委員会 編『土地連のあゆみ 創立三十年史 通史編』沖縄県軍用地等地主会連合会、1989年。 NCID BN05624053 
  • 藤崎 康夫「基地の街コザに生きて--"市長"大山朝常の回想」『中央公論』第95巻第10号、中央公論新社、1980年8月、282-297頁、ISSN 0529-6838 
  • 藤崎 康夫「基地の街コザに生きて--"市長"大山朝常の回想-続」『中央公論』第95巻第12号、中央公論新社、1980年9月、288-299頁、ISSN 0529-6838 
  • 佐藤 俊一『日本地方自治の群像』 3巻、成文堂、2012年。ISBN 978-4-7923-3307-2 
  • 山崎 孝史『大山コザ市政と琉球列島米国民政府−地域社会軍事化の一局面−』大阪市立大学人権問題研究会、2001年。 NCID AA11571246 
  • 山崎 孝史『戦後沖縄における米軍統治の実態と地方政治の形成に関する政治地理学的研究』大阪市立大学大学院文学研究科地理学教室、2007年。 NCID BA81889667