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嘉永6年([[1853年]])[[6月17日]]、近くを通りかかった[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の商船エマ・パッカー号に助けられ、[[サンフランシスコ]]を訪れた。サンフランシスコでは同じく難破してアメリカ船に助けられた[[浜田彦蔵]]がおり、勇之助とアメリカ人の間の通訳を行った。その後は船の倉庫番として働く傍ら英語を覚え、1年ほどをアメリカで過ごし、結婚を持ちかけられたこともあったという<ref name="日報" />。 |
嘉永6年([[1853年]])[[6月17日]]、近くを通りかかった[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の商船エマ・パッカー号に助けられ、[[サンフランシスコ]]を訪れた。サンフランシスコでは同じく難破してアメリカ船に助けられた[[浜田彦蔵]]がおり、勇之助とアメリカ人の間の通訳を行った。その後は船の倉庫番として働く傍ら英語を覚え、1年ほどをアメリカで過ごし、結婚を持ちかけられたこともあったという<ref name="日報" />。 |
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嘉永7年(1854年)6月、[[マシュー・ペリー]]が日本を訪れたのを聞き、商船レディー・ピアース号に乗り当時[[日米和親条約]]にて開港していた港の一つ[[下田港]]から日本へと戻った。帰国後は厳しい取り調べを受けるが、下田[[奉行所]]の支配組頭であった[[伊佐新次郎]]は英語ができる勇之助に目をつけ通訳となることを持ちかけた。しかし勇之助はこれを断り故郷へと帰った<ref name="日報" /><ref>[https://web.archive.org/web/20070825035422/http://www.tokyo-kasei.ac.jp/~shinoda/eigakushi/yousi.htm#D200604-1 勇之助のこと:開国後帰国漂流民第一号](2007年8月25日時点の[[インターネット |
嘉永7年(1854年)6月、[[マシュー・ペリー]]が日本を訪れたのを聞き、商船レディー・ピアース号に乗り当時[[日米和親条約]]にて開港していた港の一つ[[下田港]]から日本へと戻った。帰国後は厳しい取り調べを受けるが、下田[[奉行所]]の支配組頭であった[[伊佐新次郎]]は英語ができる勇之助に目をつけ通訳となることを持ちかけた。しかし勇之助はこれを断り故郷へと帰った<ref name="日報" /><ref>[https://web.archive.org/web/20070825035422/http://www.tokyo-kasei.ac.jp/~shinoda/eigakushi/yousi.htm#D200604-1 勇之助のこと:開国後帰国漂流民第一号](2007年8月25日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]]) 河元由美子</ref>。 |
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勇之助には遭難前に1人の娘がおり、帰国後には妻との間にさらに娘をもうけた。[[明治時代]]には八十吉と改名したが、これは[[キリスト教]](ヤソ)の国であるアメリカを訪れたことからだといわれている<ref name="日報" />。八幡丸の船主善太郎の故郷である[[村上市]]寝屋の共同墓地には善太郎の墓の隣に八幡丸慰霊碑がある<ref name="日報" />。 |
勇之助には遭難前に1人の娘がおり、帰国後には妻との間にさらに娘をもうけた。[[明治時代]]には八十吉と改名したが、これは[[キリスト教]](ヤソ)の国であるアメリカを訪れたことからだといわれている<ref name="日報" />。八幡丸の船主善太郎の故郷である[[村上市]]寝屋の共同墓地には善太郎の墓の隣に八幡丸慰霊碑がある<ref name="日報" />。 |
2017年9月5日 (火) 04:05時点における版
勇之助(ゆうのすけ、生年不明 - 明治33年(1900年))は、越後国岩船郡板貝村(現在の新潟県村上市)出身の水主[1]。
嘉永5年(1852年)9月2日、勇之助を含めて13人の乗った廻船八幡丸が択捉島から仕入れた塩マスなどを積み荷に、新潟を目指して北海道の松前を出港した。この船の船主の善太郎は勇之助と同じ村上の寝屋の出身であった。翌日の夜、松前沖から津軽海峡に差し掛かるところで強風により舵が折れてしまい、漂流することになった。積み荷の塩マスや貯めた雨水などで食いつないでいたものの、病気や飢えなどから次々と命を落とし、翌年の5月には幸村之助を残して全員が死亡した[1]。
嘉永6年(1853年)6月17日、近くを通りかかったアメリカの商船エマ・パッカー号に助けられ、サンフランシスコを訪れた。サンフランシスコでは同じく難破してアメリカ船に助けられた浜田彦蔵がおり、勇之助とアメリカ人の間の通訳を行った。その後は船の倉庫番として働く傍ら英語を覚え、1年ほどをアメリカで過ごし、結婚を持ちかけられたこともあったという[1]。
嘉永7年(1854年)6月、マシュー・ペリーが日本を訪れたのを聞き、商船レディー・ピアース号に乗り当時日米和親条約にて開港していた港の一つ下田港から日本へと戻った。帰国後は厳しい取り調べを受けるが、下田奉行所の支配組頭であった伊佐新次郎は英語ができる勇之助に目をつけ通訳となることを持ちかけた。しかし勇之助はこれを断り故郷へと帰った[1][2]。
勇之助には遭難前に1人の娘がおり、帰国後には妻との間にさらに娘をもうけた。明治時代には八十吉と改名したが、これはキリスト教(ヤソ)の国であるアメリカを訪れたことからだといわれている[1]。八幡丸の船主善太郎の故郷である村上市寝屋の共同墓地には善太郎の墓の隣に八幡丸慰霊碑がある[1]。