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「中央区立佃島小学校」の版間の差分

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[[1964年]](昭和64年)[[夏]]に、大阪市立佃小学校の教員が偶然本校に訪問し、翌年の[[1965年]](昭和40年)[[4月]]に、大阪市立佃小学校の[[PTA]]副会長と児童4名が本校を参観し、このことが交流のきっかけとなった。
[[1964年]](昭和64年)[[夏]]に、大阪市立佃小学校の教員が偶然本校に訪問し、翌年の[[1965年]](昭和40年)[[4月]]に、大阪市立佃小学校の[[PTA]]副会長と児童4名が本校を参観し、このことが交流のきっかけとなった。
同年[[10月12日]]、「由緒ある大阪市立佃小学校との交流を図りたい」として本校PTA会長と話し合いを続けていた本校[[校長|学校長]]が、PTA会長・PTA参与とともに大阪市立佃小学校を訪問して、両校間に姉妹校の関係が結ばれるに至った。この訪問が、現在まで続く交歓会の第1回とされる<ref>[https://web.archive.org/web/20050311043621/http://www.chuo-tky.ed.jp/~tsukuda-es/osakakoukankai/osakatukuda.html#ryousi%20tyu 大阪佃小交歓会] - 中央区立佃島小学校([[インターネットアーカイブ]]) </ref>。
同年[[10月12日]]、「由緒ある大阪市立佃小学校との交流を図りたい」として本校PTA会長と話し合いを続けていた本校[[校長|学校長]]が、PTA会長・PTA参与とともに大阪市立佃小学校を訪問して、両校間に姉妹校の関係が結ばれるに至った。この訪問が、現在まで続く交歓会の第1回とされる<ref>[https://web.archive.org/web/20050311043621/http://www.chuo-tky.ed.jp/~tsukuda-es/osakakoukankai/osakatukuda.html#ryousi%20tyu 大阪佃小交歓会] - 中央区立佃島小学校([[インターネットアーカイブ]]) </ref>。


両校は、1年交代で、一方の学校の[[児童]][[代表]]及び[[教職員]]代表が、もう一方の学校を訪問し、交歓会を実施している。
両校は、1年交代で、一方の学校の[[児童]][[代表]]及び[[教職員]]代表が、もう一方の学校を訪問し、交歓会を実施している。

2017年9月5日 (火) 01:22時点における版

中央区立佃島小学校
過去の名称 佃島尋常小学校
佃島国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 中央区
校訓
  • 健康で 明るい子ども
  • 礼儀正しく 思いやりのある子ども
  • よく考え すすんでものごとに取り組む子ども
設立年月日

1888年10月1日

開校記念日 10月27日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 104-0051
東京都中央区2丁目3番1号
北緯35度40分6.7秒 東経139度47分3.5秒 / 北緯35.668528度 東経139.784306度 / 35.668528; 139.784306座標: 北緯35度40分6.7秒 東経139度47分3.5秒 / 北緯35.668528度 東経139.784306度 / 35.668528; 139.784306
外部リンク 公式サイト
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中央区立佃島小学校(ちゅうおうくりつ つくだじま しょうがっこう)は、東京都中央区2丁目にある公立小学校

概要

大川端リバーシティ21など近隣の新興住宅地域の住民の子弟を吸収していることなどを背景に、児童数は中央区立小学校の中では最多である。一方、隣接する中央区立佃中学校の生徒数は中央区立中学校のなかでは最少である(2016年4月7日現在)[1]

校舎の外観には端々に佃島の外形を意匠化した三角形四角柱のモチーフが用いられている。

沿革

所在地

通学区域

以下の通り通学区域が定められているが、中央区では「小学校特認校制度」が導入されているため、実際には本校の通学区域から他の中央区立小学校(特認校のみ)に入学することも可能である。ただし、本校の通学区域から、特認校ではない他の中央区立小学校に入学することはできない。また、本校は特認校ではないので、通学区域外から本校に入学することもできない[4]。なお、隣接する中央区立佃中学校の通学区域は、本校と中央区立月島第一小学校の両校の通学区域を合わせたものである。

  • 東京都中央区1丁目、2丁目
  • 東京都中央区月島1丁目[1番、2番、3番(1,2,14,16号)、6~14番、15番(3,7号)、17番(1~3号,5号,6号の一部,11号の一部,12号)、18番、19番、20番(1,2,4号,5号の一部,9号の一部,10号)、23番(2~4号,5号の一部,9号の一部,10号)、24番][1]

校名

本校の所在地は、1967年(昭和42年)3月住居表示実施以前は佃島と称されていて、住居表示実施以前に開校した本校の校名はこれに由来する。佃地区では1967年(昭和42年)3月住居表示実施で佃島がと改称されて以降、施設名称にも従来の「佃島」に代わり「佃」を冠する例が増えており、2016年6月現在、中央区立佃島小学校が公共の施設として唯一名称に佃島を含む(なお、民間の施設や団体には築地本願寺佃島説教所、佃島剣道教室、佃島スポーツ少年団などにその名が残る)。なお、隣接する中央区立佃中学校は、住居表示実施後に開校したため、「佃」を冠する。

なお、本校は、2001年平成13年)4月1日より「中央区立佃島小学校」を名乗っているが、校門前の看板には、旧校名の「東京都中央区立佃島小学校」と書かれており、現在でも旧校名が使われることもある。ただし、隣接する中央区立佃中学校は、開校時よりこの校名であるが、看板には「東京都中央区立佃中学校」と書かれている。

休校以前の歴史

本校は、1888年明治21年)に開校したのち、1911年(明治44年)から1920年大正9年)に休校している。この休校ののち、本校の開校は、本校が再開した1920年(大正9年)とされた。したがって、この再開以前の本校の歴史は一時的に消えた。のちに、1955年(昭和30年)10月に就任した学校長が、就任早々に、「佃島小学校から分校したはずの月島第一小学校が創立49周年で、佃島小学校が今年創立35周年なのはおかしい」と気付いた[5]。分校した月島第一小学校よりも佃島小学校のほうが歴史が短い、という矛盾を見つけたのである。この学校長が、古文書を調べたり、本校の卒業生に聞いて回ったりした結果、明治時代に授与された本校の卒業証書を持つ者が現れ、1888年(明治21年)創立という事実が判明した。このことにより、1920年(大正9年)創立とされていたものが1888年(明治21年)創立に、また創立記念日は10月1日に訂正され、本校の歴史は、それまで分かっていたものより32年伸びた。また、このことにより、1955年(昭和30年)11月25日に挙行された創立35周年記念式典から1年足らずの1956年(昭和31年)10月1日に創立68周年記念式典が挙行された。現在の本校の卒業証書番号は、1920年(大正9年)から数えられている番号である。

姉妹校

所在地の東京都中央区には、摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区)の漁夫33人が江戸に移り住み、このを故郷の地名から「佃嶋」と命名した歴史があることから、中央区立佃島小学校と大阪市立佃小学校姉妹校である。

1964年(昭和64年)に、大阪市立佃小学校の教員が偶然本校に訪問し、翌年の1965年(昭和40年)4月に、大阪市立佃小学校のPTA副会長と児童4名が本校を参観し、このことが交流のきっかけとなった。 同年10月12日、「由緒ある大阪市立佃小学校との交流を図りたい」として本校PTA会長と話し合いを続けていた本校学校長が、PTA会長・PTA参与とともに大阪市立佃小学校を訪問して、両校間に姉妹校の関係が結ばれるに至った。この訪問が、現在まで続く交歓会の第1回とされる[6]

両校は、1年交代で、一方の学校の児童代表及び教職員代表が、もう一方の学校を訪問し、交歓会を実施している。

本校の周辺にある住吉神社は、大阪市立佃小学校の周辺にある田蓑神社の神主が江戸佃島に移住した際に分霊して創建したものであるが、田蓑神社内に設置されている「佃漁民ゆかりの地」の石碑の案内板には、本校と大阪市立佃小学校が姉妹校として交流している旨が記されている[7]

ただし、中央区立佃中学校大阪市立佃中学校姉妹校ではない。

出身有名人

学校の周辺

交通アクセス

脚注

関連項目

外部リンク