コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「久留米絣」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
+ref
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:インターネットアーカイブ - log
11行目: 11行目:


==外部リンク==
==外部リンク==
* [http://wayback.archive.org/web/*/http://www.kougei.or.jp/crafts/0121/f0121.html 織物 久留米絣]([[インターネットアーカイブ]]・過去の従事者数などが参照できる)
* [http://wayback.archive.org/web/*/http://www.kougei.or.jp/crafts/0121/f0121.html 織物 久留米絣]([[インターネットアーカイブ]]・過去の従事者数などが参照できる)
* {{Cite web |date= |url=http://kougeihin.jp/item/0124/|title=久留米絣 Kurume Ikat|publisher=伝統的工芸品産業振興協会|accessdate=2017-08-18}}
* {{Cite web |date= |url=http://kougeihin.jp/item/0124/|title=久留米絣 Kurume Ikat|publisher=伝統的工芸品産業振興協会|accessdate=2017-08-18}}



2017年9月4日 (月) 23:14時点における版

福岡県久留米市の水天宮にある「久留米絣碑」。

久留米絣(くるめかすり)は、福岡県久留米市および周辺の旧久留米藩地域で製造されている[1]綿織物で、藍染めが主体[1]。あらかじめ藍と白に染め分けた糸(絣糸)を用いて製織し、文様を表す。伊予絣備後絣とともに日本三大絣の一つともされる。久留米絣の技法は1956年に重要無形文化財に指定され[1]1976年には通商産業大臣により伝統工芸品に指定されている。

南方から琉球を経由して伝わった絣と別に、江戸時代の後期に、井上伝という当時12歳の少女が創始したとされる[1]。久留米藩が産業として奨励していた。一時は年間200〜300万反を生産した[1]が、戦後は洋装化により絣の需要が激減、現在は少量の生産にとどまるなか、久留米絣を用いたスニーカーやカバンといった新商品開発など、新たな動きも出てきている[2]

日本の小説家、太宰治は久留米絣を用いた着物を好んで着ていた。

出典

  1. ^ a b c d e 鳥丸貞恵「博多織と久留米絣—伝統技術と未来への発展」『繊維学会誌』第57巻第6号、繊維学会、2001年、173-176頁、doi:10.2115/fiber.57.P_173 
  2. ^ humming2010 特集記事~前篇”. asianbeat - 福岡県が運営するポップカルチャー配信サイト (2010年3月10日). 2017年8月18日閲覧。

外部リンク