「今里広記」の版間の差分
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[[日本興業銀行]]の[[中山素平]]とは親友で、その間柄から財界においては、「知恵の中山、行動の今里」と称された。[[永野重雄]]は「今里という潤滑油が無かったら、戦後の日本はこんなにスムースに転がってやしませんよ」とその役割と人間性を評している。経営者団体連合会([[日本経済団体連合会|経団連]])常任理事、経済同友会代表幹事の他、東京[[商工会議所]]常任顧問、日本経営者団体連盟([[日本経済団体連合会|日経連]])顧問を兼ねる。 |
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[[サンシャインシティ|サンシャイン60]]に[[古代オリエント博物館]]を開館させた他、[[映画]]や[[演劇]]関係にも強い関心を抱き、[[歌舞伎]]の振興にも熱心で、[[市川團十郎 (12代目)|12世市川団十郎]]の襲名時には裏方で奔走した。また、同郷長崎出身の歌手・[[さだまさし]]に[[谷川徹三]]、[[山本健吉]]らの文化人を紹介するなど、文化交流・後代への継承にも尽力した<ref>[https://web.archive.org/web/20160829025743/http://goethe.nikkei.co.jp/article/114584318.html さだまさし連載 酒の渚 今里広記さん①]([[ゲーテ (雑誌)|WEBゲーテ]] の2016年8月29日時点の[[インターネット |
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2017年9月4日 (月) 22:44時点における版
今里 広記 (いまざと ひろき、1908年(明治40年)11月27日 - 1985年(昭和60年)5月30日)は、日本の実業家、財界人。長崎県出身。広範な交友と人脈から、財界におけるまとめ役として「財界官房長官」「財界幹事長」の異名を取った。
来歴・人物
1908年(明治40年)11月27日長崎県東彼杵郡波佐見町に父友二郎、母加世の三男として生まれる。父は造り酒屋の傍ら、地元で波佐見銀行を経営していた。長崎県立大村中学校(現、長崎県立大村高等学校)卒業後、生家の造り酒屋「今里酒造」の番頭となる。1936年(昭和11年)、福岡に出て石炭会社、九州採炭の経営に乗り出すが、水田光義という詐欺師に引っかかり丸裸同然となり、上京する。第二次世界大戦中は、日本航空機材工業(後に日本航空機工業)という軍需会社を設立・経営した。
戦後、経済同友会設立に参加。また、経営手腕を買われ、日本精工社長となる。石油危機の際 、ブリティッシュ・ペトローリアム社から7億8000万ドルでアブダビ沖の海底油田を買収し、国策会社ジャパン石油開発を軌道に乗せた。電電公社民営化にともなうNTT設立委員会の委員長となり、真藤恒社長実現に辣腕を振るった。
日本興業銀行の中山素平とは親友で、その間柄から財界においては、「知恵の中山、行動の今里」と称された。永野重雄は「今里という潤滑油が無かったら、戦後の日本はこんなにスムースに転がってやしませんよ」とその役割と人間性を評している。経営者団体連合会(経団連)常任理事、経済同友会代表幹事の他、東京商工会議所常任顧問、日本経営者団体連盟(日経連)顧問を兼ねる。
サンシャイン60に古代オリエント博物館を開館させた他、映画や演劇関係にも強い関心を抱き、歌舞伎の振興にも熱心で、12世市川団十郎の襲名時には裏方で奔走した。また、同郷長崎出身の歌手・さだまさしに谷川徹三、山本健吉らの文化人を紹介するなど、文化交流・後代への継承にも尽力した[1]。1985年(昭和60年)5月30日死去。享年77。
著作
- 私の財界交友録―経済界半世紀の舞台裏(1980年11月、サンケイ出版)
関連本
- 永川幸樹『今里広記から学ぶ 男の魅力学―男が惚れる男の生きざま』(ベストセラーシリーズ〈ワニの本〉)(1985年5月、ベストセラーズ)ISBN 978-4584005835
脚注
- ^ さだまさし連載 酒の渚 今里広記さん①(WEBゲーテ の2016年8月29日時点のインターネットアーカイブ)