「デクスター・ゴードン」の版間の差分
外部リンク切れを修復。 |
|||
25行目: | 25行目: | ||
[[1945年]]、デクスターは[[ビリー・エクスタイン]]のバンドを離れ[[ニューヨーク]]に行く。1945年から[[1947年]]にかけて[[サヴォイ・レコード]]のためのレコーディング・セッションを行い、[[バド・パウエル]]、[[マックス・ローチ]]、[[アート・ブレイキー]]などの敏腕プレイヤーと共演。その成果は、『デクスター・ライズ・アゲイン』『ロング・トール・デクスター』といった[[アルバム]]に収められた。更に、1947年にはダイアル・レコードのためのセッションも行った。その後も活動を続けるが、[[1950年代]]後半は麻薬の影響でスランプとなる。 |
[[1945年]]、デクスターは[[ビリー・エクスタイン]]のバンドを離れ[[ニューヨーク]]に行く。1945年から[[1947年]]にかけて[[サヴォイ・レコード]]のためのレコーディング・セッションを行い、[[バド・パウエル]]、[[マックス・ローチ]]、[[アート・ブレイキー]]などの敏腕プレイヤーと共演。その成果は、『デクスター・ライズ・アゲイン』『ロング・トール・デクスター』といった[[アルバム]]に収められた。更に、1947年にはダイアル・レコードのためのセッションも行った。その後も活動を続けるが、[[1950年代]]後半は麻薬の影響でスランプとなる。 |
||
[[1960年代]]初頭から[[1976年]]にかけて、[[フランス]]や[[デンマーク]]を拠点に活動。再び音楽活動が軌道に乗った時期で、[[1963年]]にバド・パウエルらと共に[[パリ]]で録音し、[[ブルーノート・レコード|ブルーノート]]から発表した『アワ・マン・イン・パリ』は人気の高い1枚。その他、[[ケニー・ドリュー]]などと共演している。なお、デンマークのゲントフテに滞在していた頃、現地のジャズ・クラブのマスターで元テニス選手であった[[トルベン・ウルリッヒ]]と親しくなり、トルベンの息子の[[代父母|代父]]となる。その息子は、後に[[メタリカ]]のドラマーとして成功を収める[[ラーズ・ウルリッヒ]]であった<ref>[https://web.archive.org/web/20110314074429/http://www.metallica.com/Band/lars.asp メタリカ公式サイト内バイオグラフィー](2011年3月14日時点の[[インターネット |
[[1960年代]]初頭から[[1976年]]にかけて、[[フランス]]や[[デンマーク]]を拠点に活動。再び音楽活動が軌道に乗った時期で、[[1963年]]にバド・パウエルらと共に[[パリ]]で録音し、[[ブルーノート・レコード|ブルーノート]]から発表した『アワ・マン・イン・パリ』は人気の高い1枚。その他、[[ケニー・ドリュー]]などと共演している。なお、デンマークのゲントフテに滞在していた頃、現地のジャズ・クラブのマスターで元テニス選手であった[[トルベン・ウルリッヒ]]と親しくなり、トルベンの息子の[[代父母|代父]]となる。その息子は、後に[[メタリカ]]のドラマーとして成功を収める[[ラーズ・ウルリッヒ]]であった<ref>[https://web.archive.org/web/20110314074429/http://www.metallica.com/Band/lars.asp メタリカ公式サイト内バイオグラフィー](2011年3月14日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])参照</ref>。 |
||
[[1976年]]にはアメリカに戻り、殿堂[[ヴィレッジ・ヴァンガード]]でコンサートを行った。後に有名サックス奏者となる[[ジョー・ロヴァーノ]]はこの時の演奏を生で聴いており、「私をサックス奏者として最も向上させてくれた経験だった」と述懐している。 |
[[1976年]]にはアメリカに戻り、殿堂[[ヴィレッジ・ヴァンガード]]でコンサートを行った。後に有名サックス奏者となる[[ジョー・ロヴァーノ]]はこの時の演奏を生で聴いており、「私をサックス奏者として最も向上させてくれた経験だった」と述懐している。 |
2017年9月4日 (月) 21:25時点における版
デクスター・ゴードン Dexter Gordon | |
---|---|
デクスター・ゴードン(1977年) | |
基本情報 | |
生誕 |
1923年2月27日 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス |
死没 |
1990年4月25日(67歳没) アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア |
ジャンル | ジャズ |
職業 |
バンドリーダー サクソフォーン奏者 俳優 |
担当楽器 | テナー・サクソフォーン |
活動期間 | 1940年 - 1986年 |
レーベル |
サヴォイ・レコード ダイアル・レコード ブルーノート |
公式サイト | The Official Dexter Gordon Website |
デクスター・ゴードン(Dexter Gordon、1923年2月27日 - 1990年4月25日)は、アメリカ合衆国のジャズ・テナー・サクソフォーン奏者。
来歴
カリフォルニア州ロサンゼルス に生まれる。 1945年、デクスターはビリー・エクスタインのバンドを離れニューヨークに行く。1945年から1947年にかけてサヴォイ・レコードのためのレコーディング・セッションを行い、バド・パウエル、マックス・ローチ、アート・ブレイキーなどの敏腕プレイヤーと共演。その成果は、『デクスター・ライズ・アゲイン』『ロング・トール・デクスター』といったアルバムに収められた。更に、1947年にはダイアル・レコードのためのセッションも行った。その後も活動を続けるが、1950年代後半は麻薬の影響でスランプとなる。
1960年代初頭から1976年にかけて、フランスやデンマークを拠点に活動。再び音楽活動が軌道に乗った時期で、1963年にバド・パウエルらと共にパリで録音し、ブルーノートから発表した『アワ・マン・イン・パリ』は人気の高い1枚。その他、ケニー・ドリューなどと共演している。なお、デンマークのゲントフテに滞在していた頃、現地のジャズ・クラブのマスターで元テニス選手であったトルベン・ウルリッヒと親しくなり、トルベンの息子の代父となる。その息子は、後にメタリカのドラマーとして成功を収めるラーズ・ウルリッヒであった[1]。
1976年にはアメリカに戻り、殿堂ヴィレッジ・ヴァンガードでコンサートを行った。後に有名サックス奏者となるジョー・ロヴァーノはこの時の演奏を生で聴いており、「私をサックス奏者として最も向上させてくれた経験だった」と述懐している。
1986年には映画『ラウンド・ミッドナイト』で主役を務め、アカデミー主演男優賞にノミネートされた。
1990年4月25日、ペンシルベニア州フィラデルフィアで亡くなる。67歳だった。
出典
- ^ メタリカ公式サイト内バイオグラフィー(2011年3月14日時点のアーカイブ)参照