「フォーリーブス」の版間の差分
Battlesmash (会話 | 投稿記録) |
|||
103行目: | 103行目: | ||
=== 再結成 === |
=== 再結成 === |
||
[[2002年]]1月29日、メンバー中誰よりも解散を惜しみ、節目の年の度に再結成を訴え続けていた青山の念願がかない、再結成<ref>{{cite web| date = 2009-2-4| url = http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090204/tnr0902041850009-n1.htm| title = 【葬送】フォーリーブス・青山孝史さん |publisher = MSN産経ニュース |accessdate=2009年7月16日 }}{{リンク切れ|date=2012年2月}}</ref>。初日に中野サンプラザでコンサートが行われた。同年8月22日にはシングル「it's more 愛(いつも愛)」を発売。同作は[[山野楽器]]銀座本店の週間ランキングで初登場4位となった<ref>[http://web.archive.org/web/20031010194205/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200208/g_top2002090112.html フォーリーブス新曲、初登場4位 山野楽器の週間ランク]、SANSPO.COM、2002年8月31日。([[インターネット |
[[2002年]]1月29日、メンバー中誰よりも解散を惜しみ、節目の年の度に再結成を訴え続けていた青山の念願がかない、再結成<ref>{{cite web| date = 2009-2-4| url = http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090204/tnr0902041850009-n1.htm| title = 【葬送】フォーリーブス・青山孝史さん |publisher = MSN産経ニュース |accessdate=2009年7月16日 }}{{リンク切れ|date=2012年2月}}</ref>。初日に中野サンプラザでコンサートが行われた。同年8月22日にはシングル「it's more 愛(いつも愛)」を発売。同作は[[山野楽器]]銀座本店の週間ランキングで初登場4位となった<ref>[http://web.archive.org/web/20031010194205/http://www.sanspo.com/geino/top/gt200208/g_top2002090112.html フォーリーブス新曲、初登場4位 山野楽器の週間ランク]、SANSPO.COM、2002年8月31日。([[インターネットアーカイブ]]のキャッシュ)</ref>。 |
||
[[2006年]]8月27日、[[ソニー・ミュージックダイレクト]]からCD-BOX『フォーリーブス 1968-1978』が発売される。これは全シングルのA面・B面にアルバムから選んだ曲を加えた5枚組。その後ソニーミュージックショップの[http://www.sonymusicshop.jp/ordermf/index.html オーダーメイドファクトリー]でオリジナル・アルバムや青山孝のソロ・アルバムなどが復刻されている。 |
[[2006年]]8月27日、[[ソニー・ミュージックダイレクト]]からCD-BOX『フォーリーブス 1968-1978』が発売される。これは全シングルのA面・B面にアルバムから選んだ曲を加えた5枚組。その後ソニーミュージックショップの[http://www.sonymusicshop.jp/ordermf/index.html オーダーメイドファクトリー]でオリジナル・アルバムや青山孝のソロ・アルバムなどが復刻されている。 |
2017年9月4日 (月) 14:49時点における版
フォーリーブス Four Leaves | |
---|---|
出身地 | 日本 |
ジャンル | アイドル歌謡 |
活動期間 |
1967年 - 1978年(第1期) 2002年 - 2009年(第2期) |
レーベル | CBS・ソニー |
事務所 | ジャニーズ事務所 |
共同作業者 | ジャニー喜多川 |
メンバー |
北公次 青山孝史 江木俊夫 おりも政夫 |
旧メンバー | 永田英二 |
フォーリーブスは、日本の男性アイドルグループ。1967年4月1日結成、1968年9月5日レコードデビュー、1978年8月31日解散。解散から24年を経た2002年に再結成を果たした。初期のジャニーズ事務所を代表するグループである。
メンバー
プロフィール | 愛称 | |
---|---|---|
北公次 | 1949年1月20日 - 2012年2月22日(63歳没)、A型、和歌山県田辺市出身 | コーちゃん |
青山孝史 | 1951年8月10日 - 2009年1月28日(57歳没)、A型、佐賀県佐賀市高木瀬町出身 | ター坊 |
江木俊夫 | 1952年6月4日(72歳)、東京都武蔵野市吉祥寺出身 | トシ坊 |
おりも政夫 | 1953年7月4日(71歳)、B型、東京都江東区亀戸出身 | マー坊 |
脱退メンバー | プロフィール | 愛称 | 備考 |
---|---|---|---|
永田英二 | 1955年5月29日(69歳)、 東京都出身 | 英ちゃん、英坊 | フォーリーブスの結成当時(1967年4月)にはまだ小学6年生だったために退団した。入れ替わりに青山孝史がフォーリーブスに入りその後にレコードデビューしているため、永田は幻のメンバーとして一部に知られている。 |
経歴
1967年4月1日、ジャニーズの「太陽のあいつ」という曲のバックダンサーとしてグループを結成。メンバーは、元々ジャニーズの付き人だった北公次、3歳から子役で活躍していた江木俊夫、劇団若草出身でファッションモデルをしていたおりも政夫、同じく劇団若草出身の永田英二の4人だった。同年6月、大阪フェスティバルホールにてジャニーズが主演のミュージカル『いつかどこかで~フォーリーブス物語』に出演。しかしまだグループ名は無く、「ジャニーズJr.」としての出演だった。
同年8月、第33回日劇ウエスタンカーニバルに初出演。この時、初めてグループ名が正式に『フォーリーブス』に決まる。 なお、「フォーリーブス=Four Leaves(4枚の葉←leavesはleafの複数形)」の意味が定説だが、本来の名前の由来は、ジャニー喜多川が脚本を書いた上記のミュージカル『いつかどこかで~フォーリーブス物語』内のグループ名からで、「4つに“別れる、去る、出発する”」という意味の自動詞の「“leave”」である。
同年10月、結成メンバーの永田英二は当時小学6年生だったため脱退し、スクールメイツ出身の青山孝が加入。同じく同年10月より日本テレビ『プラチナゴールデンショー』にレギュラー出演するようになる。
1968年9月5日、CBS・ソニーレコード(現:ソニー・ミュージックレーベルズ)の国内契約第1号アーティストとして、シングル「オリビアの調べ」にてレコードデビュー。
1970年にはブロマイドの売上げが男性歌手部門の1位になり、衰退期にあったグループ・サウンズのザ・タイガースなどに代わり、新御三家が台頭するまでの間、トップアイドルとなった。オリコン最高10位と大ヒット曲はなかったが、冒頭の江木の名ゼリフ「だって地球は丸いんだもん!」で知られる「地球はひとつ」や、「夏の誘惑」などがコンスタントにヒットを重ね、1970年から7年連続でNHK紅白歌合戦出場を果たす。先輩格のジャニーズと同様に、ミュージカルにも熱心に取り組み、その姿勢は現在のジャニーズ事務所に受け継がれている。
ジャニー喜多川とメリー喜多川姉弟は「タイガーズやテンプターズなど、他の人気グループと違い、フォーリーブスはグループ内にスター的存在のメンバーを作らない」「言うなればメンバー全員がスター」という確固たるポリシーを結成当時から一貫して持ち続けていた。二人は雑誌などでもたびたびその主旨の発言をしていた。また、1960年代前半にジャニーズの付き人をしていた北公次をどうしてもデビューさせたいがために、各所から人材を取捨選択して作ったグループだと後にジャニー喜多川が発言している。
ステージにおける歌唱やダンスにおいても、その「メンバー全員がスター」というポリシー同様、特定のメンバーが突出したり比重が置かれることは基本的になかった。メンバー全員が綺麗に振りを揃えたユニゾン・ダンスとパフォーマンスを重視するステージングであった。
グループ内での位置付けは、運動能力に優れた北公次はバック転などの華麗なアクロバットを担当してステージを彩った。またステージ上でバック転を披露した初のアイドルでもある。当時全盛を誇る渡辺プロダクションの次世代のスター育成機関であった東京音楽学院特待生でスクールメイツのメンバーでもあったほど高い歌唱力を持つ青山孝は、歌唱面と音楽面においてのリーダー的存在。フルコーラスをソロボーカルで担当したシングルA面曲(2曲)が存在するのは彼だけである。フォーリーブスの楽曲の音楽性の高さは青山に負うところが大きい。日本大学芸術学部の学生でもあった青山は、芸能活動との兼業もありソロ活動は少なかったがグループ内では北と人気を二分した。70年代後半のコンサートでは他のメンバー達からの注文に応じてアレンジやコーラスなどの譜面の書き替えも任されていた。NHK紅白歌合戦に出場して「急げ!若者」(1974年)「ハッピー・ピープル」(1975年)を披露した際はメインの扱いであった。名子役として芸歴の長い江木俊夫は子役の頃から周囲の百戦錬磨のスタッフすら騙されるほどの自然な演技力を身につけていたが、ジャニー喜多川の意向もありグループ内では三枚目キャラクターを担当していた。江木と同じく子役出身で最年少のおりも政夫はグループのMC役としてトークや司会進行を担当。のんびりかつ飄々としたキャラクターと司会進行が持ち味。バラエティやコントなどでは気味の悪い怪物や道化に徹した役回りや扮装、大胆なリアクションも辞さない軽妙なコメディリリーフ部分を担っていた。歌唱、アクロバット、演技などそれぞれが1つの長所に特化した他のメンバーと違い、どれも手堅くこなす器用な面も持つ。ピークが過ぎた1974年頃から各自の個性を生かした単独での活動も徐々に増えていった。
1971年に渡米し、「Season Of The Sun」(「夏の誘惑」のアメリカ録音盤)と「Don't Let The Sun Catch You Crying」の2枚のシングルを録音してMGMから非売品プロモーション盤として発表した。
1972年に帝国劇場でミュージカル『生きていくのは僕たちだ!』に出演。
1973年の8月にフォーリーブスへのプレゼント代や追っかけ費用を稼ぐために売春していたという女子中学生グループが書類送検されて批判を浴びた。同年、公開コメディー番組『とことんやれ大奮戦!』に出演。青山はNHKドラマ『銀座わが町』で初レギュラー。
1974年4月スタートのNHKの音楽バラエティ番組『レッツゴーヤング』に初代メインレギュラーとして出演。
1976年1月15日に常磐ハワイアンセンター(後のスパリゾートハワイアンズ)にて開催されたショーで16歳の少女が興奮のあまり失神死するという事故がおきた。
長く賞には恵まれなかったが、10周年記念曲として1976年にリリースした「踊り子」で、東京音楽祭ゴールデン・カナリー賞の受賞を皮切りに日本歌謡大賞特別賞、日本テレビ音楽祭特別賞等を受賞した。しかし当時人気は既に下降し始めていて、オリコン最高位は41位であった。なお、同曲のレコードでは北が歌っていたソロパートが、歌番組では青山の歌唱へ変更されていることが多かった。その年のNHK紅白歌合戦出場曲にもなり、ソロパートは北と青山の2名によるツインボーカルによる歌唱で披露されたが、画面に映っているのは北だけであった。翌1977年に起死回生を賭けてリリースした「ブルドッグ」は、硬派で攻撃的な歌詞や独特の奇抜なパフォーマンスが話題を呼びオリコンでは前年の「踊り子」を上回る売上を記録したが(最高位は40位)、7年連続出場したNHK紅白歌合戦には落選した。しかし、この曲はその後も後輩のジャニーズアイドル達によってライブやテレビで歌い継がれているほか、1987年にはフジテレビ「志村けんのだいじょうぶだぁ」のオープニングコント「ご存知!じいさんばあさん」のネタの一部に使用されたり、更に1997年には富士フイルム「写ルンです」のCMソングに起用され、2006年にはタレントの城咲仁によってカバーもされた。
1970年代中期頃から後進や後輩のアイドルやグループへと人気が移行していく。それまではグループや個人(青山、北)で雑誌などの人気投票の上位に位置することが多かったが、新御三家デビュー後の1973年頃から次第に上位から後退していく。比例するように雑誌記事やグラビアも減少していった。テレビにおけるメインレギュラー番組も1975年に降板、同じくコンサートやリサイタルの公演数も減り、ツアーもなくなりジャニーズ事務所の後輩やジュニアとの共演や二部構成の割合が増加する。事務所の後輩であり新御三家の1人である郷ひろみが移籍した頃から、徐々に世間の関心がニューミュージック勢に比重が移っていくのと比例して、人気やレコードセールス及び所属するジャニーズ事務所の状況も低迷する。新御三家を除いた男性アイドル冬の時代に突入し、個人での活動の比重も高くなり、それぞれの芸能活動における方向性の違いも顕著になっていった。グループよりも、ソロのタレント活動が好調で複数のレギュラー番組を抱えたおりもを見る機会の方が増えていき、メンバーの平均年齢も20代後半となり、1977年には青山が同事務所の女性タレントで元ミスユニバース日本代表の嶋田じゅんと結婚をするなど、アイドルとしての活動に限界を迎えるようになっていった(この際、東京で行われた披露宴の模様はテレビでも放送された)。
1978年7月21日に最後のシングル「THE END-思いがけず出会ったら-/夢のかけら」をリリース、1ヵ月にわたる全国ラストツアーを行い、同年8月31日、新宿の東京厚生年金会館のステージにて解散した。 この日は、副社長のメリー喜多川が初めてステージに上がり、「これから頑張っていこうね」と言いながらメンバーたちと抱き合って泣いた。 なお、この解散コンサートの模様はテレビ番組としても放送され、再放送までされている。また解散直前にはNHKの『ビッグショー』での単独ライブも放送され、初代レギュラーを務めた『レッツゴーヤング』内でも解散ライブが行われるなど、人気が下降していたとはいえ、最後まで注目を集めた続けたクループであった。解散にあたり、メンバー全員が「二度とフォーリーブスの名で再結成しない」などといった内容の念書を書かされ事務所に提出した。北と江木は解散と同時にジャニーズ事務所を退社し、翌年には青山も退社する。メンバーの中ではジャニーズ事務所在籍期間が一番長かったおりもも、1994年に退社している。
約12年の活動でシングル38枚を発表。そのシングル曲累計売上は約266万6千枚に及んだ。
解散後
解散後から再結成までの期間までは、解散直後にベストアルバムが販売されたものの、翌1979年の覚せい剤取締法違反による北公次の逮捕以後は、1992年8月にNHK-BS2で放送された『時代を駆ける栄光のアイドル達』を除き、当時の人気に反してメディアで振り返られる機会はほぼ皆無と言っても過言ではなかった。1981年に『さよなら日劇ウエスタンカーニバル』が開催された際、この企画の為にフォーリーブスを一時的に再結成させたいという話がジャニーズ事務所に持ちかけられたが即座に断られたこともあった。編集盤も解散直後に発売された物を除くと1997年9月21日発売の『アーリーシリーズ・ベスト・オブ・フォーリーブス』が初のベストアルバムであり、アルバムの再発もCDでは1994年5月21日発売の『若者』のみであった。
本家であるフォーリーブスによる過去の楽曲や映像の再発や放送の機会がほとんどない一方、レコードデビュー前の少年隊がテレビ番組やコンサートでフォーリーブスの代表曲であった「ブルドッグ」「踊り子」「急げ!若者」「地球はひとつ」をレパートリーとして発表。それを皮切りにジャニーズ事務所に所属する後輩のグループやジャニーズJr.によってそれらの楽曲がテレビやライブで歌われるようになった。
1980年代にも、おりもがレギュラー出演していたテレビ朝日系列『象印クイズ ヒントでピント』に幾度か青山と江木が出演。またテレビ東京系列『飛び出せ釣り仲間』でも青山とおりもが共演している。
1990年頃、青山とおりもの2人で、静岡県浜松市肴町にある同じビル内に、「ステージバー・グリッター」(3F)というショーパブと、「タレント・ミュージック・スクール」(4F)という音楽学校の2つを開いた。
再結成
2002年1月29日、メンバー中誰よりも解散を惜しみ、節目の年の度に再結成を訴え続けていた青山の念願がかない、再結成[1]。初日に中野サンプラザでコンサートが行われた。同年8月22日にはシングル「it's more 愛(いつも愛)」を発売。同作は山野楽器銀座本店の週間ランキングで初登場4位となった[2]。
2006年8月27日、ソニー・ミュージックダイレクトからCD-BOX『フォーリーブス 1968-1978』が発売される。これは全シングルのA面・B面にアルバムから選んだ曲を加えた5枚組。その後ソニーミュージックショップのオーダーメイドファクトリーでオリジナル・アルバムや青山孝のソロ・アルバムなどが復刻されている。
2006年8月12日、NHK『第38回思い出のメロディー』に出演し「ブルドッグ」と「地球はひとつ」を歌唱した。北公次はバック転も披露した。久々のテレビ出演であり、特にNHKには前述の1978年の解散時に出演した『ビッグショー』以来28年ぶりである。続く2007年1月に『徹子の部屋』にも出演した。以後の全員揃っての在京局のテレビ番組への出演は、2008年2月12日放送の『2時っチャオ!』と2008年11月11日放送の『NHK歌謡コンサート』(ブルドッグ」を歌唱)がある。また、2007年3月2日放送の『Dのゲキジョー』に江木俊夫がVTR出演した際、フォーリーブスのコンサートや舞台裏の模様も放送された。
『NHK歌謡コンサート』出演から約2ヶ月半後の2009年1月28日、青山孝史死去[3]。同年3月29日、東京厚生年金会館でのコンサートを最後に活動休止[4]。
2014年以降、江木とおりもの2人で、フォーリーブス名義でのコンサートを時折行っている。
再結成時は、北=青、青山=緑、江木=赤、おりも=黄色と、イメージカラーが決められていた(ジャニーズ事務所所属時は不明)。
シングル
- オリビアの調べ/壁のむこうに (1968年9月5日)
- 涙のオルフェ/はじめてなんだ (1968年12月10日)
- 涙のオルフェ - 作詞:寺山修司、作曲・編曲:鈴木邦彦
- はじめてなんだ - 作詞:寺山修司、作曲・編曲:鈴木邦彦
- 恋するジャック/緑の河 (1969年3月21日)
- シャボンの匂いの女の子/朝日がのぼると (1969年8月1日)
- 君にこの歌を/課外授業 (1969年11月24日)
- 若者は旅をつづける/愛の鐘が鳴る (1970年2月1日)
- ある兵士の賭け/草笛の天使 (1970年5月21日)
- あしたが生まれる/ためらいながらも強く (1970年7月1日)
- 人生は一度きりだから/なぜだよ (1970年11月21日)
- 人生は一度きりだから - 作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく、編曲:大柿隆
- なぜだよ - 作詞:岩谷時子、作曲:いずみたく、編曲:大柿隆
- 約束/朝やけの中で (1971年3月1日)
- 約束 - 作詞:阿久悠、作曲・編曲:筒美京平
- 朝やけの中で - 作詞:阿久悠、作曲:梶沢知弘、編曲:森岡賢一郎
- 夏の誘惑/太陽の季節 (1971年7月1日)
- 夏の誘惑 - 作詞:北公次、作曲・編曲:鈴木邦彦
- 太陽の季節 - 作詞:ちあき哲也、作曲・編曲:鈴木邦彦
- 地球はひとつ/お願いだから (1971年11月1日)
- 地球はひとつ - 作詞:北公次、作曲・編曲:都倉俊一
- お願いだから - 作詞:北公次、作曲・編曲:都倉俊一
- はじめての世界で/ちょと待て下さい (1971年12月1日)
- 新しい冒険/愛ははじまった (1972年3月21日)
- 新しい冒険 - 作詞:北公次、作曲・編曲:鈴木邦彦
- 愛ははじまった - 作詞:有馬三恵子 作曲・編曲:鈴木邦彦
- フォーリーブスのヤンヤン体操/フォーリーブスのヤンヤン・ソング (1972年7月1日)
- 夏のふれあい/真夏の愛 (1972年7月1日)
- 夏のふれあい - 作詞:北公次、作曲・編曲:筒美京平
- 真夏の愛 - 作詞:北公次、作曲・編曲:筒美京平
- あなたの前に僕がいた/孤独よさらば (1972年10月21日)
- あなたの前に僕がいた - 作詞:北公次、作曲・編曲:都倉俊一
- 孤独よさらば - 作詞:北公次、作曲・編曲:都倉俊一
- 愛と死/青空のおしゃべり (1973年2月1日)
- 愛と死 - 作詞:北公次、作曲・編曲:鈴木邦彦
- 青空のおしゃべり - 作詞:北公次、作曲・編曲:鈴木邦彦
- ふたりの朝/ガール (1973年6月1日)
- 見上げてごらん夜の星を/チャチャチャで勉強 (1973年7月21日)
- 大人への階段/若いふたりに何が起る (1973年11月1日)
- あしたの悩み/あやまち (1974年1月21日)
- あしたの悩み - 作詞:安井かずみ、作曲・編曲:鈴木邦彦
- あやまち - 作詞:うさみかつみ、作曲・編曲:鈴木邦彦
- ヘイベイビー/ひとつぶの幸福 (1974年4月1日)
- ヘイベイビー - 作詞:宮下康仁、作曲・編曲:都倉俊一
- ひとつぶの幸福 - 作詞:宮下康仁、作曲・編曲:都倉俊一
- 急げ!若者/さらば故郷の街 (1974年7月21日)
- 急げ!若者 - 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:東海林修
- さらば故郷の街 - 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:東海林修
- 友情/青春の絆 (1974年11月1日)
- 友情 - 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:東海林修
- 青春の絆 - 作詞:千家和也、作曲:都倉俊一、編曲:東海林修
- ふたりの問題/早春のメルヘン (1975年2月1日)
- ふたりの問題 - 作詞:橋本淳、作曲:鈴木邦彦、編曲:馬飼野康二
- 早春のメルヘン - 作詞:橋本淳、作曲:鈴木邦彦、編曲:森岡賢一郎
- 嵐のあと/悲しい雨 (1975年6月1日)
- 嵐のあと - 作詞:安井かずみ、作曲・編曲:馬飼野康二
- 悲しい雨 - 作詞:安井かずみ、作曲・編曲:馬飼野康二
- 遠い日/バイバイ? (1975年11月1日)
- めぐり逢い/誘い (1976年1月21日)
- めぐり逢い - 作詞:片桐和子、作曲:いずみたく、編曲:宮本光雄
- 誘い - 作詞:片桐和子、作曲:いずみたく、編曲:宮本光雄
- 魅せられし魂/ぼくたちの道 (1976年4月21日)
- 踊り子/気になる女がとまり木で (1976年6月30日)
- ハートブレイク急行/ルージュ (1976年10月21日)
- ハートブレイク急行 - 作詞:阿久悠、作曲:井上忠夫、編曲:井上忠夫 / いしだかつのり
- ルージュ - 作詞:阿久悠 作曲・編曲:井上忠夫
- 乾杯グラス/流れゆく季節に (1977年2月25日)
- 乾杯グラス - 作詞:阿久悠、作曲:井上忠夫、編曲:馬飼野康二
- 流れゆく季節に - 作詞:阿久悠、作曲:井上忠夫、編曲:馬飼野康二
- ブルドッグ/標的 (1977年6月21日)
- ブルドッグ - 作詞:伊藤アキラ、作曲・編曲:都倉俊一
- 標的 - 作詞:伊藤アキラ、作曲:都倉俊一、編曲:田辺信一
- 男と女の紙芝居・三幕/コンドル (1977年11月21日)
- 男と女の紙芝居・三幕 - 作詞:伊藤アキラ、作曲:都倉俊一、編曲:田辺信一
- コンドル - 作詞:伊藤アキラ、作曲:都倉俊一、編曲:田辺信一
- どうして‥/プロポーズ (1978年4月21日)
- どうして‥ - 作詞:北公次、作曲:青山孝、編曲:田辺信一
- プロポーズ - 作詞:北公次、作曲:青山孝、編曲:田辺信一
- 宇宙のファンタジー/銀河の覇者 (1978年7月1日)
- THE END -思いがけず出会ったら-/夢のかけら (1978年7月21日)
- THE END -思いがけず出会ったら- - 作詞:岩谷時子、作曲:青山孝、編曲:いしだかつのり
- 夢のかけら - 作詞:北公次 作曲:青山孝 編曲:いしだかつのり
- it's more 愛 (2002年8月22日)
主な出演作品
バラエティ番組
- プラチナゴールデンショー (日本テレビ)レギュラー(第1期・第2期とも)
- ギャグジカル ジュンとヨッパ(TBS)レギュラー
- カリキュラマシーン (日本テレビ)レギュラー
- とことんやれ大奮戦!(日本テレビ)レギュラー
- 東芝ファミリーホール特ダネ登場!?(日本テレビ)準レギュラー
- 歌え!ヤンヤン!(東京12チャンネル)レギュラー
- レッツゴーヤング(NHK)レギュラー
- チビらサンデー(1976年7月4日 - 9月26日、テレビ朝日)
テレビドラマ
- おむすびコロリン(1969年4月2日 - 9月24日、TBS)第6話にゲスト出演
- おれは男だ!(1971年2月21日 - 28日、日本テレビ)第1話と2話にゲスト出演
- 青春をつっ走れ(1972年4月 - 7月、フジテレビ)ゲスト出演
- ぼくは叔父さん(1973年10月 - 1974年3月、日本テレビ)
- ボクは女学生(1973年10月5日 - 12月、フジテレビ)
- 小さなスーパーマン ガンバロン(1977年4月3日、日本テレビ)第1話にゲスト出演
映画
- 初笑いびっくり武士道(1972年1月21日公開、松竹・大船撮影所) - 2003年6月に『びっくり武士道』のタイトルでDVD化。
- 急げ!若者 TOMORROW NEVER WAITS(1974年7月20日公開、東宝/ジャック・プロ) - 共演した郷ひろみや9名のジャニーズ・ジュニアと共に舞台挨拶も行う。
ラジオ
おりも政夫
- ロッテ 集まれ!ヤンヤン 熱気でムンムン!(1975年8月 - 、ニッポン放送、公開録音番組)
ミュージカル
- いつかどこかで〜フォーリーブス物語(1967年6月、大阪フェスティバルホール) ジャニーズJr.としての出演
- フォーリーブスヤングサプライズ「少年たち」(1969年12月、大阪フェスティバルホール、日生劇場)
- オー・マイ・ママ(1969年12月)
- フォーリーブス・ショー「希望の翼」(1970年12月)
- ミュージカル・コメディー「おかしな童話」(1972年3月)
- ミュージカル「僕がうたうとき!」(1972年8月)
- 星に帰った若者(1973年1月)
- 見上げてごらん夜の星を(1973年7 - 8月、フォーリーブス結成7周年記念ミュージカル)
- ミュージカル「発射前17時間」(1974年8月)
- オリジナルミュージカルプレイ 「友情」(1975年、「フォーリーブス リサイタル'75」にて)
- ライブ・ミュージカル「少年たちパートII〜青春の光と影」(1976年3月、「フォーリーブス結成10周年記念リサイタルVOL.1」にて)
- ウェルカム・トウ・ザ・ショー フォーリーブス物語(1976年8月、「フォーリーブス結成10周年記念リサイタルVOL.2」にて)
日本劇場でのステージ
- 第33回ウエスタン・カーニバル(1967年8月26日 - 9月1日)
- 第34回ウエスタン・カーニバル(1968年1月15日 - 22日)
- 第35回ウエスタン・カーニバル(1968年5月4日 - 10日)
- 第36回ウエスタン・カーニバル(1968年8月26日 - 9月2日)
- 第37回ウエスタン・カーニバル(1969年1月14日 - 21日)
- 第38回ウエスタン・カーニバル(1969年5月5日 - 12日)
- 小川知子ショー(1969年5月20日 - 26日)
- 第39回ウエスタン・カーニバル(1969年8月25日 - 9月1日)
- 第40回ウエスタン・カーニバル(1970年1月15日 - 22日)
- 第41回ウエスタン・カーニバル(1970年5月2日 - 8日)
- 第42回ウエスタン・カーニバル(1970年8月25日 - 9月1日)
- 第43回日劇新春ウエスタン・カーニバル(1971年1月15日 - 22日)
- 第44回日劇ウエスタン・カーニバル~みんなで踊ろう!(1971年4月23日 - 29日)
- 第45回ウエスタン・カーニバル(1971年8月27日 - 9月2日)
- 第46回ウエスタン・カーニバル(1972年1月15日 - 22日)
- 第49回ウエスタン・カーニバル「フォーリーブスショー」(1973年5月4日、小井戸秀宅とともに北公次が振付を担当)
- 第54回ウエスタン・カーニバル (1975年8月28日)
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 |
---|---|---|---|---|
1970年(昭和45年)/第21回 | 初 | あしたが生まれる | 20/24 | 奥村チヨ |
1971年(昭和46年)/第22回 | 2 | 地球はひとつ | 13/25 | 朝丘雪路 |
1972年(昭和47年)/第23回 | 3 | 夏のふれあい | 02/23 | 和田アキ子 |
1973年(昭和48年)/第24回 | 4 | 若いふたりに何が起る | 07/22 | 金井克子 |
1974年(昭和49年)/第25回 | 5 | 急げ!若者 | 04/25 | 小柳ルミ子 |
1975年(昭和50年)/第26回 | 6 | ハッピー・ピープル | 11/24 | アグネス・チャン |
1976年(昭和51年)/第27回 | 7 | 踊り子 | 03/24 | キャンディーズ |
- 注意点
- 出演順は「出演順/出場者数」で表す。
CM
書籍
- フォーリーブスの伝説(1976年、たいりゅう社)
- フォーリーブス 青春共和国(ペップ出版)
- 抱きしめたい~I wanna hold your heart(2003年1月31日、実業之日本社)
- 出版記念として、銀座・福家書店にて握手会が開催された。
- みあげてごらん~いつも愛~(2004年3月25日、スタジオワープ)
- 4人が作と文を担当した絵本。
写真集
- フォーリーブス イン U.S.A.(1972年12月、講談社)
脚注・出典
- ^ “【葬送】フォーリーブス・青山孝史さん”. MSN産経ニュース (2009年2月4日). 2009年7月16日閲覧。[リンク切れ]
- ^ フォーリーブス新曲、初登場4位 山野楽器の週間ランク、SANSPO.COM、2002年8月31日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ “フォーリーブス青山さん、肝臓がんで死去”. nikkansports.com. (2009年1月28日) 2012年2月23日閲覧。
- ^ “ター坊の愛娘憂子さん11歳がタレント決意”. nikkansports.com. (2009年3月30日) 2012年2月23日閲覧。
- ^ “北公次さんが死去 フォーリーブス「コーちゃん」で活躍”. 朝日新聞デジタル. (2012年2月22日) 2012年2月23日閲覧。