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1994年夏に移籍金22万5000[[スターリング・ポンド|ポンド]]で[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|フットボールリーグ・ディヴィジョン2]] (イングランド2部) の[[アストン・ヴィラFC]]と契約する<ref name="アストン・ヴィラ">[http://www.avfc.co.uk/page/NewsDetail/0,,10265~4458216,00.html "My Villa Dream Team: Alan McInally claret and blue XI"]</ref>。1987-88シーズン前の親善試合で負傷したことで最初の10試合を逃し、僅かリーグ戦4得点で終了した<ref name="アストン・ヴィラ" />が、2位で[[プレミアリーグ|フットボールリーグ・ディヴィジョン1]]に昇格した1988-89シーズンは、最初の4試合で6得点と高い得点力を見せつけており、後半戦に尻すぼみとなりながらも最終的に14得点を挙げる成功を収め、[[FAカップ]]と[[フットボールリーグカップ]]の2つのカップ戦でも大量点を挙げる活躍は僅か2シーズンの在籍だったものの、ファンから多大な人気を得た<ref name="アストン・ヴィラ" />。
1994年夏に移籍金22万5000[[スターリング・ポンド|ポンド]]で[[フットボールリーグ・チャンピオンシップ|フットボールリーグ・ディヴィジョン2]] (イングランド2部) の[[アストン・ヴィラFC]]と契約する<ref name="アストン・ヴィラ">[http://www.avfc.co.uk/page/NewsDetail/0,,10265~4458216,00.html "My Villa Dream Team: Alan McInally claret and blue XI"]</ref>。1987-88シーズン前の親善試合で負傷したことで最初の10試合を逃し、僅かリーグ戦4得点で終了した<ref name="アストン・ヴィラ" />が、2位で[[プレミアリーグ|フットボールリーグ・ディヴィジョン1]]に昇格した1988-89シーズンは、最初の4試合で6得点と高い得点力を見せつけており、後半戦に尻すぼみとなりながらも最終的に14得点を挙げる成功を収め、[[FAカップ]]と[[フットボールリーグカップ]]の2つのカップ戦でも大量点を挙げる活躍は僅か2シーズンの在籍だったものの、ファンから多大な人気を得た<ref name="アストン・ヴィラ" />。


1997年夏に移籍金120万ポンドで[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]] (ドイツ1部) の[[バイエルン・ミュンヘン]]と契約する<ref name="愛称" />。加入1季目の1989-90シーズンは、初出場を飾った[[1.FCニュルンベルク]]との[[バヴァリアン・ダービー]]で2得点を挙げる最高のスタートを切ると、その後、主力として[[VfLボーフム]]戦や[[FC08ホンブルク]]でも2得点を挙げるなどで最終的に31試合10得点とまずまずの結果を残し<ref name="家庭" />、[[UEFAチャンピオンズカップ 1989-90]]では準決勝の強豪[[ACミラン]]相手に決勝点を挙げた (なお、チームは[[アウェーゴール]]2-2で敗退)<ref>[http://www1.skysports.com/football/news/11945/9838163/my-greatest-game-sky-sports-alan-mcinally-picks-the-1990-european-cup-semi-final "My Greatest Game: Alan McInally picks the 1990 European Cup Semi-final"]</ref>。だが、翌1990-91シーズンに向けた練習中に若手選手の{{仮リンク|アラン・ニールセン|en|Allan Nielsen}}との衝突の際に膝を負傷したことで以後のシーズンは負傷に悩まされるようになり<ref name="負傷">[http://www1.skysports.com/football/news/11096/8212834/brits-abroad-alan-mcinally "Brits abroad - Alan McInally"] [[Sky Sports]]</ref>、残りの3シーズンは僅か9試合無得点の記録にとどまった<ref name="家庭" />。しかし、[[UEFAチャンピオンズカップ 1990-91]]では、一定の結果を残しており、[[APOELニコシア]]戦と[[CSKAソフィア]]戦でそれぞれ1得点を挙げている<ref name="家庭" />。1991年10月の[[ボルシア・ドルトムント]]戦において、[[ブルーノ・ラッバディア]]との交代で後半から出場したのが、バイエルンでの最後の試合だった<ref name="家庭" />。
1997年夏に移籍金120万ポンドで[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]] (ドイツ1部) の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]と契約する<ref name="愛称" />。加入1季目の1989-90シーズンは、初出場を飾った[[1.FCニュルンベルク]]との[[バヴァリアン・ダービー]]で2得点を挙げる最高のスタートを切ると、その後、主力として[[VfLボーフム]]戦や[[FC08ホンブルク]]でも2得点を挙げるなどで最終的に31試合10得点とまずまずの結果を残し<ref name="家庭" />、[[UEFAチャンピオンズカップ 1989-90]]では準決勝の強豪[[ACミラン]]相手に決勝点を挙げた (なお、チームは[[アウェーゴール]]2-2で敗退)<ref>[http://www1.skysports.com/football/news/11945/9838163/my-greatest-game-sky-sports-alan-mcinally-picks-the-1990-european-cup-semi-final "My Greatest Game: Alan McInally picks the 1990 European Cup Semi-final"]</ref>。だが、翌1990-91シーズンに向けた練習中に若手選手の{{仮リンク|アラン・ニールセン|en|Allan Nielsen}}との衝突の際に膝を負傷したことで以後のシーズンは負傷に悩まされるようになり<ref name="負傷">[http://www1.skysports.com/football/news/11096/8212834/brits-abroad-alan-mcinally "Brits abroad - Alan McInally"] [[Sky Sports]]</ref>、残りの3シーズンは僅か9試合無得点の記録にとどまった<ref name="家庭" />。しかし、[[UEFAチャンピオンズカップ 1990-91]]では、一定の結果を残しており、[[APOELニコシア]]戦と[[CSKAソフィア]]戦でそれぞれ1得点を挙げている<ref name="家庭" />。1991年10月の[[ボルシア・ドルトムント]]戦において、[[ブルーノ・ラッバディア]]との交代で後半から出場したのが、バイエルンでの最後の試合だった<ref name="家庭" />。


バイエルンとの契約満了後は、{{仮リンク|アリー・マクラウド|en|Ally MacLeod}}の[[:en:Testimonial match|功労試合]]において古巣エア・ユナイテッドでプレー<ref>[http://www.heraldscotland.com/sport/spl/aberdeen/marker-hits-the-target-1.748808 "Marker hits the target"]</ref>し、その翌週には[[エヴァートン]]のトライアルに参加していた<ref>[http://www.independent.co.uk/sport/football-rejected-everton-look-to-mcinally-1458984.html "Football: Rejected Everton look to McInally"]</ref>。最終的にセルティック時代の同僚だった {{仮リンク|トミー・バーンズ (サッカー選手)|label=トミー・バーンズ|en|Tommy Burns (footballer)}}監督に誘われる形で、父ジャッキー (Jackie) が過去に活躍した[[キルマーノックFC]]へ1994年移籍する<ref name="家庭" />が、バイエルン時代の負傷が影響し、満足いく出場機会を得られずに31歳の若さで現役引退した。
バイエルンとの契約満了後は、{{仮リンク|アリー・マクラウド|en|Ally MacLeod}}の[[:en:Testimonial match|功労試合]]において古巣エア・ユナイテッドでプレー<ref>[http://www.heraldscotland.com/sport/spl/aberdeen/marker-hits-the-target-1.748808 "Marker hits the target"]</ref>し、その翌週には[[エヴァートン]]のトライアルに参加していた<ref>[http://www.independent.co.uk/sport/football-rejected-everton-look-to-mcinally-1458984.html "Football: Rejected Everton look to McInally"]</ref>。最終的にセルティック時代の同僚だった {{仮リンク|トミー・バーンズ (サッカー選手)|label=トミー・バーンズ|en|Tommy Burns (footballer)}}監督に誘われる形で、父ジャッキー (Jackie) が過去に活躍した[[キルマーノックFC]]へ1994年移籍する<ref name="家庭" />が、バイエルン時代の負傷が影響し、満足いく出場機会を得られずに31歳の若さで現役引退した。
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*[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ドイツ・ブンデスリーガ]] : 1989-90
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*[[DFLスーパーカップ]] : 1990
*[[DFLスーパーカップ]] : 1990

2017年8月29日 (火) 11:25時点における版

アラン・マキナリー
名前
本名 Alan Bruce McInally
アラン・ブルース・マキナリー
愛称 Rambo[1], Bic Mac[1]
ラテン文字 Alan McInally
基本情報
国籍 イギリスの旗 イギリス (スコットランドの旗 スコットランド)
生年月日 (1963-02-10) 1963年2月10日(61歳)
出身地 スコットランドの旗 エア
身長 186cm
体重 85kg
選手情報
ポジション FW
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1980-1984 スコットランドの旗 エア・ユナイテッド 93 (32)
1984-1987 スコットランドの旗 セルティック 66 (17)
1987-1989 イングランドの旗 アストン・ヴィラ 59 (18)
1989-1993 ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン 40 (10)
1993-1994 スコットランドの旗 キルマーノック 8 (0)
1980-1994 合計 266 (76)
代表歴
1989-1990 スコットランドの旗 スコットランド 8 (3)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アラン・ブルース・マキナリーAlan Bruce McInally, 1963年2月10日 - )は、スコットランドエア出身の元サッカー選手、元スコットランド代表。現役時代のポジションはフォワード。現役引退後は、Sky Sportsで解説者を務める[2]。父のジャッキー (Jackie) は、キルマーノックFCで活躍した元サッカー選手であり、同クラブ史上初となるリーグタイトル獲得に貢献している[2]

経歴

クラブ

地元のエア・ユナイテッドFC英語版でプロ生活を開始し、1980-81シーズンのスコティッシュ・フットボールリーグ・ディヴィジョン1 (2部) で初出場を飾る。センターフォワードの主力として3試合に1得点を挙げる得点率を誇り、特に1983-84シーズンは勝ち点1差で降格を回避したように低迷するチームにあって、35試合15得点を挙げる活躍を見せた。

1984年に移籍したスコティッシュ・フットボールリーグ・プレミアディヴィジョンの強豪セルティックFCでは、モ・ジョンストン英語版ブライアン・マクレアーといった強力な点取り屋の存在から主に控えの立場だった[3]が、限定された出場機会の中で、1985年5月のレンジャーズFCとのオールドファームで先制点を挙げるなどで結果を残していき、最終的にデイヴィッド・ヘイ英語版監督に3人同時起用を決意させることに成功[3]し、レギュラーとなった1986-87シーズンは、ハミルトン・アカデミカルFC戦でのハットトリックを含むリーグ戦15得点を挙げた。

1994年夏に移籍金22万5000ポンドフットボールリーグ・ディヴィジョン2 (イングランド2部) のアストン・ヴィラFCと契約する[4]。1987-88シーズン前の親善試合で負傷したことで最初の10試合を逃し、僅かリーグ戦4得点で終了した[4]が、2位でフットボールリーグ・ディヴィジョン1に昇格した1988-89シーズンは、最初の4試合で6得点と高い得点力を見せつけており、後半戦に尻すぼみとなりながらも最終的に14得点を挙げる成功を収め、FAカップフットボールリーグカップの2つのカップ戦でも大量点を挙げる活躍は僅か2シーズンの在籍だったものの、ファンから多大な人気を得た[4]

1997年夏に移籍金120万ポンドでドイツ・ブンデスリーガ (ドイツ1部) のバイエルン・ミュンヘンと契約する[1]。加入1季目の1989-90シーズンは、初出場を飾った1.FCニュルンベルクとのバヴァリアン・ダービーで2得点を挙げる最高のスタートを切ると、その後、主力としてVfLボーフム戦やFC08ホンブルクでも2得点を挙げるなどで最終的に31試合10得点とまずまずの結果を残し[2]UEFAチャンピオンズカップ 1989-90では準決勝の強豪ACミラン相手に決勝点を挙げた (なお、チームはアウェーゴール2-2で敗退)[5]。だが、翌1990-91シーズンに向けた練習中に若手選手のアラン・ニールセンとの衝突の際に膝を負傷したことで以後のシーズンは負傷に悩まされるようになり[6]、残りの3シーズンは僅か9試合無得点の記録にとどまった[2]。しかし、UEFAチャンピオンズカップ 1990-91では、一定の結果を残しており、APOELニコシア戦とCSKAソフィア戦でそれぞれ1得点を挙げている[2]。1991年10月のボルシア・ドルトムント戦において、ブルーノ・ラッバディアとの交代で後半から出場したのが、バイエルンでの最後の試合だった[2]

バイエルンとの契約満了後は、アリー・マクラウド英語版功労試合において古巣エア・ユナイテッドでプレー[7]し、その翌週にはエヴァートンのトライアルに参加していた[8]。最終的にセルティック時代の同僚だった トミー・バーンズ英語版監督に誘われる形で、父ジャッキー (Jackie) が過去に活躍したキルマーノックFCへ1994年移籍する[2]が、バイエルン時代の負傷が影響し、満足いく出場機会を得られずに31歳の若さで現役引退した。

代表

スコットランド代表としては、1989年2月に1990 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選キプロス戦で初出場を飾り、2試合目となった5月のチリ戦で初得点を挙げる[9]。その後、ワールドカップ予選でユーゴスラビア戦とフランス戦でもプレーして1990 FIFAワールドカップ出場権獲得に貢献し、1990年5月にマルタとの親善試合で2得点を挙げるなどでアピール[10]し、晴れてワールドカップのメンバーに選出された。しかし、最初のコスタリカ戦でモ・ジョンストン英語版とコンビを組み90分フル出場したものの、得点を挙げられずに0-1で敗北する[11]と、グループリーグ残り試合でマキナリーの出場は訪れず、以後の代表での出番はなかった。

個人成績

クラブでの出場記録

出典:[12][13][14][15]

クラブ シーズン 国内リーグ カップ リーグカップ 国際大会 合計
所属リーグ 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
エア・ユナイテッド 1980-81 スコティッシュ・ディヴィジョン1 6 0 - 6 0
1981-82 17 9 - 17 9
1982-83 35 7 - 35 7
1983-84 35 15 - 35 15
合計 93 31 - 93 31
セルティック 1984-85 スコティッシュ・プレミアディヴィジョン 12 1 1 0 3 3 0 0 16 4
1985-86 16 1 0 0 3 2 0 0 19 3
1986-87 38 15 4 1 5 0 0 0 47 16
合計 66 17 5 1 11 5 0 0 82 23
アストン・ヴィラ 1987-88 フットボールリーグ・ディヴィジョン2 26 4 2 1 3 1 - 31 6
1988-89 フットボールリーグ・ディヴィジョン1 33 14 2 1 3 4 - 38 19
合計 59 18 4 2 6 5 - 69 25
バイエルン・ミュンヘン 1989-90 ドイツ・ブンデスリーガ 31 10 4 1 0 0 8 1 43 12
1990-91 7 0 0 0 0 0 4 2 11 2
1991-92 2 0 0 0 0 0 0 0 2 0
1992-93 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0
合計 40 10 4 1 0 0 12 3 56 14
キルマーノック 1993-94 スコティッシュ・プレミアディヴィジョン 8 0 0 0 0 0 - 8 0
合計 8 0 0 0 0 0 - 8 0
キャリア通算成績 266 76 13 4 17 10 12 3 308 93

代表での成績

出典:[16]

スコットランド代表
出場 得点
1989 4 1
1990 4 2
Total 8 3

代表での得点

出典:[16]

獲得タイトル

クラブ

スコットランドの旗 セルティックFC

ドイツの旗 バイエルン・ミュンヘン

脚注

外部リンク