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ティアムは、[[ギニア]]の外交官の息子として[[西ドイツ]]の首都[[ボン]]で育った。MSVボンでキャリアを開始し、15歳の時に[[1.FCケルン]]のユースチームに加入した。1990年に{{仮リンク|ユースB|de|B-Jugend}}(U-17) チームで{{仮リンク|ユースBドイツサッカー選手権|de|Deutsche Fußballmeisterschaft der B-Junioren}}を制覇した。1991年には{{仮リンク|ユースA|de|A-Jugend}}(U-19) でDFBユースカップ決勝、1992年にはドイツカップ決勝へ進出した<ref name=Was>[http://www.fc-koeln.de/news/profis/detailansicht/?tx_ttnews%5Btt_news%5D=707&cHash=53891f364298ed5f5dd840ce3cddabfa Was macht eigentlich…? Pablo Thiam]</ref>。
ティアムは、[[ギニア]]の外交官の息子として[[西ドイツ]]の首都[[ボン]]で育った。MSVボンでキャリアを開始し、15歳の時に[[1.FCケルン]]のユースチームに加入した。1990年に{{仮リンク|ユースB|de|B-Jugend}}(U-17) チームで{{仮リンク|ユースBドイツサッカー選手権|de|Deutsche Fußballmeisterschaft der B-Junioren}}を制覇した。1991年には{{仮リンク|ユースA|de|A-Jugend}}(U-19) でDFBユースカップ決勝、1992年にはドイツカップ決勝へ進出した<ref name=Was>[http://www.fc-koeln.de/news/profis/detailansicht/?tx_ttnews%5Btt_news%5D=707&cHash=53891f364298ed5f5dd840ce3cddabfa Was macht eigentlich…? Pablo Thiam]</ref>。


1994年11月のホームで1-3と敗北した[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]戦でトップリーグデビューをした。ティアムは、試合直前まで自分が出場するとは知らなかった。<ref name=Was />それから9試合後の4月の[[バイエルン・ミュンヘン]]戦で、ティアムは将来所属することになるクラブ相手に[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]初ゴールとなる先制点を決め、3-1で勝利した。
1994年11月のホームで1-3と敗北した[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]戦でトップリーグデビューをした。ティアムは、試合直前まで自分が出場するとは知らなかった。<ref name=Was />それから9試合後の4月の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦で、ティアムは将来所属することになるクラブ相手に[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]初ゴールとなる先制点を決め、3-1で勝利した。


1998年に[[VfBシュトゥットガルト]]へ移籍、2001年には[[バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍するもバイエルンでの出場機会は少なかった。
1998年に[[VfBシュトゥットガルト]]へ移籍、2001年には[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ移籍するもバイエルンでの出場機会は少なかった。


2003年1月に[[VfLヴォルフスブルク]]へ移籍。ここでは、リーダーとしてキャプテンを務めた。しかし、[[クラウス・アウゲンターラー]]が新たに監督に就任すると、頻繁にリザーブに落とされⅡチームへまわされることがあった。したがって、2006年から2008年の間は、僅か出場16試合となりクラブのアマチュアチームでプレーした。2007-08シーズン終了後、リーグ通算311試合23ゴールを記録し引退した。それに加えて、DFBカップで17試合(ケルン3試合・シュトゥットガルト5試合・バイエルン5試合・ヴォルフスブルク3試合)・国際カップ8試合(ケルン7試合・ヴォルフスブルクで[[UEFAインタートトカップ]]1試合)に出場した。
2003年1月に[[VfLヴォルフスブルク]]へ移籍。ここでは、リーダーとしてキャプテンを務めた。しかし、[[クラウス・アウゲンターラー]]が新たに監督に就任すると、頻繁にリザーブに落とされⅡチームへまわされることがあった。したがって、2006年から2008年の間は、僅か出場16試合となりクラブのアマチュアチームでプレーした。2007-08シーズン終了後、リーグ通算311試合23ゴールを記録し引退した。それに加えて、DFBカップで17試合(ケルン3試合・シュトゥットガルト5試合・バイエルン5試合・ヴォルフスブルク3試合)・国際カップ8試合(ケルン7試合・ヴォルフスブルクで[[UEFAインタートトカップ]]1試合)に出場した。

2017年8月29日 (火) 11:22時点における版

パブロ・ティアム
名前
本名 パブロ・デンバ・ティアム
Pablo Demba Thiam
ラテン文字 Pablo THIAM
基本情報
国籍 ギニアの旗 ギニア
ドイツの旗 ドイツ
生年月日 (1974-01-03) 1974年1月3日(51歳)
出身地 ギニアの旗 コナクリ
身長 186cm
体重 81kg
選手情報
ポジション MF (DH)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1993-1995 ドイツの旗 ケルンII
1994-1998 ドイツの旗 ケルン 89 (4)
1998-2001 ドイツの旗 シュトゥットガルト 89 (9)
2001-2002 ドイツの旗 バイエルン 16 (0)
2002-2008 ドイツの旗 ヴォルフスブルク 117 (10)
2007 ドイツの旗 ヴォルフスブルクII 1 (0)
代表歴
1993-2006 ギニアの旗 ギニア 31 (1)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

パブロ・デンバ・ティアムPablo Demba Thiam, 1974年1月3日 - )は、ギニアコナクリ出身の元同国代表サッカー選手。現役時代のポジションはミッドフィールダー

経歴

クラブ

ティアムは、ギニアの外交官の息子として西ドイツの首都ボンで育った。MSVボンでキャリアを開始し、15歳の時に1.FCケルンのユースチームに加入した。1990年にユースBドイツ語版(U-17) チームでユースBドイツサッカー選手権ドイツ語版を制覇した。1991年にはユースAドイツ語版(U-19) でDFBユースカップ決勝、1992年にはドイツカップ決勝へ進出した[1]

1994年11月のホームで1-3と敗北したボルシア・メンヒェングラートバッハ戦でトップリーグデビューをした。ティアムは、試合直前まで自分が出場するとは知らなかった。[1]それから9試合後の4月のバイエルン・ミュンヘン戦で、ティアムは将来所属することになるクラブ相手にブンデスリーガ初ゴールとなる先制点を決め、3-1で勝利した。

1998年にVfBシュトゥットガルトへ移籍、2001年にはバイエルン・ミュンヘンへ移籍するもバイエルンでの出場機会は少なかった。

2003年1月にVfLヴォルフスブルクへ移籍。ここでは、リーダーとしてキャプテンを務めた。しかし、クラウス・アウゲンターラーが新たに監督に就任すると、頻繁にリザーブに落とされⅡチームへまわされることがあった。したがって、2006年から2008年の間は、僅か出場16試合となりクラブのアマチュアチームでプレーした。2007-08シーズン終了後、リーグ通算311試合23ゴールを記録し引退した。それに加えて、DFBカップで17試合(ケルン3試合・シュトゥットガルト5試合・バイエルン5試合・ヴォルフスブルク3試合)・国際カップ8試合(ケルン7試合・ヴォルフスブルクでUEFAインタートトカップ1試合)に出場した。

代表

ティアムは、ギニア代表として31試合1ゴールを記録し、3度のアフリカネイションズカップに出場した。19941998年の2大会ではグループリーグ3位で敗退したが、2006年大会ではグループリーグを全勝で突破するも、準々決勝のセネガルに2-3で敗れた。

引退後

監督やスポーツディレクターを務めているフェリックス・マガトの下、VfLヴォルフスブルクのアシスタントコーチに2010年までの契約で就任[2]し、現在はクラブのU-23チームで運動ディレクターを務めている[3]

脚注

  1. ^ a b Was macht eigentlich…? Pablo Thiam
  2. ^ Thiam wird Magaths Assistent
  3. ^ Homepage aktuell

外部リンク