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[[RSCアンデルレヒト]]の下部組織出身。1975年の{{仮リンク|KRCメヘレン|en|K.R.C. Mechelen}}戦で、Gilbert Van Binstとの交代でトップチームデビューした。デビュー当初は負傷が続き、1975年10月と1976年1月に手術を行なっている。1975-76シーズンの[[UEFAカップウィナーズカップ]]では、準々決勝で[[レクサムFC]](ウェールズ)を、準決勝で[[FSVツヴィッカウ]](東ドイツ)を、決勝で[[ウェストハム・ユナイテッドFC]](イングランド)を破って優勝した。1976年の[[UEFAスーパーカップ]]では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]王者の[[バイエルン・ミュンヘン]](西ドイツ)を破って優勝した。1976-77シーズンのUEFAカップウィナーズカップでも決勝に進出したが、[[ハンブルガーSV]](西ドイツ)に敗れて優勝を逃した。1977-78シーズンの同大会では3シーズン連続の決勝進出を果たし、決勝で[[FKアウストリア・ウィーン]](オーストリア)を破って2シーズンぶりの優勝を決めた。1978年のUEFAスーパーカップでは[[リヴァプールFC]](イングランド)を破っている。1981-82シーズンには[[UEFAチャンピオンズリーグ]]に出場してベスト4となり、1982-83シーズンには[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]で優勝。1983-84シーズンのUEFAカップでも決勝に進出したが、[[トッテナム・ホットスパーFC]](イングランド)にPK戦の末に敗れた。1984-85シーズンはUEFAカップでベスト8、1985-86シーズンはUEFAチャンピオンズカップで準優勝、1986-87シーズンはUEFAチャンピオンズカップでベスト8となり、ベルコーテレン在籍下のアンデルレヒトは6シーズン連続で欧州カップ戦のベスト8以上の成績を挙げた。1981年から1987年にはベルコーテレンがキャプテンを務めたが、この黄金時代のアンデルレヒトには[[アリー・ハーン]]、プレーメーカーの[[エンツォ・シーフォ]]、[[ジョルジュ・グルン]]などが在籍していた。アンデルレヒトではUEFAカップウィナーズカップで2回、UEFAカップで1回、UEFAスーパーカップで2回優勝しており、計5個の欧州カップ戦タイトルを獲得した。また、国内大会では欧州カップ戦ほどの好成績を挙げられなかったが、[[ベルギー・カップ]]で2回、[[ジュピラー・プロ・リーグ|ジュピラーリーグ]]で4回、[[ベルギー・スーパーカップ]]で2回優勝している。 |
[[RSCアンデルレヒト]]の下部組織出身。1975年の{{仮リンク|KRCメヘレン|en|K.R.C. Mechelen}}戦で、Gilbert Van Binstとの交代でトップチームデビューした。デビュー当初は負傷が続き、1975年10月と1976年1月に手術を行なっている。1975-76シーズンの[[UEFAカップウィナーズカップ]]では、準々決勝で[[レクサムFC]](ウェールズ)を、準決勝で[[FSVツヴィッカウ]](東ドイツ)を、決勝で[[ウェストハム・ユナイテッドFC]](イングランド)を破って優勝した。1976年の[[UEFAスーパーカップ]]では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]王者の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]](西ドイツ)を破って優勝した。1976-77シーズンのUEFAカップウィナーズカップでも決勝に進出したが、[[ハンブルガーSV]](西ドイツ)に敗れて優勝を逃した。1977-78シーズンの同大会では3シーズン連続の決勝進出を果たし、決勝で[[FKアウストリア・ウィーン]](オーストリア)を破って2シーズンぶりの優勝を決めた。1978年のUEFAスーパーカップでは[[リヴァプールFC]](イングランド)を破っている。1981-82シーズンには[[UEFAチャンピオンズリーグ]]に出場してベスト4となり、1982-83シーズンには[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]で優勝。1983-84シーズンのUEFAカップでも決勝に進出したが、[[トッテナム・ホットスパーFC]](イングランド)にPK戦の末に敗れた。1984-85シーズンはUEFAカップでベスト8、1985-86シーズンはUEFAチャンピオンズカップで準優勝、1986-87シーズンはUEFAチャンピオンズカップでベスト8となり、ベルコーテレン在籍下のアンデルレヒトは6シーズン連続で欧州カップ戦のベスト8以上の成績を挙げた。1981年から1987年にはベルコーテレンがキャプテンを務めたが、この黄金時代のアンデルレヒトには[[アリー・ハーン]]、プレーメーカーの[[エンツォ・シーフォ]]、[[ジョルジュ・グルン]]などが在籍していた。アンデルレヒトではUEFAカップウィナーズカップで2回、UEFAカップで1回、UEFAスーパーカップで2回優勝しており、計5個の欧州カップ戦タイトルを獲得した。また、国内大会では欧州カップ戦ほどの好成績を挙げられなかったが、[[ベルギー・カップ]]で2回、[[ジュピラー・プロ・リーグ|ジュピラーリーグ]]で4回、[[ベルギー・スーパーカップ]]で2回優勝している。 |
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1987年にはフランス・[[ディヴィジョン・アン]](1部)の[[FCナント]]に移籍した。1970年代から1980年代半ばまでのナントはフランス屈指の強豪であり、この時期に4回のリーグ優勝を果たしていたが、1980年代後半には成績に翳りが見え、ベルコーテレンが加入してからの3シーズンは10位、7位、7位という成績に終わった。しかし、ベルコーテレン自身は2回アシスト王に輝いている。1990年にベルギーに帰国して[[RWDモレンベーク]]に加入し、1993年までプレーした。 |
1987年にはフランス・[[ディヴィジョン・アン]](1部)の[[FCナント]]に移籍した。1970年代から1980年代半ばまでのナントはフランス屈指の強豪であり、この時期に4回のリーグ優勝を果たしていたが、1980年代後半には成績に翳りが見え、ベルコーテレンが加入してからの3シーズンは10位、7位、7位という成績に終わった。しかし、ベルコーテレン自身は2回アシスト王に輝いている。1990年にベルギーに帰国して[[RWDモレンベーク]]に加入し、1993年までプレーした。 |
2017年8月29日 (火) 11:02時点における版
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名前 | ||||||
本名 |
フランソワ・ベルコーテレン François Vercauteren | |||||
愛称 | The Little Prince | |||||
ラテン文字 | Franky VERCAUTEREN | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ベルギー | |||||
生年月日 | 1956年10月28日(68歳) | |||||
出身地 | シント=ヤンス=モレンベーク | |||||
身長 | 174cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
1963-1975 | アンデルレヒト | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1975-1987 | アンデルレヒト | 367 | (93) | |||
1987-1990 | ナント | 78 | (19) | |||
1987-1990 | ナントB | 13 | (4) | |||
1990-1993 | モレンベーク | 50 | (4) | |||
通算 | 508 | (120) | ||||
代表歴 | ||||||
1977-1988 | ベルギー | 63 | (9) | |||
監督歴 | ||||||
1993-1994 | ブライネ (ユース) | |||||
1994-1997 | メヘレン (ユース) | |||||
1997-1998 | メヘレン | |||||
1998-2005 | アンデルレヒト (コーチ) | |||||
1998-1999 | アンデルレヒト (暫定) | |||||
2005-2007 | アンデルレヒト | |||||
2009 | ベルギー代表 | |||||
2009-2011 | ヘンク | |||||
2011-2012 | アル・ジャジーラ | |||||
2012-2013 | スポルティングCP | |||||
2014 | メヘレン | |||||
2014-2016 | クリリヤ・ソヴェトフ・サマーラ | |||||
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フランキー・ベルコーテレン(Franky Vercauteren、1956年10月28日 - )は、ベルギー出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワード(左ウイング)。選手時代はベルギー代表であり、監督としてもベルギー代表監督を務めた。
経歴
選手経歴
クラブ
RSCアンデルレヒトの下部組織出身。1975年のKRCメヘレン戦で、Gilbert Van Binstとの交代でトップチームデビューした。デビュー当初は負傷が続き、1975年10月と1976年1月に手術を行なっている。1975-76シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは、準々決勝でレクサムFC(ウェールズ)を、準決勝でFSVツヴィッカウ(東ドイツ)を、決勝でウェストハム・ユナイテッドFC(イングランド)を破って優勝した。1976年のUEFAスーパーカップではUEFAチャンピオンズカップ王者のバイエルン・ミュンヘン(西ドイツ)を破って優勝した。1976-77シーズンのUEFAカップウィナーズカップでも決勝に進出したが、ハンブルガーSV(西ドイツ)に敗れて優勝を逃した。1977-78シーズンの同大会では3シーズン連続の決勝進出を果たし、決勝でFKアウストリア・ウィーン(オーストリア)を破って2シーズンぶりの優勝を決めた。1978年のUEFAスーパーカップではリヴァプールFC(イングランド)を破っている。1981-82シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグに出場してベスト4となり、1982-83シーズンにはUEFAカップで優勝。1983-84シーズンのUEFAカップでも決勝に進出したが、トッテナム・ホットスパーFC(イングランド)にPK戦の末に敗れた。1984-85シーズンはUEFAカップでベスト8、1985-86シーズンはUEFAチャンピオンズカップで準優勝、1986-87シーズンはUEFAチャンピオンズカップでベスト8となり、ベルコーテレン在籍下のアンデルレヒトは6シーズン連続で欧州カップ戦のベスト8以上の成績を挙げた。1981年から1987年にはベルコーテレンがキャプテンを務めたが、この黄金時代のアンデルレヒトにはアリー・ハーン、プレーメーカーのエンツォ・シーフォ、ジョルジュ・グルンなどが在籍していた。アンデルレヒトではUEFAカップウィナーズカップで2回、UEFAカップで1回、UEFAスーパーカップで2回優勝しており、計5個の欧州カップ戦タイトルを獲得した。また、国内大会では欧州カップ戦ほどの好成績を挙げられなかったが、ベルギー・カップで2回、ジュピラーリーグで4回、ベルギー・スーパーカップで2回優勝している。
1987年にはフランス・ディヴィジョン・アン(1部)のFCナントに移籍した。1970年代から1980年代半ばまでのナントはフランス屈指の強豪であり、この時期に4回のリーグ優勝を果たしていたが、1980年代後半には成績に翳りが見え、ベルコーテレンが加入してからの3シーズンは10位、7位、7位という成績に終わった。しかし、ベルコーテレン自身は2回アシスト王に輝いている。1990年にベルギーに帰国してRWDモレンベークに加入し、1993年までプレーした。
代表
ベルギー代表としては、スペインで開催された1982 FIFAワールドカップ、フランスで開催されたUEFA欧州選手権1984、メキシコで開催された1986 FIFAワールドカップに出場。通算63試合に出場して9得点を記録した。
1977年11月16日、北アイルランド戦 (3-0) でベルギー代表デビューした。イタリアで開催されたUEFA欧州選手権1980でベルギー代表は準優勝しているが、ベルコーテレンは出場メンバーに選出されていない[1]。1982 FIFAワールドカップの1次リーグではアルゼンチン、ハンガリー、エルサルバドルと同組となったが、前回大会優勝国でありディエゴ・マラドーナを擁したアルゼンチン、エルサルバドル戦で1試合最多得点(10点)を記録したハンガリーを抑えてグループ首位となった。2次リーグではポーランド、ソビエト連邦と同組となり、2連敗で大会敗退となった。UEFA欧州選手権1984のグループリーグでは、優勝候補筆頭のフランス、デンマーク、ユーゴスラビアと同組となった。初戦のユーゴスラビア戦には2-0で勝利したが、ミシェル・プラティニ擁するフランスには0-5で大敗。グループリーグ最終戦のデンマーク戦はフランスに次ぐグループ2位決定戦となり、ベルギーが39分までに2点を先行したが、40分以降に3失点して逆転負け。3回目の出場にして初のグループリーグ敗退となった。1986 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選ではプレーオフに回ったが、オランダとのライバル対決を制して本大会出場権を獲得した。グループリーグでは4ヶ国中3位だったが、各組3位チームの中でもっとも良い成績を残して決勝トーナメントに進出。決勝トーナメント1回戦ではソビエト連邦を延長の末に破り、準々決勝ではスペインをPK戦の末に破ったが、準決勝では結果的に優勝するアルゼンチンに敗れた。3位決定戦でもフランスに敗れたが、同国史上最高の4位という成績を残した。
指導者経歴
現役引退後の1993年、ブラバン・ワロン州にある小規模クラブ、CSブライネのユースチーム監督に就任した。1994年にはKVメヘレンと契約し、1994年から1997年にはユースチーム監督、1997年から1998年にはトップチーム監督を務めた。1997-98シーズン終了後、古巣RSCアンデルレヒトのアシスタントコーチに就任した。1998-99シーズン序盤のアンデルレヒトは18位と低迷し、アリー・ハーン監督が退任。ベルコーテレンとJean Dockxが共同で暫定監督に就任した。ライバルのスタンダール・リエージュ戦に6-0で、KRCヘンク戦に5-2で勝利するなどし、両暫定監督はクラブを欧州カップ戦出場権圏内まで押し上げた。1999年にはエメ・アンテュニスが正式な監督に就任し、ベルコーテレンは再びアシスタントコーチに戻った。アンテュニス監督の後任にはチェコ人のウーゴ・ブルースが就任したが、2005年2月に解任され、ベルコーテレンがトップチーム監督に就任した。2004-05シーズン、2005-06シーズンとジュピラー・リーグ2連覇を達成。2006-07シーズン序盤には勝ち点が伸び悩み、11月までに首位に勝ち点7を付けられたことから、監督・クラブ双方合意の上で11月12日に職を離れた。ベルコーテレンの下でアシスタントコーチを務めていたアリエル・ヤコブスが後任監督に就任している。
2009年4月、ベルギー代表のレネ・バンデレイケン監督が成績不振によって解任され、ベルコーテレンが暫定監督に就任[2]。5月下旬に日本で行なわれたキリンカップサッカーのチリ戦 (1-1) が初采配試合となったが、日本戦 (0-4) に大敗して3ヶ国中2位タイに終わった。7月にはディック・アドフォカートの正式な監督就任が発表され、ロシア・プレミアリーグの2009年シーズン終了まではベルコーテレンが暫定的に指揮を執るはずだったが、同年9月9日のアルメニア戦に敗れた後にベルコーテレン監督が暫定監督を辞任したため、アドフォカートは当初の予定よりも3ヶ月早く正式監督に就任した。
2009年12月3日、ハイン・ファンハーゼブロウク監督の後任としてKRCヘンク監督に就任した[3]。2010-11シーズンのレギュラーシーズンはアンデルレヒトに次ぐ2位だったが、プレーオフの成績でアンデルレヒトを上回り、最終戦のスタンダール・リエージュ戦に引き分けてリーグ優勝を決めるとともに[4]、UEFAチャンピオンズリーグ本選出場権を獲得した。2011年夏のベルギー・スーパーカップではスタンダールに勝利して初優勝を飾った。
2011年8月8日、サウジアラビアのアル・ジャジーラ・クラブ監督に就任した。2012年3月11日、アル・ジャジーラはベルコーテレンとの契約解除を発表し、退任の背景に選手との不仲があるとした。同日には後任監督にカイオ・ジュニオールが就任している。
2012年10月、リカルド・サ・ピント監督の後任としてポルトガル・プリメイラ・リーガのスポルティングCP監督に就任。古巣ヘンクとの試合(UEFAヨーロッパリーグ)が初采配試合となった。2013年1月7日に退任した。
2014年1月5日、KVメヘレンの監督に復帰したが、4ヶ月後の5月5日に退任した。
2014年夏、クリリヤ・ソヴェトフ・サマーラの監督に就任。ロシア2部リーグで迎えた2014-15シーズンは優勝し、チームを1部昇格に導いた。
タイトル
選手時代
- アンデルレヒト
- ジュピラーリーグ (4) : 1980-81, 1984-85, 1985-86, 1986-87
- ベルギー・カップ (2) : 1975, 1976
- ベルギー・スーパーカップ (2) : 1985, 1987
- UEFAカップウィナーズカップ (2) : 1975-76, 1977-78
- UEFAカップ (1) : 1982-83
- UEFAスーパーカップ (2) : 1976, 1978
指導者時代
- アンデルレヒト
- ジュピラーリーグ (2) : 2005-06, 2006-07
- ベルギー・スーパーカップ (2) : 2006, 2007
- ヘンク
- ジュピラー・プロ・リーグ (1) : 2010-11
- ベルギー・スーパーカップ (1) : 2011
脚注
- ^ Interview/biography
- ^ Vercauteren tritt ab Transfermarkt
- ^ Vercauteren trainiert Genk Transfermarkt
- ^ Genk pip Standard to Belgian title by Berend Scholten UEFA.com