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[[VfBシュトゥットガルト]]に在籍するも、プロにはなれなかった。アマチュアのクラブでプレーし、選手兼監督を務めることもあった。1996-97シーズンには[[SSVウルム1846]]を2部に昇格させ、[[VfBシュトゥットガルト]]の監督に抜擢された。1999-2000シーズンの[[DFBポカール|ドイツ・カップ]]準優勝、[[UEFAカップ]]ベスト16など結果を残した。2001年に[[ハノーファー96]]の監督に就任すると1部昇格を果たした。2004-05シーズン途中に就任した[[シャルケ04]]では就任1年目からリーグ戦2位の成績を残した。しかし、当時のゼネラル・マネージャー、ルディ・アサウアーとの確執が囁かれ、2005-06シーズン終了時の退任を決断していたが<ref>{{Cite web |publisher=UEFA.com |url=http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=378545.html |title=ラングニック監督、今季限りで退任 |date=2005-12-09 |accessdate=2011-03-23}}</ref>、辞任する前の2005年12月12日に解任された。2006年夏、[[ディートマー・ホップ]]オーナーの招きで[[3. リーガ (ドイツサッカー)|ドリッテリーガ]](3部)にいた[[TSG1899ホッフェンハイム]]の監督に就任し、わずか2年で[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]](1部)に昇格させた。その後も、チームに躍進に貢献するも、2011年1月2日、クラブがラングニックの承認なしに、主力選手の[[ルイス・グスタヴォ・ディアス|ルイス・グスタヴォ]]を[[バイエルン・ミュンヘン]]へ売却したことを理由に、首脳陣と衝突し、ホッフェンハイムの監督を辞任すると発表した<ref>{{Cite web |publisher=サッカーキング |url=http://www.soccer-king.jp/news/germany/article/201101031731_hoffenheim_rangnick.html |title=ホッフェンハイムのラングニック監督が辞任 |date=2011-01-03 |accessdate=2011-03-23}}</ref>。2011年3月17日、ブンデスリーガでの成績不振により解任された[[フェリックス・マガト]]に代わって[[シャルケ04]]の監督に再就任することが発表されたが、<ref>{{Cite web |publisher=Goal.com |url=http://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2011/03/18/2399208/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%B1%E6%96%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF |title=シャルケ新監督はラングニック |date=2011-03-18 |accessdate=2011-03-23}}</ref>同年[[9月22日]]にバーンアウト([[燃え尽き症候群]])に陥り<ref>{{Cite web |publisher=Soccer King |url=http://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20141111/249419.html |title=元独代表GKエンケの死から5年…サッカー選手とうつ病の関係 |date=2014-11-11 |accessdate=2015-07-30}} </ref>、健康上の理由で辞任した<ref>{{Cite web |publisher=Soccer King |url=http://www.soccer-king.jp/news/germany/article/201109221810_schalke_rangnick.html |title= 内田所属のシャルケ、ラングニック監督が電撃辞任|date=2011-09-22 |accessdate=2011-09-22}}</ref>。 |
[[VfBシュトゥットガルト]]に在籍するも、プロにはなれなかった。アマチュアのクラブでプレーし、選手兼監督を務めることもあった。1996-97シーズンには[[SSVウルム1846]]を2部に昇格させ、[[VfBシュトゥットガルト]]の監督に抜擢された。1999-2000シーズンの[[DFBポカール|ドイツ・カップ]]準優勝、[[UEFAカップ]]ベスト16など結果を残した。2001年に[[ハノーファー96]]の監督に就任すると1部昇格を果たした。2004-05シーズン途中に就任した[[シャルケ04]]では就任1年目からリーグ戦2位の成績を残した。しかし、当時のゼネラル・マネージャー、ルディ・アサウアーとの確執が囁かれ、2005-06シーズン終了時の退任を決断していたが<ref>{{Cite web |publisher=UEFA.com |url=http://jp.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=378545.html |title=ラングニック監督、今季限りで退任 |date=2005-12-09 |accessdate=2011-03-23}}</ref>、辞任する前の2005年12月12日に解任された。2006年夏、[[ディートマー・ホップ]]オーナーの招きで[[3. リーガ (ドイツサッカー)|ドリッテリーガ]](3部)にいた[[TSG1899ホッフェンハイム]]の監督に就任し、わずか2年で[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]](1部)に昇格させた。その後も、チームに躍進に貢献するも、2011年1月2日、クラブがラングニックの承認なしに、主力選手の[[ルイス・グスタヴォ・ディアス|ルイス・グスタヴォ]]を[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]へ売却したことを理由に、首脳陣と衝突し、ホッフェンハイムの監督を辞任すると発表した<ref>{{Cite web |publisher=サッカーキング |url=http://www.soccer-king.jp/news/germany/article/201101031731_hoffenheim_rangnick.html |title=ホッフェンハイムのラングニック監督が辞任 |date=2011-01-03 |accessdate=2011-03-23}}</ref>。2011年3月17日、ブンデスリーガでの成績不振により解任された[[フェリックス・マガト]]に代わって[[シャルケ04]]の監督に再就任することが発表されたが、<ref>{{Cite web |publisher=Goal.com |url=http://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2011/03/18/2399208/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%B1%E6%96%B0%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF |title=シャルケ新監督はラングニック |date=2011-03-18 |accessdate=2011-03-23}}</ref>同年[[9月22日]]にバーンアウト([[燃え尽き症候群]])に陥り<ref>{{Cite web |publisher=Soccer King |url=http://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20141111/249419.html |title=元独代表GKエンケの死から5年…サッカー選手とうつ病の関係 |date=2014-11-11 |accessdate=2015-07-30}} </ref>、健康上の理由で辞任した<ref>{{Cite web |publisher=Soccer King |url=http://www.soccer-king.jp/news/germany/article/201109221810_schalke_rangnick.html |title= 内田所属のシャルケ、ラングニック監督が電撃辞任|date=2011-09-22 |accessdate=2011-09-22}}</ref>。 |
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[[2012年]][[7月]]、飲料水[[レッドブル]]などの販売を手掛ける[[:en:Red Bull GmbH|Red Bull GmbH]]<!-- GmbHは「有限会社」の意味-->が運営する2つのクラブ、[[レッドブル・ザルツブルク]]と[[RBライプツィヒ]]を束ねるスポーツディレクターに就任し、指南役として両クラブのために戦術書を作って配り、「タレントに投資してさらに高く売る」という独自の移籍戦略を推し進めた。その戦術の中に「ボール奪取から8秒以内にシュートに持ち込まなければならない」という「8秒ルール」がある<ref>{{Cite web |publisher=Number |url=http://number.bunshun.jp/articles/-/811663 |title=新記録続きの攻撃力。ザルツブルクを見逃すな。~「オーストリア史上最強」は本物か~ |date=2014-04-15 |accessdate=2015-07-30}}</ref>。この「ラングニック学校」ともいうべきクラブから[[ロガー・シュミット]]や[[アレクサンダー・ツォルニガー]]、[[ペーター・ツァイドラー]]という監督を輩出した。 |
2017年8月29日 (火) 10:41時点における版
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名前 | ||||||
愛称 | プロフェッソア(教授)[1] | |||||
ラテン文字 | Ralf Rangnick | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1958年6月29日(66歳) | |||||
出身地 | バックナング | |||||
身長 | 181cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ラルフ・ラングニック(Ralf Rangnick,1958年6月29日 - )は、ドイツ出身の元サッカー選手、サッカー指導者。
経歴
VfBシュトゥットガルトに在籍するも、プロにはなれなかった。アマチュアのクラブでプレーし、選手兼監督を務めることもあった。1996-97シーズンにはSSVウルム1846を2部に昇格させ、VfBシュトゥットガルトの監督に抜擢された。1999-2000シーズンのドイツ・カップ準優勝、UEFAカップベスト16など結果を残した。2001年にハノーファー96の監督に就任すると1部昇格を果たした。2004-05シーズン途中に就任したシャルケ04では就任1年目からリーグ戦2位の成績を残した。しかし、当時のゼネラル・マネージャー、ルディ・アサウアーとの確執が囁かれ、2005-06シーズン終了時の退任を決断していたが[2]、辞任する前の2005年12月12日に解任された。2006年夏、ディートマー・ホップオーナーの招きでドリッテリーガ(3部)にいたTSG1899ホッフェンハイムの監督に就任し、わずか2年でブンデスリーガ(1部)に昇格させた。その後も、チームに躍進に貢献するも、2011年1月2日、クラブがラングニックの承認なしに、主力選手のルイス・グスタヴォをバイエルン・ミュンヘンへ売却したことを理由に、首脳陣と衝突し、ホッフェンハイムの監督を辞任すると発表した[3]。2011年3月17日、ブンデスリーガでの成績不振により解任されたフェリックス・マガトに代わってシャルケ04の監督に再就任することが発表されたが、[4]同年9月22日にバーンアウト(燃え尽き症候群)に陥り[5]、健康上の理由で辞任した[6]。
2012年7月、飲料水レッドブルなどの販売を手掛けるRed Bull GmbHが運営する2つのクラブ、レッドブル・ザルツブルクとRBライプツィヒを束ねるスポーツディレクターに就任し、指南役として両クラブのために戦術書を作って配り、「タレントに投資してさらに高く売る」という独自の移籍戦略を推し進めた。その戦術の中に「ボール奪取から8秒以内にシュートに持ち込まなければならない」という「8秒ルール」がある[7]。この「ラングニック学校」ともいうべきクラブからロガー・シュミットやアレクサンダー・ツォルニガー、ペーター・ツァイドラーという監督を輩出した。
2015-2016シーズンを前にレッドブル・ザルツブルクの仕事を後人に託し、2015年当時ドイツ2部にあったRBライプツィヒのスポーツディレクターとしての仕事に専念しようとしたが、前オフシーズンの監督人事においてトーマス・トゥヘルをボルシア・ドルトムントに奪われ、さらにホッフェンハイムのマルクス・ギズドル監督の引き抜きも叶わず新監督招聘に失敗したため、自らスポーツディレクターとの兼任で監督業に復帰、RBライプツィヒの監督に就任した[8]。監督として迎えた2015-2016シーズンは序盤から首位争いを繰り広げ、最終的にSCフライブルクに優勝こそ譲ったものの、2016年5月8日の第33節、カールスルーエSC戦に勝利し、自動昇格となる2位を確定させ、創設8年目にして悲願のブンデスリーガ昇格に導いた[9]。シーズン終了後にインゴルシュタット監督のラルフ・ハーゼンヒュットルの招聘に成功したことから退任、スポーツディレクター職に専念することになった。
所属クラブ
- VfBシュトゥットガルトII
- サウスウィックFC
- FCハイルブロン
- SSVウルム1846
- ビクトリア・バックナング
- TSV Lippoldsweiler
指導クラブ
- 1983-1985 ビクトリア・バックナング (選手兼任監督)
- 1987-1988 TSV Lippoldsweiler (選手兼任監督)
- 1988-1990 SCコルプ
- 1995-1996 SSVロイトリンゲン
- 1997-1999 SSVウルム1846
- 1999-2001 VfBシュトゥットガルト
- 2001-2004 ハノーファー96
- 2004-2005 シャルケ04
- 2006-2011 TSG1899ホッフェンハイム
- 2011 シャルケ04
- 2012-2015 FCレッドブル・ザルツブルク(スポーツディレクター)
- 2015- RBライプツィヒ(スポーツディレクター)
- 2015-2016 RBライプツィヒ
タイトル
- いずれも指導者として
- ウルム
- レギオナルリーガ南部地区 優勝 (1) : 1996-1997
- シュトゥットガルト
- UEFAインタートトカップ 優勝 (1) : 2000
- ハノーファー
- 2. ブンデスリーガ 優勝 (1) : 2001-2002
- シャルケ
- ドイツ・ブンデスリーガ 2位 : 2004-2005
- DFBポカール 優勝 (1) : 2010-2011
- DFLスーパーカップ 優勝 (1) : 2011
- DFBリーガポカール 優勝 (1) :2005
- ホッフェンハイム
- 2. ブンデスリーガ 2位 : 2007-08
- レギオナルリーガ南部地区 2位 : 2006-07
- North Baden Cup 準優勝 : 2007
- レッドブル・ザルツブルク
- オーストリア・ブンデスリーガ 優勝 (2) : 2013-2014、2014-2015
- オーストリア・カップ 優勝 (2) : 2013-14、2014-2015
- RBライプツィヒ
- 2. ブンデスリーガ 2位 : 2015-16
指導者成績
- 2016年6月30日時点
クラブ | 就任 | 退任 | 記録 | |||||
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試合 | 勝 | 分 | 敗 | 勝率 | ||||
VfBシュトゥットガルトII | 1985年7月1日 | 1987年6月30日 | 70 | 28 | 16 | 26 | 40.00 | |
SSVロイトリンゲン | 1995年7月1日 | 1996年12月31日 | 51 | 26 | 12 | 13 | 50.98 | |
SSVウルム1846 | 1997年1月1日 | 1999年3月16日 | 75 | 36 | 18 | 21 | 48.00 | |
VfBシュトゥットガルト | 1999年5月3日 | 2001年2月23日 | 86 | 36 | 16 | 34 | 41.86 | |
ハノーファー96 | 2001年7月1日 | 2004年3月7日 | 98 | 44 | 22 | 32 | 44.90 | |
シャルケ04 | 2004年9月28日 | 2005年12月12日 | 65 | 36 | 15 | 14 | 55.38 | |
TSG1899ホッフェンハイム | 2006年7月1日 | 2011年1月2日 | 166 | 79 | 43 | 44 | 47.59 | |
シャルケ04 | 2011年3月21日 | 2011年9月22日 | 23 | 10 | 3 | 10 | 43.48 | |
RBライプツィヒ | 2015年5月29日 | 2016年6月30日 | 30 | 19 | 5 | 6 | 63.33 | |
合計 | 664 | 314 | 150 | 200 | 47.29 |
脚注
- ^ “内田所属のシャルケ04、マガト前監督の後任にラングニック氏”. スポーツナビ (2011年3月18日). 2011年3月23日閲覧。
- ^ “ラングニック監督、今季限りで退任”. UEFA.com (2005年12月9日). 2011年3月23日閲覧。
- ^ “ホッフェンハイムのラングニック監督が辞任”. サッカーキング (2011年1月3日). 2011年3月23日閲覧。
- ^ “シャルケ新監督はラングニック”. Goal.com (2011年3月18日). 2011年3月23日閲覧。
- ^ “元独代表GKエンケの死から5年…サッカー選手とうつ病の関係”. Soccer King (2014年11月11日). 2015年7月30日閲覧。
- ^ “内田所属のシャルケ、ラングニック監督が電撃辞任”. Soccer King (2011年9月22日). 2011年9月22日閲覧。
- ^ “新記録続きの攻撃力。ザルツブルクを見逃すな。~「オーストリア史上最強」は本物か~”. Number (2014年4月15日). 2015年7月30日閲覧。
- ^ “ドイツ2部で戦術革命が始まった!?ラングニック、衝撃の“4-2-2-2”。”. Number (2015年7月29日). 2015年7月30日閲覧。
- ^ “フライブルクに続きRBライプツィヒが昇格。創設8年目で1部へ”. Goal.com (2016年5月9日). 2016年5月11日閲覧。