コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ルベン・バラハ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼:FCバイエルン・ミュンヘン関連 - log
49行目: 49行目:
1999-2000シーズン終了後にアトレティコ・マドリードのトップチームがセグンダ・ディビシオンに降格したため、2000年夏に移籍金2000万ペセタで前年度[[UEFAチャンピオンズリーグ]]ファイナリストの[[バレンシアCF]]に移籍した<ref>[http://web.archive.org/20030527160446/www.namibian.com.na/Netstories/2000/August/Sport/0094B9AA26.html Valencia break club transfer record]The Namibian、2000年8月2日</ref>。バレンシアCFはMF[[ジェラール・ロペス]]とMF[[フランシスコ・ファリノス]]を放出して新たな中盤の選手を探しており、[[エクトル・ラウル・クーペル|エクトル・クーペル]]監督などに重用されて数々のタイトル獲得に貢献した。
1999-2000シーズン終了後にアトレティコ・マドリードのトップチームがセグンダ・ディビシオンに降格したため、2000年夏に移籍金2000万ペセタで前年度[[UEFAチャンピオンズリーグ]]ファイナリストの[[バレンシアCF]]に移籍した<ref>[http://web.archive.org/20030527160446/www.namibian.com.na/Netstories/2000/August/Sport/0094B9AA26.html Valencia break club transfer record]The Namibian、2000年8月2日</ref>。バレンシアCFはMF[[ジェラール・ロペス]]とMF[[フランシスコ・ファリノス]]を放出して新たな中盤の選手を探しており、[[エクトル・ラウル・クーペル|エクトル・クーペル]]監督などに重用されて数々のタイトル獲得に貢献した。


2000-01シーズンはキープレーヤーのひとりとしてUEFAチャンピオンズリーグの上位進出に貢献し、決勝で[[バイエルン・ミュンヘン]]にPK戦の末に敗れたものの、準優勝を果たした。2001-02シーズンは怪我の影響で出遅れたものの、17試合だけの出場で7得点(チーム内得点王)し、31年ぶりのリーグ優勝に貢献した。2003-04シーズンも8得点を挙げてチームをリーグ優勝に導くとともに、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]では決勝で[[オリンピック・マルセイユ]]を2-0で破って2冠を達成した。2006-07シーズンと2007-08シーズンはフィジカル面の問題に苦しみ、出場試合数が減少した。2009-10シーズンは18試合に出場したが、フル出場したのは2試合だけに終わった。2010年5月16日、[[CDテネリフェ]]戦がバレンシアCFのユニフォームを着て臨んだ最後の試合となり、89分に途中交代した際には[[エスタディオ・デ・メスタージャ]]の観客からスタンディング・オベーションが贈られた。15シーズンでリーグ戦338試合に出場して47得点を挙げた。2010年夏にバレンシアCFとの契約が満了し<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2010/06/13/1974183/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%8F%E6%9C%80%E9%AB%98%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%92%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%9F%E3%81%84 バラハ:「最高のオファーを選びたい」]Goal.com、2010年6月13日</ref>、その後すぐに現役引退が発表された。
2000-01シーズンはキープレーヤーのひとりとしてUEFAチャンピオンズリーグの上位進出に貢献し、決勝で[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]にPK戦の末に敗れたものの、準優勝を果たした。2001-02シーズンは怪我の影響で出遅れたものの、17試合だけの出場で7得点(チーム内得点王)し、31年ぶりのリーグ優勝に貢献した。2003-04シーズンも8得点を挙げてチームをリーグ優勝に導くとともに、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]では決勝で[[オリンピック・マルセイユ]]を2-0で破って2冠を達成した。2006-07シーズンと2007-08シーズンはフィジカル面の問題に苦しみ、出場試合数が減少した。2009-10シーズンは18試合に出場したが、フル出場したのは2試合だけに終わった。2010年5月16日、[[CDテネリフェ]]戦がバレンシアCFのユニフォームを着て臨んだ最後の試合となり、89分に途中交代した際には[[エスタディオ・デ・メスタージャ]]の観客からスタンディング・オベーションが贈られた。15シーズンでリーグ戦338試合に出場して47得点を挙げた。2010年夏にバレンシアCFとの契約が満了し<ref>[http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2010/06/13/1974183/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%8F%E6%9C%80%E9%AB%98%E3%81%AE%E3%82%AA%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%92%E9%81%B8%E3%81%B3%E3%81%9F%E3%81%84 バラハ:「最高のオファーを選びたい」]Goal.com、2010年6月13日</ref>、その後すぐに現役引退が発表された。


==== 代表 ====
==== 代表 ====

2017年8月29日 (火) 10:19時点における版

ルベン・バラハ
2016年のバラハ
名前
本名 ルベン・バラハ・ベガス
Rubén Baraja Vegas
愛称 エル・ピポ
ラテン文字 Rubén BARAJA
基本情報
国籍 スペインの旗 スペイン
生年月日 (1975-07-11) 1975年7月11日(49歳)
出身地 バリャドリッド
身長 180cm
体重 75kg
選手情報
ポジション MF (CH)
利き足 右足
ユース
スペインの旗 バリャドリード
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1993-1995 スペインの旗 バリャドリードB 46 (11)
1993-1996 スペインの旗 バリャドリード 41 (2)
1996-1999 スペインの旗 A・マドリードB 79 (20)
1999-2000 スペインの旗 A・マドリード 34 (4)
2000-2010 スペインの旗 バレンシア 262 (41)
通算 462 (78)
代表歴
1993 スペインの旗 スペイン U-18 3 (1)
2000-2005 スペインの旗 スペイン 43 (7)
監督歴
2011 スペインの旗 A・マドリード (アシスタント)
2013-2015 スペインの旗 バレンシア (ユース)
2013 スペインの旗 バレンシアB (暫定)
2015-2016 スペインの旗 エルチェ
2016- スペインの旗 ラーヨ・バジェカーノ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ルベン・バラハ・ベガスRubén Baraja Vegas, 1975年7月11日 - )は、スペインカスティーリャ・レオン州バリャドリッド出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。スペイン代表であった。現在はリーガ・エスパニョーララーヨ・バジェカーノの監督を務めている。ポジションはMF。優れたタックルの技術、精度の高いパス、得点能力などを兼ね備えたセントラル・ミッドフィールダーであった[1]

実弟のDFハビエル・バラハスペイン語版もルベン同様にレアル・バリャドリードの下部組織出身で、選手生活のほとんどをレアル・バリャドリードで過ごしている。

経歴

選手

クラブ

カスティーリャ・レオン州バリャドリッドに生まれ、地元のレアル・バリャドリードの下部組織に入団して1993年にトップチームデビューした。1996年にアトレティコ・マドリードに移籍し、2シーズン半をアトレティコ・マドリードBで過ごした後、1999年2月7日のUDサラマンカ戦でトップチームで初出場した。1998-99シーズンもBチームでプレーすることが多かったが、セグンダ・ディビシオン(2部)に属していたアトレティコ・マドリードBで11得点を挙げた。

1999-2000シーズン終了後にアトレティコ・マドリードのトップチームがセグンダ・ディビシオンに降格したため、2000年夏に移籍金2000万ペセタで前年度UEFAチャンピオンズリーグファイナリストのバレンシアCFに移籍した[2]。バレンシアCFはMFジェラール・ロペスとMFフランシスコ・ファリノスを放出して新たな中盤の選手を探しており、エクトル・クーペル監督などに重用されて数々のタイトル獲得に貢献した。

2000-01シーズンはキープレーヤーのひとりとしてUEFAチャンピオンズリーグの上位進出に貢献し、決勝でバイエルン・ミュンヘンにPK戦の末に敗れたものの、準優勝を果たした。2001-02シーズンは怪我の影響で出遅れたものの、17試合だけの出場で7得点(チーム内得点王)し、31年ぶりのリーグ優勝に貢献した。2003-04シーズンも8得点を挙げてチームをリーグ優勝に導くとともに、UEFAカップでは決勝でオリンピック・マルセイユを2-0で破って2冠を達成した。2006-07シーズンと2007-08シーズンはフィジカル面の問題に苦しみ、出場試合数が減少した。2009-10シーズンは18試合に出場したが、フル出場したのは2試合だけに終わった。2010年5月16日、CDテネリフェ戦がバレンシアCFのユニフォームを着て臨んだ最後の試合となり、89分に途中交代した際にはエスタディオ・デ・メスタージャの観客からスタンディング・オベーションが贈られた。15シーズンでリーグ戦338試合に出場して47得点を挙げた。2010年夏にバレンシアCFとの契約が満了し[3]、その後すぐに現役引退が発表された。

代表

2000年10月7日、2002 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選イスラエル戦 (2-0) でスペイン代表デビューした。2001年4月に行われた日本との国際親善試合では、終了間際に決勝点を記録している。2002 FIFAワールドカップ本大会にも招集され、準々決勝まで駒を進めたが、PK戦の末に韓国に敗れた。2004年に出場したUEFA EURO 2004ではポルトガルギリシャと同組となったグループリーグで敗退した。2006年の2006 FIFAワールドカップ出場メンバーからは漏れた[4][5][6][7]

指導者

2011年6月、グレゴリオ・マンサーノアトレティコ・マドリード監督就任に伴い、アトレティコのアシスタントコーチに就任した[8]

2015年7月12日、2部への降格処分となったエルチェCFの監督に就任することが発表された[9]

2016年11月8日ラーヨ・バジェカーノの監督に就任した。

個人成績

代表での出場記録


スペイン代表国際Aマッチ
出場得点
2000 3 1
2001 5 1
2002 10 3
2003 10 0
2004 12 2
2005 3 0
通算 43 7

タイトル

バレンシアCF

監督成績

2016年12月28日現在
クラブ 就任 退任 記録
試合 勝率 %
バレンシアCF・メスタージャ 2013年12月15日 2013年12月22日 1 1 0 0 2 1 +1 100.00
エルチェCF 2015年7月12日 2016年6月6日 43 13 19 11 43 49 −6 030.23
ラーヨ・バジェカーノ 2016年11月8日 6 2 1 3 6 6 +0 033.33
合計 50 16 20 14 51 56 −5 032.00

脚注

  1. ^ Players to watch - Rubén BarajaBBC Sport、2004年5月25日
  2. ^ Valencia break club transfer recordThe Namibian、2000年8月2日
  3. ^ バラハ:「最高のオファーを選びたい」Goal.com、2010年6月13日
  4. ^ Aragonés finds no place for BarajaUEFA.com、2006年5月15日
  5. ^ Baraja muscled out for ValenciaUEFA.com、2006年8月21日
  6. ^ Valencia get bad news on BarajaUEFA.com、2007年3月8日
  7. ^ Baraja blow deepens Valencia woeUEFA.com、2008年1月25日
  8. ^ 「アトレティコ監督はマンサーノに 助監督にはバラハらOBを追加」 footballista、ソルメディア、2011年6月22日号、33頁
  9. ^ Rubén Baraja, nuevo entrenador del Elche C.F.”. エルチェCF公式ウェブサイト (2015年7月12日). 2015年7月16日閲覧。

外部リンク