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2017年8月29日 (火) 09:40時点における版

TSV1860ミュンヘン
原語表記 Turn- und Sportverein München von 1860 e. V.
愛称 Die Löwen, Die Sechzger
クラブカラー
創設年 1860年
所属リーグ レギオナルリーガ
所属ディビジョン バイエルン
ホームタウン ミュンヘン
ホームスタジアム グリュンヴァルター・スタディオン
収容人数 12,500
代表者 未定
監督 ポルトガルの旗 ヴィトール・ペレイラ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

TSV1860ミュンヘンドイツ語: Turn- und Sportverein München von 1860 e. V.)は、ドイツバイエルン州ミュンヘンに本拠地を置く総合スポーツクラブサッカー・ブンデスリーガでは、1965-66シーズンに優勝した古豪。

約2万人の会員を有する国内最大のスポーツクラブの一つである[1]サッカー部門が特に知られているが、それ以外にもバスケットボールロッククライミングボクシングボウリング陸上競技レスリングサイクリングスキーテニス体操ウォータースポーツなどのスポーツ部門を有する[2]。クラブのトレードマークにライオンが使われており、Die Löwen(ライオン)の愛称で親しまれている[2]

「1860 München」をドイツ語読みをカタカナで書くと「アハツェーンフンダート ゼヒツィヒ ミュンヒェン」である。

歴史

クラブのエンブレム

1848年7月15日ミュンヘン市内のパブで前身となる「ミュンヘン体操クラブ」が創設された[1]。同クラブは短い活動期間の後に活動を禁止されたが12年後の1860年5月17日に活動を再開し、1898年に「トゥルンフェライン・ミュンヘン1860」と改称した[1]。サッカー部門は1899年3月6日に創設され3年後に最初の試合が行われた[1]

1960年代中盤に入るとマックス・メアケルドイツ語版監督の下で最盛期を迎え[1]1963年に創設されたブンデスリーガには同じミュンヘンを本拠地とするバイエルン・ミュンヘンを抑えて初年度から参入。1963-64シーズンにDFBポカールで優勝すると、UEFAカップウィナーズカップ 1964-65では決勝でウェスト・ハム・ユナイテッドFCに敗れたものの準優勝という結果を残した[3]。国内リーグにおいても1965-66シーズンにリーグ優勝を果たしたが、1970年代以降は下部リーグに低迷した[1]

1994-95シーズンにブンデスリーガ1部に復帰を果たすと[2]、10シーズンに渡り1部に定着[2]1996年にはDFBハーレンポカールドイツ語版で優勝し、UEFAカップ1997-98への出場権を獲得すると2回戦に進出[1]。1999-00シーズンにはバイエルン・ミュンヘンとのダービーマッチにおいて2連勝するなど好調を維持し4位でシーズンを終えUEFAチャンピオンズリーグ 2000-01予選ラウンドへの出場権を獲得[1]。3次予選でイングランドのリーズ・ユナイテッドAFCに敗れたためUEFAカップ2000-01へと回ったが、1回戦でチェコのFKドルノヴィツェ、2回戦でスウェーデンのハルムスタッズBKを破り3回戦へ進出した[1]。翌2000–01シーズンにはUEFAインタートトカップに出場し準決勝へ進出した[1]

この当時には元ドイツ代表トーマス・ヘスラーやブンデスリーガ得点王となったマルティン・マックスらを擁していたが、2002-03シーズン終了後にヘスラーとマックスが退団すると2003-04シーズンは下位に低迷し[4]、17位という成績で2部に降格した[5]

2005年にバイエルン・ミュンヘンと共にホームスタジアムをミュンヘン・オリンピアシュタディオンからアリアンツ・アレナへ移転した[6]。2005-06シーズンはブンデスリーガ2部においても13位と低迷したが、新スタジアム効果により2部4位に終わった2004-05シーズンの2万人弱や現状1部での最後のシーズンとなった2003-04シーズンの2万8000人強を大幅に超える、ブンデスリーガ2部で1位となる4万2000人弱の平均観客動員を記録した。なお、このシーズンのTSV1860ミュンヘンの平均観客動員数はブンデスリーガ1部を含めても8位に入る好調さであった。

その後もブンデスリーガ2部に定着をしており[1]、2005–06シーズンと2007–08シーズンのDFBポカールでの準々決勝進出が目立った成績となっている[7][8]

しかし、2016-17シーズンは16位となり3部3位とになったSSVヤーン・レーゲンスブルクとの入れ替え戦にも敗れ、1993年以来24年ぶりに3部へ降格。会長・CEOが引責辞任した[9]。その後3部でのプレーに必要なライセンス費用の支払いを大株主が拒否したこと[10]から、6月9日にアマチュアリーグであるレギオナルリーガ (4部)へ降格処分を受けた[11]。またホームスタジアムであるアリアンツ・アレナの使用契約を2017年7月12日付で解約したことが明らかになった[12]

タイトル

国内タイトル

1965-66
1941-42, 1963-64
1963
  • ガウリーガ・バイエルン: 1回
1941, 1943
1979
  • バイエルンリーガ: 3回
1984, 1991, 1993

国際タイトル

1964-65

過去の成績

出典[13]

現所属メンバー

2017年2月1日現在[14]

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
2 DF ドイツ ヤン・マウエルスベルガー
3 DF ドイツ マクシミリアン・ヴィッテク
4 DF ドイツ カイ・ビューロー
5 MF コソボ ファノル・ペルデダイ
6 DF ポーランド セバスティアン・ボエニシュ
7 MF 南アフリカ共和国 デイロン・クラーセン
8 MF アルジェリア カリム・マトムール
9 FW デンマーク クリスティアン・ギトケアー
10 MF オーストリア ミヒャエル・リーンドル
11 MF ドイツ ダニエル・アトルング
12 FW ブラジル ルーカス・リバマール
13 FW ドイツ サシャ・メルダース
14 FW ハンガリー シモン・クリスティアーン
16 DF ドイツ マルノン・ブッシュ
18 MF ドイツ ニコ・カルガー
19 MF ドイツ フロリアン・ノイハウス
No. Pos. 選手名
21 GK ドイツ ヤン・ツィンマーマン
22 DF モンテネグロ フィリップ・ストイコヴィッチ
23 MF ドイツ ニコラス・ヘルムブレヒト
24 GK ドイツ シュテファン・オルテガ
25 DF セネガル アブドゥライ・バ
26 DF ドイツ キリアン・ヤコプ
27 FW ドイツ モリッツ・ハインリッヒ
28 DF ガーナ ルーマー・アグベニュー
29 MF ドイツ シュテファン・アイグナー ()
30 FW ブラジル アミルトン
31 FW ブラジル ヴィクトル・アンドラーデ
33 MF ドイツ レベント・アイツィツェク
38 MF フランス ロミュアル・ラカゼット
40 FW クロアチア イヴィツァ・オリッチ
44 MF カメルーン フランク・ボヤ
監督

ローン移籍選手

in

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
16 DF ドイツ マルノン・ブッシュ (ヴェルダー・ブレーメン)
25 DF セネガル アブドゥライ・バ (FCポルト)
28 DF ガーナ ルーマー・アグベニュー (ポルティモネンセSC)
No. Pos. 選手名
31 FW ブラジル ヴィクトル・アンドラーデ (SLベンフィカ)
33 MF ドイツ レベント・アイツィツェク (ヴェルダー・ブレーメン)

歴代監督

歴代所属選手

GK

DF

MF

FW

その他のスポーツ

陸上競技

陸上競技部門はクラブの中で最も多くの成功を収めている[15]。部門内には競技コースと「フィットネス・レーヴェン」コースの2種類があり、競技コースは夏季オリンピック世界陸上競技選手権大会ヨーロッパ陸上競技選手権大会といった国際大会に多くの選手を送り出している[15]。一方、子供を対象にした「フィットネス・レーヴェン」は健康促進を目的とし、バレーボールバドミントンなどの簡単なレクリエーション、フィットネス体操など様々なプログラムを実施している[15]

体操とレクリエーション

体操部門はクラブの前身となる「ミュンヘン体操クラブ」が創設された1848年から存在したが2年後に活動を停止[16]、12年後の1862年に再建された[16]。これまでの歴史の中で1936年に行われたベルリンオリンピック団体総合金メダリストのイノツェンツ・シュタングルドイツ語版を輩出している[16]。フィットネスを目的としたレクリエーション部門は1975年に体操部門に統合されており、親子、青少年、女性、大人を対象としたフィットネスジム、護身術卓球などのプログラムを実施している[16]。また、競技コースには新体操も含まれており、2009年2010年2011年にバイエルン州選手権で優勝している[16]

ボクシング

ボクシング部門は1919年に創設された[17]。これまでの歴史の中で1924年のドイツヘビー級王者のルートヴィヒ・ハイマン、1936年に行われたベルリンオリンピックバンタム級銀メダリストのハンス・ツィクラルスキドイツ語版を輩出している[16]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k geschichte”. TSV 1860 München. 2014年8月30日閲覧。
  2. ^ a b c d クラブデータ”. ブンデスリーガ公式ウェブサイト. 2014年8月30日閲覧。
  3. ^ 1964/65: Hammers 'bubble' on home soil”. UEFA.com. 2014年8月30日閲覧。
  4. ^ 1860ミュンヘン、新監督が決定”. UEFA.com (2004年4月20日). 2014年8月31日閲覧。
  5. ^ Bundesliga 2003/2004 - Der aktuelle 34. Spieltag”. Fussballdaten. 2014年8月31日閲覧。
  6. ^ アリアンツ・アレーナ”. ブンデスリーガ公式ウェブサイト. 2014年8月30日閲覧。
  7. ^ Die Spielstatistik TSV 1860 München - Eintracht Frankfurt”. Fussballdaten. 2014年8月31日閲覧。
  8. ^ Die Spielstatistik FC Bayern München - TSV 1860 München”. Fussballdaten. 2014年8月31日閲覧。
  9. ^ ドイツの古豪1860ミュンヘンが3部降格 サポーターの暴動もYAHOOニュース 2017年5月31日閲覧
  10. ^ 1860ミュンヘンが2部からアマチュア降格の可能性…かつては大迫勇也もプレーGOAL 2017年6月4日
  11. ^ TEILNEHMERFELD DER 3. LIGA FÜR SAISON 2017/2018 KOMPLETTドイツサッカー連盟 2017年6月9日(6月11日閲覧)
  12. ^ TSV 1860ミュンヘンとのアレーナ使用契約を解約FCバイエルン・ミュンヘン 2017年7月12日(7月13日閲覧)
  13. ^ TSV 1860 München”. Fussballdaten. 2014年8月30日閲覧。
  14. ^ Profis”. TSV 1860 München. 2017年2月7日閲覧。
  15. ^ a b c Leichtathletik”. TSV 1860 München e. V.. 2014年8月30日閲覧。
  16. ^ a b c d e f Turn- und Freizeitsport”. TSV 1860 München e. V.. 2014年8月30日閲覧。
  17. ^ Boxen”. TSV 1860 München e. V.. 2014年8月30日閲覧。

外部リンク