「TSV1860ミュンヘン」の版間の差分
スタジアムデータを加筆 |
|||
45行目: | 45行目: | ||
[[1848年]][[7月15日]]、[[ミュンヘン]]市内のパブで前身となる「ミュンヘン体操クラブ」が創設された<ref name="Geschichte"/>。同クラブは短い活動期間の後に活動を禁止されたが12年後の[[1860年]][[5月17日]]に活動を再開し、[[1898年]]に「トゥルンフェライン・ミュンヘン1860」と改称した<ref name="Geschichte"/>。サッカー部門は[[1899年]][[3月6日]]に創設され3年後に最初の試合が行われた<ref name="Geschichte"/>。 |
[[1848年]][[7月15日]]、[[ミュンヘン]]市内のパブで前身となる「ミュンヘン体操クラブ」が創設された<ref name="Geschichte"/>。同クラブは短い活動期間の後に活動を禁止されたが12年後の[[1860年]][[5月17日]]に活動を再開し、[[1898年]]に「トゥルンフェライン・ミュンヘン1860」と改称した<ref name="Geschichte"/>。サッカー部門は[[1899年]][[3月6日]]に創設され3年後に最初の試合が行われた<ref name="Geschichte"/>。 |
||
[[1960年代]]中盤に入ると{{仮リンク|マックス・メアケル|de|Max Merkel}}監督の下で最盛期を迎え<ref name="Geschichte"/>、[[1963年]]に創設された[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]には同じミュンヘンを本拠地とする[[バイエルン・ミュンヘン]]を抑えて初年度から参入。1963-64シーズンに[[DFBポカール]]で優勝すると、[[UEFAカップウィナーズカップ 1964-65]]では決勝で[[ウェスト・ハム・ユナイテッドFC]]に敗れたものの準優勝という結果を残した<ref>{{cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/ecwc/history/season=1964/intro.html|title=1964/65: Hammers 'bubble' on home soil|publisher=UEFA.com|accessdate=2014年8月30日}}</ref>。国内リーグにおいても1965-66シーズンにリーグ優勝を果たしたが、[[1970年代]]以降は下部リーグに低迷した<ref name="Geschichte"/>。 |
[[1960年代]]中盤に入ると{{仮リンク|マックス・メアケル|de|Max Merkel}}監督の下で最盛期を迎え<ref name="Geschichte"/>、[[1963年]]に創設された[[サッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)|ブンデスリーガ]]には同じミュンヘンを本拠地とする[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]を抑えて初年度から参入。1963-64シーズンに[[DFBポカール]]で優勝すると、[[UEFAカップウィナーズカップ 1964-65]]では決勝で[[ウェスト・ハム・ユナイテッドFC]]に敗れたものの準優勝という結果を残した<ref>{{cite web|url=http://en.archive.uefa.com/competitions/ecwc/history/season=1964/intro.html|title=1964/65: Hammers 'bubble' on home soil|publisher=UEFA.com|accessdate=2014年8月30日}}</ref>。国内リーグにおいても1965-66シーズンにリーグ優勝を果たしたが、[[1970年代]]以降は下部リーグに低迷した<ref name="Geschichte"/>。 |
||
1994-95シーズンにブンデスリーガ1部に復帰を果たすと<ref name="クラブデータ"/>、10シーズンに渡り1部に定着<ref name="クラブデータ"/>。[[1996年]]には{{仮リンク|DFBハーレンポカール|de|DFB-Hallenpokal}}で優勝し、[[UEFAカップ1997-98]]への出場権を獲得すると2回戦に進出<ref name="Geschichte"/>。1999-00シーズンにはバイエルン・ミュンヘンとのダービーマッチにおいて2連勝するなど好調を維持し4位でシーズンを終え[[UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01]]予選ラウンドへの出場権を獲得<ref name="Geschichte"/>。3次予選でイングランドの[[リーズ・ユナイテッドAFC]]に敗れたため[[UEFAカップ2000-01]]へと回ったが、1回戦でチェコの[[FKドルノヴィツェ]]、2回戦でスウェーデンの[[ハルムスタッズBK]]を破り3回戦へ進出した<ref name="Geschichte"/>。翌2000–01シーズンには[[UEFAインタートトカップ]]に出場し準決勝へ進出した<ref name="Geschichte"/>。 |
1994-95シーズンにブンデスリーガ1部に復帰を果たすと<ref name="クラブデータ"/>、10シーズンに渡り1部に定着<ref name="クラブデータ"/>。[[1996年]]には{{仮リンク|DFBハーレンポカール|de|DFB-Hallenpokal}}で優勝し、[[UEFAカップ1997-98]]への出場権を獲得すると2回戦に進出<ref name="Geschichte"/>。1999-00シーズンにはバイエルン・ミュンヘンとのダービーマッチにおいて2連勝するなど好調を維持し4位でシーズンを終え[[UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01]]予選ラウンドへの出場権を獲得<ref name="Geschichte"/>。3次予選でイングランドの[[リーズ・ユナイテッドAFC]]に敗れたため[[UEFAカップ2000-01]]へと回ったが、1回戦でチェコの[[FKドルノヴィツェ]]、2回戦でスウェーデンの[[ハルムスタッズBK]]を破り3回戦へ進出した<ref name="Geschichte"/>。翌2000–01シーズンには[[UEFAインタートトカップ]]に出場し準決勝へ進出した<ref name="Geschichte"/>。 |
2017年8月29日 (火) 09:40時点における版
TSV1860ミュンヘン | |||
---|---|---|---|
原語表記 | Turn- und Sportverein München von 1860 e. V. | ||
愛称 | Die Löwen, Die Sechzger | ||
クラブカラー | 青 | ||
創設年 | 1860年 | ||
所属リーグ | レギオナルリーガ | ||
所属ディビジョン | バイエルン | ||
ホームタウン | ミュンヘン | ||
ホームスタジアム | グリュンヴァルター・スタディオン | ||
収容人数 | 12,500 | ||
代表者 | 未定 | ||
監督 | ヴィトール・ペレイラ | ||
公式サイト | 公式サイト | ||
| |||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
TSV1860ミュンヘン(ドイツ語: Turn- und Sportverein München von 1860 e. V.)は、ドイツ・バイエルン州ミュンヘンに本拠地を置く総合スポーツクラブ。サッカー・ブンデスリーガでは、1965-66シーズンに優勝した古豪。
約2万人の会員を有する国内最大のスポーツクラブの一つである[1]。サッカー部門が特に知られているが、それ以外にもバスケットボール、ロッククライミング、ボクシング、ボウリング、陸上競技、レスリング、サイクリング、スキー、テニス、体操、ウォータースポーツなどのスポーツ部門を有する[2]。クラブのトレードマークにライオンが使われており、Die Löwen(ライオン)の愛称で親しまれている[2]。
「1860 München」をドイツ語読みをカタカナで書くと「アハツェーンフンダート ゼヒツィヒ ミュンヒェン」である。
歴史
1848年7月15日、ミュンヘン市内のパブで前身となる「ミュンヘン体操クラブ」が創設された[1]。同クラブは短い活動期間の後に活動を禁止されたが12年後の1860年5月17日に活動を再開し、1898年に「トゥルンフェライン・ミュンヘン1860」と改称した[1]。サッカー部門は1899年3月6日に創設され3年後に最初の試合が行われた[1]。
1960年代中盤に入るとマックス・メアケル監督の下で最盛期を迎え[1]、1963年に創設されたブンデスリーガには同じミュンヘンを本拠地とするバイエルン・ミュンヘンを抑えて初年度から参入。1963-64シーズンにDFBポカールで優勝すると、UEFAカップウィナーズカップ 1964-65では決勝でウェスト・ハム・ユナイテッドFCに敗れたものの準優勝という結果を残した[3]。国内リーグにおいても1965-66シーズンにリーグ優勝を果たしたが、1970年代以降は下部リーグに低迷した[1]。
1994-95シーズンにブンデスリーガ1部に復帰を果たすと[2]、10シーズンに渡り1部に定着[2]。1996年にはDFBハーレンポカールで優勝し、UEFAカップ1997-98への出場権を獲得すると2回戦に進出[1]。1999-00シーズンにはバイエルン・ミュンヘンとのダービーマッチにおいて2連勝するなど好調を維持し4位でシーズンを終えUEFAチャンピオンズリーグ 2000-01予選ラウンドへの出場権を獲得[1]。3次予選でイングランドのリーズ・ユナイテッドAFCに敗れたためUEFAカップ2000-01へと回ったが、1回戦でチェコのFKドルノヴィツェ、2回戦でスウェーデンのハルムスタッズBKを破り3回戦へ進出した[1]。翌2000–01シーズンにはUEFAインタートトカップに出場し準決勝へ進出した[1]。
この当時には元ドイツ代表のトーマス・ヘスラーやブンデスリーガ得点王となったマルティン・マックスらを擁していたが、2002-03シーズン終了後にヘスラーとマックスが退団すると2003-04シーズンは下位に低迷し[4]、17位という成績で2部に降格した[5]。
2005年にバイエルン・ミュンヘンと共にホームスタジアムをミュンヘン・オリンピアシュタディオンからアリアンツ・アレナへ移転した[6]。2005-06シーズンはブンデスリーガ2部においても13位と低迷したが、新スタジアム効果により2部4位に終わった2004-05シーズンの2万人弱や現状1部での最後のシーズンとなった2003-04シーズンの2万8000人強を大幅に超える、ブンデスリーガ2部で1位となる4万2000人弱の平均観客動員を記録した。なお、このシーズンのTSV1860ミュンヘンの平均観客動員数はブンデスリーガ1部を含めても8位に入る好調さであった。
その後もブンデスリーガ2部に定着をしており[1]、2005–06シーズンと2007–08シーズンのDFBポカールでの準々決勝進出が目立った成績となっている[7][8]。
しかし、2016-17シーズンは16位となり3部3位とになったSSVヤーン・レーゲンスブルクとの入れ替え戦にも敗れ、1993年以来24年ぶりに3部へ降格。会長・CEOが引責辞任した[9]。その後3部でのプレーに必要なライセンス費用の支払いを大株主が拒否したこと[10]から、6月9日にアマチュアリーグであるレギオナルリーガ (4部)へ降格処分を受けた[11]。またホームスタジアムであるアリアンツ・アレナの使用契約を2017年7月12日付で解約したことが明らかになった[12]。
タイトル
国内タイトル
- ドイツリーグ:1回
- 1965-66
- 1941-42, 1963-64
- オーバーリーガ南部: 1回
- 1963
- ガウリーガ・バイエルン: 1回
- 1941, 1943
- 2. ブンデスリーガ南部: 1回
- 1979
- バイエルンリーガ: 3回
- 1984, 1991, 1993
国際タイトル
- UEFAカップウィナーズカップ準優勝:1回
- 1964-65
過去の成績
- 出典[13]
|
|
現所属メンバー
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
ローン移籍選手
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
|
|
歴代監督
|
|
歴代所属選手
GK
DF
- ジェラルド・ファネンブルグ 1998-2000
- マーティン・シュトランツル 1999-2005
- レモ・マイヤー 2002-2006
- マルセル・シェーファー 2003-2007
- マークス・シュタインヘーファー 2014-2015
MF
- ベスニク・ハシ 1997-1998
- トーマス・ヘスラー 1999-2003
- ハーラルド・チェルニー 1995-2007
- イェンス・イェレミース 1995-1998
- マークス・ヴァイセンベルガー 2001-2004
- マティアス・レーマン 2003-2006
- ネマニャ・ヴチチェヴィッチ 2004-2007
- スヴェン・ベンダー 2006-2009
- ラース・ベンダー 2006-2009
- ティモ・ゲブハルト 2007-2008
- ユリアン・ヴァイグル 2013-2015
FW
- ルディ・フェラー 1980-1982
- ダヴォール・シューケル 2001-2003
- ポール・アゴスティーノ 1997-2007
- マルティン・マックス 1999-2003
- ジョシュ・ウルフ 2006-2008
- フィリップ・ホジナー 2008-2009
- ベンヤミン・ラウト 2000-2004、2008-2014
- 大迫勇也 2014.1-6
その他のスポーツ
陸上競技
陸上競技部門はクラブの中で最も多くの成功を収めている[15]。部門内には競技コースと「フィットネス・レーヴェン」コースの2種類があり、競技コースは夏季オリンピック、世界陸上競技選手権大会、ヨーロッパ陸上競技選手権大会といった国際大会に多くの選手を送り出している[15]。一方、子供を対象にした「フィットネス・レーヴェン」は健康促進を目的とし、バレーボールやバドミントンなどの簡単なレクリエーション、フィットネス体操など様々なプログラムを実施している[15]。
体操とレクリエーション
体操部門はクラブの前身となる「ミュンヘン体操クラブ」が創設された1848年から存在したが2年後に活動を停止[16]、12年後の1862年に再建された[16]。これまでの歴史の中で1936年に行われたベルリンオリンピック団体総合金メダリストのイノツェンツ・シュタングルを輩出している[16]。フィットネスを目的としたレクリエーション部門は1975年に体操部門に統合されており、親子、青少年、女性、大人を対象としたフィットネスジム、護身術や卓球などのプログラムを実施している[16]。また、競技コースには新体操も含まれており、2009年と2010年と2011年にバイエルン州選手権で優勝している[16]。
ボクシング
ボクシング部門は1919年に創設された[17]。これまでの歴史の中で1924年のドイツヘビー級王者のルートヴィヒ・ハイマン、1936年に行われたベルリンオリンピックバンタム級銀メダリストのハンス・ツィクラルスキを輩出している[16]。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k “geschichte”. TSV 1860 München. 2014年8月30日閲覧。
- ^ a b c d “クラブデータ”. ブンデスリーガ公式ウェブサイト. 2014年8月30日閲覧。
- ^ “1964/65: Hammers 'bubble' on home soil”. UEFA.com. 2014年8月30日閲覧。
- ^ “1860ミュンヘン、新監督が決定”. UEFA.com (2004年4月20日). 2014年8月31日閲覧。
- ^ “Bundesliga 2003/2004 - Der aktuelle 34. Spieltag”. Fussballdaten. 2014年8月31日閲覧。
- ^ “アリアンツ・アレーナ”. ブンデスリーガ公式ウェブサイト. 2014年8月30日閲覧。
- ^ “Die Spielstatistik TSV 1860 München - Eintracht Frankfurt”. Fussballdaten. 2014年8月31日閲覧。
- ^ “Die Spielstatistik FC Bayern München - TSV 1860 München”. Fussballdaten. 2014年8月31日閲覧。
- ^ ドイツの古豪1860ミュンヘンが3部降格 サポーターの暴動もYAHOOニュース 2017年5月31日閲覧
- ^ 1860ミュンヘンが2部からアマチュア降格の可能性…かつては大迫勇也もプレーGOAL 2017年6月4日
- ^ TEILNEHMERFELD DER 3. LIGA FÜR SAISON 2017/2018 KOMPLETTドイツサッカー連盟 2017年6月9日(6月11日閲覧)
- ^ TSV 1860ミュンヘンとのアレーナ使用契約を解約FCバイエルン・ミュンヘン 2017年7月12日(7月13日閲覧)
- ^ “TSV 1860 München”. Fussballdaten. 2014年8月30日閲覧。
- ^ “Profis”. TSV 1860 München. 2017年2月7日閲覧。
- ^ a b c “Leichtathletik”. TSV 1860 München e. V.. 2014年8月30日閲覧。
- ^ a b c d e f “Turn- und Freizeitsport”. TSV 1860 München e. V.. 2014年8月30日閲覧。
- ^ “Boxen”. TSV 1860 München e. V.. 2014年8月30日閲覧。