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「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ」の版間の差分

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== 来歴 ==
== 来歴 ==
[[1967年]]初頭に[[アル・クーパー]]([[ボーカル]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]])は窮屈になった[[ブルース・プロジェクト]]を辞し、[[1967年]]6月[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]に出演<ref>6月17日午後、エレクトリック・フラッグの[[:en:Harvey Brooks (bassist)|ハーヴィー・ブルックス]][[:en:Harvey_Brooks_%28bassist%29]と[[ポール・バターフィールド]]・ブルースバンドの[[エルヴィン・ビショップ]]、[[:en:Billy|Davenport|ビリー・ダベンポート]]][[:en:Billy_Davenport]を伴ってブルース・プロジェクトの|”I Can't Keep from Cryin' Sometimes”、”Wake Me, Shake Me”を演奏した。</ref>。そこで盟友[[マイク・ブルームフィールド]]らが結成した[[エレクトリック・フラッグ]]などに感激し、イギリスへ渡航し新たなバンドを結成する計画を練り、その資金集めに組んだセッションバンドが始まりである。
[[1967年]]初頭に[[アル・クーパー]]([[ボーカル]]、[[キーボード (楽器)|キーボード]])は窮屈になった[[ブルース・プロジェクト]]を辞し、[[1967年]]6月[[モントレー・ポップ・フェスティバル]]に出演<ref>6月17日午後、エレクトリック・フラッグの[[:en:Harvey Brooks (bassist)|ハーヴィー・ブルックス]][[:en:Harvey_Brooks_%28bassist%29]と[[ポール・バターフィールド]]・ブルースバンドの[[エルヴィン・ビショップ]]、[[:en:Billy|Davenport|ビリー・ダベンポート]]][[:en:Billy_Davenport]]を伴ってブルース・プロジェクトの|”I Can't Keep from Cryin' Sometimes”、”Wake Me, Shake Me”を演奏した。</ref>。そこで盟友[[マイク・ブルームフィールド]]らが結成した[[エレクトリック・フラッグ]]などに感激し、イギリスへ渡航し新たなバンドを結成する計画を練り、その資金集めに組んだセッションバンドが始まりである。
計画を[[ボビー・コロンビー]]に相談しメンバー募集をほぼ一任し、追ってブルース・プロジェクトを抜けた[[スティーブ・カッツ]]を加えクーパーの名でいくつかの音楽番組とコンサートで終了する予定だったが、経費増大で渡航費用には届かなかった。
計画を[[ボビー・コロンビー]]に相談しメンバー募集をほぼ一任し、追ってブルース・プロジェクトを抜けた[[スティーブ・カッツ]]を加えクーパーの名でいくつかの音楽番組とコンサートで終了する予定だったが、経費増大で渡航費用には届かなかった。
そこでカッツはこのセッションバンドから新バンドを結成し、クーパーの持つ構想実現を進めることを助言する。同年[[コロムビア・レコード]]との契約を得て[[アレンジ]]では高名でのちの[[ブラス・ロック]]の大立者となった[[ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオ]]にプロデュースをオファーしたが断られたため、[[ジョン・サイモン]]をプロデューサーに迎える。
そこでカッツはこのセッションバンドから新バンドを結成し、クーパーの持つ構想実現を進めることを助言する。同年[[コロムビア・レコード]]との契約を得て[[アレンジ]]では高名でのちの[[ブラス・ロック]]の大立者となった[[ジェイムズ・ウィリアム・ガルシオ]]にプロデュースをオファーしたが断られたため、[[ジョン・サイモン]]をプロデューサーに迎える。

2017年8月29日 (火) 00:13時点における版

ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ(1972年)

ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ (Blood, Sweat & Tears、BS&T)は、アメリカで1960年代後半から1970年代にかけて活躍したロックバンドである。バンド名は、ジョニー・キャッシュの曲名をそのまま拝借したもの[1]

来歴

1967年初頭にアル・クーパーボーカルキーボード)は窮屈になったブルース・プロジェクトを辞し、1967年6月モントレー・ポップ・フェスティバルに出演[2]。そこで盟友マイク・ブルームフィールドらが結成したエレクトリック・フラッグなどに感激し、イギリスへ渡航し新たなバンドを結成する計画を練り、その資金集めに組んだセッションバンドが始まりである。 計画をボビー・コロンビーに相談しメンバー募集をほぼ一任し、追ってブルース・プロジェクトを抜けたスティーブ・カッツを加えクーパーの名でいくつかの音楽番組とコンサートで終了する予定だったが、経費増大で渡航費用には届かなかった。 そこでカッツはこのセッションバンドから新バンドを結成し、クーパーの持つ構想実現を進めることを助言する。同年コロムビア・レコードとの契約を得てアレンジでは高名でのちのブラス・ロックの大立者となったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオにプロデュースをオファーしたが断られたため、ジョン・サイモンをプロデューサーに迎える。 クーパーの見聞と体験からストリングスやホーン・セクションなどアレンジの多様化を図り、一部でカッツがリード・ヴォーカルをとるファースト・アルバム『Child Is Father to the Man(子供は人類の父である)』[3]1968年2月21日に発表。冗長なサイケデリック・ロックの追随はとらずビッグバンドや欧州のポップスなどを範としボサノヴァなどを取り入れフォーク・アーティストの楽曲を含む作品は、発表当時より後世の評価が高いものとなった。しかしクーパーは次作の構想を固めリハーサル・セッション中にバンドからボイコットされた。

契約期間満了などによりランディ・ブレッカートランペット)、ジェリー・ワイス(トランペット)が脱退する。主要人物アル・クーパーの排除以降、アルの後任としてローラ・ニーロを勧誘したがこれは実現せず、デヴィッド・クレイトン・トーマス等が加入。バンドの初心は失われたが、以後ロックジャズを融合させ、リズム・セクションに重厚なホーンを加えたサウンドを強調し人気を博した。 オリジナルメンバーの中のドラムス担当だったボビー・コロンビーのその類いまれなるドラミングセンスにより、バンドはミュージシャンたちからも注目され、支持されるようになる。そんなドラミングのレコーディングは、その当時から名スタジオミュージシャンだった、バーナード・パーディによる演奏だったとパーディ自身が広言していたが、数々のライブでコロンビー本人のプレイであることが明らかとなっている。 全員が大卒というインテリバンドだったが、特にコロンビーは有名大卒のMBA取得者でもあり、後にコロンビアレコードの副社長にまでなった。

セカンド・アルバム『Blood, Sweat & Tears』は1969年グラミー賞の最優秀アルバムを受賞し、ブラス・ロックの中心的バンドとなった。しかしながら、バンドメンバーの中で唯一大卒ではないクレイトン・トーマスの、ワンマンバンド的なふるまいにプレイヤーの多くが反発。彼の力強い個性的なヴォーカルがバンドの名物であったたものの、多くのメンバーがトーマスのヴォーカル時代にバンドを去った。ロックがビッグビジネス化する前の時代ゆえ、脱退したメンバーの多くは音楽ではなく実業界に転出してしまった。

1971年には初来日し、武道館でコンサートを行なっている。

メンバーはオリジナルから大幅に代わっており、新曲の発表もないものの、ヴォーカルのデヴィッド・クレイトン・トーマスを中心としたメンバーで、現在でもアメリカや世界各地でライブ活動などを行っている。

主な作品

  • Child Is Father To The Man(1968年)
  • Blood, Sweat, and Tears (1969年)
  • BS&T 3 (1970年)
  • BS&T 4 (1971年)
  • New Blood (1972年)
  • No Sweat (1973年)
  • Mirror Image (1974年)
  • New City (1975年)
  • More Than Ever (1976年)
  • Brand New Day (1977年)
  • Nuclear Blues (1979年)

脚注

  1. ^ ジョニー・キャッシュのアルバム'Blood, Sweat and Tears'に基づいていて、これは1940年にドイツとの戦いを鼓舞するウィンストン・チャーチル首相の名言Blood, toil, tears, and sweat(「血と苦労と涙と汗しか与えることができません」)に基づいた命名である。
  2. ^ 6月17日午後、エレクトリック・フラッグのハーヴィー・ブルックス[[:en:Harvey_Brooks_%28bassist%29]とポール・バターフィールド・ブルースバンドのエルヴィン・ビショップDavenport|ビリー・ダベンポート]en:Billy_Davenportを伴ってブルース・プロジェクトの|”I Can't Keep from Cryin' Sometimes”、”Wake Me, Shake Me”を演奏した。
  3. ^ 英語のことわざで日本語では「子供は親の鑑」「三つ子の魂百まで」が相当する。

参考資料

  • ロック百科 vol.2 著フィル・ハーディ/デイブ・ラング 訳 三井徹 サンリオ 1981年
  • ロック・エンサイクロペディア THE ENCYCLOPEDIA OF ROCK1950's-1970's 著フィル・ハーディ/デイヴ・ラング 訳 三井徹 みすず書房 ISBN 978-4-622-07344-4 C0073 2009年11月25日発行

外部リンク