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{{Infobox Musician
[[ファイル:Lynyrd Skynyrd band (1973).jpg|thumb|250px|レーナード・スキナード(1973年)]]
|名前 = レーナード・スキナード
'''レーナード・スキナード''' ('''Lynyrd Skynyrd''' {{IPA-en|ˈlɛnərd ˈskɪnərd|}}) は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[サザン・ロック]]のバンド。
|画像 = {{plainlist|
* [[File:Lynyrd Skynyrd logo.svg|180px]]
* [[File:Lynyrd Skynyrd band (1973).jpg|280px]]}}
|画像説明 = 1973年のラインナップ
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|画像補正 = yes
|背景色 = band
|別名 = {{Hlist-comma|マイ・バックヤード|ノーブル・ファイブ|ワン・パーセント}}
|出身地 = {{USA}}・[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]
|ジャンル = {{hlist-comma|[[アリーナ・ロック]]<ref>{{cite book |last= Weinstein |first= Deena |year= 2015 |title= Rock'n America: A Social and Cultural History |publisher= University of Toronto Press |page= 164 |isbn= 978-1-442-60015-7 }}</ref>|[[ブルースロック]]<ref name="allmusic">{{cite web |last= Erlewine |first= Stephen Thomas |authorlink= スティーヴン・トマス・アールワイン |title= Lynyrd Skynyrd Biography, Songs, & Albums |url=https://www.allmusic.com/artist/lynyrd-skynyrd-mn0000170369/biography |website= [[オールミュージック|AllMusic]] |publisher= RhythmOne |accessdate= 2021-04-03 }}</ref><ref name="Moskowitz 2015 p 398">{{cite book |last= Moskowitz |first= David V. |year= 2015 |title= The 100 Greatest Bands of All Time: A Guide to the Legends Who Rocked the World |location= Santa Barbara, California |publisher= [[:en:ABC-CLIO|ABC-CLIO]] |page= 398 |isbn= 978-1-440-80340-6 }}</ref>|[[カントリーロック]]<ref name="Moskowitz 2015 p 398" />|[[ハードロック]]<ref name="allmusic" />|[[サザン・ロック]]<ref name="allmusic" /><ref>{{cite web |last= Brannigan |first= Paul |date= 2023-04-04 |title= Lynyrd Skynyrd are to continue touring without any original members, following the death of guitarist Gary Rossington |url= https://www.loudersound.com/news/lynyrd-skynyrd-to-continue-with-no-original-members-following-the-death-of-guitarist-gary-rossington |work= Louder |publisher= Future Publishing |accessdate= 2023-04-05 }}</ref>}}
|活動期間 = {{Plainlist|
* [[1964年]] - [[1977年]]
* [[1979年]]
* [[1987年]] -
}}
|レーベル = {{hlist-comma|[[MCAレコード|MCA]]|[[アトランティック・レコード|アトランティック]]|[[:en:Capricorn Records|カプリコーン]]|[[:en:CMC International|CMCインターナショナル]]|[[サンクチュアリ・レコード|サンクチュアリ]]|[[ユニバーサル・レコード|ユニバーサル]]|[[ロードランナー・レコード|ロードランナー]]/ラウド & プラウド}}
|共同作業者 =
|公式サイト = [http://lynyrdskynyrd.com/ レーナード・スキナード 公式サイト]
|メンバー = {{plainlist|
* [[:en:Rickey Medlocke|リッキー・メドロック]]
* [[:en:Johnny Van Zant|ジョニー・ヴァン・ザント]]
* [[:en:Michael Cartellone|マイケル・カーテロン]]
* [[:en:Mark Matejka|マーク・マテイカ]]
* [[:en:Peter Keys|ピーター・キーズ]]
}}
| 旧メンバー = [[#メンバー|後述]]を参照
}}
'''レーナード・スキナード''' ({{Lang|en|''Lynyrd Skynyrd''}}、{{IPAc-en|ˌ|l|ɛ|n|ər|d|_|ˈ|s|k|ɪ|n|ər|d}} {{respell|LEN|ərd|SKIN|ərd}}<ref>Pronunciation from album ''[[レーナード・スキナード (アルバム)|(Pronounced 'Lĕh-'nérd 'Skin-'nérd)]]''.</ref>) は、[[アメリカ合衆国]]の[[サザン・ロック]]バンド。


== 概要 ==
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第95位。
1964年に[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]で「マイ・バックヤード (My Backyard)」として結成され、その後「ノーブル・ファイブ (The Noble Five)」「ワン・パーセント (One Percent)」の名で活動、1969年に「'''レーナード・スキナード'''」と改名した。バンドはそのライブ・パフォーマンスや「[[スウィート・ホーム・アラバマ]]」「[[フリー・バード]]」と言った代表曲でその認知度を高めていった。だが、成功のピークであった1977年に飛行機事故でメンバー2人とバックアップシンガーが死亡。人気の絶頂時に活動を停止した。バンドはアメリカ合衆国で2,800万枚のレコード販売を記録した。


生き残ったメンバーは1987年に、リードボーカルに[[ジョニー・ヴァン・ザント]](バンドの創設者、[[ロニー・ヴァン・ザント]]の弟)を迎えリユニオン・ツアーを行った。バンドはその後も創設者の一人である[[ゲイリー・ロッシントン]]、ジョニー・ヴァン・ザントと[[リッキー・メドロック]](1996年にバンドに復帰する前、1971年から72年にかけて曲を書きレコーディングに参加。ブラックフットにも参加。)でツアーやレコーディングを行っている。もう一人の創設者、[[ラリー・ヤンストロム]]は70年代に加入していた[[エド・キング]]、[[アーティマス・パイル]]と共に音楽活動を続けているが、もはやバンドとはツアーやレコーディングを行っていない。[[マイケル・カーテロン]]は1999年以来バンドの主たるドラマーとしてレコーディング、ツアーを行っている。
== 略歴 ==
[[1964年]]の夏に[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]で、ロニー・ヴァン・ザント、ゲイリー・ロッシントン、ボブ・バーンズ、アレン・コリンズ、ラリー・ヤンストロムの5名により結成。結成当初のバンド名は「Bob's Backyard」。これはボブ・バーンズの自宅車庫で練習していたことに由来する。[[1968年]]にバンド・コンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビューした。[[1970年]]にバンド名をレーナード・スキナードに改名。この奇妙な名は、メンバーのハイスクール時代の体育教師「レオナルド・スキナー」が長髪の生徒に対して厳しかったため、彼の名前をもじったものである<ref>[http://www.allmusic.com/artist/lynyrd-skynyrd-mn0000170369/biography Lynyrd Skynyrd : AllMusic] - Biography by Stephen Thomas Erlewine - 2012年12月1日閲覧</ref>。また当時、2人目のドラマーとしてリッキー・メドロック(後にレーナードでギターを担当する)が加入。リッキーとボブ・バーンズはそれぞれ脱退・再加入を経つつ、時にツインドラムでの演奏も披露した。さらにラリー・ヤンストロムが脱退後、[[1972年]]にはベーシストとしてレオン・ウィルクソンが、またレオンの友人で当時レーナードのローディだったビリー・パウエルが正式なキーボード担当として加入した。


レーナード・スキナードは2006年3月13日に[[ロックの殿堂]]入りを果たした<ref>{{cite web | url=https://www.rockhall.com/inductees/classes/2006 |title=Inductess Classes |publisher=Rock& Roll Hall of Fame |accessdate=2021-04-18}}</ref>。「[[ローリング・ストーン]]の選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第95位に選ばれている。
やがてバンドは[[アル・クーパー]]に見出され、[[1973年]]に[[MCAレコード]]からアルバム『[[レーナード・スキナード (アルバム)|レーナード・スキナード]]』でデビューした。同アルバムのレコーディング時にベーシストのレオンは一時脱退(リリース後に復帰)、その際ベースとギターを手伝ったエド・キングはレコーディング後に3人目のギタリストとして正式加入している。[[1974年]]にはアルバム『[[セカンド・ヘルピング]]』からのシングル「[[スウィート・ホーム・アラバマ]]」が大ヒット。この曲は[[ニール・ヤング]]の「[[アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ|サザン・マン]]」「アラバマ」といった曲への[[アンサーソング]]として知られている<ref>[http://www.soundonsound.com/sos/jan08/articles/classictracks_0108.htm Lynyrd Skynyrd 'Sweet Home Alabama' | Classic Tracks] - soundonsound.com - 2012年12月1日閲覧</ref>。また、同年にはデビュー・アルバムから「[[フリー・バード]] (Free Bird)」がシングル・カットされてヒットした。サード・アルバム『[[ナッシン・ファンシー]]』からは「[[サタデイ・ナイト・スペシャル]]」が[[バート・レイノルズ]]主演の映画『[[ロンゲスト・ヤード (1974年の映画)|ロンゲスト・ヤード]]』の挿入歌に採用された。トリプルリードギターを擁する重厚な音を特徴とし、[[オールマン・ブラザーズ・バンド]]やアトランタ・リズム・セクションと並ぶサザン・ロックの旗手として、ライヴでは多数の観客を動員する人気バンドとなった。


== 歴史 ==
[[1975年]]にエド・キングが脱退した後、バンドはしばらくツインギター編成で活動し、その後[[レスリー・ウェスト]](元[[マウンテン (バンド)|マウンテン]])やバリー・ハーウッド(後にゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズらと共にロッシントン・コリンズ・バンドで活動)がキングの後任候補となるが、最終的にはバンドのバックアップ・ボーカリストであった[[キャシー・ゲインズ]]の弟スティーヴ・ゲインズが加入した<ref>{{Cite web |url=http://www.guitarworld.com/gary-rossington-discusses-one-more-fans-and-his-life-and-times-lynyrd-skynyrd |last=Drozdowski |first=Ted |title=Gary Rossington Discusses 'One More for the Fans!' and His Life and Times with Lynyrd Skynyrd |publisher=NewBay Media |work=Guitar World |date=2015-06-26 |accessdate=2016-03-15}}</ref>。最盛期(1976年前後)には南部でのライヴにおいて[[カルロス・サンタナ]]を前座とするほどの人気を誇った。
=== 初期 ===
1964年の夏、[[フロリダ州]][[ジャクソンビル (フロリダ州)|ジャクソンビル]]で[[ロニー・ヴァン・ザント]]、[[ボブ・バーンズ (ドラマー)|ボブ・バーンズ]]、[[アレン・コリンズ]]、[[ゲイリー・ロッシントン]]、[[ラリー・ヤンストロム]]の5名により結成。結成当初のバンド名は「Bob's Backyard」。これはボブ・バーンズの自宅車庫で練習していたことに由来する。その後「The Noble Five」と改名した<ref name=Name_Changes>{{cite web |author= |url=http://www.lynyrdskynyrdhistory.com/less2.html |title=The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons |publisher=Lynyrdskynyrdhistory.com |date= |accessdate=2015-04-04}}</ref>。彼らはまた、1968年まで「One Percent」というバンド名を使用した<ref name=Name_Changes/>。

[[1968年]]にバンド・コンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビューした。1969年にヴァン・ザントは新しいバンド名、「レーナード・スキナード ''Leonard Skinnerd''」を思いついた<ref>{{cite web |last=Soergel |first=Matt |url=http://chronicle.augusta.com/stories/2009/01/26/met_509196.shtml |title=Honoring a namesake |publisher=Chronicle.augusta.com |date= |accessdate=2011-09-14}}</ref>。この奇妙な名は、メンバーがフロリダ州ジャクソンビルの[[:w:en:Robert E. Lee High School (Jacksonville)|ロバート・E・リー高校]]に通っていたときの体育教師であり、頭髪に関する校則を厳しく守らせていたことで有名な[[レオナルド・スキナー]]の名前をもじったものである<ref name=RELee>[https://web.archive.org/web/20080524030503/http://www.dreamsbeginhere.org/lee/history.html Robert E. Lee High School history (archived)]. dreamsbeginhere.org </ref><ref>[https://www.allmusic.com/artist/lynyrd-skynyrd-mn0000170369#biography Lynyrd Skynyrd : AllMusic] - Biography by Stephen Thomas Erlewine - 2012年12月1日閲覧</ref>。ロッシントンは長髪を咎められることにうんざりし学校を辞めた<ref>{{cite web |url=http://www.lynyrdskynyrdhistory.com/less2.html |title=The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons |publisher=Lynyrdskynyrdhistory.com |date= |accessdate=2011-11-02}}</ref>。また、特徴的なスペル「"Lynyrd Skynyrd"」は少なくとも1970年代に使用されていた。高校時代は反発していたにもかかわらず、彼らは後にスキナーと友好的な関係を築き、[[ジャクソンビル・コロシアム]]で行ったコンサートにスキナーを招待したりもしている<ref>https://web.archive.org/web/20080625193759/http://lynyrdskynyrddixie.com/2006/06/02/skynyrd-namesake-in-brevard/</ref>。スキナーはまた、バンドが3枚目のアルバムの内側に自分の不動産業の広告の写真を使用することを許可した<ref>{{cite news |title=Leonard Skinner, Rock Band Muse, Dies at 77 |date= September 21, 2010 |accessdate= September 22, 2010 |agency=Associated Press |url=https://www.nytimes.com/2010/09/21/arts/music/21skinner.html}}</ref>。

1970年までにレーナード・スキナードはジャクソンビルのトップバンドとなり、地元のコンサートで頭角を現し、いくつかの国内での活動を開始した。ジャクソンビル出身で[[メイコン (ジョージア州)|メイコン]]を拠点とするハスラーズ社のパートナーであるパット・アームストロングと、[[フィル・ウォルデン]]の弟である[[アラン・ウォルデン]]がバンドのマネージャーとなった。ウォルデンは1974年までマネージャーを務め、その後ピーター・ラッジがマネージャーとなった。バンドは70年代初期に南部全域で演奏を続け、ハードな[[ブルースロック]]のサウンドとイメージをさらに発展させ、スタジオでの実験的なレコーディングを行った。彼らはこの独特な「サザン」サウンドを、カントリー、ブルース、そしてブリティッシュロックの影響を少し取り入れ、融合させることで作り出した<ref>[http://www.oxfordmusiconline.com/subscriber/article/grove/music/A2267092?q=lynyrd+skynyrd&search=quick&pos=1&_start=1#firsthit Oxford Music Online] {{link note|note=Registration required}}</ref>。

この頃、バンドは初めてラインナップの変更を経験した。ヤンストロムが脱退して[[グレッグ・T・ウォーカー]]がベースを担当した。また当時、2人目のドラマーとしてリッキー・メドロック(後にレーナードでギターを担当する)が加入。リッキーとボブ・バーンズはそれぞれ脱退・再加入を経つつ、時にツインドラムでの演奏も披露した。バンドの歴史が書かれたいくつかの文献ではこの頃バーンズはバンドを短期間離れていたとされる。1971年、バンドは[[マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ]]で、ウォーカーとメドロックがリズムセクションを担当し、バーンズ抜きでいくつかの録音を残した<ref>http://muscleshoalssoundstudio.org/pages/history</ref>。

リッキー・メドロックとウォーカーはバンドを離れ、[[ブラックフット]]に加入した。バンドは1972年に再びマッスル・ショールズでレコーディングを行い、バーンズがドラムを担当、[[レオン・ウィルクソン]]がベースを担当した。またこの年、レオンの友人で当時レーナードのローディだった[[ビリー・パウエル]]が正式なキーボード担当として加入した。メドロックはその後再びバンドに復帰している。メドロックとウォーカーは1978年にリリースされたコンピレーション「''[[:w:en:Skynyrd's First and... Last|First and... Last]]''」まで、どのアルバムにも参加しなかった。

=== 全盛期 (1973年-1977年) ===
1972年にバンド(ヴァン・ザント、コリンズ、ロッシントン、バーンズ、ウィルクソン、パウエル)は[[ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ]]の創設メンバーであった[[アル・クーパー]]に見いだされた。クーパーはアトランタのFunocchio'sで彼らのステージを見た。そして[[MCAレコード]]傘下の自らのサウンズ・オブ・ザ・サウスレーベルと彼らを契約させ、ファーストアルバム『[[レーナード・スキナード (アルバム)|レーナード・スキナード]]』をプロデュースした。ウィルクソンはこのアルバムのレコーディングセッション初期にバンドを離れていたため、参加したのは2曲のみである。アルバムカバーのジャケット写真には写っている。ウィルクソン不在時にベースとギターを手伝った[[ストロベリー・アラーム・クロック]]のギタリスト、[[エド・キング]]はレコーディング後に3人目のギタリストとして正式加入し、バンドはライブにおいてスタジオでの3つのギターセクションを再現できるようになった。アルバムは1973年8月13日にリリースされ<ref>{{Cite web |url=http://www.lynyrdskynyrd.com/board_posts/pronounced |title=Lynyrd Skynyrd Discography |publisher=Lynyrdskynyrd.com |date= |accessdate=2011-09-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120227083914/http://www.lynyrdskynyrd.com/board_posts/pronounced |archivedate=2012-02-27 |url-status=dead|url-status-date=2017-09 }}</ref>、100万枚を超える売上を記録、[[アメリカレコード協会|RIAA]]の[[ゴールドディスク]]となった<ref name="The Book of Golden Discs">{{cite book
|first= Joseph
|last= Murrells
|year= 1978
|title= The Book of Golden Discs
|edition= 2nd
|publisher= Barrie and Jenkins Ltd
|location= London
|page= 1330
|isbn= 0-214-20512-6}}</ref>。シングル「[[フリー・バード]]」は全米のラジオでオンエアされた<ref> Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.</ref>。同曲は75年の1月には、[[Billboard Hot 100]]の19位を記録した<ref>http://www.billboard.com/music/lynyrd-skynyrd</ref>。

バンドのファン層は1973年に急速に拡大した。これは[[ザ・フー]]の『[[四重人格]]』ツアーで前座を務めたことも原因の一つだった。[[1974年]]のセカンドアルバム『[[セカンド・ヘルピング]]』ではキング、コリンズ、ロッシントンがそれぞれヴァン・ザントとのコラボレーションで曲を書き、バンドのブレークスルーを強固なものとした。[[ニール・ヤング]]の「[[アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ|サザン・マン]]」への[[アンサーソング]]であるシングル「[[スウィート・ホーム・アラバマ]]」<ref>[http://www.soundonsound.com/sos/jan08/articles/classictracks_0108.htm Lynyrd Skynyrd 'Sweet Home Alabama' | Classic Tracks] - soundonsound.com - 2012年12月1日閲覧</ref>は、8月のチャートで8位に達した。(ニール・ヤングとヴァン・ザントはライバルではなく、”お互いの音楽のファンであり、友人であった”。ヤングは彼らのために「[[:w:en:Powderfinger (song)|パウダーフィンガー]]」を書いたが、彼らはそれを録音しなかった<ref>Simmons, p. 135.</ref>。)絶頂期における彼らのレコードはそれぞれ100万枚を超える売り上げを記録したが、「スウィート・ホーム・アラバマ」はトップ10に入った唯一のシングルであった<ref>Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.</ref>。『[[セカンド・ヘルピング]]』は1974年に12位を達成し、最終的にはマルチプラチナとなった。その年の7月、レーナード・スキナードは[[ミズーリ州]][[セダリア (ミズーリ州)|セダリア]]の[[ミズーリ・ステート・フェア]]で行われた[[オザーク・ミュージックフェスティバル]]にも出演した。

トリプルリードギターを擁する重厚な音を特徴とし、[[オールマン・ブラザーズ・バンド]]やアトランタ・リズム・セクションと並ぶサザン・ロックの旗手として、ライヴでは多数の観客を動員する人気バンドとなった。

1975年1月にバーンズがバンドを去り、代わってケンタッキー出身の[[アーティマス・パイル]]が加入した。バンドの3枚目のアルバム『[[ナッシン・ファンシー]]』は17日で録音された<ref>{{cite news|last1=Hunt|first1=Dennis|title=Ups and Downs of Lynyrd Skynyrd: More Pop News|url=http://search.proquest.com.ezproxy1.library.arizona.edu/docview/157771298/49CAEBCB7E4F44D3PQ/15?accountid=8360|accessdate=2014-10-03|publisher=Los Angeles Times|date=September 15, 1975}}</ref>。クーパーとバンドはアルバムリリース前に相互の合意によって袂を分かち、クーパーはテープのミックスを完成させてバンドから離れた<ref>Al Kooper: Backstage Passes & Backstabbing Bastards: Memoirs of a Rock 'N' Roll Survivor (1998)</ref>。このサードアルバムは前作よりも売り上げが低かったが、「サタデイ・ナイト・スペシャル」がヒットした。エド・キングはツアーの途中で、疲労を理由にバンドを離れた。1976年1月、正式メンバーとはみなされなかったが、バックアップシンガーの[[レスリー・ホーキンス]]、[[キャシー・ゲインズ]]、[[ジョジョ・ビリングズリー]](3人は「ホンケッツ」として知られる)が加入した。『[[ナッシン・ファンシー]]』からは「[[サタデイ・ナイト・スペシャル]]」が[[バート・レイノルズ]]主演の映画『[[ロンゲスト・ヤード (1974年の映画)|ロンゲスト・ヤード]]』の挿入歌に採用された。キングが脱退した後、バンドはしばらくツインギター編成で活動し、4枚目のアルバム『[[ギミー・バック・マイ・ブレッツ]]』は1976年にリリースされたが、前作同様ファースト、セカンドほどの成功は収められなかった。ヴァン・ザントとコリンズは、バンドの初期の特徴であったトリプルリードギターの特性が失われていると真剣に感じていた。その後バンドは[[レスリー・ウェスト]](元[[マウンテン (バンド)|マウンテン]])やバリー・ハーウッド(後にゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズらと共にロッシントン・コリンズ・バンドで活動)を含む何名かのギタリストのオーディションを行ったが、最終的には[[キャシー・ゲインズ]]の弟[[スティーヴ・ゲインズ]]がキングの後任として加入した<ref>{{Cite web |url=http://www.guitarworld.com/gary-rossington-discusses-one-more-fans-and-his-life-and-times-lynyrd-skynyrd |last=Drozdowski |first=Ted |title=Gary Rossington Discusses 'One More for the Fans!' and His Life and Times with Lynyrd Skynyrd |publisher=NewBay Media |work=Guitar World |date=2015-06-26 |accessdate=2016-03-15}}</ref>。最盛期(1976年前後)には南部でのライヴにおいて、[[カルロス・サンタナ]]を前座にするほどの人気を誇った。

ゲインズは自身のバンド、クロウダッド(スキナードの「サタデイ・ナイト・スペシャル」をしばしば演奏していた)を率いていたが、1976年5月11日にカンザスシティで行われたコンサートに、オーディションがてら招待された。バンドはまたゲインズと非公式のジャムを数回行い、ゲインズは6月に正式加入した。ゲインズが新たに加わったバンドは[[アトランタ]]の[[フォックス・シアター (アトランタ)|フォックス・シアター]]で行われたライブを録音、2枚組ライブアルバム『[[ワン・モア・フロム・ザ・ロード]]』としてリリースした。

[[File:Lynyrd Skynyrd (1977).jpg|thumb|left|1977年]]
コリンズとロッシントンは1976年の[[レイバー・デー (アメリカ合衆国)|レイバー・デー]]の週末に重大な交通事故を起こし、次のアルバムの製作が遅れた上、いくつかのコンサートがキャンセルとなった。ロッシントンの事故は、不吉な「[[:w:en:That Smell|ザット・スメル]]」に影響を与えた。それは明らかに彼ともう一人のバンドメンバーに対する薬物乱用についての警告であった。この曲に登場する、酒に酔い、クエイルードで朦朧となってオークの木に車をぶつける「Prince Charming」は自分のことであるとロッシントンは何度も認めている。

1977年の『[[ストリート・サヴァイヴァーズ]]』は[[スティーヴ・ゲインズ]]のギタリスト/ボーカリストとしてのショーケースとなった。ゲインズは1年前にバンドに参加し、今回スタジオ盤でのデビューとなる。ヴァン・ザントは公私にわたってゲインズの複数の才能に驚き、バンドは "いつかは彼の影の中にいる"と述べた<ref>{{cite web|title=Lynyrd Skynyrd - L.A. Times|url=http://www.theuncool.com/journalism/lynyrd-sknyrd-l-a-times/|website=The Uncool - The Official Site for Everything Cameron Crowe|accessdate=17 October 2015}}</ref>。ゲインズの貢献はヴァン・ザントと共作し、共にリードボーカルを担当した「"You Got That Right"」や、加入前に作ったギターブギの「"I Know a Little"」などがある。ゲインズのこのアルバムにおける(そしていくつかのコンサートにおける)リーダー性は、彼の手によるブルース「"Ain't No Good Life"」に示される。アルバムにはまた、ヒットシングル「"[[What's Your Name (Lynyrd Skynyrd Album)|What's Your Name]]"」「"[[That Smell]]"」も含まれた。バンドは自身最大のツアーのための準備を行い、ショーは象徴的なロック・アンセム「[[フリー・バード]]」がハイライトとなった<ref>{{cite web |url=http://www.wolfgangsvault.com/lynyrd-skynyrd |title=Freebird |publisher=Wolfgangsvault.com |date= |accessdate=2011-09-14}}</ref>。11月、バンドはヴァン・ザントの生涯にわたる夢であった[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]でのコンサートを実現する予定だった。


=== 飛行機事故 (1977年) ===
{{Main|1977年のコンベアCV-240機墜落事故}}
音楽的には当時隆盛の[[ブルース・ロック]]をはじめとするブリティッシュ・ロックに強い影響を受けつつも、[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]土着の[[カントリー・ミュージック|カントリー]]のセンスを保持し、後にサザン・ロックと呼ばれる音を作り上げた。また、ヴィジュアル・イメージに[[アメリカ連合国の国旗|南軍旗]]を使うなど、アメリカ南部の、悪く言えば[[レッドネック]]のイメージを強く持っていたが、それが南部ではバンドへの根強い支持に繋がっていた。
音楽的には当時隆盛の[[ブルース・ロック]]をはじめとするブリティッシュ・ロックに強い影響を受けつつも、[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]土着の[[カントリー・ミュージック|カントリー]]のセンスを保持し、後にサザン・ロックと呼ばれる音を作り上げた。また、ヴィジュアル・イメージに[[アメリカ連合国の国旗|南軍旗]]を使うなど、アメリカ南部の、悪く言えば[[レッドネック]]のイメージを強く持っていたが、それが南部ではバンドへの根強い支持に繋がっていた。


[[1977年]]10月20日、ツアー中の飛行機([[コンベア240]])が[[ミズーリ州]]マッカム近郊で燃料切れにより<ref>{{Cite web|author=[[NTSB]]|url=http://www.ntsb.gov/ntsb/brief.asp?ev_id=44587&key=0|title=事故報告書|language=英語
[[1977年]]10月20日、ツアー中の飛行機([[コンベア240]])が[[ミズーリ州]]マッカム近郊で燃料切れにより<ref>{{Cite web|author=[[NTSB]]|url=http://www.ntsb.gov/ntsb/brief.asp?ev_id=44587&key=0|title=事故報告書|language=英語
|accessdate=2008-02-02}}</ref>墜落し、ロニー・ヴァン・ザント、スティーヴ・ゲインズ、キャシー・ゲインズらが死亡。バンドは解散した。飛行機墜落事故の同年には、ロニーの弟であるドニー・ヴァン・ザントが率いる[[38スペシャル]]がデビューしており、しばらくはレーナード・スキナードの後継を名乗り、コンサートでもレーナード・スキナードの曲を演奏するなどしていた。
|accessdate=2008-02-02}}</ref>墜落し、ロニー・ヴァン・ザント、スティーヴ・ゲインズ、キャシー・ゲインズらが死亡。バンドは解散した。なお、事故後に「ワッツ・ユア・ネーム」がヒットしている。飛行機墜落事故の同年には、ロニーの弟であるドニー・ヴァン・ザントが率いる[[38スペシャル]]がデビューしており、しばらくはレーナード・スキナードの後継を名乗り、コンサートでもレーナード・スキナードの曲を演奏するなどしていた。


残ったメンバーのゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズ、ビリー・パウエルらは[[1980年]]にロッシントン・コリンズ・バンドを結成し活動を続けたが、アレン・コリンズは[[1986年]]に交通事故で下半身不随となり、その4年後に性肺炎により死去した。
残ったメンバーのゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズ、ビリー・パウエルらは[[1980年]]にロッシントン・コリンズ・バンドを結成し活動を続けたが、アレン・コリンズは[[1986年]]に交通事故で下半身不随となり、その4年後に[[肺炎]]により死去した。


=== 再結成以降 (1987年-) ===
[[1987年]]、ロニーのもう一人の弟であるジョニー・ヴァン・ザントと共に、レーナード・スキナードとしてバンドを再結成。[[2006年]]には[[ロックの殿堂]]入りを果たした<ref>[http://rockhall.com/inductees/lynyrd-skynyrd/ Lynyrd Skynyrd: inducted in 2006 | The Rock and Roll Hall of Fame and Museum] - 2012年12月1日閲覧</ref>。
[[1987年]]、ゲイリー・ロッシントンは、ロニーのもう一人の弟であるジョニー・ヴァン・ザントらと共に、レーナード・スキナードとしてバンドを再結成。[[2006年]]には[[ロックの殿堂]]入りを果たした<ref>{{Cite web |url=https://www.rockhall.com/inductees/lynyrd-skynyrd |title=Lynyrd Skynyrd |publisher=The Rock and Roll Hall of Fame and Museum |accessdate=2021-04-18}}</ref>。


[[2009年]]には初期メンバーのビリー・パウエルが心臓麻痺で死去したが、バンドは現在も活動を続けている
[[2009年]]には初期メンバーのビリー・パウエルが[[心臓麻痺]]で死去したが、バンドはその後も活動を続。


[[2015年]]4月3日、初期メンバーのボブ・バーンズが交通事故で死去。
[[2015年]]4月3日、結成メンバーのボブ・バーンズが交通事故で死去。

[[2018年]]1月25日には最後のツアーとなるフェアウェルツアーの開催を発表し、<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000151250|title=レーナード・スキナード、ラスト・ツアーを発表|date=2018-01-26|work=BARKS|accessdate=2018-05-06}}</ref>5月4日から開始された。

[[2018年]]8月22日、初期メンバーのエド・キングが死去。死因は明らかにされていないが、癌を患っていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.barks.jp/news/?id=1000159089|title=元レーナード・スキナードのギタリスト、エド・キング、死去|date=2018-08-24|work=BARKS|accessdate=2018-08-29}}</ref>。

[[2023年]]3月5日、最後の結成メンバー ゲイリー・ロッシントンが死去<ref>{{Cite web|和書|url=https://nme-jp.com/news/126705/ |title=レーナード・スキナードの最後のオリジナル・メンバーであるゲイリー・ロッシントンが逝去。享年71歳 |publisher=NME JAPAN |date=2023-03-06 |accessdate=2023-03-07 }}</ref>。これにより創設者は全て亡くなった。しかし4月にはツアー活動の継続を発表<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.udiscovermusic.jp/news/lynyrd-skynyrd-play-on-tribute-gary-rossington |title=レーナード・スキナード、故ゲイリーの意志を受け継ぎツアー継続を発表 |publisher=uDiscoverMusic |date=2023-04-06 |accessdate=2023-08-15 }}</ref> し、23年8月現在もツアーは続けられている。

== その他 ==
*元[[プロレスラー]]の[[マイケル・ヘイズ]]と[[テリー・ゴディ]]は彼らのファンであり、自分たちの[[タッグチーム]]を『[[ファビュラス・フリーバーズ]]』と命名し、入場曲には「[[フリー・バード]]」を使用した。
*映画『[[コン・エアー]]』では挿入歌及びエンディング曲として「Sweet Home Alabama」が使用されており、本作での劇中ではバンド名は出てはいないが、登場人物の1人が飛行機の機内で「Sweet Home Alabama」を流されている際、「今流れている曲は飛行機の墜落事故で死んだバンドの曲だよ」と皮肉る台詞がある。


== メンバー ==
== メンバー ==
=== 初期 ===
=== 初期 ===
*ロニー・ヴァン・ザント (Ronnie Van Zant) - ヴォーカル(1977年、飛行機事故により死
* ロニー・ヴァン・ザント (Ronnie Van Zant) - ヴォーカル(1964年 - 1977年、1977年飛行機事故により29歳で
*ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター
* ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター(1964年 - 1977年、2023年に死去)
*アレン・コリンズ (Allen Collins) - ギター (1990年、慢性肺炎により死)
* アレン・コリンズ (Allen Collins) - ギター (1964年 - 1977年、1990年に慢性肺炎により37歳で)
*エド (Ed King) - ギタ(1975脱退
* ラリーストロム (Larry Junstrom) - ス(1964年 - 1971年、2019に70歳で死去
*スティーヴゲインズ (Steve Gaines) - ギター(1975加入1977飛行機事故により死
* ボブバーンズ (Bob Burns) - ドラムス(1964年 - 1974年、2015交通事故により64歳で
* エド・キング (Ed King) - ギター、ベース(1972年 - 1975年、2018年に68歳で死去)
*ビリー・パウエル (Billy Powell) - キーボード
*ラリーストロム (Larry Junstrom) - ベース(1972年脱退
* レオンウィルクソン (Leon Wilkeson) - ベース(1972年 - 1977年、2001年に死去
*レオン・ウクソン (Leon Wilkeson) - (1972年加入
* ビリール (Billy Powell) - ボード(1972年 - 1977年、2009年に死去
*ボブ・バンズ (Bob Burns) - ドラムス(1975年脱退、2015交通事故により死亡
*ティマス・パイル (Artimus Pyle) - ドラムス(1975年 - 1977年)
* スティーヴ・ゲインズ (Steve Gaines) - ギター(1976年 - 1977年、1977年飛行機事故により28歳で死去)
*アーティマス・パイル (Artimus Pyle) - ドラムス(1975年加入)


=== 再結成時 ===
=== 再結成時 ===
*ジョニー・ヴァン・ザント (Johnny Van Zant) - ヴォーカル
* ジョニー・ヴァン・ザント (Johnny Van Zant) - ヴォーカル(1987年 - )
*ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター
* ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター(1987年 - 2023年)
* エド・キング (Ed King) - ギター(1987年 - 1996年、2018年に死去)
*ビリー・パウエル (Billy Powell) - キーボード
*レオン・ウィクソン (Leon Wilkeson) -
*ドールホール (Randall Hall) - ギタ(1987年 - 1993年)
*リッキー・メドロック (Rickey Medlocke) - ギター
* マイ・エステス (Mike Estes) - ギター(1993年 - 1996年)
*ヒュトマソン (Hughie Thomasson) - ギター
* リッキー・メドロック (Rickey Medlocke) - ギター(1996年 - )
* ヒューイ・トマソン (Hughie Thomasson) - ギター(1996年 - 2005年、2007年に55歳で死去)
*マイケル・カーテロン (Michael Cartellone) - ドラムス
* マーク・マテイカ (Mark Matejka) - ギター(2006年 - )
* ビリー・パウエル (Billy Powell) - キーボード(1987年 - 2009年)
* ピーター・キーズ (Peter Keys) - キーボード(2009年 - )
* レオン・ウィルクソン (Leon Wilkeson) - ベース(1987年 - 2001年)
* イアン・エヴァンス (Ean Evans) - ベース(2001年 - 2009年)
* ロバート・キーンズ (Robert Kearns) - ベース(2009年 - 2012年)
* ジョニー・コルト (Johnny Colt) - ベース(2012年 - 2017年)
* キース・クリストファー (Keith Christopher) - ベース(2017年 - )
* アーティマス・パイル (Artimus Pyle) - ドラムス(1987年 - 1991年)
* カート・カスター (Kurt Custer) - ドラムス(1991年 - 1994年)
* オーウェン・ヘイル (Owen Hale) - ドラムス(1994年 - 1998年)
* マイケル・カーテロン (Michael Cartellone) - ドラムス(1999年 - )


==ディスコグラフィ==
== ディスコグラフィ ==
=== スタジオ・アルバム ===
*1973年:[[レーナード・スキナード (アルバム)|レーナード・スキナード]] (Pronounced Leh-nerd Skin-nerd)
*『[[レーナード・スキナード (アルバム)|レーナード・スキナード]]』 - ''Lynyrd Skynyrd (Pronounced 'Lĕh-'nérd 'Skin-'nérd)'' (1973年)
*1974年:[[セカンド・ヘルピング]] Seconed Helping
*『[[セカンド・ヘルピング]]』 - ''Seconed Helping'' (1974年)
*1975年:[[ナッシン・ファンシー]] Nuthin' Fancy
*『[[ナッシン・ファンシー]]』 - ''Nuthin' Fancy'' (1975年)
*1976年:[[ギミー・バック・マイ・ブレッツ]] Gimme Back My Bullets
*『[[ギミー・バック・マイ・ブレッツ]]』 - ''Gimme Back My Bullets'' (1976年)
*1977年:ストリート・サヴァイヴァーズ Street Survivors
*『[[ストリート・サヴァイヴァーズ]]』 - ''Street Survivors'' (1977年)
*1978年:Skynyd's First And … Last
*『1991』 - ''Lynyrd Skynyrd 1991'' (1991年)
*1987年:伝説 Legend
*『ザ・ラスト・レベル』 - ''The Last Rebel'' (1993年)
*1991年:Lynyrd Skynyrd 1991
*『エンデインジャード・スピーシーズ』 - ''Endangered Spacies'' (1994年)
*1993年:The Last Rebel
*『トゥエンティ』 - ''Twenty'' (1997年)
*1994年:エンデインジャード・スピーシーズ Endangered Spacies
*『[[エッジ・オブ・フォエヴァー]]』 - ''Edge Of Forever'' (1999年)
*1997年:トゥエンティ Twenty
* ''Christmas Time Again'' (2000年)
*1998年:スキナーズ・ファースト〜コンプリート・マッスル・ショールズ・アルバム Skynyrd's First
* ''Vicious Cycle'' (2003年)
*1999年:エッジ・オブ・フォエヴァー Edge Of Forever
*『神と銃』 - ''God & Guns'' (2009年)
*2000年:Christmas Time Again
*『[[ラスト・オブ・ア・ダイイン・ブリード]]』 - ''Last Of A Dyin' Breed'' (2012年)
*2003年:Vicious Cycle

*2009年:神と銃 God & Guns
=== ライブ・アルバム ===
*2012年:ラスト・オブ・ア・ダイイン・ブリード Last Of A Dyin' Breed
*『[[ワン・モア・フロム・ザ・ロード]]』 - ''One More From The Road'' (1976年)
==ライブアルバム==
*『サザン・バイ・ザ・グレイス・オブ・ゴッド』 - ''Southern By The Grace Of God'' (1988年)
*1976年:[[ワン・モア・フロム・ザ・ロード]] One More From The Road
* ''Southern Knights'' (1996年)
*1988年:サザン・バイ・ザ・グレイス・オブ・ゴッド Southern By The Grace Of God
*1998年:ライヴ・フロム・スティール・タウン Lyve From Steel Town
*『[[ライヴ・フロム・スティール・タウン]]』 - ''Lyve From Steel Town'' (1998年)
*『ライヴ』 - ''Lynyrd Skynyrd Lyve: The Vicious Cycle Tour'' (2004年)
*2010年:ライヴ・フロム・フリーダム・ホール Live From Freedom Hall
* ''Authorized Bootleg Lynyrd Skynyrd Live / Cardiff Capitol Theater - Cardiff, Wales Nov. 04 1975'' (2009年)
==その他==
* ''Authorized Bootleg: Live At Winterland - San Francisco Mar. 07 1976'' (2009年)
*1979年:Gold & Platinum
*『[[ライヴ・フロム・フリーダム・ホール]]』 - ''Live From Freedom Hall'' (2010年)
*1982年:Best Of The Rest
*『レーナード・スキナード ライヴ・イン・アトランタ 2014 - ワン・モア・フォー・ザ・ファンズ』 - ''One more for the fans'' (2015年)
*1989年:Skynyrds' Innyrds
* ''Pronounced Leh-Nerd Skin-Nerd & Second Helping - Live from Jacksonville At The Florida Theatre'' (2015年)
*2000年:Then And Now
* ''Live In Atlantic City'' (2018年)
==ソロ==
* ''Last of the Street Survivors Farewell Tour – Lyve!'' (2019年)
*1986年:Rossington / Returned To Scene Of The Crime

=== コンピレーション・アルバム ===
* ''Skynyd's First And … Last'' (1978年)
* ''Gold & Platinum'' (1979年)
* ''Best Of The Rest'' (1982年)
*『[[伝説 (レーナード・スキナードのアルバム)|伝説]]』 - ''Legend'' (1987年)
*『スキナーズ・イナーズ/グレイテスト・ヒッツ』 - ''Skynyrds' Innyrds'' (1989年)
*『スキナーズ・ファースト - コンプリート・マッスル・ショールズ・アルバム』 - ''Skynyrd's First'' (1998年)
*『ソロ・フライツ』 - ''Solo Flytes'' (1999年)
*『スキナーズ・コレクティブルズ〜アンリリースト・レコーディングス』 - ''Collectybles'' (2000年)
* ''Then And Now'' (2000年)
*『アイコン〜ベスト・オブ・レーナード・スキナード』 - ''Icon'' (2010年)

=== 関連ソロ・アルバム ===
* Rossington : ''Returned To Scene Of The Crime'' (1986年)


== 日本公演 ==
== 日本公演 ==
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**10日・14日・15日:[[CLUB CITTA']]
**10日・14日・15日:[[CLUB CITTA']]
**11日:[[IMPホール]]
**11日:[[IMPホール]]

== その他 ==
*元[[プロレスラー]]の[[マイケル・ヘイズ]]と[[テリー・ゴディ]]は彼らのファンであり、自分たちの[[タッグチーム]]を『[[ファビュラス・フリーバーズ]]』と命名し、入場曲には「[[フリー・バード]]」を使用した。
*映画「[[コン・エアー]]」では挿入歌及びエンディング曲として「Sweet Home Alabama」が使用されており、本作での劇中ではバンド名は出てはいないが、登場人物の1人が飛行機の機内で「Sweet Home Alabama」を流されている際、「今流れている曲は飛行機の墜落事故で死んだバンドの曲だよ」と皮肉る台詞がある。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[38スペシャル]]
*[[38スペシャル]]
*[[カントリー・ロック]]


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [http://www.artimuspyle.com Official Artimus Pyle site] - アーティマス・パイル公式サイト
* [http://www.artimuspyle.com Official Artimus Pyle site] - アーティマス・パイル公式サイト
* [http://www.edking.net Official Ed King site] - エド・キング公式サイト
* [http://www.edking.net Official Ed King site] - エド・キング公式サイト

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レーナード・スキナード
1973年のラインナップ
基本情報
別名
  • マイ・バックヤード
  • ノーブル・ファイブ
  • ワン・パーセント
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国フロリダ州ジャクソンビル
ジャンル
活動期間
レーベル
公式サイト レーナード・スキナード 公式サイト
メンバー
旧メンバー 後述を参照

レーナード・スキナード (Lynyrd Skynyrd[ˌlɛnərd ˈskɪnərd] LEN-ərd-SKIN-ərd[5]) は、アメリカ合衆国サザン・ロックバンド。

概要

[編集]

1964年にフロリダ州ジャクソンビルで「マイ・バックヤード (My Backyard)」として結成され、その後「ノーブル・ファイブ (The Noble Five)」「ワン・パーセント (One Percent)」の名で活動、1969年に「レーナード・スキナード」と改名した。バンドはそのライブ・パフォーマンスや「スウィート・ホーム・アラバマ」「フリー・バード」と言った代表曲でその認知度を高めていった。だが、成功のピークであった1977年に飛行機事故でメンバー2人とバックアップシンガーが死亡。人気の絶頂時に活動を停止した。バンドはアメリカ合衆国で2,800万枚のレコード販売を記録した。

生き残ったメンバーは1987年に、リードボーカルにジョニー・ヴァン・ザント(バンドの創設者、ロニー・ヴァン・ザントの弟)を迎えリユニオン・ツアーを行った。バンドはその後も創設者の一人であるゲイリー・ロッシントン、ジョニー・ヴァン・ザントとリッキー・メドロック(1996年にバンドに復帰する前、1971年から72年にかけて曲を書きレコーディングに参加。ブラックフットにも参加。)でツアーやレコーディングを行っている。もう一人の創設者、ラリー・ヤンストロムは70年代に加入していたエド・キングアーティマス・パイルと共に音楽活動を続けているが、もはやバンドとはツアーやレコーディングを行っていない。マイケル・カーテロンは1999年以来バンドの主たるドラマーとしてレコーディング、ツアーを行っている。

レーナード・スキナードは2006年3月13日にロックの殿堂入りを果たした[6]。「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第95位に選ばれている。

歴史

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初期

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1964年の夏、フロリダ州ジャクソンビルロニー・ヴァン・ザントボブ・バーンズアレン・コリンズゲイリー・ロッシントンラリー・ヤンストロムの5名により結成。結成当初のバンド名は「Bob's Backyard」。これはボブ・バーンズの自宅車庫で練習していたことに由来する。その後「The Noble Five」と改名した[7]。彼らはまた、1968年まで「One Percent」というバンド名を使用した[7]

1968年にバンド・コンテストで優勝し、地元のローカル・レーベルからデビューした。1969年にヴァン・ザントは新しいバンド名、「レーナード・スキナード Leonard Skinnerd」を思いついた[8]。この奇妙な名は、メンバーがフロリダ州ジャクソンビルのロバート・E・リー高校に通っていたときの体育教師であり、頭髪に関する校則を厳しく守らせていたことで有名なレオナルド・スキナーの名前をもじったものである[9][10]。ロッシントンは長髪を咎められることにうんざりし学校を辞めた[11]。また、特徴的なスペル「"Lynyrd Skynyrd"」は少なくとも1970年代に使用されていた。高校時代は反発していたにもかかわらず、彼らは後にスキナーと友好的な関係を築き、ジャクソンビル・コロシアムで行ったコンサートにスキナーを招待したりもしている[12]。スキナーはまた、バンドが3枚目のアルバムの内側に自分の不動産業の広告の写真を使用することを許可した[13]

1970年までにレーナード・スキナードはジャクソンビルのトップバンドとなり、地元のコンサートで頭角を現し、いくつかの国内での活動を開始した。ジャクソンビル出身でメイコンを拠点とするハスラーズ社のパートナーであるパット・アームストロングと、フィル・ウォルデンの弟であるアラン・ウォルデンがバンドのマネージャーとなった。ウォルデンは1974年までマネージャーを務め、その後ピーター・ラッジがマネージャーとなった。バンドは70年代初期に南部全域で演奏を続け、ハードなブルースロックのサウンドとイメージをさらに発展させ、スタジオでの実験的なレコーディングを行った。彼らはこの独特な「サザン」サウンドを、カントリー、ブルース、そしてブリティッシュロックの影響を少し取り入れ、融合させることで作り出した[14]

この頃、バンドは初めてラインナップの変更を経験した。ヤンストロムが脱退してグレッグ・T・ウォーカーがベースを担当した。また当時、2人目のドラマーとしてリッキー・メドロック(後にレーナードでギターを担当する)が加入。リッキーとボブ・バーンズはそれぞれ脱退・再加入を経つつ、時にツインドラムでの演奏も披露した。バンドの歴史が書かれたいくつかの文献ではこの頃バーンズはバンドを短期間離れていたとされる。1971年、バンドはマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで、ウォーカーとメドロックがリズムセクションを担当し、バーンズ抜きでいくつかの録音を残した[15]

リッキー・メドロックとウォーカーはバンドを離れ、ブラックフットに加入した。バンドは1972年に再びマッスル・ショールズでレコーディングを行い、バーンズがドラムを担当、レオン・ウィルクソンがベースを担当した。またこの年、レオンの友人で当時レーナードのローディだったビリー・パウエルが正式なキーボード担当として加入した。メドロックはその後再びバンドに復帰している。メドロックとウォーカーは1978年にリリースされたコンピレーション「First and... Last」まで、どのアルバムにも参加しなかった。

全盛期 (1973年-1977年)

[編集]

1972年にバンド(ヴァン・ザント、コリンズ、ロッシントン、バーンズ、ウィルクソン、パウエル)はブラッド・スウェット・アンド・ティアーズの創設メンバーであったアル・クーパーに見いだされた。クーパーはアトランタのFunocchio'sで彼らのステージを見た。そしてMCAレコード傘下の自らのサウンズ・オブ・ザ・サウスレーベルと彼らを契約させ、ファーストアルバム『レーナード・スキナード』をプロデュースした。ウィルクソンはこのアルバムのレコーディングセッション初期にバンドを離れていたため、参加したのは2曲のみである。アルバムカバーのジャケット写真には写っている。ウィルクソン不在時にベースとギターを手伝ったストロベリー・アラーム・クロックのギタリスト、エド・キングはレコーディング後に3人目のギタリストとして正式加入し、バンドはライブにおいてスタジオでの3つのギターセクションを再現できるようになった。アルバムは1973年8月13日にリリースされ[16]、100万枚を超える売上を記録、RIAAゴールドディスクとなった[17]。シングル「フリー・バード」は全米のラジオでオンエアされた[18]。同曲は75年の1月には、Billboard Hot 100の19位を記録した[19]

バンドのファン層は1973年に急速に拡大した。これはザ・フーの『四重人格』ツアーで前座を務めたことも原因の一つだった。1974年のセカンドアルバム『セカンド・ヘルピング』ではキング、コリンズ、ロッシントンがそれぞれヴァン・ザントとのコラボレーションで曲を書き、バンドのブレークスルーを強固なものとした。ニール・ヤングの「サザン・マン」へのアンサーソングであるシングル「スウィート・ホーム・アラバマ[20]は、8月のチャートで8位に達した。(ニール・ヤングとヴァン・ザントはライバルではなく、”お互いの音楽のファンであり、友人であった”。ヤングは彼らのために「パウダーフィンガー」を書いたが、彼らはそれを録音しなかった[21]。)絶頂期における彼らのレコードはそれぞれ100万枚を超える売り上げを記録したが、「スウィート・ホーム・アラバマ」はトップ10に入った唯一のシングルであった[22]。『セカンド・ヘルピング』は1974年に12位を達成し、最終的にはマルチプラチナとなった。その年の7月、レーナード・スキナードはミズーリ州セダリアミズーリ・ステート・フェアで行われたオザーク・ミュージックフェスティバルにも出演した。

トリプルリードギターを擁する重厚な音を特徴とし、オールマン・ブラザーズ・バンドやアトランタ・リズム・セクションと並ぶサザン・ロックの旗手として、ライヴでは多数の観客を動員する人気バンドとなった。

1975年1月にバーンズがバンドを去り、代わってケンタッキー出身のアーティマス・パイルが加入した。バンドの3枚目のアルバム『ナッシン・ファンシー』は17日で録音された[23]。クーパーとバンドはアルバムリリース前に相互の合意によって袂を分かち、クーパーはテープのミックスを完成させてバンドから離れた[24]。このサードアルバムは前作よりも売り上げが低かったが、「サタデイ・ナイト・スペシャル」がヒットした。エド・キングはツアーの途中で、疲労を理由にバンドを離れた。1976年1月、正式メンバーとはみなされなかったが、バックアップシンガーのレスリー・ホーキンスキャシー・ゲインズジョジョ・ビリングズリー(3人は「ホンケッツ」として知られる)が加入した。『ナッシン・ファンシー』からは「サタデイ・ナイト・スペシャル」がバート・レイノルズ主演の映画『ロンゲスト・ヤード』の挿入歌に採用された。キングが脱退した後、バンドはしばらくツインギター編成で活動し、4枚目のアルバム『ギミー・バック・マイ・ブレッツ』は1976年にリリースされたが、前作同様ファースト、セカンドほどの成功は収められなかった。ヴァン・ザントとコリンズは、バンドの初期の特徴であったトリプルリードギターの特性が失われていると真剣に感じていた。その後バンドはレスリー・ウェスト(元マウンテン)やバリー・ハーウッド(後にゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズらと共にロッシントン・コリンズ・バンドで活動)を含む何名かのギタリストのオーディションを行ったが、最終的にはキャシー・ゲインズの弟スティーヴ・ゲインズがキングの後任として加入した[25]。最盛期(1976年前後)には南部でのライヴにおいて、カルロス・サンタナを前座にするほどの人気を誇った。

ゲインズは自身のバンド、クロウダッド(スキナードの「サタデイ・ナイト・スペシャル」をしばしば演奏していた)を率いていたが、1976年5月11日にカンザスシティで行われたコンサートに、オーディションがてら招待された。バンドはまたゲインズと非公式のジャムを数回行い、ゲインズは6月に正式加入した。ゲインズが新たに加わったバンドはアトランタフォックス・シアターで行われたライブを録音、2枚組ライブアルバム『ワン・モア・フロム・ザ・ロード』としてリリースした。

1977年

コリンズとロッシントンは1976年のレイバー・デーの週末に重大な交通事故を起こし、次のアルバムの製作が遅れた上、いくつかのコンサートがキャンセルとなった。ロッシントンの事故は、不吉な「ザット・スメル」に影響を与えた。それは明らかに彼ともう一人のバンドメンバーに対する薬物乱用についての警告であった。この曲に登場する、酒に酔い、クエイルードで朦朧となってオークの木に車をぶつける「Prince Charming」は自分のことであるとロッシントンは何度も認めている。

1977年の『ストリート・サヴァイヴァーズ』はスティーヴ・ゲインズのギタリスト/ボーカリストとしてのショーケースとなった。ゲインズは1年前にバンドに参加し、今回スタジオ盤でのデビューとなる。ヴァン・ザントは公私にわたってゲインズの複数の才能に驚き、バンドは "いつかは彼の影の中にいる"と述べた[26]。ゲインズの貢献はヴァン・ザントと共作し、共にリードボーカルを担当した「"You Got That Right"」や、加入前に作ったギターブギの「"I Know a Little"」などがある。ゲインズのこのアルバムにおける(そしていくつかのコンサートにおける)リーダー性は、彼の手によるブルース「"Ain't No Good Life"」に示される。アルバムにはまた、ヒットシングル「"What's Your Name"」「"That Smell"」も含まれた。バンドは自身最大のツアーのための準備を行い、ショーは象徴的なロック・アンセム「フリー・バード」がハイライトとなった[27]。11月、バンドはヴァン・ザントの生涯にわたる夢であったニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンでのコンサートを実現する予定だった。

飛行機事故 (1977年)

[編集]

音楽的には当時隆盛のブルース・ロックをはじめとするブリティッシュ・ロックに強い影響を受けつつも、アメリカ南部土着のカントリーのセンスを保持し、後にサザン・ロックと呼ばれる音を作り上げた。また、ヴィジュアル・イメージに南軍旗を使うなど、アメリカ南部の、悪く言えばレッドネックのイメージを強く持っていたが、それが南部ではバンドへの根強い支持に繋がっていた。

1977年10月20日、ツアー中の飛行機(コンベア240)がミズーリ州マッカム近郊で燃料切れにより[28]墜落し、ロニー・ヴァン・ザント、スティーヴ・ゲインズ、キャシー・ゲインズらが死亡。バンドは解散した。なお、事故後に「ワッツ・ユア・ネーム」がヒットしている。飛行機墜落事故の同年には、ロニーの弟であるドニー・ヴァン・ザントが率いる38スペシャルがデビューしており、しばらくはレーナード・スキナードの後継を名乗り、コンサートでもレーナード・スキナードの曲を演奏するなどしていた。

残ったメンバーのゲイリー・ロッシントン、アレン・コリンズ、ビリー・パウエルらは1980年にロッシントン・コリンズ・バンドを結成し活動を続けたが、アレン・コリンズは1986年に交通事故で下半身不随となり、その4年後に慢性肺炎により死去した。

再結成以降 (1987年-)

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1987年、ゲイリー・ロッシントンは、ロニーのもう一人の弟であるジョニー・ヴァン・ザントらと共に、レーナード・スキナードとしてバンドを再結成。2006年にはロックの殿堂入りを果たした[29]

2009年には初期メンバーのビリー・パウエルが心臓麻痺で死去したが、バンドはその後も活動を継続。

2015年4月3日、結成メンバーのボブ・バーンズが交通事故で死去。

2018年1月25日には最後のツアーとなるフェアウェルツアーの開催を発表し、[30]5月4日から開始された。

2018年8月22日、初期メンバーのエド・キングが死去。死因は明らかにされていないが、癌を患っていた[31]

2023年3月5日、最後の結成メンバー ゲイリー・ロッシントンが死去[32]。これにより創設者は全て亡くなった。しかし4月にはツアー活動の継続を発表[33] し、23年8月現在もツアーは続けられている。

その他

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メンバー

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初期

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  • ロニー・ヴァン・ザント (Ronnie Van Zant) - ヴォーカル(1964年 - 1977年、1977年飛行機事故により29歳で死去)
  • ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター(1964年 - 1977年、2023年に死去)
  • アレン・コリンズ (Allen Collins) - ギター (1964年 - 1977年、1990年に慢性肺炎により37歳で死去)
  • ラリー・ヤンストロム (Larry Junstrom) - ベース(1964年 - 1971年、2019年に70歳で死去)
  • ボブ・バーンズ (Bob Burns) - ドラムス(1964年 - 1974年、2015年交通事故により64歳で死去)
  • エド・キング (Ed King) - ギター、ベース(1972年 - 1975年、2018年に68歳で死去)
  • レオン・ウィルクソン (Leon Wilkeson) - ベース(1972年 - 1977年、2001年に死去)
  • ビリー・パウエル (Billy Powell) - キーボード(1972年 - 1977年、2009年に死去)
  • アーティマス・パイル (Artimus Pyle) - ドラムス(1975年 - 1977年)
  • スティーヴ・ゲインズ (Steve Gaines) - ギター(1976年 - 1977年、1977年飛行機事故により28歳で死去)

再結成時

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  • ジョニー・ヴァン・ザント (Johnny Van Zant) - ヴォーカル(1987年 - )
  • ゲイリー・ロッシントン (Gary Rossington) - ギター(1987年 - 2023年)
  • エド・キング (Ed King) - ギター(1987年 - 1996年、2018年に死去)
  • ランドール・ホール (Randall Hall) - ギター(1987年 - 1993年)
  • マイク・エステス (Mike Estes) - ギター(1993年 - 1996年)
  • リッキー・メドロック (Rickey Medlocke) - ギター(1996年 - )
  • ヒューイ・トマソン (Hughie Thomasson) - ギター(1996年 - 2005年、2007年に55歳で死去)
  • マーク・マテイカ (Mark Matejka) - ギター(2006年 - )
  • ビリー・パウエル (Billy Powell) - キーボード(1987年 - 2009年)
  • ピーター・キーズ (Peter Keys) - キーボード(2009年 - )
  • レオン・ウィルクソン (Leon Wilkeson) - ベース(1987年 - 2001年)
  • イアン・エヴァンス (Ean Evans) - ベース(2001年 - 2009年)
  • ロバート・キーンズ (Robert Kearns) - ベース(2009年 - 2012年)
  • ジョニー・コルト (Johnny Colt) - ベース(2012年 - 2017年)
  • キース・クリストファー (Keith Christopher) - ベース(2017年 - )
  • アーティマス・パイル (Artimus Pyle) - ドラムス(1987年 - 1991年)
  • カート・カスター (Kurt Custer) - ドラムス(1991年 - 1994年)
  • オーウェン・ヘイル (Owen Hale) - ドラムス(1994年 - 1998年)
  • マイケル・カーテロン (Michael Cartellone) - ドラムス(1999年 - )

ディスコグラフィ

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スタジオ・アルバム

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ライブ・アルバム

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  • ワン・モア・フロム・ザ・ロード』 - One More From The Road (1976年)
  • 『サザン・バイ・ザ・グレイス・オブ・ゴッド』 - Southern By The Grace Of God (1988年)
  • Southern Knights (1996年)
  • ライヴ・フロム・スティール・タウン』 - Lyve From Steel Town (1998年)
  • 『ライヴ』 - Lynyrd Skynyrd Lyve: The Vicious Cycle Tour (2004年)
  • Authorized Bootleg Lynyrd Skynyrd Live / Cardiff Capitol Theater - Cardiff, Wales Nov. 04 1975 (2009年)
  • Authorized Bootleg: Live At Winterland - San Francisco Mar. 07 1976 (2009年)
  • ライヴ・フロム・フリーダム・ホール』 - Live From Freedom Hall (2010年)
  • 『レーナード・スキナード ライヴ・イン・アトランタ 2014 - ワン・モア・フォー・ザ・ファンズ』 - One more for the fans (2015年)
  • Pronounced Leh-Nerd Skin-Nerd & Second Helping - Live from Jacksonville At The Florida Theatre (2015年)
  • Live In Atlantic City (2018年)
  • Last of the Street Survivors Farewell Tour – Lyve! (2019年)

コンピレーション・アルバム

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  • Skynyd's First And … Last (1978年)
  • Gold & Platinum (1979年)
  • Best Of The Rest (1982年)
  • 伝説』 - Legend (1987年)
  • 『スキナーズ・イナーズ/グレイテスト・ヒッツ』 - Skynyrds' Innyrds (1989年)
  • 『スキナーズ・ファースト - コンプリート・マッスル・ショールズ・アルバム』 - Skynyrd's First (1998年)
  • 『ソロ・フライツ』 - Solo Flytes (1999年)
  • 『スキナーズ・コレクティブルズ〜アンリリースト・レコーディングス』 - Collectybles (2000年)
  • Then And Now (2000年)
  • 『アイコン〜ベスト・オブ・レーナード・スキナード』 - Icon (2010年)

関連ソロ・アルバム

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  • Rossington : Returned To Scene Of The Crime (1986年)

日本公演

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関連項目

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参考文献

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  1. ^ Weinstein, Deena (2015). Rock'n America: A Social and Cultural History. University of Toronto Press. p. 164. ISBN 978-1-442-60015-7 
  2. ^ a b c Erlewine, Stephen Thomas. “Lynyrd Skynyrd Biography, Songs, & Albums”. AllMusic. RhythmOne. 2021年4月3日閲覧。
  3. ^ a b Moskowitz, David V. (2015). The 100 Greatest Bands of All Time: A Guide to the Legends Who Rocked the World. Santa Barbara, California: ABC-CLIO. p. 398. ISBN 978-1-440-80340-6 
  4. ^ Brannigan, Paul (2023年4月4日). “Lynyrd Skynyrd are to continue touring without any original members, following the death of guitarist Gary Rossington”. Louder. Future Publishing. 2023年4月5日閲覧。
  5. ^ Pronunciation from album (Pronounced 'Lĕh-'nérd 'Skin-'nérd).
  6. ^ Inductess Classes”. Rock& Roll Hall of Fame. 2021年4月18日閲覧。
  7. ^ a b The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons”. Lynyrdskynyrdhistory.com. 2015年4月4日閲覧。
  8. ^ Soergel, Matt. “Honoring a namesake”. Chronicle.augusta.com. 2011年9月14日閲覧。
  9. ^ Robert E. Lee High School history (archived). dreamsbeginhere.org
  10. ^ Lynyrd Skynyrd : AllMusic - Biography by Stephen Thomas Erlewine - 2012年12月1日閲覧
  11. ^ The Official Lynyrd Skynyrd History Website - History Lessons”. Lynyrdskynyrdhistory.com. 2011年11月2日閲覧。
  12. ^ https://web.archive.org/web/20080625193759/http://lynyrdskynyrddixie.com/2006/06/02/skynyrd-namesake-in-brevard/
  13. ^ “Leonard Skinner, Rock Band Muse, Dies at 77”. Associated Press. (September 21, 2010). https://www.nytimes.com/2010/09/21/arts/music/21skinner.html September 22, 2010閲覧。 
  14. ^ Oxford Music Online (Registration required)
  15. ^ http://muscleshoalssoundstudio.org/pages/history
  16. ^ Lynyrd Skynyrd Discography”. Lynyrdskynyrd.com. 2012年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月14日閲覧。
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  18. ^ Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.
  19. ^ http://www.billboard.com/music/lynyrd-skynyrd
  20. ^ Lynyrd Skynyrd 'Sweet Home Alabama' | Classic Tracks - soundonsound.com - 2012年12月1日閲覧
  21. ^ Simmons, p. 135.
  22. ^ Butler, J. Michael. "Lynyrd Skynyrd." Grove Music Online. N.p., 3 Sept. 2014.
  23. ^ Hunt, Dennis (September 15, 1975). “Ups and Downs of Lynyrd Skynyrd: More Pop News”. Los Angeles Times. http://search.proquest.com.ezproxy1.library.arizona.edu/docview/157771298/49CAEBCB7E4F44D3PQ/15?accountid=8360 2014年10月3日閲覧。 
  24. ^ Al Kooper: Backstage Passes & Backstabbing Bastards: Memoirs of a Rock 'N' Roll Survivor (1998)
  25. ^ Drozdowski, Ted (2015年6月26日). “Gary Rossington Discusses 'One More for the Fans!' and His Life and Times with Lynyrd Skynyrd”. Guitar World. NewBay Media. 2016年3月15日閲覧。
  26. ^ Lynyrd Skynyrd - L.A. Times”. The Uncool - The Official Site for Everything Cameron Crowe. 17 October 2015閲覧。
  27. ^ Freebird”. Wolfgangsvault.com. 2011年9月14日閲覧。
  28. ^ NTSB. “事故報告書” (英語). 2008年2月2日閲覧。
  29. ^ Lynyrd Skynyrd”. The Rock and Roll Hall of Fame and Museum. 2021年4月18日閲覧。
  30. ^ レーナード・スキナード、ラスト・ツアーを発表”. BARKS (2018年1月26日). 2018年5月6日閲覧。
  31. ^ 元レーナード・スキナードのギタリスト、エド・キング、死去”. BARKS (2018年8月24日). 2018年8月29日閲覧。
  32. ^ レーナード・スキナードの最後のオリジナル・メンバーであるゲイリー・ロッシントンが逝去。享年71歳”. NME JAPAN (2023年3月6日). 2023年3月7日閲覧。
  33. ^ レーナード・スキナード、故ゲイリーの意志を受け継ぎツアー継続を発表”. uDiscoverMusic (2023年4月6日). 2023年8月15日閲覧。

外部リンク

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