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'''高木 晃次'''(たかぎ こうじ、[[1968年]][[5月10日]] - )は、元[[プロ野球選手]]([[投手]])。[[2010年]]からは[[千葉ロッテマリーンズ]]のスコアラー
'''高木 晃次'''(たかぎ こうじ、[[1968年]][[5月10日]] - )は、[[千葉県]][[旭市]]<ref name=jinmei>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、313ページ</ref>出身の元[[プロ野球選手]]([[投手]])。

プロ入り21年目の[[2007年]]に初めて[[FA権]]を取得したことが話題となった。

阪急に入団した選手の中で、最後まで現役を続けた投手だった(入団3年目に球団がオリックスに買収された)。


== 来歴・人物 ==
== 来歴・人物 ==
=== 阪急・オリックス時代 ===
=== 阪急・オリックス時代 ===
[[1987年]]、横芝敬愛高校から[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]にドラフト1位で指名され入団。同期3位に最後の阪急所属選手・[[中嶋聡]]がいた。4年目の[[1990年]]に速球を武器に一軍に定着し、主に中継ぎとして活躍。しかし、以降は制球に苦しみ、低迷が続いた。[[1993年]]オフに[[馬場敏史]]との[[トレード]]で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に移籍。
[[1987年]]、横芝敬愛高校では2年生の時に夏の千葉県大会5回戦まで進出<ref name=jinmei />。公式戦通算193イニングを投げ、176奪三振を記録した<ref name=jinmei />。
[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]にドラフト1位で指名され入団<ref name=jinmei />。同期3位に最後の阪急所属選手・[[中嶋聡]]がいた。
[[1990年]]に速球を武器に一軍に定着し、主に中継ぎとして活躍。しかし、以降は制球に苦しみ、低迷が続いた。
[[1993年]]オフに[[馬場敏史]]との[[トレード]]で[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]に移籍<ref name=jinmei />


=== ダイエー時代 ===
=== ダイエー時代 ===
ダイエーではほとんど登板機会がなく[[1997年]]に戦力外通告を受ける。
[[1997年]]に3年間で一軍登板5試合に終わりオフに戦力外通告を受ける。


=== ヤクルト時代 ===
=== ヤクルト時代 ===
[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]にテスト入団。野村監督の指示でサイドスローとシュートを覚える。移籍した[[1998年]]はワンポイントリリーフを中心に24試合に登板。復調の手応えを掴むと、翌[[1999年]]には開幕直後は二軍スタートだったものの、[[4月21日]]に一軍登録されると、その日の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦に登板して自身8年ぶり、そして[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]初の勝利を記録した。[[5月12日]]の[[阪神タイガース]]戦では13年目にしてプロ初完封勝利を記録した<ref>2000 ベースボール・レコード・ブック 79頁 1999年度主要記録集「13年目の初完封勝利」より。</ref>。この年はエース格の[[石井一久]]・[[伊藤智仁]]・[[川崎憲次郎]]らの不調もありそこから一気に先発ローテ入りして大車輪の活躍を続け、結果的に[[ジェイソン・ハッカミー]]に続き3完封を含め9勝(8敗)のチームの日本人投手最高の成績を残してセ・リーグ投手防御率ベスト10の8傑に入り、[[規定投球回|規定投球回数]]にも初めて到達すると言う充実の一年を過ごした。
[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]にテスト入団<ref name=jinmei />。監督の[[野村克也]]の指示でサイドスローとシュートを覚える。
[[1998年]]はワンポイントリリーフを中心に24試合に登板。復調の手応えを掴む
[[1999年]]には開幕直後は二軍スタートだったものの、[[4月21日]]に一軍登録されると、その日の[[中日ドラゴンズ|中日]]戦に登板して自身8年ぶり、そして[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]初の勝利を記録した。4月末から先発ローテーションに入り[[5月3日]]の対広島戦3回戦では、1991年9月7日対ダイエー20回戦以来8年ぶりの先発勝利を記録。[[5月12日]]の[[阪神タイガース]]戦では13年目にしてプロ初完封勝利を記録した<ref>2000 ベースボール・レコード・ブック 79頁 1999年度主要記録集「13年目の初完封勝利」より。</ref>。この年はエース格の[[石井一久]]・[[伊藤智仁]]・[[川崎憲次郎]]らの不調もありそこから一気に先発ローテ入りして大車輪の活躍を続け、結果的に[[ジェイソン・ハッカミー]]に続き3完封を含め9勝(8敗)のチームの日本人投手最高の成績を残してセ・リーグ投手防御率ベスト10の8傑に入り、[[規定投球回|規定投球回数]]にも初めて到達すると言う充実の一年を過ごした。

しかし、[[2000年]]から再び低迷し、[[2001年]]に2度目の戦力外通告を受ける。
[[2000年]]から再び低迷。

[[2001年]]に2度目の戦力外通告を受ける。


=== ロッテ時代 ===
=== ロッテ時代 ===
[[千葉ロッテマリーンズ]]にテスト入団<ref name=jinmei />。
[[千葉ロッテマリーンズ]]にテスト入団。移籍して数時折先発もしたが、[[2005年]]からはビハインドでのングリリーフや早い回での1イニング登板、左のワンポイントなど中継ぎとして活躍。21年目の[[2007年]]に初めて[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を取得。同年は[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]の故障もあり、自己最多を1試合更新する43試合に登板した。同年のパ・リーグクライマックスシリーズ第2ステージ第2戦では、ふくらはぎの痙攣で降板した[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]をリリーフし、勝利投手となった。

{{by|2002年}}10月8日の対[[大阪近鉄バファローズ]]戦では3年ぶりの完封勝利を無四死球で飾る。

{{by|2003年}}4月22日の対大阪近鉄バファローズ戦でも完封勝利を挙げるなど、移籍して数年間は時折先発もした。

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{{by|2007}}入り21年目初めて[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA権]]を取得したことが話題となった。同年は[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]の故障もあり、自己最多を1試合更新する43試合に登板した。同年のパ・リーグクライマックスシリーズ第2ステージ第2戦では、ふくらはぎの痙攣で降板した[[小林宏之 (野球)|小林宏之]]をリリーフし、勝利投手となった。

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{{by|2009年}}は不振で16試合の登板に終わる。10月1日に41歳で3度目の戦力外通告を受ける。[[12球団合同トライアウト]]に参加したが、獲得球団はなく、12月4日に現役を引退した<ref name="marines">[http://www.marines.co.jp/news/detail/3796.html 高木晃次投手引退のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト</ref>。
晩年の投球スタイルは、サイド気味の左腕から140km/h中盤の[[直球]]を主体に[[スライダー (球種)|スライダー]]・[[フォークボール|フォーク]]・[[シュート (球種)|シュート]]を織り交ぜるもの。直球は140km/h後半に達することもあるなど威力があり、投球の生命線となってい<br/>横手投げや上手投げも交え、投げる角度を変えて相手を幻惑するというベテランらしい投球術も見せ


=== 現役引退後 ===
[[2008年]][[3月23日]]の対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]戦では、[[1990年]][[7月11日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦以来、18年ぶりにセーブを記録。翌24日の対福岡ソフトバンクホークス戦では通算300試合登板を達成した。同年もワンポイントリリーフなどに重用され、前年の自己最多に並ぶ43試合に登板。藤田宗一や[[薮田安彦]]らの移籍で手薄になった中継ぎ陣を支えた。[[2009年]]は不振で16試合の登板に終わる。同年[[10月1日]]、3度目の戦力外通告を受ける。[[12球団合同トライアウト]]に参加したが獲得球団はなく、[[12月4日]]に[[引退]]を表明した<ref name="marines">[http://www.marines.co.jp/news/detail/3796.html 高木晃次投手引退のお知らせ] - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト</ref>
{{by|2010年}}からはロッテのスコアラーとして活動する<ref name="marines"/>。


[[2018年]]頃までは新聞などでコメントを出していたが<ref>{{Cite web|和書|title=【オリックス】ドラ2K―鈴木、伝説スライダーを披露 |url=https://hochi.news/articles/20180213-OHT1T50335.html |website=スポーツ報知 |date=2018-02-14 |access-date=2023-08-25 |language=ja}}</ref>、{{by|2022年}}時点ではロッテを退団しているようであり{{Efn2|プロ野球球団に所属したままでは原則として学生野球資格の回復を認められていないため。}}、同年3月16日に[[学生野球資格回復研修制度|研修]]を経て学生野球資格を回復している<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.student-baseball.or.jp/system/prog/reinstatement_list.php?kid=4|title=学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者|publisher=公益財団法人日本学生野球協会|accessdate=2022-09-29}}</ref>{{Efn2|認定者一覧では「'''髙'''木晃次」名義になっている。}}。
阪急・オリックス、ダイエー、ヤクルトでの15年間、一軍で白星を挙げたのは4年しかなかったが、ロッテ入団後は2007年まで毎年白星を挙げた。


== 選手としての特徴 ==
[[2010年]]からはロッテのスコアラーとして活動する<ref name="marines"/>。
晩年の投球スタイルは、サイド気味の左腕から140km/h中盤の[[直球]]を主体に[[スライダー (球種)|スライダー]]・[[フォークボール|フォーク]]・[[シュート (球種)|シュート]]を織り交ぜるもの。直球は140km/h後半に達することもあるなど威力があり、投球の生命線となってい。横手投げや上手投げも交え、投げる角度を変えて相手を幻惑するというベテランらしい投球術も見せ


== 詳細情報 ==
== 詳細情報 ==
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=== 記録===
=== 記録===
* 初登板・初先発:1987年10月18日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]26回戦([[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]])、4回2/3を1失点
* 初登板・初先発:1987年10月18日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]26回戦([[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]])、4回2/3を1失点
* 初奪三振:同上、1回表に[[加藤英司]]から
* 初奪三振:同上、1回表に[[加藤秀司|加藤英司]]から
* 初勝利:1990年6月5日、対福岡ダイエーホークス8回戦([[平和台野球場|平和台球場]])、4回裏2死に3番手で救援登板・完了、5回1/3を無失点
* 初勝利:1990年6月5日、対福岡ダイエーホークス8回戦([[平和台野球場|平和台球場]])、4回裏2死に3番手で救援登板・完了、5回1/3を無失点
* 初セーブ:1990年6月12日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]8回戦([[山形県野球場]])、6回裏2死に2番手で救援登板・完了、3回1/3を無失点
* 初セーブ:1990年6月12日、対[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]8回戦([[山形県野球場]])、6回裏2死に2番手で救援登板・完了、3回1/3を無失点
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== 脚注 ==
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2024年9月6日 (金) 02:30時点における最新版

高木 晃次
2009年千葉マリンスタジアムにて
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県旭市
生年月日 (1968-05-10) 1968年5月10日(56歳)
身長
体重
182 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1986年 ドラフト1位
初出場 1987年10月18日
最終出場 2009年8月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

高木 晃次(たかぎ こうじ、1968年5月10日 - )は、千葉県旭市[1]出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

[編集]

阪急・オリックス時代

[編集]

1987年、横芝敬愛高校では2年生の時に夏の千葉県大会5回戦まで進出[1]。公式戦通算193イニングを投げ、176奪三振を記録した[1]

阪急ブレーブスにドラフト1位で指名され入団[1]。同期3位に最後の阪急所属選手・中嶋聡がいた。

1990年に速球を武器に一軍に定着し、主に中継ぎとして活躍。しかし、以降は制球に苦しみ、低迷が続いた。

1993年オフに馬場敏史とのトレード福岡ダイエーホークスに移籍[1]

ダイエー時代

[編集]

1997年に3年間で一軍登板5試合に終わりオフに戦力外通告を受ける。

ヤクルト時代

[編集]

ヤクルトスワローズにテスト入団[1]。監督の野村克也の指示でサイドスローとシュートを覚える。

1998年はワンポイントリリーフを中心に24試合に登板。復調の手応えを掴む。

1999年には開幕直後は二軍スタートだったものの、4月21日に一軍登録されると、その日の中日戦に登板して自身8年ぶり、そしてセ・リーグ初の勝利を記録した。4月末から先発ローテーションに入り5月3日の対広島戦3回戦では、1991年9月7日対ダイエー20回戦以来8年ぶりの先発勝利を記録。5月12日阪神タイガース戦では13年目にしてプロ初完封勝利を記録した[2]。この年はエース格の石井一久伊藤智仁川崎憲次郎らの不調もありそこから一気に先発ローテ入りして大車輪の活躍を続け、結果的にジェイソン・ハッカミーに続き3完封を含め9勝(8敗)のチームの日本人投手最高の成績を残してセ・リーグ投手防御率ベスト10の8傑に入り、規定投球回数にも初めて到達すると言う充実の一年を過ごした。

2000年から再び低迷。

2001年に2度目の戦力外通告を受ける。

ロッテ時代

[編集]

千葉ロッテマリーンズにテスト入団[1]

2002年10月8日の対大阪近鉄バファローズ戦では3年ぶりの完封勝利を無四死球で飾る。

2003年4月22日の対大阪近鉄バファローズ戦でも完封勝利を挙げるなど、移籍して数年間は時折先発もした。

2005年からはビハインドでのロングリリーフや早い回での1イニング登板、左のワンポイントなど中継ぎとして活躍した。

2007年はプロ入り21年目で初めてFA権を取得したことが話題となった。同年は藤田宗一の故障もあり、自己最多を1試合更新する43試合に登板した。同年のパ・リーグクライマックスシリーズ第2ステージ第2戦では、ふくらはぎの痙攣で降板した小林宏之をリリーフし、勝利投手となった。

2008年3月23日の対日本ハム戦では、1990年7月11日の福岡ダイエーホークス戦以来、18年ぶりにセーブを記録。翌24日の対福岡ソフトバンクホークス戦では通算300試合登板を達成した。同年もワンポイントリリーフなどに重用され、前年の自己最多に並ぶ43試合に登板。藤田宗一や薮田安彦らの移籍で手薄になった中継ぎ陣を支えた。

2009年は不振で16試合の登板に終わる。10月1日に41歳で3度目の戦力外通告を受ける。12球団合同トライアウトに参加したが、獲得球団はなく、12月4日に現役を引退した[3]

現役引退後

[編集]

2010年からはロッテのスコアラーとして活動する[3]

2018年頃までは新聞などでコメントを出していたが[4]2022年時点ではロッテを退団しているようであり[注 1]、同年3月16日に研修を経て学生野球資格を回復している[5][注 2]

選手としての特徴

[編集]

晩年の投球スタイルは、サイド気味の左腕から140km/h中盤の直球を主体にスライダーフォークシュートを織り交ぜるもの。直球は140km/h後半に達することもあるなど威力があり、投球の生命線となっていた。横手投げや上手投げも交え、投げる角度を変えて相手を幻惑するというベテランらしい投球術も見せた。

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1987 阪急
オリックス
1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 19 4.2 4 1 2 0 0 1 1 0 1 1 1.93 1.38
1989 6 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 50 9.1 15 5 8 1 0 4 2 0 13 13 12.54 2.46
1990 42 1 0 0 0 6 2 2 -- .750 273 64.0 54 5 31 0 2 52 4 0 25 21 2.95 1.33
1991 18 5 0 0 0 2 1 0 -- .667 255 56.0 60 8 36 0 3 29 2 0 36 32 5.14 1.71
1994 ダイエー 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 5 1.0 0 0 2 0 0 1 0 0 0 0 0.00 2.00
1995 1 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 7 1.0 5 0 0 0 0 0 1 0 3 3 27.00 5.00
1996 3 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 3 0.1 1 0 1 0 0 0 0 0 1 1 27.00 6.00
1998 ヤクルト 24 2 0 0 0 0 3 0 -- .000 103 21.2 21 1 15 2 4 15 1 0 23 20 8.31 1.66
1999 27 21 4 3 1 9 8 0 -- .529 609 145 157 12 39 3 5 73 2 0 64 61 3.79 1.35
2000 23 15 0 0 0 2 8 0 -- .200 358 77.1 104 12 29 1 5 48 2 0 49 49 5.70 1.72
2001 2 2 0 0 0 0 2 0 -- .000 32 7.0 7 3 3 0 1 3 0 0 9 7 9.00 1.43
2002 ロッテ 17 6 1 1 1 3 3 0 -- .500 183 43.0 48 6 11 0 1 21 0 1 19 17 3.56 1.37
2003 10 8 1 1 0 1 6 0 -- .143 184 41.1 50 2 14 0 2 15 0 0 26 26 5.66 1.55
2004 27 7 0 0 0 2 3 0 -- .400 259 58.2 74 6 24 4 0 29 1 0 38 38 5.83 1.67
2005 20 0 0 0 0 1 0 0 1 1.000 99 25.1 21 1 6 1 1 14 0 0 9 9 3.20 1.07
2006 33 0 0 0 0 2 0 0 3 1.000 154 33.2 39 2 15 4 0 25 0 0 25 21 5.61 1.60
2007 43 0 0 0 0 1 0 0 7 1.000 157 35.2 40 4 12 0 4 20 0 0 15 15 3.79 1.46
2008 43 0 0 0 0 0 0 1 7 ---- 127 28.0 28 1 16 0 2 23 0 0 11 11 3.54 1.57
2009 16 0 0 0 0 0 0 0 1 ---- 53 11.0 15 1 5 0 2 5 0 0 7 7 5.73 1.82
通算:19年 357 68 6 5 2 29 36 3 19 .446 2930 664.0 743 70 269 16 32 378 16 1 374 352 4.77 1.52
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

記録

[編集]

背番号

[編集]
  • 19(1987年 - 1993年)
  • 44(1994年 - 1997年)
  • 64(1998年 - 1999年)
  • 14(2000年 - 2001年)
  • 48(2002年 - 2009年)

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ プロ野球球団に所属したままでは原則として学生野球資格の回復を認められていないため。
  2. ^ 認定者一覧では「木晃次」名義になっている。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、313ページ
  2. ^ 2000 ベースボール・レコード・ブック 79頁 1999年度主要記録集「13年目の初完封勝利」より。
  3. ^ a b 高木晃次投手引退のお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト
  4. ^ 【オリックス】ドラ2K―鈴木、伝説スライダーを披露”. スポーツ報知 (2018年2月14日). 2023年8月25日閲覧。
  5. ^ 学生野球資格回復に関する規則 第4条による認定者”. 公益財団法人日本学生野球協会. 2022年9月29日閲覧。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]