「村田倉夫」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m Bot作業依頼:「富士重工業」→「SUBARU」カテゴリ変更依頼 - log: Category:富士重工業の人物 → Category:SUBARUの人物 |
||
30行目: | 30行目: | ||
{{京成電鉄社長}} |
{{京成電鉄社長}} |
||
{{DEFAULTSORT:むらた くらお}} |
{{DEFAULTSORT:むらた くらお}} |
||
[[Category: |
[[Category:SUBARUの人物]] |
||
[[Category:日本の鉄道実業家]] |
[[Category:日本の鉄道実業家]] |
||
[[Category:京成電鉄|人むらた くらお]] |
[[Category:京成電鉄|人むらた くらお]] |
2017年4月20日 (木) 08:32時点における版
村田 倉夫(むらた くらお、1921年1月1日 - 2015年3月21日)は、日本の実業家。東京都出身。京成電鉄第7代社長。
来歴・人物
東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)を経て、1940年東京商科大学(現一橋大学)予科へ。
1942年東京商科大学学部を卒業し、日本興業銀行へ入行。翌年応召、東部軍経理部から南支方面へ主計将校として派遣される。
1947年に興銀復帰するが、最初の出向として1953年から1956年、旧中島飛行機グループなど5社が出資し、発足した直後の富士重工業へ。
2度目の出向は1964年、大商證券へ取締役として。ここで玉塚、山叶両證券と3社で合併した新日本証券(現みずほ証券)を発足させる。
1967年、再度興銀に復帰し、人事部長に。1969年取締役人事部長、1971年同業務部長、1972年常務取締役。
1978年6月1日、興銀常務を退任し、京成電鉄顧問。同月30日京成電鉄副社長に就任。社長には運輸官僚の佐藤光夫を担ぎ出し(翌年就任)、ともに経営再建に当たる。
1986年6月27日、京成電鉄代表取締役社長。1989年には累積損失を一掃し、翌1990年には13年振りの復配を果たした。
1992年代表取締役会長、1997年相談役、1999年勲二等瑞宝章)。
2015年3月21日、心不全のため死去[1]。94歳没。叙正四位。[2]
脚注
- ^ 村田倉夫氏が死去 元京成電鉄社長、元日本興業銀行常務 日本経済新聞 2015年3月30日
- ^ 2015年4月22日官報
参考文献
- 村田倉夫『押上から』(私家版)