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== 思想 == |
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浄土教では[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]](阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。[[融通念仏]]は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、[[浄土宗]]では[[信心]]の表われとして[[念仏]]を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど[[極楽浄土]]への[[往生]]も可能になると説いた。また[[浄土真宗]]では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。 |
浄土教では[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]](阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。[[融通念仏]]は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、[[浄土宗]]では[[信心]]の表われとして[[念仏]]を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど[[極楽浄土]]への[[往生]]も可能になると説いた。また[[浄土真宗]]では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。 |
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それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。 |
それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。 |
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時宗の僧は諸国を遊行し、[[賦算]](ふさん)と[[踊念仏]]を行なった。[[室町時代]]中ごろに[[猿楽]]師の観阿([[観阿弥]])、世阿([[世阿弥]])で知られる時衆系の法名をもつ者がみられ、[[同朋衆]]、[[仏師]]、[[作庭師]]として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、さまざまな困難を伴った。教団が発展するなかで、順調な遊行を行うために権力への接近がはじまり、[[幕府]]や[[大名]]などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や[[曹洞宗]]の布教活動によって侵食されることになった。 |
時宗の僧は諸国を遊行し、[[賦算]](ふさん)と[[踊念仏]]を行なった。[[室町時代]]中ごろに[[猿楽]]師の観阿([[観阿弥]])、世阿([[世阿弥]])で知られる時衆系の法名をもつ者がみられ、[[同朋衆]]、[[仏師]]、[[作庭師]]として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、さまざまな困難を伴った。教団が発展するなかで、順調な遊行を行うために権力への接近がはじまり、[[幕府]]や[[大名]]などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や[[曹洞宗]]の布教活動によって侵食されることになった。 |
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それでも、[[幕藩体制]]下では、[[幕府]]の[[伝馬]][[朱印状]]を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰落したのは、[[廃仏毀釈]]であると思われる。 |
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[[戒名]]は法名とよび、男は「阿弥陀仏」号、女は「一」号ないし「仏」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号をつけることが多い。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は「阿弥」号である。 |
*[[戒名]]は法名とよび、男は「阿弥陀仏」号、女は「一」号ないし「仏」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号をつけることが多い。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は「阿弥」号である。 |
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== 参考文献 == |
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*吉川清『時衆阿弥教団の研究』([[池田書店]]、[[1956年]]) |
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*大橋俊雄編『時衆過去帳』時衆史料第一([[時宗教学研究所]]、[[1964年]]) |
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*金井清光『一遍と時衆教団』([[角川書店]]、[[1975年]]) |
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*大橋俊雄『一遍と時宗教団』([[教育社歴史新書]]、[[1978年]]) |
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*『時宗史研究』([[時宗史研究会]]、[[1985年]]創刊、2号で休刊) |
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*時衆の美術と文芸展実行委員会編『時衆の美術と文芸』(東京美術、[[1995年]]) |
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[[Category:浄土系仏教|ししゆう]] |
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2006年6月26日 (月) 01:35時点における版
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概要
時宗(じしゅう)は、鎌倉時代末期におこった浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺。なお、他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のことである。開祖の一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。末尾に附した文献を見ても明らかなように、研究者も室町期までに関しては時衆の名称を用いている。これは善導の「観経疏」の一節「道俗時衆等、各發無上心」からきているように、一日を6分割して不断念仏する集団(ないし成員)を指す。古代以来、顕密寺院にいた。
思想
浄土教では阿弥陀仏(阿彌陀佛)への信仰がその教説の中心である。融通念仏は、一人の念仏が万人の念仏と融合するという大念仏を説き、浄土宗では信心の表われとして念仏を唱える努力を重視し、念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた。また浄土真宗では信心のみを重視し、信じるだけで往生は約束される、念仏は仏恩報謝の行である、と説いた。
それに対して時宗の場合には、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば往生できると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶという解釈である。
歴史
中世
時宗の僧は諸国を遊行し、賦算(ふさん)と踊念仏を行なった。室町時代中ごろに猿楽師の観阿(観阿弥)、世阿(世阿弥)で知られる時衆系の法名をもつ者がみられ、同朋衆、仏師、作庭師として文化を担うなど全盛期を迎えたが、多数の念仏行者を率いて遊行を続けることは、さまざまな困難を伴った。教団が発展するなかで、順調な遊行を行うために権力への接近がはじまり、幕府や大名などの保護を得ることで大がかりな遊行が行われるようになると、庶民教化への熱意は失われ、時宗は浄土真宗や曹洞宗の布教活動によって侵食されることになった。
近世
それでも、幕藩体制下では、幕府の伝馬朱印状を後ろ盾とした官製の遊行が行われ、時宗寺院のない地域も含む全国津々浦々に、遊行上人が回国した。時宗が直接的に衰落したのは、廃仏毀釈であると思われる。
近代
1871年、寺領上知令や祠堂金廃止令により、時宗寺院は窮地に陥る。さらに廃仏毀釈で、金城湯池であった島津藩領や佐渡の時宗寺院が壊滅状態となった。政府からは1940年一遍に「証誠大師」号を贈られている。これに対し、太平洋戦争中は時宗報国会を組織し、奉天に遊行寺別院を設けて協力した。一向派が1943年に離脱し、浄土宗に帰属した。2004年、遊行73代・藤沢56世他阿一雲が病気により引退した。藤沢上人からの退位は時宗史上初である。
法式
- 戒名は法名とよび、男は「阿弥陀仏」号、女は「一」号ないし「仏」号を附した。現在では男性は「阿」号、女性は「弌」(いち)号をつけることが多い。一向派では性別問わず「阿」号、当麻派は「阿弥」号である。
参考文献
- 単行本
- 吉川清『時衆阿弥教団の研究』(池田書店、1956年)
- 大橋俊雄編『時衆過去帳』時衆史料第一(時宗教学研究所、1964年)
- 金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、1975年)
- 大橋俊雄『一遍と時宗教団』(教育社歴史新書、1978年)
- 金井清光『時衆教団の地方展開』(東京美術、1983年)
- 雑誌
- 『時衆研究』(金井清光の私家版から55号以降は時宗文化研究所、1962年創刊、隔月刊行で100号にて終了)
- 『時宗史研究』(時宗史研究会、1985年創刊、2号で休刊)
- 『時衆文化』(時衆文化研究会、2000年創刊、年2回刊行)
- 図録
- 時衆の美術と文芸展実行委員会編『時衆の美術と文芸』(東京美術、1995年)