「セルゲイ・タラソフ (ピアニスト)」の版間の差分
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その後、正規にモスクワ音楽院の「主要な」学生となって[[レフ・ナウモフ]]の元で研鑽を積み、優秀な成績で卒業。以後、国際主要コンクールの常連として世界中で有名になった。マイナーコンクールでは余裕の優勝。ただしメジャーでは本選出場を決めて、なぜか優勝できない、というジンクスはついて回った。しかし、[[飲酒]]に伴う[[人身事故]]で2年ほど謹慎を余儀なくされた。謹慎後、再び質の高い演奏活動を展開し、[[モンテカルロマスターズ]]では1970年代生まれの世界的に「低迷」する他国のピアニストを寄せ付けず完勝。以後、パリやソウルなどでもリサイタルを繰り広げている。 |
その後、正規にモスクワ音楽院の「主要な」学生となって[[レフ・ナウモフ]]の元で研鑽を積み、優秀な成績で卒業。以後、国際主要コンクールの常連として世界中で有名になった。マイナーコンクールでは余裕の優勝。ただしメジャーでは本選出場を決めて、なぜか優勝できない、というジンクスはついて回った。しかし、[[飲酒]]に伴う[[人身事故]]で2年ほど謹慎を余儀なくされた。謹慎後、再び質の高い演奏活動を展開し、[[モンテカルロマスターズ]]では1970年代生まれの世界的に「低迷」する他国のピアニストを寄せ付けず完勝。以後、パリやソウルなどでもリサイタルを繰り広げている。 |
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ディスコグラフィーには積極的ではなく、コンクール時の演奏が時折みられる程度である。現在は韓国で教鞭をとり、ロシア国内およびヨーロッパで精力的に活動を続けている。世界三大ピアノコンクールは俗に「ショパン、エリザベート、チャイコフスキー」と言われているものの、ショパンは不正が発覚<ref>ショパン・コンクール - 最高峰の舞台を読み解く (中公新書 ISBN |
ディスコグラフィーには積極的ではなく、コンクール時の演奏が時折みられる程度である。現在は韓国で教鞭をとり、ロシア国内およびヨーロッパで精力的に活動を続けている。世界三大ピアノコンクールは俗に「ショパン、エリザベート、チャイコフスキー」と言われているものの、ショパンは不正が発覚<ref>ショパン・コンクール - 最高峰の舞台を読み解く (中公新書 ISBN 978-4121023957)を参照。</ref>し、エリザベートは課題曲の大幅な易化で大コンクールとは言えないものになってしまった。2017年現時点で最強の水準を誇るピアノコンクールは、モンテカルロマスターズ、ルービンシュタイン国際ピアノコンクール、そしてチャイコフスキー国際ピアノコンクールと目されており、タラソフはそのすべてに入賞している目下唯一のピアニストである。 |
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==受賞歴== |
==受賞歴== |
2017年2月11日 (土) 01:17時点における版
セルゲイ・タラソフ (Sergei Tarasov、1971年 - )はロシアのクラシック音楽のピアニスト。
略歴
1989年、第4回日本国際音楽コンクールピアノ部門にて2位に入賞。なおこの時の舞台裏は中村紘子の「コンクールでお会いしましょう」によれば、タラソフはモスクワ音楽院の有力な学生ではなかったため、審査員がモスクワ音楽院の教授で占められていた選抜オーディションで年齢の幼さを理由のみにはねられてしまった。その結果に怒った父親が自費で息子を東京まで送り出して、4人の正規のソ連代表達[1]を抑え見事2位に入賞した。これがモスクワ音楽院の教授達の反感を買い1990年のチャイコフスキーコンクールにて、中村も審査員として参加した会では完全に干されてしまった。[2]
その後、正規にモスクワ音楽院の「主要な」学生となってレフ・ナウモフの元で研鑽を積み、優秀な成績で卒業。以後、国際主要コンクールの常連として世界中で有名になった。マイナーコンクールでは余裕の優勝。ただしメジャーでは本選出場を決めて、なぜか優勝できない、というジンクスはついて回った。しかし、飲酒に伴う人身事故で2年ほど謹慎を余儀なくされた。謹慎後、再び質の高い演奏活動を展開し、モンテカルロマスターズでは1970年代生まれの世界的に「低迷」する他国のピアニストを寄せ付けず完勝。以後、パリやソウルなどでもリサイタルを繰り広げている。
ディスコグラフィーには積極的ではなく、コンクール時の演奏が時折みられる程度である。現在は韓国で教鞭をとり、ロシア国内およびヨーロッパで精力的に活動を続けている。世界三大ピアノコンクールは俗に「ショパン、エリザベート、チャイコフスキー」と言われているものの、ショパンは不正が発覚[3]し、エリザベートは課題曲の大幅な易化で大コンクールとは言えないものになってしまった。2017年現時点で最強の水準を誇るピアノコンクールは、モンテカルロマスターズ、ルービンシュタイン国際ピアノコンクール、そしてチャイコフスキー国際ピアノコンクールと目されており、タラソフはそのすべてに入賞している目下唯一のピアニストである。
受賞歴
- 1988 43rd Prazskeho Jara International Piano Competition - I Prize
- 1989 日本国際音楽コンクールピアノ部門 - II Prize[4]
- 1990 チャイコフスキー国際コンクール - 本選出場
- 1991 Alabama International Piano Competition - I Prize
- 1995 Arthur Rubinstein International Piano Master Competition - II Prize
- 1995 40th Ferruccio Busoni Piano Competition - II Prize
- 1996 Concurso Internacional de Piano Premio Jaen - I Prize
- 1996 The Sydney International Piano Competition of Australia - I Prize
- 1997 浜松国際ピアノコンクール - III Prize
- 1998 Porto International Piano Competition - I Prize
- 1998 チャイコフスキー国際コンクールピアノ部門 - IV Prize
- 2001 The 7th International Piano Competition Principat d'Andorra - I Prize
- 2003 Monte-Carlo Piano Masters Competition - 本選出場[5]
- 2006 XXII International Competition Valsesia - Musica 2006 - I Prize
- 2006 7th Concurso Internacional de Piano Compositores de Espana - I Prize
- 2009 Monte-Carlo Piano Masters Competition - I Prize
レパートリー
コンクール歴は多くてもレパートリーは狭く、近代でもラフマニノフがみられる程度である。ただし、絞り込んだレパートリーの精度は高く、どのコンクールでもブラームスのパガニーニ変奏曲とバラキレフのイスラメイを弾き絶賛を受けた。
リサイタル
- モーツァルト - ソナタ
- スカルラッティ - ソナタ2曲
- ショパン - バラード4番
- スクリャービン - 幻想曲
- ラフマニノフ - ソナタ2番(改訂)
- リスト - メフィストワルツ第1番
- これは名古屋電気文化会館コンサートホールの1990年のリサイタルプログラムである。この重いプログラムを10代で弾きこなす人物はアジアには全く現れていない。このプログラムには日本国際音楽コンクールの衝撃もしっかり書かれていた。
脚注
- ^ その中には第3位のオレグ・ボルコフがいた。
- ^ しかし、干されているとは言うものの、協奏曲を演奏する本選には学生在学中でありながらしっかり残っており、その高いスキルはソ連では知らない者はなかった。現在のチャイコフスキー国際コンクールで「干されている」人物だと、まず確実に予選で刎ねられる。その典型例がアレクセイ・スルタノフであった。
- ^ ショパン・コンクール - 最高峰の舞台を読み解く (中公新書 ISBN 978-4121023957)を参照。
- ^ 第三次予選の演奏はトップであったといわれる。
- ^ 本選出場者はRustem Saitkoulovとタラソフのみ