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「田口寛 (作曲家)」の版間の差分

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1979年(昭和54年)死去。享年80。
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* [[津山市立勝北中学校]]校歌<ref>[https://www.city.tsuyama.lg.jp/index.cfm/23,50984,c,html/50984/20121214-164546.pdf#page=36 機関・施設](津山市), p36</ref>
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* [[丸亀市立城乾小学校 ]]校歌
* [[綾川町立昭和小学校]]校歌<ref>[http://www.edu.ayagawa.ed.jp/syowa-e/about/kouka.html 校歌]</ref>
* [[綾川町立昭和小学校]]校歌<ref>[http://www.edu.ayagawa.ed.jp/syowa-e/about/kouka.html 校歌]</ref>
* [[観音寺市立粟井小学校]]校歌


== 出典 ==
== 参考文献 ==
* 『東京音楽学校一覧』自昭和7年至昭和8年(東京音楽学校、[[1932年]]) {{NDLJP|1448333}}
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* 『音楽年鑑』昭和41年版([[音楽之友社]]、[[1965年]]) {{NDLJP|2526519}}


== 脚注 ==
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===出典===
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[[Category:日本の中等教育の教員]]
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田口たぐち ゆたか
人物情報
生誕 (1900-08-29) 1900年8月29日[1]
日本の旗 日本 岡山県[1]
死没 1979年
出身校 東京音楽学校甲種師範科 卒業
学問
時代 昭和時代後期
研究分野 音楽教育
研究機関 香川大学
作陽短期大学
京都家政短期大学
指導教員 高折宮次[1]
主要な作品香川県民歌」作曲
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田口 寛(たぐち ゆたか、1900年8月29日[1] - 1979年)は、昭和時代後期の日本で活動した作曲家、教育者。

経歴

[編集]

1900年(明治33年)、岡山県に生まれる[1]1928年(昭和3年)に東京音楽学校甲種師範科を卒業した後[2]1931年(昭和6年)から1949年(昭和24年)まで兵庫県の尼崎市立高等女学校(現在の尼崎市立尼崎高等学校)で音楽教諭を務める。学制改革に伴い兵庫県立尼崎高等学校へ転籍し、同校の校歌を作曲した[3]

1952年(昭和27年)11月、香川大学学芸学部(のち教育学部)教授に着任。在職中は1954年(昭和29年)1月に制定された「香川県民歌」並びに、岡山・香川両県内の小中学校の校歌を作曲する。1964年(昭和39年)に香川大学を定年退官した後、岡山へ帰郷し作陽短期大学(現在の作陽音楽短期大学)教授に着任した[1]1970年(昭和45年)、京都家政短期大学(現在の京都文教短期大学)教授に至る。

1979年(昭和54年)死去。享年80。

作品

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「音楽の早期教育とその後の音感教育」(『香川大学学芸学部研究報告 第1部』通号7、1956年NAID 40000432299

自治体歌

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校歌

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参考文献

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脚注

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出典

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  1. ^ a b c d e f 音楽年鑑(1965), p211
  2. ^ 東京音楽学校一覧(1932), p194
  3. ^ a b 兵庫の校歌 兵庫県立尼崎高等学校
  4. ^ 機関・施設(津山市), p36
  5. ^ 学校案内
  6. ^ 校歌