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[[1950年代]]は、[[シカゴ]]や東部地区のプロモーターだったフレッド・コーラーのオフィスボーイとして活動<ref name="gs11">『Gスピリッツ Vol.11』、P52(2009年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777806502)</ref>。同地区の[[プロレス中継]]を放送していたデュモン・ネットワークのスクリプト・ライターも務めていた<ref name="wwe-bb p62">[[#wwe-bb|『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P62]]</ref>。[[1958年]]にコーラーのもとから独立し、[[インディアナポリス]]、[[デトロイト]]、[[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]など[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]地区のプロモーターとなる<ref name="gs11"/>。 |
[[1950年代]]は、[[シカゴ]]や東部地区のプロモーターだったフレッド・コーラーのオフィスボーイとして活動<ref name="gs11">『Gスピリッツ Vol.11』、P52(2009年、[[辰巳出版]]、ISBN 4777806502)</ref>。同地区の[[プロレス中継]]を放送していたデュモン・ネットワークのスクリプト・ライターも務めていた<ref name="wwe-bb p62">[[#wwe-bb|『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P62]]</ref>。[[1958年]]にコーラーのもとから独立し、[[インディアナポリス]]、[[デトロイト]]、[[コロンバス (オハイオ州)|コロンバス]]など[[アメリカ合衆国中西部|中西部]]地区のプロモーターとなる<ref name="gs11"/>。 |
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しかし[[1964年]]、[[ウイルバー・スナイダー]]、[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]、[[ザ・シーク]]ら配下の[[プロレスラー]]が相次いで離脱して対抗勢力を旗揚げしたことにより、共同経営者のジョニー・ドイルと共に[[オーストラリア]]へ転出<ref name="gs13">『Gスピリッツ Vol.13』、P76(2009年、辰巳出版、ISBN 4777807150)</ref>。同年秋、[[シドニー]]にて新団体'''ワールド・チャンピオンシップ・レスリング'''を発足させ<ref name="wcw">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/australia/wcw/|title=World Championship Wrestling|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>、フラッグシップ・タイトルとして[[IWA世界ヘビー級王座#日本以外のIWA王座|IWA世界ヘビー級王座]]を創設、[[キラー・コワルスキー]]を初代王者に認定した<ref name="au-iwa-h>{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/australia/wcw/au-iwa-h.html|title=IWA World Heavyweight Title|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。 |
しかし[[1964年]]、[[ウイルバー・スナイダー]]、[[ウィリアム・アフィルス|ディック・ザ・ブルーザー]]、[[ザ・シーク]]ら配下の[[プロレスラー]]が相次いで離脱して対抗勢力を旗揚げしたことにより、共同経営者のジョニー・ドイルと共に[[オーストラリア]]へ転出<ref name="gs13">『Gスピリッツ Vol.13』、P76(2009年、辰巳出版、ISBN 4777807150)</ref>。同年秋、[[シドニー]]にて新団体'''ワールド・チャンピオンシップ・レスリング'''を発足させ<ref name="wcw">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/australia/wcw/|title=World Championship Wrestling|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>、フラッグシップ・タイトルとして[[IWA世界ヘビー級王座#日本以外のIWA王座|IWA世界ヘビー級王座]]を創設、[[キラー・コワルスキー]]を初代王者に認定した<ref name="au-iwa-h">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/australia/wcw/au-iwa-h.html|title=IWA World Heavyweight Title|accessdate=2010-04-29|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。 |
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[[1972年]]8月、[[NWA (プロレス)|NWA]][[ジョージア州|ジョージア]]地区のブッカー兼レスラーだったレイ・ガンケルが[[オックス・ベーカー]]との試合後に心臓発作で急死。以降の興行の主導権を巡り内紛が勃発し、レイの妻だったアン・ガンケルが新団体を設立、同地区内で2つのプロモーションが[[興行戦争]]を展開する事態となったが、[[1973年]]のNWA総会に出席するためアメリカに帰国していたバーネットが最終的に両プロモーションを買収、オーストラリアの権利を売却してジョージア地区の運営を引き継ぐことになった<ref name="wwe-bb p62"/><ref name="jb-au">{{cite web|url=http://slam.canoe.ca/Slam/Wrestling/2004/09/19/635960.html|title=Jim Barnett's Australian legacy|accessdate=2015-02-21|publisher=SLAM! Sports}}</ref>。 |
[[1972年]]8月、[[NWA (プロレス)|NWA]][[ジョージア州|ジョージア]]地区のブッカー兼レスラーだったレイ・ガンケルが[[オックス・ベーカー]]との試合後に心臓発作で急死。以降の興行の主導権を巡り内紛が勃発し、レイの妻だったアン・ガンケルが新団体を設立、同地区内で2つのプロモーションが[[興行戦争]]を展開する事態となったが、[[1973年]]のNWA総会に出席するためアメリカに帰国していたバーネットが最終的に両プロモーションを買収、オーストラリアの権利を売却してジョージア地区の運営を引き継ぐことになった<ref name="wwe-bb p62"/><ref name="jb-au">{{cite web|url=http://slam.canoe.ca/Slam/Wrestling/2004/09/19/635960.html|title=Jim Barnett's Australian legacy|accessdate=2015-02-21|publisher=SLAM! Sports}}</ref>。 |
2017年1月11日 (水) 01:35時点における版
ジム・バーネット | |
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プロフィール | |
本名 | ジェイムズ・E・バーネット |
誕生日 | 1924年6月9日 |
死亡日 | 2004年9月18日(80歳没) |
出身地 |
アメリカ合衆国 オクラホマ州 オクラホマシティ[1] |
所属 | GCW、WWF、JCP、WCW |
ジム・バーネット(Jim Barnett、本名:James E. Barnett、1924年6月9日 - 2004年9月18日)は、アメリカ合衆国のプロレスリング・プロモーター。オクラホマ州オクラホマシティ出身[1]。
来歴
1950年代は、シカゴや東部地区のプロモーターだったフレッド・コーラーのオフィスボーイとして活動[2]。同地区のプロレス中継を放送していたデュモン・ネットワークのスクリプト・ライターも務めていた[3]。1958年にコーラーのもとから独立し、インディアナポリス、デトロイト、コロンバスなど中西部地区のプロモーターとなる[2]。
しかし1964年、ウイルバー・スナイダー、ディック・ザ・ブルーザー、ザ・シークら配下のプロレスラーが相次いで離脱して対抗勢力を旗揚げしたことにより、共同経営者のジョニー・ドイルと共にオーストラリアへ転出[4]。同年秋、シドニーにて新団体ワールド・チャンピオンシップ・レスリングを発足させ[5]、フラッグシップ・タイトルとしてIWA世界ヘビー級王座を創設、キラー・コワルスキーを初代王者に認定した[6]。
1972年8月、NWAジョージア地区のブッカー兼レスラーだったレイ・ガンケルがオックス・ベーカーとの試合後に心臓発作で急死。以降の興行の主導権を巡り内紛が勃発し、レイの妻だったアン・ガンケルが新団体を設立、同地区内で2つのプロモーションが興行戦争を展開する事態となったが、1973年のNWA総会に出席するためアメリカに帰国していたバーネットが最終的に両プロモーションを買収、オーストラリアの権利を売却してジョージア地区の運営を引き継ぐことになった[3][7]。
以降、1980年代前半までジョージア・チャンピオンシップ・レスリング(GCW)のオーナーとして活躍[8]。団体名を冠したプロレス中継番組『ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング』はテッド・ターナーのWTCG(後のWTBS)にて全国放送され高視聴率を獲得し、NWA内部における影響力も増大。1974年8月のNWA総会にてNWA世界ヘビー級王者のスケジュールを決める責任者に就任するなど[9]、フロリダのエディ・グラハムと並び、ディープサウスを代表する大プロモーターとなって一時代を築いた[1][7]。また、NWAの「主流派」であったことから日本ではジャイアント馬場の全日本プロレスに協力。1975年12月のオープン選手権をはじめ、リーグ戦やタイトルマッチの立会人として度々来日した[10]。
1982年には、WTBSの番組名をオーストラリアで運営していた団体名と同じ『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』に改称(この名称は、後年WCWに引き継がれる)。しかし1984年、ジャック・ブリスコやジェリー・ブリスコらと共にGCWの株式をWWFのビンス・マクマホンに売却[11]。『ワールド・チャンピオンシップ・レスリング』の放映権もWWF所有となり、ブラック・サタデーと呼ばれる事件に発展した[12]。
以降はWWFの幹部となったが、水面下でNWAミッドアトランティック地区(JCP)のジム・クロケット・ジュニアと接触していたことが発覚しWWFを解雇される[13]。その後はアトランタに戻り1987年下期よりJCPに所属、団体が経営難に陥るとテッド・ターナーへの事業売却をクロケットに助言し[13]、1990年代は相談役としてWCWに在籍した[1]。
2004年9月18日、癌のため死去[14]。80歳没。生前は同性愛者であることを公言し、1950年代には俳優のロック・ハドソンとの関係も噂された[15]。没後の2005年、NWA殿堂に迎えられている[16]。
参考文献
- ショーン・アセール、マイク・ムーニハム『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』ベースボール・マガジン社、2004年。ISBN 4583037880。
脚注
- ^ a b c d “Jim Barnett was TV innovator”. SLAM! Sports. 2015年2月21日閲覧。
- ^ a b 『Gスピリッツ Vol.11』、P52(2009年、辰巳出版、ISBN 4777806502)
- ^ a b 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P62
- ^ 『Gスピリッツ Vol.13』、P76(2009年、辰巳出版、ISBN 4777807150)
- ^ “World Championship Wrestling”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ “IWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ a b “Jim Barnett's Australian legacy”. SLAM! Sports. 2015年2月21日閲覧。
- ^ “Georgia Championship Wrestling”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月29日閲覧。
- ^ 『Gスピリッツ Vol.34』、P63-64(2014年、辰巳出版、ISBN 4777814165)
- ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』、P98(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P67
- ^ “Black Saturday: The unbelievable story of the original invasion”. WWE.com. 2015年2月21日閲覧。
- ^ a b 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P111
- ^ “Jim Barnett 1924-2004”. Cauliflower Alley Club. 2015年2月21日閲覧。
- ^ 『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』、P153
- ^ “National Wrestling Alliance Hall of Fame”. Wrestling-Titles.com. 2016年1月19日閲覧。