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2017年1月11日 (水) 01:17時点における版
妓王(ぎおう、生年不詳 - 承安2年8月15日(1172年9月4日)?)は、平安時代末期の白拍子。祇王とも。
人物
平家の家人・江部九郎時久の娘。近江国祇王村(現・滋賀県野洲市)に生まれる。生誕の地には妓王の菩提を弔うために建てられた妓王寺が現存する。
母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、平清盛に寵愛された。『平家物語』(第一巻 6「祗王」)に登場する。干ばつで苦しむ故郷の村人を救うために、生まれ故郷の野洲に水路を作るよう清盛に頼んだ。そして、その川は祇王井川と呼ばれ現存する。その後、入道相国(清盛)の寵は仏御前に移り、祇王にはぱったりそばに召す沙汰がこなくなってしまう。仏はそもそも技量に恃んで飛び込みで芸を売込んだのだが、清盛に門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらった建前、彼女に恩義を感じ、声をかけるようにうながしたところ逆効果で、清盛は妓王を追い出せと命ずる。去り際に妓王が障子に書き残した一首が、
萌え出づるも 枯るるも同じ 野辺の草 いづれか秋に あはで果つべき
である。支給も止められた冷遇の末、仏御前の慰め役までやらされるという屈辱を味わわされ、自殺を考えるまでに至る。しかし、母の説得で思い止まり、母の刀自、妹の妓女とともに嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入る。当時21歳だったとされる。[1]
祇王寺にある碑には「性如禅尼承安二年壬辰八月十五日寂」とあるが、その「性如禅尼」は妓王の事を指すとされており、承安2年8月15日(1172年9月4日)に死去したとされている。「祇王忌」は旧暦2月14日とされ、春の季語になっている。一方で、妓王がとりなし、清盛に寵愛された仏御前は承安4年(1174年)に上京したとされているため矛盾が生じている。
出典
- ^ 高橋貞一 編「巻1・祇王」『平家物語』 上、講談社、1972年、62-74頁。