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『'''因幡志'''』(『稲羽志』、『因幡誌{{refnest|group="注"|本書とは別に、[[享保|享保年間]](1716年 - 1736年)に成立したとみられる『因幡誌』『伯耆誌』もある<ref name="平凡地名-856"/>。}}』、いなばし<ref name="平凡地名-856"/>)は[[因幡国]](鳥取県東部)に関する江戸時代中期に編纂された地誌史料である<ref name="角川地名-1267"/>。成立時期は一応[[寛政]]7年(1795年)とされているが<ref name="平凡地名-856"/><ref name="百科-61"/>、その時点では実際には世に出されず、その後も加筆が行われた<ref name="百科-61"/>。『[[因幡民談記]]』とならび、近世の因幡国に関する代表的な地誌とされている<ref name="百科-61"/><ref name="角川地名-1267"/>。
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『'''因幡志'''』(いなばし)は、[[鳥取藩]]の侍医を務めた[[安部恭庵]]によって[[寛政]]7年([[1795年]])に著された[[因幡国]]の史誌。原本86冊は因幡一の宮である[[宇倍神社]]に所蔵されている。[[岡嶋正義]]の記した『[[岡嶋正義#著作|鳥府志]]』によれば当初、『続稲場民談記』と題したとされる。


==作者==
[[江戸時代]]中期における因幡国内の町方(町)や在郷(村)の成り立ち・人口・おもな産業や産物が紹介されている。また国内の古城趾や仏跡、名所なども詳細な絵入りで紹介されており、江戸時代の因幡国を研究する上で貴重な資料となっている。
『因幡志』の編者は'''阿陪恭庵'''(あべきょうあん、[[享保]]19年(1734年) - [[文化 (元号)|文化]]5年(1808年)4月18日<ref name="コトバンク-安陪惟親"/><ref name="百科-24"/>)という人物である<ref name="平凡地名-856"/>。「恭庵」は[[雅号]]で、本名は阿陪惟親(あべこれちか<ref name="コトバンク-安陪惟親"/>)<ref name="百科-24"/>。


医学を志して、[[米子城|米子]]の医師、吉岡玄昌(吉岡恕翁)・吉岡義顕(吉岡仁庵)という父子{{refnest|group="注"|吉岡家は[[米子城]]に勤める医家で、吉岡玄昌は名医として知られていた。[[宝暦]]10年(1760年)に[[鳥取城]]に召し出され、のちに藩主[[池田重寛]]の病の治癒の功で禄高300石を与えられるまでになった。医術のほか諸学に通じ、文学や俳諧も嗜んだ。[[華佗]]の著作と言われる『中蔵経』(実際には華陀作ではない偽書とも)の注釈書『新校正中蔵経』を著した。晩年の雅号を吉岡恕翁という<ref name="百科-989"/>。}}の下で学び、鳥取藩の[[目付]]・学館奉行である河田東岡からは儒学や朱子学を学んだ。その後、京都に出て学問を修めつつ、文学修辞にも傾倒したという。鳥取に戻ると[[天明]]6年(1786年)に鳥取藩の近習医となった<ref name="百科-24"/>。
前述の通り、因幡国における史誌の先駆けである『[[因幡民談記]]』を非常に意識していたとみられている。ただ、『因幡民談記』とは異なる内容も多数散見されるため、『因幡民談記』には採録されていないものを補う目的があったと思われる。


阿陪恭庵は若いうちから、藩の典医だった小泉友賢(1622年 - 1691年)による『[[因幡民談記]](稲場民談記)』(1688年頃成立)の増補をめざしていた<ref name="平凡地名-856"/><ref name="百科-24"/>。『因幡志』の草稿には、「続稲場民談記」や「増補民談記」の仮題が記されている<ref name="百科-61"/>。
記述の中に「[[穢多]]村○軒」などの表記があるため、鳥取県東部のいわゆる被差別部落の地名が分かるものとなっている。[[人権]]上の問題から現在では刊行は難しいものと考えられたが、それ以上に歴史上の文書としての価値が高いことから、近年国立国会図書館近代デジタルライブラリーで全文を読むことができるようになった<ref>[{{NDLDC|766077/472}} 国立国会図書館近代デジタルライブラリー 因幡誌]</ref>。

恭庵はこの増補の実現のため、数十年にわたり藩内各地をまわって資料を集め、正確さを求めて実地調査を行った<ref name="百科-24"/><ref name="平凡地名-856"/>。この事業に傾注した恭庵は家禄をこれに費やすあまり、家は窮乏し、雨漏りを修すための資金すら無かったと伝わる<ref name="百科-24"/><ref name="平凡地名-856"/><ref name="百科-61"/>。

==写本と構成、特徴==
[[ファイル:因幡志に描かれた浦富海岸千貫松島.jpg|thumb|right|因幡志に描かれた[[浦富海岸]]の[[鳥取県の島の一覧#千貫松島|千貫松島]](左下)]]
[[ファイル:Uradome Coast Sengan-Matsushima.JPG|thumb|right|浦富海岸の千貫松島]]

『因幡志』は複数の写本が現存するが、それぞれの相違点が大きい<ref name="百科-61"/>。因幡国[[一宮]]の[[宇倍神社]]には「阿陪恭庵自筆奉納による原典」と伝わる全86巻の『因幡志』があるものの<ref name="角川地名-1267"/>、実際にはこれが原典であるかは不確かである<ref name="百科-61"/>。[[鳥取県立図書館]]に所蔵されている西橋蔵書版(47巻)の第1巻には、明治19年(1886年)に原本から作成された写本である旨が記されている<ref name="平凡地名-856"/>。このほか鳥取藩の藩校・尚徳館には全36巻本が伝わる<ref name="百科-61"/>。

西橋蔵書版にしたがうと、巻の構成は次のようになっている<ref name="平凡地名-856"/>。
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これに、同時代の鳥取藩藩医、箕浦世亮による序文が添えられている<ref name="百科-61"/>。

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なお、明治時代に「因伯叢書」として刊行され、のちにその復刻版も刊行されたものの<ref name="角川地名-1267"/>、「校訂が不十分で脱漏も多い<ref name="百科-61"/>」とされている<ref name="百科-61"/>。

==成立時期==
一般的に、『因幡志』は[[寛政]]7年(1795年)に成立したとされている<ref name="平凡地名-856"/><ref name="角川地名-1267"/>。ただしより正確には、寛政7年(1795年)4月の時点でいったん脱稿したものの、それが公開されることはなかったと推定される<ref name="百科-61"/>。『因幡志』に含まれる図絵のなかには、[[享和]]2年(1802年)や[[文化 (元号)|文化]]2年(1804年)に作成されたと推定されるものも含まれており、1795年以降も加筆が行われていたのだろうと考えられている<ref name="百科-61"/>。

また、目録には「歴史考」は20巻となっているが、実際には3巻の[[村上天皇]]までしかない<ref name="平凡地名-856"/>。これは阿陪恭庵が20巻を書き上げる前に没してしまったためと推定されている<ref name="平凡地名-856"/>。

==評価==
編者の阿陪恭庵は、「臆断せず」を信条に、長い年月を費やして史料を収集し、実際に現地へ足を運んで調査を重ねたという<ref name="百科-61"/><ref name="平凡地名-856"/>。そうして詳述された因幡国各地についての記述は、江戸時代の因幡国を知る上で『因幡民談記』と「双璧をなす<ref name="角川地名-1267"/>」重要な資料と位置づけられている。

しかしながら、[[文政]]12年(1829年)に『[[鳥府志]]』を著した[[岡嶋正義]]は、恭庵の業績を称賛しつつも、「憶度私見の説少なからず」と評した<ref name="百科-61"/><ref name="平凡地名-856"/>。

==脚注==
===注釈===
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===出典===
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*<ref name="角川地名-1267">『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p1267「因幡志」</ref>

*<ref name="平凡地名-856">『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p856「因幡志」</ref>

*<ref name="百科-61">『鳥取県大百科事典』p61「因幡志」</ref>
*<ref name="百科-24">『鳥取県大百科事典』p24「阿陪恭庵」</ref>
*<ref name="百科-989">『鳥取県大百科事典』p989「吉岡恕翁」</ref>

*<ref name="コトバンク-安陪惟親">デジタル版 日本人名大辞典+Plus,[[講談社]],2015,「安陪惟親」,[https://kotobank.jp/word/安陪惟親-1050428 コトバンク版],2018年7月12日閲覧。</ref>

}}
===書誌情報===
*『日本地名大辞典 31 鳥取県([[角川日本地名大辞典]])』,[[角川書店]],1982,ISBN 978-4040013107
*『鳥取県の地名([[日本歴史地名大系]])』,[[平凡社]],1992
*『[[都道府県別百科事典|鳥取県大百科事典]]』,新日本海新聞社鳥取県大百科事典編纂委員会・編,[[新日本海新聞社]],1984


== 脚注 ==
==関連項目==
*[[因幡民談記]]
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}


==外部リンク==
*{{国立国会図書館のデジタル化資料|766077/472}}
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[[category:江戸時代の歴史書]]
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2018年7月18日 (水) 05:33時点における版

因幡志』(『稲羽志』、『因幡誌[注 1]』、いなばし[1])は因幡国(鳥取県東部)に関する江戸時代中期に編纂された地誌史料である[2]。成立時期は一応寛政7年(1795年)とされているが[1][3]、その時点では実際には世に出されず、その後も加筆が行われた[3]。『因幡民談記』とならび、近世の因幡国に関する代表的な地誌とされている[3][2]

作者

『因幡志』の編者は阿陪恭庵(あべきょうあん、享保19年(1734年) - 文化5年(1808年)4月18日[4][5])という人物である[1]。「恭庵」は雅号で、本名は阿陪惟親(あべこれちか[4][5]

医学を志して、米子の医師、吉岡玄昌(吉岡恕翁)・吉岡義顕(吉岡仁庵)という父子[注 2]の下で学び、鳥取藩の目付・学館奉行である河田東岡からは儒学や朱子学を学んだ。その後、京都に出て学問を修めつつ、文学修辞にも傾倒したという。鳥取に戻ると天明6年(1786年)に鳥取藩の近習医となった[5]

阿陪恭庵は若いうちから、藩の典医だった小泉友賢(1622年 - 1691年)による『因幡民談記(稲場民談記)』(1688年頃成立)の増補をめざしていた[1][5]。『因幡志』の草稿には、「続稲場民談記」や「増補民談記」の仮題が記されている[3]

恭庵はこの増補の実現のため、数十年にわたり藩内各地をまわって資料を集め、正確さを求めて実地調査を行った[5][1]。この事業に傾注した恭庵は家禄をこれに費やすあまり、家は窮乏し、雨漏りを修すための資金すら無かったと伝わる[5][1][3]

写本と構成、特徴

因幡志に描かれた浦富海岸千貫松島(左下)
浦富海岸の千貫松島

『因幡志』は複数の写本が現存するが、それぞれの相違点が大きい[3]。因幡国一宮宇倍神社には「阿陪恭庵自筆奉納による原典」と伝わる全86巻の『因幡志』があるものの[2]、実際にはこれが原典であるかは不確かである[3]鳥取県立図書館に所蔵されている西橋蔵書版(47巻)の第1巻には、明治19年(1886年)に原本から作成された写本である旨が記されている[1]。このほか鳥取藩の藩校・尚徳館には全36巻本が伝わる[3]

西橋蔵書版にしたがうと、巻の構成は次のようになっている[1]

首巻 2
巨濃郡 2
法美郡 2
八上郡 1
八東郡 2
智頭郡 2
邑美郡 2
高草郡 2
気多郡 2
神社之部 2
神社之図絵 3
仏閣之部 1
名所之部 1
勝地之図絵 2
国守之部 2
古城之部 2
古墳之部 3
武器図式 2
雑物図絵 2
筆記之部 7
歴世考 3

これに、同時代の鳥取藩藩医、箕浦世亮による序文が添えられている[3]

『因幡民談記』が国守についての記述が中心的だったのに比べると、『因幡志』は各地の地誌に比重が置かれているのが特徴である[1]。前半を占める各郡の巻では、当時の郷村の戸数や産物、交通などが詳述されている[1]

なお、明治時代に「因伯叢書」として刊行され、のちにその復刻版も刊行されたものの[2]、「校訂が不十分で脱漏も多い[3]」とされている[3]

成立時期

一般的に、『因幡志』は寛政7年(1795年)に成立したとされている[1][2]。ただしより正確には、寛政7年(1795年)4月の時点でいったん脱稿したものの、それが公開されることはなかったと推定される[3]。『因幡志』に含まれる図絵のなかには、享和2年(1802年)や文化2年(1804年)に作成されたと推定されるものも含まれており、1795年以降も加筆が行われていたのだろうと考えられている[3]

また、目録には「歴史考」は20巻となっているが、実際には3巻の村上天皇までしかない[1]。これは阿陪恭庵が20巻を書き上げる前に没してしまったためと推定されている[1]

評価

編者の阿陪恭庵は、「臆断せず」を信条に、長い年月を費やして史料を収集し、実際に現地へ足を運んで調査を重ねたという[3][1]。そうして詳述された因幡国各地についての記述は、江戸時代の因幡国を知る上で『因幡民談記』と「双璧をなす[2]」重要な資料と位置づけられている。

しかしながら、文政12年(1829年)に『鳥府志』を著した岡嶋正義は、恭庵の業績を称賛しつつも、「憶度私見の説少なからず」と評した[3][1]

脚注

注釈

  1. ^ 本書とは別に、享保年間(1716年 - 1736年)に成立したとみられる『因幡誌』『伯耆誌』もある[1]
  2. ^ 吉岡家は米子城に勤める医家で、吉岡玄昌は名医として知られていた。宝暦10年(1760年)に鳥取城に召し出され、のちに藩主池田重寛の病の治癒の功で禄高300石を与えられるまでになった。医術のほか諸学に通じ、文学や俳諧も嗜んだ。華佗の著作と言われる『中蔵経』(実際には華陀作ではない偽書とも)の注釈書『新校正中蔵経』を著した。晩年の雅号を吉岡恕翁という[6]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』p856「因幡志」
  2. ^ a b c d e f 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』p1267「因幡志」
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『鳥取県大百科事典』p61「因幡志」
  4. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus,講談社,2015,「安陪惟親」,コトバンク版,2018年7月12日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 『鳥取県大百科事典』p24「阿陪恭庵」
  6. ^ 『鳥取県大百科事典』p989「吉岡恕翁」

書誌情報

関連項目

外部リンク